シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ネットの炎上火力が強くなった話と、ネットが狭くなった話

 
 
 
 
「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 
 
 リンク先の記事は、「FF外から失礼します」からスタートして、インターネットの“世間化”について書き綴ったものです。
 
 とはいえ、ひとつの記事になにもかも詰め込むのは不可能だったので、書ききれなかった話を、ここに書きます。
 
 

過剰な繋がりが、炎上火力を強くした

 
 インターネットが“世間化”が進行した要因としては、マスメディアがSNSやYouTubeの投稿を引用するようになったから・日常的にネットを使う人が増えたからなどが挙げられます。
 
 それらに加えて、私が重要だと思っている要素は、「繋がりの過剰」、少し古い言葉を使うなら「ハイパーリンクに相当するものの過剰」です。
 
 昔、ネットサービスのインフラが充実していなかった頃は、個人のウェブサイトとウェブサイトを繋いでいたのは、各人が作ったハイパーリンクでした。google検索やyahoo!検索に頼れなかった頃、欲しい情報に辿り着く際にきわめて重要だったのがハイパーリンクで、ネットユーザーは、リンクからリンクへと“ネットサーフィン”しながら、目当ての情報を探して回ったものです。
 
 こうした“古き良き”インターネットにも、難しい騒動はありました。
 
 掲示板に攻撃的な書き込みを繰り返す輩や、接続情報をほのめかしたりするような輩が、そこここに存在しました。騒動が続いた結果、掲示板やウェブサイトが閉鎖され、ささやかなローカルコミュニティが壊滅する……といったこともありました。
 
 また、当時のインターネットは今よりも無法地帯だったこともあって、プロキシサーバ(串)を用いるなど、セキュリティに注意を払いながらやるのが当然、と考えているユーザーが多くいました。今日の炎上のような、何万人も集まってくる事態を心配する必要こそありませんでしたが、「ネットは危ない」という意識は一般的だったように思います。
 
 対して、現在のインターネットは、“ネットサーフィン”という言葉が死語になるほどアカウント同士、サイト同士は繋がりあっています。SNSをとおして、特にシェアやリツイートをとおして、情報はあっという間に拡散するようになりました。ネット上の素晴らしいもの・最低最悪なものにはコンテンツとしての価値があるので、まとめサイトやキュレーションサイトがすぐさま飛びつき、拡散をブーストします。もちろん、google検索やtwitter検索なども拡散に一役買っていることでしょう。
 
 結果、どうなったかというと、素晴らしいものへの「いいね!」も、最低最悪なものに対する炎上も、大規模なものが、急速にできあがるようになってしまったのです。
 
 リンク先で私は、「インターネットは“世間的”になった」と書きましたが、そこでいう“世間”とは、相互監視社会的な“世間”であり、正義感に酔った人々が徒党を組んで炎上を起こす“世間”でもあります。そのような“世間”ができあがった背景には、この、あまりにも繋がり過ぎてしまって、素晴らしいものも、最低最悪なものも、たちどころに拡散していってしまう情報環境があるのではないでしょうか。
 
 

過剰な繋がりが、インターネットを“狭く”した

 
 
 と同時に、過剰な繋がりによってインターネットは“狭く”なりました。
 
 10年以上前、インターネットを語る言葉として「ネットは広大だわ……」というものがありました。実際、過去のネットユーザーは、回線のスピードが遅かったことも相まって、本当に長い時間をかけてハイパーリンクをたどる旅を続けていました。
 
 それとは対照的に、現在のネットユーザーの情報収集に「長旅」という体感はありません。
 
 極端なことを言えば、自分のSNSのアカウントを開きっぱなしにしているだけでも、ちょっとした情報収集になってしまうのです。あるいは、検索エンジンに検索ワードを入力して、ものの数分で情報収集を“終えてしまったつもりになる”こともしばしばです。
 
 どちらの場合も、実際にはネットの情報環境の手近なところを撫でたに過ぎないのですが、だとしても、ものの数分で目的の情報に辿り着いた気分になってしまえば、「長旅」という体感は伴いません。そのぶん、インターネットの体感は“狭い”と感じられるようになります。
 
 東海道五十三次を徒歩で行いていたものが、新幹線で移動するようになったことで「東京と京都は近くなった」と体感するのと似たことが、インターネットという情報環境でも起こっているのではないでしょうか。
 
 付け加えると、「日本語圏のネットのどこに行っても、似たようなネット文化になってきた」のも、ネットが“狭く”体感されるようになった要因なのかもしれません。
 
 かつてのウェブサイトは、ハイパーリンクの細い糸で繋がりあっていたので、繋がり合わない者同士が出会うことは比較的少なく、お互いにローカルルールを墨守しながら、独自のローカルカルチャーを形成する傾向がありました。
 
 現在でも、ジャンルや思想信条によってはそういった傾向がみられないこともありません。しかし、現在進行形で起こっているのは、かつてはそれぞれにローカルルールを守っていた、いや、ローカルルールに守られていたローカルカルチャー同士が、さまざまに繋がりあうようになったことによって衝突や混淆を繰り返し、より共通したルールやカルチャーにまとまっていく、そんなプロセスではないでしょうか。
 
 たとえば2017年において、twitter、はてなブックマーク、アメブロ、匿名掲示板の言い回しやスラングは、どのぐらい違っているでしょうか? 10年前は、もっとそれぞれがそれぞれにに、ローカルカルチャー然としていたのではなかったでしょうか?
 
