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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

『鉄血のオルフェンズ』は傑作になり損なった意欲作、と思いました

 
orangestar.hatenadiary.jp
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 さすが。ぞくぞくする感想でした。
 
 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』を視聴した人の多くは、多かれ少なかれ、id:orangestarさんに近い感想も抱いたのではないかと思います。でも、ここまで言語化できる人はめったにいないんじゃないでしょうか。
 
 「マクギリスは、秩序を知らないから、秩序と暴力の関係を読み損なった」とは、まったくそのとおりだと思います。なるほど、そういう風に言語化できるわけですか。
 
 私は『鉄血のオルフェンズ』の感想をまとめようか迷っていましたが(今、いろいろ忙しい)、触発されて、自分の『鉄血のオルフェンズ』観を書き残したくなってしまいました。、時間が許す範囲で、orangestarさんへの私信として並べてみます。
 
 

素晴らしい骨格のストーリーと、肉付きが貧弱だった終盤の演出

 
 まず、これを書きだしておかないと先に進めそうにないので、書いてしまっておきます。
 
 『鉄血のオルフェンズ』を、私は傑作と評することはできません。ただ、ここでいう「傑作」とは、セールス良好で、みんなの話題と記憶に残るような作品になる、という意味です。この視点で言うと、『Vガンダム』『ガンダムF91』といった、一部の愛好家に熱烈に愛される作品は「傑作」に含まれません。もちろん『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も「傑作」に含まれず、どちらかというと『けものフレンズ』や『魔法少女まどかマギカTV版』あたりのほうが「傑作」という認識です。
 
 私は、『鉄血のオルフェンズ』のストーリーラインと、それを貫く大原則を愛していました。
 
 人間は、それぞれの所与の手札や立場のなかで最善を尽くして生きている。でも、生きるために行った所業は、因縁やカルマとなって蓄積し、それぞれの手札や立場に応じたかたちで、自分自身に返ってくる。クーデリアはそうやって自分自身の進退を定めていったし、それは、鉄華団の面々もマクギリスも同じでした。その、進退のコントロールというか、因縁やカルマの社会化というか、そういった手つきに関しては、クーデリアが頭一つ抜けていて、蒔苗先生に後継者と目されるだけのことはあったと思います。このあたり、orangestarさんが仰っているように、クーデリアと鉄華団のコントラストはくっきりしていたし、マクギリスとのコントラストもくっきりしていたと思います。
 
 だから私は、クーデリアは“育ちがいいな”と思いました。因縁やカルマを背負ってマニピュレートする立場の家系に生まれた娘だけのことはあるな、といいますか。イオク様も、この点では良い線行ってたと思います。彼は無能でしたが、“育ちの良さ”によって身に付いた精神性によって、あれだけ無能でも部下に慕われていました。封建的な組織において、人の上に立ち、人に死ねと命令する立場に必要な精神性や物腰を、いつの間にか身に付けていたというか。
 
 私にとってオルフェンズの怪しい魅力のひとつは、「因縁やカルマの蓄積が、手札や立場に応じたかたちで」蓄積していくという不平等感でした。ところが、それはあくまで原則でしかないんですよね。手札が良く、立場が高くても、序盤に鉄華団に挽かれた人達やカルタ・イシューのように、因業覚悟で突っ込んでくる連中の一刺しでちゃんと死ぬんですよね。イオク様が、最後の最後に巡り合わせに挟まれて死ぬのも、そういう感じがして楽しかったです。
 
 あと、三日月にくっついていたハッシュが無意味に死ぬの、ご指摘のとおり素晴らしいですね。そういうこともあるのが鉄血世界なんですね。後述する理由で、私はその素晴らしさに気づき損ねましたが。
 
 とにかく、原則性を背負いながら鉄華団が立ち上がり、人が死ぬたびに(そして殺すたびに)因業を抱えて重くなっていくのをニヤニヤしながら私は見ていました。不自由になっていく三日月の身体は、鉄華団が支払った代償と、背負った因業のバロメータとしてふさわしいものでした。
 
 そして私の期待どおり、鉄華団は栄華から一転、反逆者に転落し、オルガは死ぬべくして死んで、三日月も死にました。最高です。ガンダムの新機軸です。アトラと暁が残り、クーデリア達が世界を引き継ぎ、死んでいった者達の因業を最も良いかたちで描いたエピローグは、これ以上ない着地点だと私は感じました。
 
 だから、ストーリーとか原則性っていう点では『鉄血のオルフェンズ』は本当に素晴しかったんだけど、終盤になって、そのストーリーを見せるための手つきが雑になったのが私は気になりました。
 
 
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #48「約束」感想 - たこわさ
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #49「マクギリス・ファリド」感想 - たこわさ
 
 上記リンク先はちょっと辛口かもしれませんが、視聴当時、私も似たような感想を持ちました。なるほど、鉄華団は追いつめられなければならなかっただろうし、人は死ななければならなかったでしょう。オルガの死も、ほとんどの視聴者が覚悟していたはず。
 
 でも、重要人物がアッサリと死んでいって、それで、物語がちゃんと盛り上がっていたでしょうか。
 
 私は、この48話と49話を観ていた二週間、かなり苛立っていました。制作側が「どんな物語をやりたいのか」は伝わってくる。けれども「どう物語を魅せたいのか」が伝わってこない。キャラクター達の死亡フラグ管理は整然としているけれども、その死に、説得力が伴っていない。そんな説得力不在の物語のきわみに、オルガのあっさり風味な銃撃があったと私は感じました。なんだよ、オルガまでこんなにぞんざいな手つきで殺しちまうのか、と。
 
 ハッシュの死に関しても、私はorangestarさんに指摘されてはじめて「なるほど」と思いましたが、視聴当時は全くそんな事は考えられませんでした。なぜなら、次々に、アッサリと(単に無意味に、ではなくアッサリと!)死んでいくキャラクター達の死に紛れていたから、気づかなかったのです。「あ、ハッシュもあっさり逝かせたか。ひでえなあ」ぐらいしか思いませんでした*1
 
 鉄華団が追い詰められていく、歌謡曲で言うなら「サビ」に相当する場面で、肉付きの良いドラマツルギーが伴っていなかった、と感じたわけです。第一期の終盤や名瀬の兄貴が死んでいく場面では、しっかりとドラマツルギーの握り拳が利いていたし、モビルアーマー復活の際にもラミネート装甲とビーム不在のギミックが明かされるぐらい気が利いていたので、なおのこと肉付きが乏しいと感じられました。これまで、あれだけ魅せてくれたのに、いよいよ鉄華団が散って行くという肝心な時に、どうして『ガンダムAGE』のごとく淡々と物語を進めてしまうのか?! そのことが、私には大変悔しく、食い足りないように感じられました。
 
 マクギリスの顛末も、終わってしまえば「野良犬が、野良犬らしい最期を迎えた」の一言に尽きるし、この作品の原則性とも矛盾しないのですが、このマクギリスの立ち回りも、後半3話はあっさりし過ぎていました。ガンダムバエルがお飾りとして描かれたことも相まって、マクギリスはかわいそうな野良犬以上でも以下でもない落着点に辿り着きました。ちょっと古い表現で恐縮ですが、『ガンダムZZ』のマシュマー・セロとたいして変わらない討死をしたように思います。視聴時点において、マクギリスの死に対する私の感想は「もっと、重要キャラクターらしく死ね」でした。野良犬なら野良犬なりに、もっと頑張って欲しかった。
 
