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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

アニメやゲームには体力が要る、それか私が歳を取っただけなのか

オタク趣味

 

 
 
 我が家では、アニメを前に全員が静まりかえっていることがよくある。
 
 大人も子どもも、固唾を呑んで「けものフレンズ」や「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」に魅入られ、ときおり、叫ぶようなコメントが部屋に響く。真剣に眺めている時間は、たぶん、貴重なものなんだろう。
 
 ただ、そうやって一生懸命にアニメを見ている時間は疲れる。精神力と気力を使い果たし、見終わった後にはドッと疲れが来る。ネット上のアニメ愛好家のなかには、“「けものフレンズ」と「鉄血のオルフェンズ」は正反対の作品”と言う人がいるし、言いたいこともわかるが、視聴後にクタクタになる点では似たようなものだ。すごく面白い、けれども面白いがゆえに、消耗する。
 
 同年代の人からは“まだアニメで消耗しているの?”と言われそうだが、ああそうだ、消耗している、消耗しているけれども面白いのだ。
 
 じゃあ、消耗しなさそうなアニメならどうなのか。
 
この素晴らしい世界に祝福を! 2第2巻限定版 [Blu-ray]

この素晴らしい世界に祝福を! 2第2巻限定版 [Blu-ray]

 
 「この素晴らしい世界に祝福を!2」は、のんびりマッタリとしたラブコメアニメだ。2期目ということもあってか、低予算アニメ路線で視聴者を楽しませるべく、いろいろ徹底している。まるで、呑みやすいビールのようなものだ。
 
 ところが、このラブコメを見ている時でさえ、つい、魅入られて、真剣になってしまう。声優さんの熱演、“待ってました!”と思わせる展開、ちょっとエッチでバカバカしいシーン、等々を眺めていると時を忘れる。肩肘張らずに楽しめるアニメのはずなのに、目が爛々としてくる。いけない。のめり込んではいけない!だがしかし!
 
 

ゲームでも消耗する

 
 少し前のブログ記事に、こんなものがあった。
 
mubou.seesaa.net
 
 
 リンク先の筆者の気持ちがわかる。私も、ゲームを「単なる暇つぶし」以上の何かとして遊んでいる。そう、ゲームを遊んでいる時の私はいつだって前のめりなのだ。
 
 そのかわりというか、そのせいというか、ゲームをきっちり遊ぶと、時間だけでなく精神力や気力もごっそり持っていかれる。ゲーセンのシューティングゲームやPCのシミュレーションゲームはもちろん、スマホを使ったゲームでもそれなり消耗する。「デイリーミッションだから消耗しない」なんてことはない。それはそれで、微妙にもっていかれるのだ。むしろ、隙間時間にゲームが侵入してきたことで、消耗の機会が増えた。
 
 

歳を取って衰弱しただけなのかもしれないが。

 
 私にとって、アニメやゲームは幼い頃から親しんだ長年の友だ。だけど、趣味生活にのめり込み、つい消耗してしまう自分自身を自省してみると、こんな事で良いのかと考え込んでしまう。
 
 20代の頃に比べれば、アニメもゲームも本数をそれなり絞っているつもりだが、それでも、加齢による衰弱、日常業務による疲労によって、アニメやゲームに押されていると感じる。それだけに、アニメやゲームをもっと厳選したい気持ちが湧いてくるけれども、これ以上本数を絞ると、今は聞こえてくる“オタクの声”が聞こえなくなるような気もする。
 
 所詮は勝ち目のない撤退戦なのかもしれないが、今はまだ“オタクの声”を捨てたくない。
 
 きっと、私よりも年上のサブカルチャー愛好家の人達も、こういう疲労や衰弱を実感しているはずで、先人の教えを乞いたい。ところが、加齢による疲労や衰弱と向き合ったサブカルチャーの先人達の溜息の痕跡をネット上で見つけるのは(わりと)難しい。疲労や衰弱に直面した先輩達は、この問題に、どう向き合っているんだろうか。
 