 東京にいようが京都にいようが、同じような人がいて、同じような店が立ち並び、同じようなモノが売られていれば、遠くまで旅に来たという感覚は薄まります。それと同様に、ネットのどこに行っても、同じようなネットスラングが使われ、同じようなコンテンツが並んでいれば、遠いところに繋がったという感覚は薄まってしまうわけで、これもひとえに、(国内の)ネットがあまりにも繋がり過ぎてしまった結果のように思われるのです。
 
 

本当は広大なインターネットを、“狭い世間”と体感する

 
 
 なお、実際のインターネットはwwwの内側も外側も拡大の一途をたどっていて、手の届かないところには知らない情報がたくさん眠っています。
 
 しかし、検索エンジンに頼ったネットライフや、フォロワーから情報が運ばれてくるネットライフに慣れきってしまった私達には、そのような手の届かないインターネットの彼方を意識したり体感したりする機会がありません。
 
 だから一連の話は、インターネットが「本当に」狭くなった主張するものではありません。
 
 そうではなく、インターネットが“狭い世間”と体感されるようになった、という話です。そして、その“狭い世間”という体感を生んでいるのは、個別のウェブサイトやアカウントというより、それらを繋げている現状のネットの仕組み――リツイートやシェア、検索エンジン、まとめサイト、キュレーションサイト、等々――なんじゃないか、といった話です。
 
 こうやって考えると、繋がり過ぎるのも良し悪しですよね。
 
 飽きてきたので、今日はこのへんで。
 
 

いじわる婆さんは、精神科で“治療”してしまって構わないのか

 

 
 どこまでが精神疾患で、どこまでが正常な人間なのかを判断するのは、とても難しい。
 
 たとえば発達障害などもそうで、最重症の発達障害、重症の発達障害、比較的軽度の発達障害、精神科医によっては発達障害と診断する一群、発達障害っぽいが診断するほどではない定型発達の人、までのグラデーションがある。
 
 みようによっては発達障害、みようによっては定型発達、という人に外来で出会った時、片っ端から発達障害と診断するのがベストなのだろうか? これに対する返答は、ドクターによって微妙に違っているように思う。どちらにせよ、障害と診断すべきかどうか迷うような人々が、誰でも診断できるような典型例の外側に、たくさん存在しているのは確かだ。
 
 

「口の悪い、いじわるな婆さんが精神科にやって来た!」

 
 さて、発達障害などとは違ったかたちで、「これを“病気”とみなして“治療”して構わないのか?」と悩む案件が精神科に飛び込んで来ることはしばしばある。
 
 たとえばその日、精神科外来に“職員に付き添われて”やって来たのは、85歳の婆さんだった。老人ホームに入所しているが、ケアに手を焼いて、精神科的に解決をして欲しい、という。
 
 診察室に入るや、彼女は「なんだって、私がこんな“きちがい”病院で診察受けなきゃならないの!早く帰らせてちょうだい!」と不満をぶちまけた。
 
 しかし、気のしっかりしている婆さんである。物忘れについて質問をしたり、簡単なテストを行ったりしても、ことごとくパスする。テレビや新聞のニュースはだいたい把握しているし、老人ホームの職員それぞれの特徴もよく見抜いている。頭部MRIの画像所見を見ると、むしろ年齢より若々しい脳にすらみえる。
 
 ところが、この婆さん、口が悪くて意地が悪い。
 
 気に入らないことがあると「バカ」だの「アホ」だのすぐに口にする。診察中も、唾を飛ばしながら差別用語を大声で繰り返す。老人ホームの職員によれば、嫌いな入所者の悪口を言うだけでなく、こっそりビンタをしたりしているそうだが、簡単には証拠を掴ませない。施設長に詰問された挙句、「身体が当たっただけ」と答えたこともあったという。
 
 このままでは退所処分にせざるを得ないが、もはや身寄りも無く、これまでにも幾つかの施設を転々としてきたのだという。当の老人ホームの職員も困り果てていて、ここで対処をしなければ婆さん自身の生活が守られないということがよく伝わってきた。そして、その困窮への対処が、精神科医に委ねられているのである。
 
 結局、あれやこれやの説得を行って、「神経がカッカするのを穏やかにして、安眠しやすくなる薬」を就寝前に内服してもらう約束をとりつけて、それをもって“処方箋”とせざるを得なかった。その後の職員の話では、口の悪さは健在だが、いくらか言動が穏やかになり、職員も対処しやすくなったという。
 
 表向き、本件は“これにて一件落着”ということになる。
 
 