 一気に視聴されたorangestarさんには、こうした問題点が目につきにくかったのかもしれません。が、毎週テレビに釘付けになっていた身には、終盤のスカスカ感というか、ドラマツルギーの欠乏状態は堪えました。感覚としては、以下のリンク先の作品にあったような欠乏感に近いといいますか。
 
 [関連]:『俺の妹はこんなに可愛いわけがない』は恋愛を描ききれなかった - シロクマの屑籠
 [関連]:ある三十代ガノタによるガンダムAGEの感想、または感傷 - シロクマの屑籠
 

そう、この作品はどこもここもこうなのだ。話の構図、戦闘の転帰、どれもハッキリしすぎていて、予想もしやすい。いや、予想のしやすさ自体は、必ずしも罪ではない。しかし、死亡フラグが立った人間の予測された死までのプロセスを「消化試合」と取られてしまうのか、それとも「ベタだけど凄かった」と評価されるのかは常に問われるところなわけで、残念ながら、ガンダムAGEのソレは「消化試合」と取られやすい、粗さが目立っていたと思う。「先読みのしやすさ」を説得力に化学変化させていくためのディテールを欠いていた、というか…。

http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20121005/p1

 
 
 一気に視聴するのと毎週一話ずつ視聴するのでは、見え方が違うので、これはどちらが正しいとかそういう話ではありません。むしろ、新たに『鉄血のオルフェンズ』を見る人は、orangestarさんに近い感想を持つのかもしれません。ただ、中盤ならともかく、終盤になって、急にドラマツルギーの肉付きがガクッと削げ落ちるのは、「傑作」と言われる作品にはあってはならないことだと思います。あるいは、ドラマツルギーの肉付きの欠如を補うような、ストーリーをねじ伏せる怪物じみた力が欲しかった。 
 
 

「ガンダム」である必要はあったのか

 
 で、ストーリーをねじ伏せる怪物じみた力が、終盤のガンダムバルバトスやガンダムバエルには無かったんですよね。
 
 orangestarさんは、「これまでのガンダムと違うものを作った」ことを評価されていますが、私は、この作品のガンダム達のふがいなさには落胆しました。いや、スペースヤクザな点とか、実弾-装甲主義とか、いろいろと冒険をされている点には感服するほかないのですが。
 
 でも、「ガンダムにはガンダムであって欲しい」と、私は思ったんですよ。
 
 歴代のガンダムには、ストーリーをねじ伏せるジョーカーのような力がありました。最近だと『ガンダムUC』のユニコーンガンダム&バンシーなどが典型的ですが、おいおい、そこまでやるのかよ、という強引さがあってナンボのガンダムだと、少なからぬ視聴者は期待したのではないかと思います。
 
 でもって、「鉄血のオルフェンズ」にも、そういう場面はあるんですよね。第一期の最終話、三日月が無茶をやることで、ガンダムバルバトスは素晴らしい活躍をみせました。文字どおり、ガンダムが血路を開いた格好です。これは、今までのガンダム作品におけるガンダムの描き方と遠くありません。
 
 火星のモビルアーマー退治の時もそうです。ああ、まさにガンダムだ、ガンダムが局面をつくっていく、と胸を弾ませて見ていました。それに感化されたジュリエッタが人間性を見失いかけていくのも、いかにもガンダムらしくて似つかわしい。
 
 もし、これらの場面が無かったら、私も、終盤のガンダムの鳴かず飛ばずに納得していたかもしれません。
 
 ところが終盤において、ガンダムバルバトスも、ガンダムバエルも、「これが、ガンダムの力だ!」というものを魅せてくれませんでした。やだー、こないだまで頑張ってたじゃないですかー!
 
 終盤のガンダムバルバトスは善戦していたけれども、ただ善戦していたに過ぎず、局面をつくるには至りませんでした。で、体よく討たれて「悪魔のガンダム」ですよ。
 
 ガンダムバルバトスが「悪魔のガンダム」として討たれる場面は、本当はもっと劇的でなければならないのに、と私は思いました。なにせ、主人公の乗るガンダムが、悪魔として討ち取られるほどの場面なのですよ?ジュリエッタがバルバトスの首級をあげるシーンは、それ自体はよくできていたけれども、三日月とガンダムバルバトスが終盤に何も活きなかったので、もったいないと感じました。
 
 三日月とバルバトスが運命に流されて処分されていったこと自体は、ストーリーの整合性や原則性には合致しています。けれども、ガンダムという作品におけるガンダム主人公としての役割としては、納得のいくものではない――私は、そう感じました。
 
 ガンダムバエルにしてもそうです。
 
 ギャラルホルンの権威の象徴だというのはわかる。わかるんだけど、あんただってガンダムだろ、それも、一番のガンダムでしょう、だったら何かやってくれよ、と思った視聴者は、私だけではなかったように見受けられました。
 
 歴代のガンダムなら、終盤ともなれば、インチキで理不尽な力のひとつやふたつ見せつけて、ストーリーをかき回すものです。『ガンダムUC』はちょっとやり過ぎでしたが、でも、『ガンダムUC』を作った人達は、ガンダムのなんたるかを理解して終盤を描いたのだと思います。
 
 こういった諸々は、「ガンダム」の名を冠していない作品だったら気にすべきではないのですが、この作品は「ガンダム」と銘打たれていたわけで、私は、ガンダムという存在に終盤をかき回して貰いたかった。それと、これは邪念かもしれませんが、こんなんじゃガンプラが売れないじゃないですか。ガンプラを売るためには、ガンダムが活躍して、視聴者を魅了しなければなりません。にも関わらず、ガンダムバルバトスは獣のように狩られて、ガンダムバエルは良いところがありませんでした。ガンプラを商う気の無いガンダムとは、本当にガンダムなんでしょうか?
 
 ガンダムバルバトスは、歴代のガンダムに比べるとサイコガンダム寄りというか、三日月の身体機能を蝕んでいくのも本作品の原則性に一致していて、とても楽しいモビルスーツでした。それが、同じくサイコなアインを仕留めた25話は、私にはとても楽しかった。だったら、それと同等以上の何かを終盤にみせてくれなければ、竜頭蛇尾になっちゃうじゃないですか。
 
 そう、ガンダムの活躍にしても、鉄華団が散って行くプロセスにしても、二期は全体的に「竜頭蛇尾」だったように思います。かろうじて、戦後の描写で失点を取り戻した感はあったけれども、こと、ガンダムの活躍と男達が散って行く過程のドラマツルギーに関しては、疑問を禁じ得ないものでした。もったいない!
 