 

【たすけて!所属欲求!】3.SNS所属欲求の可能性と危険性

執着 汎適 本家アブストラクト

*所属欲求についてのブログ記事の連載は、これが最終回です。第一回から読みたい人は、こちらへ。*
 
 
 
 
 第二回で書いたとおり、(旧来の)共同体を介した所属欲求の充たし合いは減っていきましたが、SNSが広範囲に普及し、誰もがシェアやリツイート機能に慣れた2010年代に入ると、現代人のモチベーション源として再浮上する気配がみられるようになりました。
 
 SNSを介した所属欲求の充たし合いは、個人のモチベーション源となるだけではありません。体験を共有するためのシェアやリツイートは集団的な行動を促進し、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』に象徴されるような、大流行の成立を後押しすることがあります。と同時に、デマの拡散や偏った政治勢力の台頭を手伝ってしまうこともあります。
 
 今回は、そうした、SNSを介した新しい所属欲求の充たし合いがもたらす可能性と危険性について、『認められたい』に書いたことを踏まえながら紹介します。
 
 

インスタント・同時進行的に所属欲求が充たせるようになった

  
 SNSとスマートフォンの普及によって、従来の共同体とは比較にならないほど簡単に所属欲求を充たせるようになりました。以下に、その特徴を挙げていきます。
 
 
 1.しがらみ無く、所属欲求に慣れていない人でも所属欲求を充たせる
 
 もともと所属欲求は、生活環境や就労環境を共有した者同士で充たし合うのが一般的で、どこの誰とも知らない人間と所属欲求を充たし合う機会はあまりありませんでした。生活環境や就労環境の共有には、しがらみが付き物ですから、所属欲求を充たす際には、しばしば大小のストレスがついて回りました。
 
 ところが、SNSを介した所属欲求の充たし合いでは、そういったしがらみが最小化されます。相互フォローしあっているアカウント同士の間にしがらみが生まれることはありますが、それでも、従来の地域社会・学校・職場のソレとは比較になりません。まして、数万人~数十万人にフォローされているオピニオンリーダーの投稿をシェア・リツイートして所属欲求を充たすだけなら、しがらみは全く生まれません。
 
 『認められたい』で書いたように、所属欲求を充たし慣れていない人は、欲求を差し向ける対象への要求水準が高く、仲間意識を感じにくい傾向にあります。しかし、SNSには各方面のオピニオンリーダーが集い、また、彼らの選りすぐりの言動だけがシェア・リツイートされていくので、所属欲求を充たし慣れていない人(=要求水準の高い人)でもストレスフリーに所属欲求を充たせます。
 
 
 2.不満を感じている時も所属欲求を充たせる
 
 そのうえ、好きになったオピニオンリーダーが気に入らない言動をとった場合でさえ、SNSでは、その不満を持った他人同士で繋がりあって所属欲求を充たせます。
 
 有名人アカウントの炎上騒動などがまさにそうですが、「○○さんにはがっかりした」と感じる時には、同じような人はどこかしらにいるものです。そういう人同士が寄り集まって不満をシェアしたりリツイートしたりすれば、それはそれで所属欲求が充たされてしまうのです。
 
 「○○さんのファン」同士で仲間意識を持っていた者同士が、ひとたび不満を持つや、「○○さんに失望した者同士」で仲間意識を持ちあえって属欲求を充たせるのです! 手のひらを返したからといって、立場や責任を問われる心配もありません。状況がどう転ぼうが、セーフティに所属欲求を充たすことができます。
 
 
 3.空間的/時間的制約が少ない
 
 従来、所属欲求を充たし合うためには場所や時間を共有しなければなりませんでした。地元の祭りで御神輿をワッショイして所属欲求を充たし合う際はもちろん、たとえば贔屓のスポーツチームをみんなで応援する際なども、現場に行かなければ所属欲求は充たせませんでした。
 