「いじわるな婆さんを、精神科医は“治療”して構わないのか」

 
 しかし私の内心は穏やかではない。
 
 精神科とは、口の悪い、意地悪な婆さんを“治療”して構わない場所なのだろうか。
 
 精神科の存在意義は、精神疾患を治療し、それによって患者さんの生活の質を向上する、または生活の妨げを軽減させることにあると私は認識している。
 
 では、口が悪いこと、意地悪であることは、一体どういう精神疾患に該当するのだろうか。
 
 精神科に来院した人を診察する際には、診療報酬上、なんらかの診断名が必要になるから、前述のようなケースでもなんらかの病名が必要になる。
 
 私は苦し紛れに、カルテに「情緒不安定性パーソナリティ障害」という病名を書き込んだ。婆さんが、この病名どおりであるとはあまり思っていない。もしかしたら、それ以外の病名のほうが似つかわしかったかもしれない。だが、今まで全く精神科の世話になったことがなく、まったく認知症の気配もみられず、昔から勝気で口が悪かったとはいえ、八十年以上にわたって世渡りをやってのけた婆さんに、今更パーソナリティ障害の病名をつけるというのは、気持ちの良いことではない。
 
 もちろん、この婆さんが統合失調症や躁うつ病やうつ病に罹患している気配は、微塵もみられなかった。しっくり来る診断名なんて存在しない。存在しないが、老人ホームの現場は困っていて、精神科に“治療”が要請されていて、現場の困窮を前に、何もしないわけにもいかないから、やむを得ず、それらを“問題行動”としてリストアップしたうえで、その“問題行動”をターゲットとした“治療”を行っているのである。
 
 こういうのは精神科医によって判断が異なっていて、どんなに現場が困っていても、どれほどの困窮が訴えられようとも、「これは病気ではありません。もともとこういう人なので仕方ないので帰ってください」の一言で済ませる先生もいらっしゃるのかもしれない。というか、実際にいらっしゃることは知っている。
 
 他方で、こういった、昭和時代には街のあちこちにいたような人物*1が介護施設に入る時、あるいは行政の支援を受けなければならない時に、さまざまな社会的軋轢を起こしてしまうケースは珍しくない。何も手を打たなければ現場がすり減っていき、本人も居場所を失っていく。かといって、警察沙汰にするにしては軽微だし、そもそも、本人が警察沙汰になるかならないかの瀬戸際を心得ているので、そちらの方面でどうこうというわけにもいかない。
 
 最終的には、困り果てた支援者が、本人を精神科に連れてきて「この人にはほとほと困っています。精神疾患に該当しませんか?この際、なんでもいいので何とかしてください」と精神科医に懇願するのである。
 
 なかには、そういった人物が実際に精神疾患であることも結構あったりする。
 
 未治療の統合失調症や、前頭側頭型認知症や、躁うつ病などが見つかった時には、私はむしろホッとする。精神疾患が存在していて、本人と周囲の社会適応が脅かされているなら、精神科医は堂々と治療にとりかかることができる。
 
 だが、昭和時代には街のどこにでもいて、嫁を困らせたり町内会の鼻つまみ者になっていただろう人物に対して、既存の精神疾患の診断カテゴリーにおさまりきらないにも関わらず強引に病名をつけて“治療”を行うとなれば、あまり後味が良くない。
 
 昭和時代風の、いじわるで口汚い婆さんは、確かに問題のある人物だし、21世紀の先進国市民に求められる振る舞いができていない、とは言える。だからといって、それを精神疾患とみなし“治療”して構わないとしたら、そのロジックは、一体どういうものになるのか。
 
 それとも、我が国は21世紀を迎えて、昭和時代のような“野蛮で混沌とした”文化状況ではなくなったから、“野蛮で混沌とした”態度を丸出しにした、素行の悪い人物は、これからは積極的に診断カテゴリーに取り込んでいくというのが、おおよそのコンセンサスとなっているのだろうか。
 
 昭和時代よりも住みやすく、安全で、快適な現代社会において、件のいじわる婆さんのような人物が困るというのはわかるし、その対策にどこかが乗り出さなければならないというのもわかる。だが、その役割を精神科が、精神医療が、引き受けて良いのものなのか? もちろん、善意で“治療”を行っている人々、実際に困った人物に直面している人はゴーサインを出すだろう。私も実質的にはそうしているも同然だ。
 
 だが、どこか引っかかる。目の前のことに対して善いことをしているつもりでも、これは本当に善いことなのか? そして、善いことが積もり積もった行きつく先に待っているのはどんな未来なのか? そして、これからの市民社会における精神医療の立ち位置は、一体どんな風になっていくのか?
 
 とはいえ、現場は一人の精神科医が思い悩んでいるのを待ってはくれないので、とにかくも、同業者や関係各位と意見交換をしながら、できるだけ“標準的な精神医療”を目指していくしかない。私の先輩の一人は、精神医学の診断病名は、人を縛るためのものではなく、人を救うためのものでなければならないと言っていたが、本当にそうだと思う。良心を手放さないようにしよう。
 
 

*1:いや、現在でも、こういった人物は街にいたりする

脳が否定をストレスと感じる、ならば発信者はどうすべきなのか

  
blog.tinect.jp

 上記記事を読みました。大筋としてはそのとおりだと思いましたが、おっしゃるところの「批判過敏症候群」について、所感を書きたくなったので書きます。
 
 

