シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

何故、コミュニケーションはこんなにしんどいのか(特に非コミュテストを受けた人にとって)

 
非コミュ指数とコミュニケーション環境 - socioarc
 
 コミュニケーションの得手不得手を測定するツールとして、socioarcさんが「非コミュ指数テスト」を試作してみたところ、多くの被験者から「自分の体感よりも非コミュ指数が低く出た」という指摘があったらしい。自分の体感では判定結果よりももっと非コミュ指数が高く出ても(=コミュニケーション下手と出ても)おかしくない、と思う人が多かったということだ。
 
 どうしてそういう指摘をした被験者が多かったのだろうか?
 秋風さん*1が示した一見解は、「コミュニケーション能力の高低にかかわらず、皆がそれぞれにコミュニケーションシーンにおいて精一杯の戦いをしている、だから常勝の例外を除けばみんながコミュニケーションに大変さを感じている」というものだった。これは確かにあると思う。例えば多くの運動競技は、初心者は初心者なりに・中級者は中級者なりに・最上級者は最上級者なりに全力を尽くすことの結果として、プレイヤーの誰もがそれぞれの限界まで肉体運動を要請される*2。同じくコミュニケーションにおいても、拙劣な人から巧みな人まで、コミュニケーション施行者は当人なりの限界まで全力を尽くすことの結果として、精神的負荷を要請される。合理化などの防衛機制も織り交ぜてコミュニケーションシーンから逃走している人は別として、一定以上のコミュニケーションを実際に行っている人は、自身のコミュニケーションスキル/スペックに関わらず、コミュニケーションのしんどさを感じそうである。
 
 以上に加えて、少なくとも三点の問題が「非コミュ指数の測定結果に関わらず、コミュニケーションにしんどさを感じる要因」になっているのではないか、と私は考える。そしてその結果として「非コミュテストの結果が体感より軽いものにみえる」のではないかとも推定する。
 
 【1.過剰適応の産物としてのコミュニケーション能力】
 
 いわゆるコミュニケーションスキルと言われるものには、相手の表情を読み取る能力や、感情も含めた非言語シグナルを駆使する能力や、対象に合致しやすい話題を選ぶ能力、などなどが含まれている。一言でこれらの能力が高いと言っても、先天的に巧い人から後天的な学習によって獲得した人まで様々で、同じ能力を駆使するにしても、負担の大小は様々である。ゲームに喩えるなら「同じスキルを駆使するのでも、キャラによってskill pointの消費やhit pointの消費がまちまち」のようなもので、コミュニケーションで巧く立ち回る際の疲労度や負担は個人間で相当のバラつきがある。単位時間あたりのコミュニケーション能力が高くとも、非常に大きな負荷を代償としている人の場合、人当たりのよい振る舞いで容姿などもきちんとしていてもメンタルのバランスシートは実は火の車で心身の負担に悲鳴をあげている。そういう人は案外多い。所謂、過剰適応、である。
 
 最近は「空気の読み合い」などの状況下で、コミュニケーションの失敗にデリケートになるあまり、自分自身の中枢神経の燃費や回復を省みずにコミュニケートする人が少なくないようだ*3。「背伸びの結果として得られるコミュニケーション能力」ならば、当然しんどいと感じる度合いは高い筈で、苦労しながら巧みにコミュニケートしつつも、内心では等身大の自分のコミュニケーション能力の低さを自覚していることが多いのではないだろうか。だとすれば、表面的なコミュニケーションの得意不得意と、当人の体感との間に解離が生じることに無理はない。
 

 【2.コミュニケーションシーンひとつひとつの負荷増大や、頻度の増大】
 
 また、コミュニケーションシーンひとつひとつの負荷増大と頻度増大も、コミュニケーションをしんどいと体感させる可能性が高いと推測する。狩猟採集社会や流動性の低い農村などにおいては、個人が一生の間に遭遇する他者というのは限定されており、コミュニケーション対象もコミュニティ内の共通基盤や共通理解を持った相手が多かった。しかし現代都市空間はそうではないわけで、一期一会の人も含めて膨大な数の、文化や価値観において大きく隔たった人達とコミュニケートしなければならない。
 