 

でも、楽しみましたよオルフェンズ

 
 そうは言っても、私は『鉄血のオルフェンズ』を楽しみました。だからこんなに感想を書きたくなるんでしょう。以下、細々としたことを。
 
 ・スペースヤクザなガンダムという構図は素直に楽しめた。そうか、路上でパイロットが銃撃されて死ぬのかと、感心した。この点と、オルガ&三日月の死が約束されているストーリーが、『鉄血のオルフェンズ』の新機軸だと思っていた。
 
 ・私は人型ロボット兵器が実弾武器主体で戦うのはさほど好みではない。けれども、この作品において、実弾をメインに据えるための説得力は感じられた。宇宙艦のデザインとかも含めて。モビルアーマーのビームをモビルスーツの装甲が弾いた描写は、白眉。
 
 ・でも、あのビーム兵器を見た時に「ああ、俺ってビーム兵器やレーザー兵器が好きなんだなぁ」と思い知った。ちなみに私は大学生ぐらいまではビーム兵器が好きで、その後しばらくだけ実弾兵器万歳になって、歳を取るにつれて、再びビーム兵器万歳に戻った。個人の感想です。すみません。
 
 ・orangestarさんが書いたように、クーデリアが一番たくさん人を殺したのだと思う。たぶん、これからもそう。そのかわり、クーデリアが一番たくさんの人を救う。そうやってクーデリアは「老人」になっていくのでしょう。にも関わらず、クーデリアは因業を手懐けながら、人を使う立場として屹立していて、人間をやめてもいない。マクギリスには無いものをことごとく持った人だと思う。英雄だ。
 
 ・同じ野良犬でも、誰も信じず誰も寄せ付けず一人で暴走して自滅したマクギリスと、皆で寄り集まって暴走して行き詰まった鉄華団、この両者のコントラストも割と面白かった。正直、マクギリスがここまで不器用に振る舞うとは想像していなかった。いや、不器用だからこそ、ああするしかなかったわけか。
 
 ・イオク様が生存するのか死ぬのか、最期までドキドキした。私は「イオク様は生き残って名君になる」にチップを賭けていたが、因業が巡ってきてサンドイッチになった時には、なぜか笑いがこみあげてきた。なんだろう、とにかくイオク様は良いキャラクターだったと思う。最期まで憎めない馬鹿者だった。
 
 ・ジュリエッタはいいキャラクターだった。彼女がいなかったら、イオク様周辺は寂しかっただろう。三日月とガンダムに引き込まれて、人間やめそうになるのも良かった。ちなみに昔の冨野ガンダムだったら、彼女は確実に死んでいたように思う。
 
 ・というか、ジュリエッタに限らず、この作品の女性キャラクターはみんな魅力的だった。男性キャラクターもだいたい魅力的だった。
 
 ・なかでも、名瀬の兄貴はまさに兄貴だった。この人も、死ぬしか無さそうな雰囲気を漂わせていたが、折り目正しく死んだ。兄貴~!!
 
 ・ガエリオは、良い奴だった。彼の成長物語としてのオルフェンズ。なるほど、『鉄血のオルフェンズ』は群像劇というのはそうだと思う。イオク様の愚直さもそうだが、ガエリオの甘さが欠点として描かれるだけでなく、彼の持ち味としても描かれる(そして、野良犬連中にはそれが無い!)のは、とても良かった。こういうところは、びっくりするほど凝っていたと思う。
 
 ・戦後描写にアルミリアが登場しないのはちょっと気になった。大丈夫なんだろうか。ガエリオは気にしている様子は無かったが……。
 
 ・orangestarさんが詳述しているが、葬儀や教育も含め、鉄華団に文化がもたらされていくプロセスは味わい深いものだった。なるほど、ヒューマンデブリがデブリであるゆえんは、彼らが文化を持たず、歴史を紡がない(紡げない)ことによるのか。鉄華団は消失しても、アトラと暁は残り、歴史は紡がれていく。終わり際、鉄華団のお墓が出てきたカットには感激した。
 
 
 
 そろそろ時間切れなのでやめますが、私は、『鉄血のオルフェンズ』は傑作になり損なった意欲作だと思いました。orangestarさんのような、感受性の強い人が一気に視聴すればバッチリだろうけど、これじゃあガンプラもブルーレイも売れないだろうなぁ、と。でも、ガンダムシリーズってそういう作品が多いし、円満な傑作である必要は無いので、これはこれで良かったのかな、と思います。なにより、こんなセールスの悪そうなガンダムを、日曜の5時に長々と放送してくれたこと自体、眼福と言わざるを得ません。
 
 なんか、まだ書き足りないのでもう一度視聴したいところですが、現在多忙につき、諦めようと思います。orangestarさん、楽しい感想ありがとうございました。おかげで、2時間ほどキーボード叩いてしまいましたよ。ぼくのだいすきなジュリエッタちゃんが幸せになりますように。
 

*1:しかし、よく考えると、ハッシュの野心って、戦後世界には要らないですよね。そういう意味では「処分」されてもおかしくはなかったわけですかね

「子どもに意味を背負わせてしまう」対「意味は子どもが自分で見つけるもの」

 
zuisho.hatenadiary.jp
 
 ズイショさん、こんにちは。文章拝見しました。
 
 「子は意味もなく生まれるし、人は、意味にとらわれず生きたっていい」「他人に宿命づけられてたまるか」「世界にいる意味は、自分自身で見つけりゃいい」といった主旨だと、ここでは捉えることにしました。
 
 もし、個人が人工孵化装置から生まれてきて、その段階で一人の人間として・一人の判断主体として世間に立っていられるのなら、これは完璧なオピニオンです。他人に勝手に生きる意味を押し付けられるのは、とりわけ個人主義に馴染んだ私達にとって、嫌なことですからね。
 
 ただ、私自身が子育てに本格的にエネルギーや時間やお金を費やしてみてからは、それだけでもないな、と思うようになりました。
 
 そのあたりについて、ズイショさんへの反論というより、たぶん、似たようなテーマを少し違った角度から記してみたくなったので、書き連ねてみます。
 
 

現代日本に「意味もなく生まれてくる子ども」はどれぐらいいるのか

 
 まず、私が考えたのは「子は意味もなく生まれる」なんて状況が現代社会に一体どれぐらいあるのか、という点でした。
 
 たしかに、遠い昔の農村では、子どもは意味もなく生まれてくるものだったのかもしれません。「子どもは天からの授かりもの」で「七つ前までは神のうち」と言ったとおり、子どもが生まれるのも、成長するのも、割とあやふやでした。江戸期あたりになるとバースコントロールの発想があったとはいいますが、現代社会ほど徹底していたわけではありません。
 
 子どもが生まれる/生まれないは、親の意識的な選択、ましてや戦略的な選択ではあまりなかったでしょう。
 
 それに比べると、現代社会の親は、バースコントロールや家族計画を徹底させるのが常です。
 
 乳児死亡率が低下し、不妊治療や中絶や避妊技術などが浸透した結果、子どもは、戦略的に「つくる」ものになりました。親にとって必要な時に、必要なだけ子どもを「つくる」――つまり、子どもが生まれるという自然現象に、親の意志を介在させるためのテクノロジーが食い込んでしまったんですよね。そして、そのようなテクノロジーの使用を現代社会は悪いものとみなしていません。
 