少数の批判でも刺さることがあるのは事実

 
 しんざきさんが指摘されたように、たくさんの賛意を集めているにも関わらず、ごく少数の批判がやけに気になる・ストレスを感じる場面はある、と思います。
 
 たとえばブログに記事を書いて、PVが40000ぐらい、はてなブックマークのコメントが300個、twitterでの言及が300個ぐらいついたとします。コメントの内訳は、賛成や肯定に近いコメントが6割、中立的なコメントが2割、批判や誹謗中傷をあわせた、否定的なコメントが1割、文章が読めていないコメントが1割、ぐらいとしましょうか。
 
 多数決の理屈で考えるなら、これは、大成功なブログ記事です。
 
 しかし、このような場合ですら、私は自分がストレスを感じている、と認識しています。
 
 批判的なコメントや誹謗中傷が1割でも、300個の1割は30個です。30人が、自分の記事になんらか否定的なことを書いているさまが目に飛び込んでくるわけです。残りのコメントが賛成~中立だったとしても、ストレスになることがあります。文章が読めていない反応も、あまりに多ければ地味に嫌なものですね。
 
 こういう時に、よくある反論は「批判されているのは文章であってあなたじゃない」ですが、そんなに簡単に割り切れない、と私は思っています。また、文章への批判ではなく、人格攻撃に類するコメントも混じってくるのがインターネットの日常ですから、この手の反論は、大量の否定コメントに出くわした時の気休めにはなりません。
 
 長くブログを書き続けていると、こうしたストレスが澱のように蓄積して、心を澱ませていくのではないか、と私は疑っています。
 
 もちろんブロガーたるもの、そう簡単にはストレスは通らないし、98%ぐらいは防げているとは思うんです。数十人からの批判や誹謗中傷ぐらいで精神をやられてしまうようでは、ブロガーなんてやってられません。
 
 でも、そういったストレスが「絶無」というわけではないのです。そうしたストレスの蓄積による影響が、本当に「無い」と言えるでしょうか?
 
 「たくさんの人が集まった時に不可避的に混じってくる、否定にともなうストレス」は、かつては、政治家や芸能人といった、一握りの人だけの問題でした。
 
 ところが情報技術が発展し、とくにインターネットが普及したことにより、こうした問題にたくさんの人が曝され得るようになりました。誰もが繋がりあい、いつでも集まれるインターネットでは、数百人以上から注目されることなどザラです。それで一撃ノックアウトになってしまう人もいれば、うまくやり過ごしている人もいます。なんにせよ、否定が飛び込んでくる状況に対応できなければ、インターネット上で何かを発信し続けるのは難しいでしょう。面倒くさいことですね。
 
  

それは人間の脳の“仕様”ではないか

 
 私は、人間の精神というものは、数人程度から否定されてしまうと、かなりのストレスを感じるようにできているのではないかと疑っています。
 
 人類の遺伝的傾向ができあがった新石器時代には、人間は300人ぐらいの集団で生活していたと聞きます。その小集団のなかでは、数人程度に否定されるだけでも、生存や生活が脅かされたことでしょう。だから人類の遺伝子には、「数人程度から否定されると強いストレスを感じて、そういう状況を全力で回避したくなってしまう」ような“仕様”があると私は想定しています。
 

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 
 
 「数人程度に否定されるとストレスに感じる」ような“仕様”よりも、「過半数に否定されるとストレスに感じる」ような“仕様”のほうが理にかなっているようにみえますが、あくまでそれは現代人の感覚。つい100年ほど前まで、人類社会では警察力もあてになりませんでしたから、「数人程度に否定されるとストレスに感じる」のほうが実地に即していたでしょう。怒りや恨みによる殺人や復讐が横行していたのが、人類社会の常でしたからね。
 
 じゃあ、王や英雄はどうなんだと言う話になりますが、私に言わせれば、王や英雄は異常者だと思います。何千人~何万人を束ねて、護衛がいるとはいえ、ときには憎まれたり敵対されたりしても人の上に君臨した彼らは、まさに、王や英雄に相応しい存在です。
 
 王や英雄がしばしば傲慢で、逆らう者に容赦しなかったのも、そのような性格、そのような振る舞いが、王や英雄がストレスを防衛するうえで適していたからではないでしょうか。これは、古代の王や英雄に限らない話で、たとえばチャーチルやレーニン、たとえば歴代のアメリカ大統領などを思い出すと、そのような傲慢な性格や振る舞いは、ときには数万人からの否定に曝される立場には必要なんじゃないかと思います。
 
 さて、人間の自己愛について研究したハインツ・コフートは、自己愛が傷つきやすい人が自分のメンタルを守るための防衛機制として、「1.面の皮の厚い傲慢さに徹する」と「2.目立たないようにする」を挙げていました。このことは、たくさんの人から注目を集め続ける人が、だんだん面の皮が厚くなって傲慢になっていく(または、面の皮が厚くて傲慢な人が、たくさんの人の注目を集めていく)ことと合致しているように私は思います。
 
 コフートが語ったは、自己愛が傷つきやすい人の防衛機制でしたが、たくさんの人から注目を集め続ける人にも、似たようなことが当てはまるのではないでしょうか。たくさんの人の注目を集めて、たくさんの否定を目の前にしてもメンタルを守るための適応のかたちとして、厚顔無恥や傲慢、鈍感のたぐいは、ときに必要のように思われるのです。
 