 共通基盤や共通理解を持たない不特定多数の成員と頻繁にコミュニケーションをとることは、現代都市空間においては常識ではあっても、文明の曙に至る時代に生み出されたホモ・サピエンスの遺伝的バックグラウンドにはおそらく合致してはいまい*4。人間の遺伝子が、これほどまでに多様で多量な人間と(対立以外の)コミュニケーションをとることを前提に構築されているとは到底思えない(勿論人間の余剰キャパのお陰で一応なんとかやっていくことはできそうにせよ)。よって都市空間のコミュニケーションシーンに暴露されることで蒙る負荷は、一人一人の人間にとって質・量ともに超過しやすくなっていると推定せざるを得ない。このことも、「コミュニケーションがしんどい」と感じる要因になっているのではないか、という考えを私は捨てることが出来ない。
 

 【3.テスト対象者のコミュニケーション能力と自己評価】(この場合は、秋風さんがサンプル採取したはてなブックマーカーのコミュニケーション能力と自己評価)
 
 三つ目の可能性としては、テストが対象としていた人達の自己評価の問題、である。リンク先にもある通り、socioarcさんの非コミュテストは「コミュニケーション能力の正規分布において、コミュニケーション能力において不得手な部類に属する群」を主たる対象としている。だとすれば、はてなブックマーク - socioarc | 非コミュ指数テスト αver.をみる限り、“今回の件のソースとなっているはてなブックマーカー達は、不得手な部類に属する傾向にある”とみることが出来そうである。少なくとも、この非コミュテストで何某かのスコアが出てくる程度には不得手なのだろう。
 
 ここで注意を喚起したいのは、コミュニケーション能力の高低と自己評価が関連している人が多いのでは?ということだ。非コミュテストは、コミュニケーション能力の正規分布の、非コミュ寄りなほうを対象としたスコアリングをしているという。だとすれば、そのなかにおいて軽度〜中等度以上のスコアを記録するという水準の人達が、他者との関わりのなかにおいて十分な自己評価を確立出来ているのかというと、かなり難しいのではないだろうか。スコアが一桁ぐらいの人はいざ知らず、ある程度のスコアで検出される人達というのは、(非コミュという指数のなかでは軽度〜中等度ではあっても)日常のコミュニケーションシーンにおいてはかなり苦労しているか、かなり無理をしているか、そもそもコミュニケートしていないか、だろう。
 
 そのような人達−−つまりコミュニケーションスキル/スペックに幾ばくか以上のディスアドバンテージを持つ人達−−は、他者とのコミュニケーション越しに自己承認・自己実現を行うのがかなり大変ではないだろうか。一芸に秀でた人や職業的アイデンティティに恵まれている人はともかく、そうでない多くの人達にとって、自己承認や自己実現といったものを己のうちに蓄積させるにはコミュニケーションが要請されがちである。私は「自己承認や自己実現というものは、それを与え育んでくれる他者の介在を必要とする」という意見を持っている。現代の思春期事情において、自己承認や自己実現を非コミュのままで育むことが出来る男女が一体どれぐらいいるだろうか?そうはいまい。いないからこそ、恋愛にaddictionしたり、ネトゲ廃人になってみたり、空気を読みあって孤立を恐れるわけだろう。文化ニッチの細切れ化と流動化が進んでコミュニケーションの難度・コストが跳ね上がったにも関わらず、私達の殆どは未だに自己承認や自己実現を他者を通して獲得せずにはいられない*5。だが、非コミュというカテゴリに含まれるであろう人達には(随意下で当人が望んでいるかどうかは別にして)その機会が少ない。多分、思春期の前期ぐらいから少ないのだろう。とすれば、全体的傾向としては、非コミュ者は、そうでない者と比較して自己承認や自己実現の機会に遭遇しにくいのではないだろうか。特殊な才があって勝手に人がチヤホヤしてくれる人は例外として、そうでない大半の非コミュ達においては、自己承認や自己実現を己のうちに集積する機会はあまり多くなく、よって現在の自己評価も比較的低いままに留まりやすいのではないだろうか。その結果として、自分自身の評価を「下方修正」しやすかったり、非コミュ度を「上方修正」しやすかったりするのではないだろうか。
 
 大半の現代人が他者の介在無しには自己承認や自己実現を集積させることができず、よって他者とのコミュニケートを媒介としなければ一定以上の自己評価を確立することが出来ないとすれば、非コミュに該当する人達は自己評価が比較的低いことが多いはずだ、と私は考えるし、実際、コミュニケーションに難のある人で自己評価が安定して高い人というのは実地でも滅多にみたことがない*6。非コミュに該当する人は、「非コミュテストで軽度〜中等度程度」であっても、日常のコミュニケーションシーンにおいて十分な自己評価を確立しきれていないのではないだろうか。それが、テスト後の感想にも反映されている可能性も私は疑っている。
 