 このような社会では、ほとんどの子どもは「親の意志の介在のもとで」「つくられます」。子どもは「授かる」ものである以上に「つくられる」ものになりました。もちろん、不妊治療などの領域では「授かりもの」的な要素が残っていますが。ともかく、子どもが親の意志や戦略性にもとづいてもうけられるようになったってのは、すごく重要な変化だと思います。
 
 親の意志や戦略性が子どもの誕生に反映されてるってことは、「子どもは意味もなく生まれる」のでなく「子どもは親にとってなんらか有意味な意志や戦略性にもとづいて生まれる」ってことですし、少なくとも誕生の段階では、子どもは親の意味や意志を背負って生まれてきている、ってことです*1
 
 思春期以降の個人にとって、意味とは、自分自身の手中であらねばならないし、宿命も、自分で自分が見出すものでしょう。でも、生まれて間もない頃~物心つくまでは、意味も宿命も、まずは親の手中にあって、親だけが意識した状態から始まるのだと思います。
 
 

子育てに熱心な親が、子どもの成長に意味を見出さないことは可能か

 
 さて、子どもが親にとって意味ある存在として生まれてきた後、親は、子育てを通じてますます子どもに意味を見出していきます。いや、ズイショさんの表現に沿うなら「子どもに意味を背負わせてしまう」というべきでしょうか。
 
 子どもを熱心に育てるのは、骨の折れる、掛け金のかかった行動です。語弊があるかもしれませんが、「コストのかかる行動」と言っても良いでしょう。時間、情熱、体力、お金――子育ては多くのコストを必要とします。子育てに熱心に取り組んでいる親ほど、そうでしょう。
 
 さて、人間は欲深い存在なので、コストをたくさんかけたものには執着が生じます。これは、子育てに限ったことではありません。何十年も続けてきた趣味。何十年もローンを支払って手に入れたマイホーム。おこづかいを貯めて買ったハイエンドゲーム機。どれも、苦労してコストを費やしてきたがゆえに、執着せずにいられません。そして、意味も見出さずにはいられないのです。
 
 たとえばですが、ある高校生がおこづかいを一年分貯めて買ったハイエンドなゲーム機が、鳴かず飛ばずだったとしましょう。セガのメガドライブとか、セガのドリームキャストとか、そういったゲーム機を想像してください。そうやって苦労してコストを支払ったゲーム機が鳴かず飛ばずだったとして、無意味な買い物だったと割り切れる高校生はあまりいないのではないでしょうか。きっとその高校生は、メガドライブのことをクソゲームハードとは思わず、「メガドライブで良かった、スーパーファミコンを選ばなかった俺の選択は有意味だった」とか言い始めるでしょう。あるいは意味を無理にでも探し始めるでしょう。
 
 なお、名誉のために断っておきますが、メガドライブは、あれはあれでハイエンドゲーム機でしたよ。私が言うんだから間違いありません。実際、『アドバンスド大戦略』『ヘルツォーグ・ツヴァイ』ほか、良いゲームがいっぱいありますからね……。
 
 話を戻します。
 
 でもって、子育てには物凄いコストがかかります。ぶっちゃけ、人生の相当部分を賭けることになるでしょう。そのような対象である子どもに、意味を見出さずに子育てできる親なんて、滅多にいないのではないでしょうか。
 
 「親が子どもに意味を見出してしまう」と書くと、子どもをまだ育てていない人、とりわけ親ウゼーとか思っている人には、傍迷惑な話にみえるかもしれません。「親は子育てに意味なんか見出すんじゃねー。」「俺は俺で、お前はお前だ。」「親の過干渉が子どもを駄目にするんだ、過干渉型の毒親をみてみろ」はい、それら自体は間違っていません、特に思春期の人がそう主張するのは、親離れ/子離れに必要なことです。あなた達は何も間違っていません。
 
 他方で、「親が子どもに意味を見出す」って悪いことばかりでもないと思うんですよ。
 
 子どもにコストを熱心に投下すると、親は子どもに意味を見出さずにいられなくなる、と私は書きましたが、逆もまた然りではないでしょうか;つまり、親が子どもになんらかの意味を見出すからこそ、親は子どもに熱心にコストを投下する、それで時間や情熱や体力やお金をかけられるって部分もあるんじゃないでしょうか。
 
 両方あわせて表現するなら、「親が子どもにコストを投下する」ことと「親が子どもに意味を見出すこと」がシンクロする、といったところですかね。
 
 正反対に、親が子どもに意味を見出せない場合を考えてみてください。子どもに意味を見いだせない親が、子育てに時間や情熱や体力やお金を費やすのは、きっと不可能です。ワインに意味も興味も持たない人がロマネ・コンティや五大シャトーのワインを買うのと同じかそれ以上に難しい*2。いわゆるネグレクトの問題の相当部分も、あれは、親が子どもに意味を見いだせてないからだと思うんですよ。子どもに執着して、子どもに意味を見出していれば、少なくともネグレクトというかたちはとらないはず。
 
 それでも、親が子どもに意味を見出すのは、思春期的な立ち位置からみれば傍迷惑なことで断罪の対象となるでしょう。そして、親という立場は、子どもからそのような断罪を受けたとしても、反論できない立場ではあります。けれども、親が子育てに本格的にコストを費やし続けるためのモチベーション源として、「子どもに意味を見出す」ってのは必要なことでもあると思うんです。このあたりは、思春期以降の「誰にも人生を邪魔されずに俺は俺の生きる意味を見出す」的な感覚に慣れていると見逃しやすいところかもしれませんが(私は見逃していました)、いざ育てる側に回ってみてモチベーションとコストの調和について考えると、コストをしっかり支払いながら子育てに意味を見出さずに過ごすのは、超人芸だと思わずにいられないです。
 
  

「親が子どもに意味を見出す」と「子どもの自由な意味づけ」の両立

 
 むろん、親が子どもに意味を見出すのをさせるがままにしておけば良いわけでもありません。
 
 親が子どもに人生の敗者復活戦を担わせ、やれ高学歴だ、やれプロスポーツだと、勝手に意味付けのゴリ押しをした挙句に子どもがパンクしてしまった、なんて事例はいくらでもあります。いや、極端な事例でなくても、たとえば「我が子には健康であって欲しい」――こんな当たり前っぽい親の願いですら、ときには子どもを磨り潰してしまうかもしれないと思うのです。
 
 だから、親が子どもに意味を見出し過ぎてこじれる状態ってのは「親が子どもにどういう(what)意味づけをしているのか」だけでなく「親が子どもにどんな風に(how)意味づけをしているのか」の両方によって起こるのだと思います。それ以外にも、親が子どもに意味づけしている内容と、等身大の子どもの素養とのギャップも問題かもしれません。ここに、発達障害的な問題が挟まると、話はもっとややこしくなると思われます。
 
 じゃあ、この問題は一体どうすれば良いのでしょうか?
 