 もちろん、ストレスに耐えながら、あらゆる否定に耳を傾けられる「理性の人」をやってのけられるなら、それもいいでしょう。ですが、それもそれで一種の異常者です。傲慢な王や英雄のたぐいより、よほど人間離れした異常者かもしれません。
 
 私が人間を眺める時のお気に入りのアングルは、「人間は、どんなに理性的に行動しているつもりでも、内心の情動やストレスの影響を受けずにはいられない」です。人間は、理性的・社会契約的存在である前に、一匹の動物なのですから、理性によるブロックやフィルタリングには限界があると想定せずにはいられません。芸能人がファンレターを事務所を通して受け取るように、否定に対しては、もっと即物的なブロックやフィルタリングもときには必要だと思います。それは、自分の理性や悟性をあまり信じるな、という話にも繋がっているのですが、私はシロクマ、つまり一匹の動物を自認するブロガーですから、もちろん、理性や悟性より、情動や反応を信じています。
 
 情動やストレスの影響を受けてしまうのは、現代社会の人間にとって厄介なことです。ですが、自分は理性的な人間だから情動やストレスの影響をコントロールできると思い込むのは、輪をかけて厄介なことだと思います。だから、「自分は、数人程度の否定に曝されるだけでも影響を受けかねない、そういう動物だ」と認めてしまっておいたほうが、かえって良いように私は思っています。
 
 

結局、発信者はどうすれば良いのか?

 
 では、否定に曝されてストレスを感じてしまう私達は、どうすれば良いのでしょうか。
 
 極端な解決法は、一部の炎上ブロガーのように、思いっきり傲岸不遜になったうえで、気に入らないコメントを片っ端からブロックやミュートで視界から追い出してしまうことですが、そこまでやらなければならない人はあまりいないでしょう。
 
 四六時中炎上しているわけでも、記事を書くたびに否定のコメントが何十何百と殺到するわけでもない発信者は、ブロックやミュートをそこまで使う必要はありません。
 
 ブロックやミュートを使い過ぎてしまうと、どうしてもインターネットが視野狭窄気味になってしまいます。傲岸不遜も似たようなもので、イエスマンにばかり耳を傾けて、役に立つ批判にも耳を塞いでしまえば、どんどん頭が悪くなっていくでしょう。多少のストレスに耐えられるなら、ブロックやミュートを使い過ぎないほうが利口でいられるとは思います。
 
 ただし、ブロックやミュートは、ストレスの防御というだけでなく、インターネット上のノイズを除去する手段としても無視できません。自分のタイムライン、自分のインターネットの視界は、自分の責任でもってメンテナンスしなければなりません。むやみに視界を狭めて、思考まで偏ってしまうのは考え物ですが、それはそれとして、ノイズコントロールの必要はあります。
 
 結局、自分のブログやアカウントの運用状況、自分自身のストレス耐性、性格傾向などによって、ベストな解決法は違っていると考えるべきなのでしょう。全面的にブロックやミュートを用いるのがベストの人や、傲岸不遜で厚顔無恥なスタイルがベストの人もいるでしょう。もちろん、それらは視野狭窄にまっしぐらなやりかたですが、諸事情により他に選択肢が無いなら、視野狭窄を起こしてでもそうするしかありません。
 
 また、ブログやtwitterアカウントの注目度が変わるにつれて、否定に曝される頻度や程度も変わっていきますから、ベストを絞り込まず、状況に応じてベターを変えていく必要もあるでしょう。同じブロガーでも、10年前と現在ではやりかたが全然違う、というのは珍しくありません。私だってそうですし、おそらく、しんざきさんもそうなのではないでしょうか。
 
 このあたり、しんざきさんとじかに話し合えばもっと知見が得られて楽しい気はするのですが、ブログ上で、大っぴらに社会適応の手の内を明かし合うのもなんですから、今日はこのあたりでお開きとさせていただきたいと思います。

 
 

多くの父親も「子どもを犠牲にしたくない」「妻を犠牲にしたくない」って思っているんだ!

 
 
 
 
20代大卒女性が「活躍」より「家族との時間」を求めるのはなぜか - Yahoo!ニュース
 
 
 リンク先は、女性がキャリアを重ねながら家庭を大切にする困難さが伝わってくる、良い記事だと思った。将来の子育てを意識する女性が、総合職より一般職を選びたくなる気持ちも伝わってくるし、こんな状況では、「働く女性」と「子育てする母親」を両立させるのはいかにも困難だろう。
 
 「働く女性」と「子育てする母親」の両立が困難ということは、おそらく、この国の少子化傾向に歯止めがかからないということでもある。「働く女性」の社会参加を良しとし、「専業主婦」を減らしたいとする考え方に基づけば、そういうことになろう。
 
 さておき、一人の男性・父親として、こういう記事を見かけるたびに、私も何かを叫びたくなる。
 
 なぜなら、「働く女性」と「子育てする母親」の両立困難については、オンラインでもオフラインでも頻繁に問題としてクローズアップされるが、「働く男性」と「子育てする父親」の両立困難については、それほどには見かけないからだ。
 
 「働く女性」と「子育てする母親」の両立困難に比べれば、「働く男性」と「子育てする父親」の両立困難は、問題としてクローズアップされにくいようである。それが私には、歯がゆくてならないのだ。
 