為し難きコミュニケーション、しかし為さねば飢えてしまう(まとめに代えて)

 
 以上、非コミュテストの結果いかんに関わらずコミュニケーションをしんどいと感じる理由も含め、テスト被験者が「俺はもっとコミュニケーション苦手と出ると思った」と感じる所以について考察してみた。

・コミュニケーションが誰にとっても全力投球であること
・過剰適応傾向の可能性
・コミュニケーションの質的・量的コスト増大

・非コミュと感じる人が自己評価が低いせいではないか(そしてその自己評価の低さもまたコミュニケーションの不得手によって助長されているのではないか)
 
 これらの因子が、非コミュテスト被験者達は「自分はもっと非コミュだと」感じた要因になっているのではないか、と私は推定する。
 
 
 それにしても、コミュニケーションは為し難い。初対面の人や異文化の人が多いとコミュニケーションのコストはかさみやすいし、過剰適応に陥らずに長期間に渡って人の間で生きていくには一種のバランス感覚が必要だ。余程幸運な人でもない限り、どこかで躓いてしまうんじゃなかろうか。しかし、コミュニケーションを為さない人や為せない人は、(他者を介した)自己実現や自己承認といったものに飢えてしまう。となると、コミュニケーションの可否によって自己評価が左右されるということであり、非コミュであるということは、自己評価の確立という点においてもディスアドバンテージを背負っていると考えざるを得ない。自己評価の可否は、当人の心象風景をも大きく左右することだろう*7。事実、私の知る限り、「俺はコミュニケーションなんてどうでもいい」と言い張る青少年の大半は、いわゆる“自己侮蔑のヤマイ”にかかっているようにみえる。
 
 しかし、不平不満を言ったところでどうにもならない。為し難いとはいえ、コミュニケーションなしで私達が生きていくのは殆ど不可能に近いし、コミュニケーション能力の可否が個人の人生に与える影響を否定することは困難である。コミュニケーション能力が人生を全て決めてしまうというわけではない点は繰り返し強調されるべきにせよ、人の間で生きていくにあたって何遍となく問われがちで自己評価の形成にも影響しかねない事には、着目が必要ではあろう。非コミュ指数が高い人も低い人も、コミュニケーションの世界からは逃れられない。とりわけ、今の日本の状況では人の間にいる限り、しつこいほどにコミュニケーションの可否が問われ続けるだろう。難儀なことである。
 

*1:socioarcのなかのひと

*2:気持ちよさや勝ち負けの問題はともかくとして

*3:余談だが、オタクコミュニティの状況は、この意味では過剰適応を滅多に必要としないという点で優れている。むしろ対人関係において過小適応とでも言う人も少なくないが、コミュニケーションに伴う出費を最小化するという命題一点に限ってみれば、実は巧みな適応といえる。オタクコミュニティは長所短所色々あるけれども、長所のひとつとして、コミュニケーションに伴う精神的出費を最小化する機会を得られる、というものを見過ごしてはならない

*4:もっと共通基盤や共通理解を持った、特定少数の成員と頻繁にコミュニケーションをとることはあっただろうけれども。また共通基盤や共通理解が、自我や同一性の個人間境界という水準も含めて存在していたかもしれない点にも注意を要する

*5:ヘンリー・ダーガーのような人物は比較的稀な例外で、現代娑婆を生きる大多数の人は、やはり他者を通して自己承認や自己実現を獲得せざるを得ないのではないか、と思う。なお、この問題は就職後に職業的アイデンティティを獲得すれば改善される可能性があるものの、就職前の学生さんや就職間もない人にはまだ難しい

*6:なお、コミュニケーションに難のある人でも、自己評価が「乱高下」する人ならばよくみかける。この乱高下型に関しては、基本的には自己評価が低く、何かのきっかけで他者から承認を得られそうな状況において爆発的に浮かれたり得意になったり、というパターンをとりやすく、とどのつまり自己評価に飢えている一群なのではないか、と私は捉えている

*7:不幸なことに、職業的アイデンティティの獲得にも、自己評価の高低やコミュニケーションの可否は影響を及ぼすのである!