 ・親のコスト投下や意味づけが、一人の子どもに一点集中しないようにすること。子沢山でコストも意味もたくさんのきょうだいに分散するも良し、仕事や趣味といった他のジャンルをきちんと維持するも良し。
 
 ・子どもをよく見て、子どもに合わない意味づけは避けること。
 
 ・子ども自身の意志の芽生えに敏感であること。
 
 ・意志の芽生えの程度にあわせて、親子の心理的な間合いを少しずつ広げていくこと。子どもが大学生になっても小学生時と同じぐらいの間合いのままで、密着してお世話しているようでは、親も苦しいが子どもも苦しい。
 
 ・言い換えると、年齢に合わせて「意味づけ」の主体を親から子ども自身へ段階的に譲渡していくこと。
 
 他にも色々ありそうですが、ここらへんがメインの柱になるのかなとは思います。
 
 はじめにも書きましたが、私がここで書いていることは、ズイショさんがリンク先で書いていることを否定するものでも反論するものでもありません。正反対のように読めてしまう人もいるでしょうけど、そういうつもりではなく、物事の二つの側面を並べているつもりでいます。
 
 で、こうやって二つの側面を並べて思うに、一見、矛盾しているようにもにみえる視点を両方抱えて調和させることが、子育てにはあったほうがいいのだと思います。そして子どもの年齢・意識・認知機能の変化に伴って、調整していかなければならないのでしょう。
 
 エリクソンの発達課題の話なども、「矛盾しているようにもみえる視点を両方抱えて調和させる」って視点でみない限り、なんだかわけがわからないでしょう。そういう視点で見る・実践するのは潔癖な人にはテクニカルかもしれませんが、それでも必要なことではないかと思います。
 
 バテてきたので、今日はこのへんで終わりにします。
 

幼児期と社会 1

幼児期と社会 1

 

*1:いやいや、昔の社会ですら、少なくとも母親が大変な思いをして子どもを産み落としているわけですから、母親が子どもにかけたコストというのは甚大で、母親としては、そこに意味が見出せる状況であれば見出さずにいられません。後述参照

*2:ワインは、子どもと違って交換可能な価値を持っていますからね。ワインに興味は無くてもお金に興味がある人が購入することは、一応あります

「見えない通貨=信用」にはメンテナンスが必要。だから挨拶や礼儀作法は超重要

 
 
syakkin-dama.hatenablog.com
 
 
 借金玉さんのブログ記事は、世間の人があまり意識していない、けれども社会適応を大きく左右するような“法則性”を見抜いたものが多いと思います。今回の「見えない通貨」のお話も、古代社会から現代社会にまで通用する、深甚な内容だと思いました。
 
 通貨の歴史を遡って考えるなら、「見えない通貨」と喩えるより、そもそも通貨とは「信用が可視化され、しかも譲渡可能なかたちになったもの」と言い直したほうが事実に即しているのかもしれません。
 
 [参考]:https://hikakujoho.com/manekai/entry/20160809
 
 しかし、お金の価値を誰もが信用し、当たり前のように使っている現代社会では、通貨=信用という前提は意識されにくいでしょう。だからコミュニケーションに媒介される人と人の間の信用を、「見えない通貨」と表現するのは、現代人にはわかりやすい比喩だと思います。
 
 

「見えない通貨=信用」は目減りする。だからメンテナンスする必要がある

 
 借金玉さんは、そんな「見えない通貨」について、

 こないだツイッターでちょっと触り程度に話した話題なのですが、人間が集まった集団というのはもうその時点で部族なので、ある種の部族ルールが発生します。
(中略)
 特に、公務員系の職場の皆さんはわりとハードなルールが存在する場合が多いと思います。なにせ、仕事の成果が「利益」というモノサシで計れない場合が多いですからね。「結果を出す」ということの定義がわりと不透明になります。この辺、バリバリの営業部族なんかだと話はまったく別で、「とにかく数字上げる奴が偉い」みたいな世界観だったりもするんですが、明確な評価の尺度が存在しない部族ほど、部族ルールは難解さを増します。
 仕事の根回し、事前確認、終わった後のお礼回り、この辺を外すと大変危ないですね。また、明文化されていない職場の序列なども存在し、「誰から話を通すか」などの順番をミスった時点で全てが終わっているなどの現象も割と発生します。大学のサークルなんかも利益を目指す集団ではないのでわりと部族化しやすく、明文化されていない謎の風習が発生しやすいですね。あなたがサークルに溶け込めない理由はこれです。

 こうした具体例を挙げておられます。そのうえで、この「見えない通貨」をうまくコミュニケーションでこなせれば「人間の間で流通する金ではない何か」が決済される、といったことを仰っています。

 これって、「お金=信用が具現化した媒介物」と考えると、まさにお金と同じ動きなんですよね。仕事の根回し、事前確認、終わった後のお礼回りのたぐいも、コミュニケーションを介して個人間で「信用」をやりとりしているという意味では「通貨」と変わりません。現代社会の「通貨」に比べると、これは原始的な「信用の取引」、いわば信用の物々交換に近い形態ですが、ともかくも、そこで「信用」が交換されているわけです。

 でもって、人間は疑い深く誤解を起こしやすい生物なので、人と人の間の「信用」は、時間とともに磨り減っていく傾向にあります。少なくとも、コミュニケーションをとらずに放っておくと「信用」はどんどんなくなるでしょう。だから、挨拶をはじめとするコミュニケーションは、お互いを「信用」しあいながら生きていくためには必須となります。これは、学校でも職場でも家庭でも同じです。人と人の間の「信用」をメンテナンスするためのコミュニケーションを怠っている人は、どこへ行っても信用されにくく、不信の目でみられやすくなるでしょう。
 
 

「見えない通貨=信用」を巡るローカルルール

 ただし、これも借金玉さんが指摘しているとおり、「見えない通貨」のやりとりにはローカルルールがはびこっています。
 
 公務員の世界と営業サラリーマンの世界ではローカルルールが違いますし、学校、企業、年齢、地域によっても微妙に異なります。信用関係を保って気持ち良くコミュニケーションする際の難点のひとつは、こうしたローカルルールが少なからず幅を利かせ、しかもわかりにくいことです。

 現実の通貨に関しては、為替サービスやクレジットカード支払い等が充実しているので、ドルを持っていようが、ユーロを持っていようが、円を持っていようが、決済に困る場面はあまりありません。とはいえ、為替やクレジットカードが使えないローカルな店舗では、「現地で流通している通貨」を用意しなければ取引が成立しません。

 それと同じで、A大学では「信用」を獲得するのに有効だったローカルルールが、B社では通用しないか、むしろ「信用」を損ねてしまうものだった……ということは往々にしてあります。このあたりを勘違いしてしまうと、「信用」を稼げそうなコミュニケーションをしているつもりで大失敗することがあり得るので、その組織・その場ならではのローカルルールはなるべく早く察知するのが望ましいのだと思います。
 
 

“基軸通貨”に相当するコミュニケーションの作法を押さえよう

 
 それでも、日本国内にいる限り、ローカルルールの違いはそれほど顕著ではありません。ローカルルールの習得にエネルギーを費やすより、どこへ行っても人と人の間の「信用」を媒介できるような、“基軸通貨”に相当するような作法やプロトコルを押さえておけば、どこへ行っても役立つはずです。
 

認められたい

認められたい

 
 
 先日出版したこの書籍では、コミュニケーション能力を身に付けるための基礎として、「挨拶や礼儀作法」「ありがとう」「ごめんなさい」についてそれなりページを割きました。
 