 

「子どもを犠牲にしたくない」と思っている父親が直面している現実

 
 家庭とキャリアの板挟みにあっているのは、女性ばかりとは限らない。男性も、子育ての当事者である。子育てにコミットしたい・家庭にもっと軸足を置きたいと思っている男性はたくさんいる。
 
 イケアジャパンが2013年に行った「子どもとの生活に関する意識調査」によれば、母親に比べて父親のほうが、子どもと過ごせる時間が少なく、子どもと過ごす時間が足りていないと感じているという。
 


グラフ:「子どもとの生活に関する意識調査」、イケアジャパン、2013より引用。子どもと過ごす時間は足りているか

 
 厚生労働省『21世紀出生児縦断調査』第5回調査でも、それらを裏付ける結果が報告されている。
 


グラフ:『21世紀出生児縦断調査』第5回調査、厚生労働省、より作成。子どもと過ごす時間、休日と平日、父親と母親の比較

 
 父親が子どもと過ごす時間は母親に比べて短く、平日ではその差が著しい。しかも、以前の調査と比べて、平日に父親が子どもと過ごす時間は漸減傾向にあるという。こんな状況では、父親が家庭を大切にしたいと思っていても、コミットできる程度は低いと考えざるを得ない。
 
 
 [関連]:父親が子どもと過ごす時間は「贅沢品」のままだ | Books&Apps
 
 
 世の女性や母親が、子育てとキャリアの板挟みになっているのと同じく、
 世の男性や父親も、キャリアと子育ての板挟みになっているのに、
 どうして前者ばかりがクローズアップされてしまうのだろうか?
 
 
 冒頭リンク先には、聖心女子大の大槻奈巳教授による以下のようなコメントが掲載されている。

「中央大学の山田昌弘先生がご指摘されていますが、ご飯を作るとか、洗濯をするといった家事労働は、女性の家族への『愛情表現』であると見なされてきました。愛しているなら一生懸命やるべきだと。その役割をきちんと果たしているかどうかが女性としての評価にもつながっています。そして、女性が仕事をしていても、期待される役割は変わらないんです。一方で、『仕事をして高収入を得る』のは男性の役割とされ、それを女性が果たしても、男性ほどには評価してもらえない。そういう意識構造が、若い女性たちの中でも変わっていないんだと思います」

 
 この文章を、一人の男性として・父親として読んだ私は、男性だって同じじゃないか! と思わずにはいられなかった。
 
 女性とは正反対の構図で、男性側は、『仕事をして高収入を得る』べきだとみなされ、その役割をどれだけ果たしているかによって男性としての値打ちが評価される。他方で、男性の家族への『愛情表現』は、女性ほどには評価してもらえない。イクメンという言葉が暗に示しているように、父親の子育て参加は、母親のサポートという水準が期待されているのであって、主体的な父親の子育て参加は、まだまだ評価もされていないし、真面目に考えられてもいない。そんなものに値打ちは無いと思っている人も多い。
 
 家庭と仕事を巡る意識構造が変わっていないという点では、男性/父親側も同じだし、これも、声を上げて変えていかなければならないもののはずだ。というか、少しでも変わって欲しいから、私はブログにこんなことを書いている。
 
 インターネットには早とちりな人も多いので断っておくが、私は、冒頭リンク先の記事を批判したいわけではない。20代女性のワークライフバランスは大きな問題だし、それについて識者が意見を述べるのも大切なことだ。そのあたりについて、とやかく言う筋合いは無い。
 
 しかし、女性のワークライフバランスがクローズアップされるのを見ていると、私は願わずにはいられないのだ。
 
 男性のワークライフバランスだって、大きな問題としてもっとクローズアップされたっていいじゃないか! 専ら仕事と年収で評価され続けて、そのような目線で値踏みされ続ける男性に対する意識構造も、いい加減、問題にされてもいいんじゃないか! と。
 
 今日の婚活状況を耳にするにつけても、男性は、いまだ仕事と年収でもって評価される度合いが高いし、世間の老若男女のほとんどは、そのことに疑問すら抱いていない。家事と子育てだけで女性を評価する意識が問題だというのなら、男性を仕事と年収だけで評価する意識も同じように問題とみなされて、男性が家事や子育てに対して“開放”されなければおかしいんじゃないだろうか。いや、おかしいでしょう?
 
 

誰が家庭を犠牲にしたいなどと思っていようか

 
 いまどき、わざわざ結婚して、わざわざ子どもをもうける父親の大半は、子どものことを邪険にしたいとは思っていないと思う。母親と同じぐらい子育てに関わりたい、子どもと時間を過ごしたい、子どもに技能や勉強を授けたいと思っている父親が、たくさんいるはずだ。
 
 だというのに、現実の父親はといえば、仕事で評価を得るために、とにかく働き続けざるを得ない。
 
 年収が高い男性のほうが婚姻率が高いというが、一般に、年収が高い男性のほうが、出張や単身赴任といった、上級ホワイトカラー的な働き方を余儀なくされて、子育てには参加しにくい。ほんらい、子育てに対して最もセンシティブな意識をもっているであろう彼らが、子育てのチャンスから疎外されて、家庭の時間を大事にできないのは、痛ましいことである。
 