 

 コミュニケーションに苦手意識を持つ人が「コミュニケーション能力が高い」と言ってまず連想するのは、魔法のように場の空気を操る人や、やたら人に好かれやすい人かもしれません。
 でも、そういった「コミュニケーションの派手な効果」はコミュニケーション能力が発揮されている状況のごく一部、いちばん目立ちやすいものでしかありません。サッカーの試合に喩えるならゴールの瞬間やドリブルで三人抜きを決めた瞬間みたいなもので、もっと地味なディフェンスやパスワーク、泥臭く走り続けることだって本当は重要なわけです。「高いコミュニケーション能力」=「派手な成功・誰にもわかるモテやすさ」と考えてコミュニケーション能力を高めようとするのは、地味なプレーを無視してスーパープレーだけを“上手なサッカーのお手本”とみなすのと同じく、間違っています。
 そしてどんなスポーツにも地味な基礎練習が必要なのと同じように、コミュニケーションにも基礎の基礎に相当するものがあります。挨拶と礼儀作法は、その最たるものです。
 「挨拶と礼儀作法なんて誰でもやってるじゃないか」と思う人もいるかもしれません。確かに、挨拶が全くできない・礼儀作法が全然なってない人は少ないでしょう。ですが、いつでも挨拶がきちんとでき、礼儀作法を自由自在に使いこなせる人は、実のところ、決して多くはありません。十代~二十代前半の、まだ社会経験の乏しい年齢のうちは特にそうです。いつでもどこでも出来るようになりたいなら、この基礎を練習する必要があります。
   『認められたい』より抜粋

 
 挨拶や礼儀作法、「ありがとう」「ごめんなさい」は、誰が相手でも頻繁に用いるものです。コミュニケーションの作法やプロトコルとして、これほど汎用性が高く、これほど頻繁に用いなければならないものも無いでしょう。さきほどから述べている「見えない通貨=信用」をメンテナンスするためにも必須です。

 だから、「コミュニケーション能力を向上させたい」と思っている人が最初に着眼すべきは、「見えない通貨=信用」をメンテナンスするのに必要不可欠な、挨拶や礼儀作法のたぐいではないでしょうか。
 
 もし、あなたが挨拶や礼儀作法をあなどり、「ありがとう」「ごめんなさい」もキチンと言えない人だとしたら、日常的なコミュニケーションのなかでどんどん「信用」のメンテナンスに失敗して、あなたの「信用」はボロボロに剥げ落ちるでしょう。「信用」の低下は、集団内での立ち位置を悪くし、情報や技能を融通してもらうチャンスを低下させ、人間関係のトラブルやストレスが生じるリスクを増大させます。

 もちろん、こういった基礎だけでコミュニケーション巧者になれるわけではありませんし、ローカルルールが強い集団内では、ローカルルールにも注意を払うべきでしょう。ですが、挨拶や礼儀作法、「ありがとう」「ごめんなさい」のたぐいは、人間同士が「信用」をやりとりする際の“基軸通貨”に相当するものですから、これらをスキルアップせずに放置しておいて、やれ、人間関係がうまくいかない、コミュニケーション能力が身に付かないと嘆くのは、筋の悪い悩み方だと言わざるを得ません。
 
 

「信用」のショートカットはいつかメッキが剥げる

 
 こういう事を書くと、「そんなコミュニケーションはだるい」「メンテナンスフリーに「信用」を勝ち取りたい」といった声が聞こえてきそうです。
 
 なるほど、世の中には、基礎的なコミュニケーションの作法やプロトコルを押さえずに、人気者になったり、「信用」をかき集めているようにみえる人物もいるでしょう。
 
 しかし私は、「信用」の獲得やコミュニケーション能力の向上に都合の良いショートカットは無いと思っています。時間をかけ、実践を積み重ねてゲットするのが正攻法で、それ以外は邪道だったりインチキだったりするのではないでしょうか。

 むろん、ある種の対価を支払えば、「信用」に値する、コミュニケーション能力の高い人物の装いを一時的につくりだすことはできます。
 
 ここで言う対価とは、先行者利益とか、若さや時間とか、特殊な才能とか、そういったものです。そういった対価を支払う意志と能力のある人は、正攻法によらずに「信用」を稼げるかもしれません。
 
 ですが、正攻法によらない「信用」の稼ぎ方は、先行者利益がなくなってしまったり、若さや時間が失われてしまったり、才能が枯れたりすると通用しなくなってしまいます。とりわけ、先行者利益や若さを「信用」に両替して調子に乗っている人は要注意です。
 
 また、インターネットの片隅で、一時的に・局所的に「信用」を稼ぐだけなら、プライバシーや社会的信用を切り売りするのも有効で、現に、やっている人を見かけます。ですが、そういった人々の末路については、述べるまでもないでしょう。

 結局、「信用」をショートカットして獲得しているようにみえる人の大半は、「信用」の目利きが利かない人間を幻惑し、彼らから一時的な「信用」を集めて砂上の楼閣を築いているに過ぎません。そういう“やくざな商売”で生計を立てたいならともかく、まっとうに人の間で生きていこうと思うなら、真似するべきではないでしょう。
 
 

挨拶や作法は、若いうちから身に付けておいたほうがいい

 
 私は、借金玉さんのブログに挨拶や作法についての言及が多いことに、すごく納得感を覚えます。私もそういった部分が全然ダメで、30代になる直前になって、やっと重要性に気づいたクチですから。
 
 「信用」も、コミュニケーション能力も、一朝一夕で得られるものではありません。それだけに、日頃の積み重ねや実践がモノを言いますし、挨拶や礼儀作法のような基礎的な作法やプロトコルの精度によって、意外なほど人生は左右されるのだと思います。
 
 

「みんなの知恵を集めたら」「ネットの知恵が薄まった」

 
 
  
蜂蜜入り離乳食で乳児死亡、クックパッド「レシピ再確認する」…豚ユッケにも批判噴出 - 弁護士ドットコム
 
 
 「離乳食としては危険な、ハチミツを使った離乳食のレシピが掲載されている」「生肉を使った不適切なレシピも掲載されている」等でクックパッドが批判されているらしい。
 
 【知名度のあるネットサービスに間違った情報が存在する=悪い】とみる以前に、そもそも、ユーザーが投稿しあうタイプのネットサービスにはついてまわる問題なのだろう。
 
 2ちゃんねるに書き込まれた情報も、google検索で拾える情報も、クックパッドや食べログやYahoo!知恵袋に書かれた情報も、玉石混交という点では変わらない。
 
 00年代には、インターネットにみんなの知恵を集めたら、素晴らしいものができあがるんじゃないかという期待が生まれた。いわゆる「web2.0」である。
 

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 
 匿名の筆者が集まり、無報酬で優れた情報を提供していた昔の情報サイト*1を思い出すと、「web2.0」的な、みんなが知恵を出し合って集合知を耕していくインターネットを夢想したくなるのもわかる。そんな時代だったからこそ、『ウェブ進化論』は売れたのだろう。
 
 でも、今にして思うと、それはネットがアーリーアダプターのものだった頃の風景であり、スーツを着た人々が「ネットビジネス」に本格的に乗り出す前の風景でしかなかったのだと思う。
 