 あるいは、なかなか増えない年収を補うために、子どもを塾や私立学校に出すために、とにかくも働いて金を稼ぐしかなくて、子育てに参加できない父親も多い。その結果、さんざん苦労して働いているのに、妻や子どもと疎遠になってしまって、悲しい思いをしている父親だっている。あまりにも痛ましいことである。
 
 家庭とキャリアの板挟みに悩んでいるのは、母親だけではない。
 父親だって、悩んでいるのだ。
 
 多くの父親もまた、「子どもを犠牲にしたくない」し、「妻を犠牲にしたくない」と思いながら、それでも夜遅くまで働き続けている。それがさも当たり前のようになっている意識構造には、風穴が開けられてしかるべきだろう。
 

彼らの考える「ブログ世界」の此方と彼方、それとタロットについて

www.dshocker.com
 
 こんにちは、大彗星ショッカーさん。いや、中川龍さんとお呼びすべきだと思うので、ここからは、中川さんとお呼びします。お久しぶりです。お互い、こうやってインターネット上で消息が続いていること、ご壮健でいらっしゃることを嬉しく思います。
 
 中川さんの記事で、

彼らは、はてな村周辺になんか昔からいる、ひたすら趣味やオピニオンについて語っている人達です。

彼らは収益化を目的としていないので、とくに何かを達成したわけではありません。

しかしそれでもひたすら文章を書き続けています。

時にはブログを通じて喧嘩しあったりしてます。

ようするに「奇人変人」の類です。

 と書いていらっしゃいました。
 
 奇人変人認定ありがとうございます。「はてな村の奇人変人」と書かれると、ああ、そういう風にみえるのかという感慨の後に、そうかもしれないな、という納得が追いかけてきました。また、中川さんは
 

 彼らはネガティブだし、陰湿だし、人の悪口が多い。

だからあんまり合わないんですよね😢

でも彼らもブロガーとして存在していることは事実なので、せっかくなので入れてあげてください。笑

 
 と付け足すのを忘れませんでした。
 
 私は、10年前と比べれば1/4ぐらい、5年前と比べても1/2ぐらい、人の悪口を書かないように心がけてきたつもりですが、まだまだ修行が足りないと反省をしました。どんなに繕ってみせたところで、私の性根はそれほどキレイではなく、功徳が足りないのでしょう。
 
 中川さんについても、かつて、良くない言及をtwitterでしたことがあるのを私は覚えています。当時の中川さんの活動に、私が疑問を感じていたのは事実でしたが、それは口に出すべきではない、大きなお世話のたぐいだったと今は思っています。
 
 私自身がネットでやりたかったことと、当時の中川さんがネットでやろうとしていたことのギャップを、あの頃の私は許容できていなかったのでしょう。世代も境遇も目的も違う者が、ブログという共通の媒体を使っているというだけで、同じであるべきだと思ってしまう程度には、私は浅はかだったのだと思います。
 
 さて、今回、中川さんは、藤沢篤さんがつくった「Blopedia」なるものに言及しておられました。
 
ブロガー界の地図「ブロペディア」 | ふじさわブログ
 
 
 この「Blopedia」は、発表のすぐ後から私も知っていました。
 
 しかし、ブロガー界の地図をうたったこのリストに、自分の名前はもとより、自分が敬愛する(旧)はてな村出身のブロガーも、あるいはfinalventさん、ohonosakikoさんといった、もっと年上で、私以上に「奇人変人」的にうつるかもしれない、しかし内容のまっとうなブロガーの名前は出てこないだろうとも予測していました。
 
 はたして、一読してみると、私のような「奇人変人」はもとより、さきに挙げた、もっとキャリアの長いブロガーや、はてなブログ~Books&Apps方面で活躍している綺羅星のようなブロガーの名前も発見できませんでした。「Blopedia」の掲載基準条件を確認したところ、私は完全にクリアできているようでしたが、藤沢さんのブログ世界には私は存在しません。
 
 そうしたこともあって、私は、この「Blopedia」なるリストを、ひとつの世界観としてまずは眺めることにしました。編者たる「藤沢さんにとってのブログ世界」がここに網羅されていると捉えれば、そこから読み取れる世界もあるでしょう。
 
 「Blopedia」は、ある種の秩序だった考えや約束事にもとづいた世界のように、その外側に位置付けられた私には読めました。年来のブログ勇者であるコグレマサトさんが、なぜか第二世代という不自然な位置に存在していることにも意識を差し向けながら、この、「Blopedia」に記されたブログやブロガーがどのような序列関係にあって、どのような秩序世界がここに記されているのかを私なりに推測して、しばし楽しみました。
 
 ま、私のようなブロガーを「Blopedia」に載せても、編者側になんにもメリットが無いということは、よく察せられました。
 
 

ふたつのブログ世界の両方が見える人

 
 そういう、きっと美しい秩序と序列で完成したブログ世界であるところの、藤沢さんの「Blopedia」を、ちょっとわかりやすくしてくれたのが中川さんでした。
 
 中川さんは、「Blopedia」で示されたブロガー世界のウチとソトの両方を知っている、否、意識せずにはいられない人だったのでしょう。「Blopediaには、はてな村の奇人変人が載っていない」というご指摘は、「Blopedia」の秩序だったブロガー世界の外側にも、まがりなりにもブロガーが棲息していることをさし示すものでした。
 
 「Blopedia」を作った藤沢さんが見ているブログの世界と、私が親しんでいるブログの世界は、たぶん水と油に近いものなのだと思います。双方が混じり合う機会は、あまり無いのでしょう。
 
 対して、中川さん、それからたぶんヒトデさんあたりは、両方のブログ世界を知っているのですよね。そういう立ち位置にある中川さんからは、ブログの世界の全体はどのように映るのでしょうか?ブログの此方と彼方を、どんな風にご覧になっているのでしょうか?
 
 あっ、答えは出ていましたね。
 「奇人変人」が私が親しんでいるブログ世界に与えられた名称でした。
 
 しかし「奇人変人」とはいえ、世界に存在すると認識されるだけでも、嬉しいものなのだなぁと私は感じました。中川さんにはそれほど良い思い出が無いかもしれない、はてな村近辺のことを覚えていらっしゃって、とりあえずも言及してくださったこと、深く感謝します。
 
 おそらく、「奇人変人」という評は、2017年のブログ世界において、適切なのでしょう。“いわゆる”ブログ世界の主要な価値観は、「Blopedia」のようなもので、どこをどうあがいても、私のようなブロガーや、私に近いスタイルのブロガーは「奇人変人」の少数派なのでしょう。そのことを胸に刻み付けて、それでも私は自分がやりたいブログライフをこれからも続けていきたいと思います。
 
 

ところで中川さん、タロット占い、怖くないですか?

 
 この機会に、中川さんにタロット占いのことについて聞いてみます。というより、中川さんに質問する体裁で、私の、タロットカードに対する畏れを吐き出させてください。
 
 中川さんは、タロット占いを専業されているので、たぶんそんなことはないと思うのですが、私はタロット占いが怖くて仕方がありません。
 
 私は、二十代の前半にライダー版のタロットに出会い、しばらくの間、夢中になっていました。ことの始まりは、ひとりのタロット占い師に教えを乞うたこと、それからこのタロットのサイトを発見したことでした。90年代の終わりにこのサイトに出会って、まずは大アルカナ/小アルカナの意味を暗記するまで読みました。そこを出発点として、あれこれ勉強したり、タロット占いの実践に励んだ時期もありました。
 
 しかし、やっているうちにだんだん怖くなったのです。
 
 私がいちばん慣れ親しんだタロット占いは、ケルト十字法でもヘキサグラムでもなく、五枚のカードを使ったものでした*1

 1.[大過去・本来持っている性質]
 2.[近い過去にあったこと]
 3.[現在の状態]
 4.[近い未来に起こること]*2
 5.[遠い未来に起こること]*3
 
 専らこの方法でやっていたのですが、とにかく当たって当たって、おっかなくなってしまったのです。
 
 私がタロット占いに凝っていたのは2000~2005年頃でしたが、この時期に行ったタロットの予後を追いかけてみると、百発百中とはいかないまでも、かなりの精度で的中していました。5.遠い未来に金貨のクイーンを引いた人は円満に結婚し、ソードの5を引いた人は波乱に満ちた状況に陥り、恋愛相談で死神を引いた人は当然のように別れました。もっと穏当なカード、たとえばワンドの2を引いた人や金貨の8を引いた人なども、それらと矛盾しない生活を過ごしているようにみえました。
 
 そういった経験を繰り返すうちに、私はだんだん自分のタロットカードが恐ろしくなってしまいました。「タロットカードは人生のあらゆる場面を描いているから、当たったような気がするものに過ぎない」と反論する人もいるでしょうし、「印象強いものだけが記憶に残っているに過ぎない」と指摘する人もいるでしょう。タロットカードは自己成就の暗示を与えるに過ぎない、という人もいるかもしれません。それらを否定するすべを私は持ち合わせていません。
 
 どちらにせよ、タロットカードが本当に人間の未来を覗いているかのような感覚に、私は参ってしまって、とうとうタロットカードで占うのをやめてしまいました。
 
 中川さんは、たくさんの人のタロット占いを、より専業的にやっておられるので、こうした感覚に怖さを感じていないか、感じてはいるけれども上手く折り合いをつけて占いを続けておられるのでしょう。あるいは、プロフィール欄の記述どおりに、啓発の手法と割り切って使っておられるのかもしれません。
 
 それでもタロットカードを手にしているからには、カードが示す内容と、クライアントから感じられる執着や願いや呪いとの合間に立って、いろいろなことを感じておられるのではないかとは思います。そのあたり、どうやって折り合いをつけていらっしゃるのでしょうか。結構、大変じゃあないですか?
 
 タロットカードを見つめて、クライアントをも見つめている中川さんは、きっと、ブログの世界のこともよく見つめていて、いろいろなことを考えてらっしゃることでしょう。たまにで構いませんので、あなたのインターネット観やブロガー世界観などをきかせてくださいね。そして、これからもご活躍ください。
 

*1:もう、そういったフォーマルなカードの並べ方は、すっかりご無沙汰になって忘れてしまいました

*2:五年以内ぐらいのスパン

*3:五年超ぐらいのスパン