 ネットがレイトマジョリティにまで浸透し尽くし、スーツを着た人々が「ネットビジネス」にしのぎを削るようになってから、現実の「web2.0」がクッキリしてきた。
 
 
 [関連]:嫌われるウェブ2.0 | 辺境社会研究室
 
 上記リンク先の論旨とは少しずれるが、この件に関連したフレーズを引用してみる。
 

 ブロガーも、まとめ主も、クックパッドの投稿者も、自分以外の「他人」で、そうした他人の、少なくとも一部が質の低いコンテンツを作り、検索結果を占拠し、中にはお金まで貰っておいて、まわりに迷惑をかけている……それが平均的なネットユーザにとってのCGM(注:Consumer Generated Media)の現在なのではないか。

 インターネットを利用している大半にとって、現在の「投稿者」とは「他人」であり、しかもその一部はお金を稼ぎながら低品質の情報をまき散らしている……という認識は、そのとおりだと思う。さらに、
 

 ウェブ2.0が生まれ、CGMが持ち上げられていたときは、もっと明るい未来が約束されていたはずだった。これまでマスメディアだけが保有していた情報発信の力が一般人に開放され、ネットユーザに声が与えられることで多様な知識がオンラインに集まり、そこから集合知が生まれる……そう喧伝されていたものだ。
 それなのに、結局のところ平均的なネットユーザは、Twitterで呟く以上の情報を発信しないままである。いまや集合知など誰も信じない。情報発信をしているのはごく一部で、それも金儲けのためが大半で、そのためにはヘイトでも炎上でもなんでもやる……そういう例が目立ってしまう状態が、CGMの顛末なのかもしれない。

 とも論じている。
 
 たくさんのネットユーザーに情報発信の機会が与えられても、集合知の向上は起こらなかった。かわりに起こったのは、低品質な情報の氾濫、金銭収入のために量産される投稿の氾濫だった。「人が集まれば集まるほど知恵が集積する」というのは間違いだった。現実は「人が集まれば集まるほど書き込みが溜まるだけ」でしかなかった。そして、インターネットが研究者のものからギークやナードのものへ、アーリーアダプターのものへ、さらに「みんなのもの」へと変化するにつれて、溜まっていく書き込みの質に変化が訪れるのも必定だった。
 
 今も昔も、インターネットには玉石混交の情報が混じっているから、個々人の情報リテラシーが問われているという点は変わりない。だが、低品質な情報があまりにも大量生産された結果として、
 
 1.信頼できる情報を検索エンジンで拾う際に、今まで以上の工夫が必要になった
 
 2.信頼できない情報にも、一定の需給関係が生まれるようになった
 
 点が、00年代とは違ってきていると思う。1.については別の機会にゆずるとして、ここでは、2.についてもう少し述べる。
 
 

どうしようもない人が、どうしようもない情報を喜んで摂取している

 
 インターネットには、間違った情報や「誰でも知っていそうな、どうしようもない情報」がたくさん存在する。それらは、発信者のどうしようもなさを反映していることも多い。だが、それだけでなく、情報を受け取る側にも、そういった間違った情報やどうしようもない情報を受け取るニーズがあるから淘汰されずに生き残っている、という部分もあるだろう。
 
 以前、どこかのブログでそんな文章を見かけたような気がして、頑張って探してみたら見つかった。これだ。
  
 つまらないブログやブコメと光と闇 - さよならドルバッキー
 
 リンク先の主旨は、「つまらないブログ記事をソーシャルブックマークで称賛している人」についてだが、文中に、以下のようなくだりがある。
 

 以前「掃除をしたらきれいになりました」というような記事に「そうですね、掃除いいですね」とか「掃除をすると言う発想が素晴らしい!」とかそんなブコメがたくさんついているのを見て眩暈がしたことがあります。それを「お前らバカか?」とか「アクセス稼ぎのおべっかか?」とかそういう風に考えるのは簡単です。でも思ったのが、「この人たちは本当に掃除をしたらきれいになることを称賛している」ということです。
 つまり、当たり前だけど見ている次元が違うんじゃないかということです。インターネットにはいろんな人がいます。掃除という行為について今更何を言うんだと言う当たり前な人もいれば、「掃除ってこうやってするんだ!」と目を輝かせて聞く人もいます。で、後者の意見が目立てば「掃除サイコー!」になるわけで。でもそうじゃない感覚の人からすると「掃除したくらいで何いい気になってるの?」となる。

 
 一般に、「掃除をしたらきれいになりました」という情報には値打ちは無い。大半の人は、そんな「お役立ち記事」を見かけたら「ネットのノイズ」とみなすだろう。
 
 しかし、「掃除をしたらきれいになる」という事すら知らない人、掃除のハウツーが根本的に欠落している人からみれば、その記事は実際に「お役立ち記事」とうつるし、そこに需要が生まれる。大半の人にはどうしようもないブログ記事でも、「お役立ち記事」としてのニーズが生じることになる。
 
 「つまらないブログ記事をソーシャルブックマークで称賛している人」に関しては、“はてなブックマーク互助会問題”と呼ばれて論議されていた。これもこれで「web2.0」が辿り着いた現状を象徴しているので、興味のある人は以下のリンク先に寄り道してみて欲しい。
 
 [参考]:はてなブックマーク互助会と炎上耐性 - あざなえるなわのごとし
 [参考]:はてなブログ互助会についてデータ解析してみたかった - ゆとりずむ
 
 
 だが、私が気にしているのは、一昔前まではネットで需要が生まれにくかったはずの情報にまでニーズが生じていることのほうだ。さしずめ、残念な情報のロングテール消費とも言えるかもしれず、これもこれで「web2.0」的ではある。
 
 残念な情報のロングテール消費は、どうしようもない情報を流通させるだけにとどまらない。冒頭で触れたハチミツ入り離乳食のような、有害な情報についても、ニーズがあれば供給が支えることになる。こういう時に、まず「有害な情報を垂れ流した奴が悪い」と考えるのは尤もなことだが、たとえば「ハチミツ 離乳食 作り方」と検索するようなニーズがまず存在し、そのようなニーズがあってはじめて有害な情報がトラフィックとして成立していくという視点も、忘れてはならないと思う。
 
 ニーズの無いところにはトラフィックは流れない。
 
 だから、情報発信する側だけに責があると考えるのは、筋違いだ。
 
  

「残念な」インターネットは「民主的」でもある

 
 『ウェブ進化論』で「web2.0」を語った梅田望夫さんは、その3年後の2009年、インタビューに答えて「日本のウェブは「残念」」と仰っている。あるいは梅田さんは、「Web2.0」がこうなっていく未来に気づき、諦めたのかもしれない。
 
 だが、2017年を迎えてみると、「残念」になっているのは日本のインターネットだけではなかった。ポスト・ファクトなどという単語が流行り、大国の大統領選でデマサイトが問題になる程度には、海外のインターネットも順当に「残念」になっているようにみえる。
 
 こうした現在のインターネットの風景を00年代の梅田望夫さんに見せたら、さぞ落胆するだろうし、00年代の私に見せたとしても落胆するだろう。
 
 ただ、現状の「残念」なインターネットとは、ある意味において「民主的」でもある。現在のインターネットは、ハイブロウな人達の独占物でも、ナードやギークの独占物でもない。検索エンジン最適化問題のような問題もあるにせよ、人間社会や世相を反映しているメディアという意味では、現代のインターネットほど実相に迫っているものはあるまい。
 
 本当の意味でインターネットがみんなに普及し、あらゆるニーズに対応した需給関係が成立するところまで到達したからこそ、インターネットは、ガンジス川の畔のような混沌の相を呈するに至った。だとしたら、それを「残念」の一言で切って捨てて構わないのか? もちろん、インターネットはハイブロウであるべきと考える人なら一刀両断だろうが、私は、自分自身がハイブロウな人間ではないことを知っているから、そこまで割り切れない。
 
 

*1:たとえば当時の2ちゃんねるまとめwikiや、一部のゲーム攻略wikiなど

なるほどオタクは死んだわけだ。なぜなら、1人ではいられなくなったから。

 
 「オタクが死んだ」という言葉は、今までにも散々語られてきたことだし、今更、オタクなどという言葉に拘ってもあまり意味は無い。
 
 ただ、ここ2~3年、「オタクがカジュアル化した」というお決まりの言葉ではカヴァーできない次元でオタク的ライフスタイルが難しくなったと感じる場面が増えたので、そのあたりについて今の考えを述べてみる。
 
 

【オタク=1人で過ごす時間の長い愛好家】だった

 
 1970~90年代からオタク的な愛好家生活をしていた人には当たり前で、2010年代からオタク的な愛好家生活をしていると思っている人には当たり前とは言えない、大切なことがある。
 
 それは、オタクの趣味生活とは、長い時間を、1人で楽しむものだった、ということだ。
 
 漫画オタクであれ、ゲームオタクであれ、アニメオタクであれ、オタクというのは自分1人でも楽しめる趣味を1人で楽しみ、好きに追いかけていくようなライフスタイルだった。
 
 それがために、オタクがオタクであるために必要だったのは、個人的な欲求を一人で煮詰められる空間、つまり子ども部屋だった。ビデオテープ、プラモデル、漫画、ゲーム。そういったものを詰め込み、自分だけで楽しめる空間としての子ども部屋は、オタクがオタクであるための必要条件だったし、ゆえに、旧来的な地域社会の家庭でなく、都市部やニュータウンの家庭において勃興したライフスタイルだった。
 
 [関連]:生まれて初めて出会った「おたく」――80年代地域社会の記憶 - シロクマの屑籠
 
 
 今でこそ、アニメもゲームも漫画もネット配信され、スマホさえあれば、ひととおりのコンテンツを楽しめる。だが、20~30年前はそうもいかなくて、1人でコンテンツに耽溺するためにはいろいろな前提条件をクリアしなければならなかった。
 
 

スマホ時代の愛好家は、どこまで1人になれるのか

 
 一方、スマホはいつでもどこでもコンテンツを提供してくれる。そのかわり、「1人でコンテンツを楽しむ」という前提がやや怪しい。
 
 スマホは私達を引きこもらせない。
 
 かつてPCは、引きこもるためのツール、引きこもるオタクの部屋の心臓部をなすものだったが、常時接続とSNSによって、外部と接続する……というより接続せずにはいられないツールと化した。そして一般的な若者においては、PCは普及率の低いアイテムであり、かりにPCを用いていたとしても、スマホを併用するのが当然になった。
 
 スマホがコミュニケーションのプラットフォームとしてだけでなく、コンテンツの閲覧、情報収集、オンラインショッピング、ゲームプレイのプラットフォームとして重視されていくにつれて、若者は、いや、私達は、いつでも誰かと繋がっているようになった。
 
 実際そうなのだ。自室に引きこもっている時、スマホで何かを楽しんでいる時、私達はたえず誰かと繋がっている。知り合いからの「いいね」や「シェア」、気にしている人の発言、そういったものと背中合わせで過ごすことが常態化している。
 
 空間的に引きこもっていても、情報的には引きこもっていない。繋がっているのだ。SNSという名の空間、インターネット空間という名の広場に、私達は「出かけっぱなしでいる」。もし、そこで何らかのフィーバーが起こっていれば、その熱気に攻囲されてしまうだろう。
 
 もし、情報的にも引きこもりたければ、その愛してやまないスマホの電源を、タブレットやPCの電源を、切らなければならない。だが、SNSやインターネットへの常時接続に慣れ親しんだ人間がオフライン状態で長く過ごすためには、それなりの意志やきっかけが必要になるだろう。
 
 さて、オタクの話に戻ろう。
 
 現代のオタクは、自分1人の楽しみを詰め込める空間を持っているだろうか。スマホを個人所有し、子ども部屋やワンルームマンションを与えられている限りにおいては、そうだとも言える。だが、そうではないともまた言える。なぜなら、オタクを自称する若者といえど、いや、オタクを自称するような若者ほど、最近はSNSによって情報的に繋がっているから。好きなアニメを観ている時も、待ちに待ったゲームを遊んでいる時も、1人きりで作品と向き合った状態は長続きしにくく、他のSNSユーザーや知人と繋がりあった状態でコンテンツに触れてしまいやすい。たぶん、それが2010年代という時代の特徴だから。
 
 こうした話を誇張と捉えたがる人も、少なくとも右の事実は認めなければなるまい――目当てのコンテンツを楽しんだ後、長時間にわたって、そのコンテンツについての自分の感慨や考察を1人で温めて発酵させることは難しくなった、と。
 
 昔のオタクは、空間的にも情報的にも切り離されていることが多く、それがために、同好の士が集まる同人誌即売会のような機会は貴重だったし、情報共有の手段としての雑誌やゲーセンノートのたぐいも重要だった。
 
 だが、今はその反対ではないだろうか。あまりにも、オタク達は、いや、私達は、空間的にも情報的にも繋がり過ぎていて、1人で引きこもってコンテンツと静かに向き合うことが困難になっているのではないだろうか
 
 現在でも、強い意志でもってスマホの電源を切り、目当てのコンテンツとひたすらに向き合えれば、一応、引きこもったオタクライフは再現できなくもないかもしれない。だが、アニメ視聴やゲームプレイをスマホに頼っている場合はそうもいかないし、そもそも、強い意志とやらがいつまで続くのかは怪しいものである。
 
 「オタクは死んだ」とは何年も前から繰り返し語られていた言葉だが、こうやって考えてみると、「1人でコンテンツと向き合う愛好家としてのオタク」は本当に瀕死なのである。今、そういう意味でオタクと言い得るライフスタイルをやりやすいのは、SNSやインターネットと繋がりにくく、オフラインを前提とした趣味領域ではないだろうか。
 
 だが、残念ながら、長年にわたってオタクの象徴とされていたのは、アニメやゲームやライトノベルといった、『げんしけん』風に言うなら現代視覚文化の領域だったわけだから、こと、それらに限っていうなら、1人で静かにコンテンツに向き合う愛好家としてのオタクは絶滅の危機に瀕していると言って過言ではないだろう。