 ところがSNSとスマホの組み合わせは、そういった制約を緩和してくれます。
 



 
 たとえば、金曜ロード―ショーの『天空の城ラピュタ』を観ながら皆と一緒に「バルス!」と書き込んで所属欲求を充たす時、大きなスタジアムや祭りの会場に出かける必要はありません。自室で寝転がってスマホをいじっているだけで、「バルス!」というコンテンツを共有し、仲間意識を持ち合っている現場に居合わせることができます。一般に、ひとつのスタジアムやコンサート会場に入場できる人数はせいぜい数万人程度ですが、SNSの祝祭には、入場・参加できる人数に上限がありません。
 
 『ラピュタ』の「バルス!」には時間的制約が伴いますが、大ヒット映画や大河ドラマの話題なら時間的制約を気にする必要は無く、スマホやPCを開くたび、感想を持った者同士で仲間意識を持ち合うことができます。お気に入りの作品が上映(放送)されている間じゅう、ファンは作品を介して仲間意識を暖めあい、所属欲求を充たし続けることができます*1
 
 
 
 
 1.2.3.に挙げた特徴は、これまでのネットサービスにもみられたもので、具体的には、2ちゃんねるの実況板やニコニコ動画などは、SNSよりも早くから所属欲求を充たし合えるサービスとして機能してきました。しかし、国民的な普及規模・タイムラインというインターフェース・スマートフォンによるモバイル性などを兼ね備えていたという意味では、やはりSNSが画期でした。
 
 SNSが普及してしばらく経ち、皆が馴染むうちに、SNSを使った所属欲求の充たし合いが一般化していきました。日本の場合、その時期は、例の「バルス!」が隅々にまで知れ渡り、陳腐化してしまった2015年前後だと私は思っています。これは、ネット炎上が世論を動かすようになり、SNS経由の口コミで爆発的ヒットが生まれるようになった時期ともあまり違いません。
 
 

インスタントな所属欲求の充たし合いは、心理的成長を阻害するかもしれない

 
 このようにSNSは、しがらみを最小化しながら、いつでも誰でも所属欲求を充たせる機会を提供しています。現に、SNSを使って繋がりあい、孤独な感覚を紛らわしたり、心理的に充たされていると感じたりしている人は少なくないでしょう。

 しかし、良い事づくめではありません。ネットで承認欲求を充たしまくっている人が、ときに堕落し、ときに破滅するのと同様に、ネットで所属欲求を充たしまくっている人も、ときに堕落し、ときに破滅します。
 
 「何でもいいから群れていれば所属欲求が充たせる」環境にスポイルされ続けていると、人は、どこまでも無責任になり得ます。所属欲求を充たせればなんでも良い人は、ある時は熱烈な“信者”として、別のある時には熱烈な“批判者”として、掌をクルクルと返しながら、SNS上で所属欲求を充たせてしまいます。もちろん、そうやってご都合主義的に所属欲求を充たしているだけでは、所属欲求への習熟*2に必要不可欠な、変容性内在化が起こりません。
 
 むしろ、SNSで所属欲求を充たし続けていると、変容性内在化とは反対のことが起こるかもしれません。もっと大きな集団に属したい、もっと純粋な意見に同調したい、もっとハイレベルなアカウントのハイレベルな意見に与したい……といった具合に、所属欲求の要求水準を吊り上げても、SNSにはどこかに受け皿があります。所属欲求を求め慣れていない人、つまり、要求水準の高い対象でなければ仲間意識やリスペクトを持てない人でも満足できるような、偉大で、崇高で、純粋で、巨大なイメージを引き受けてくれそうなアカウントがSNS上にはたくさんいます。もちろん、そういったアカウントの大半は、信者ビジネスで一儲けしようとしている悪漢や極端な思想集団だったりするのですが。
  
 SNSで人生がおかしくなる人というと、承認欲求を充たそうとして言動がエスカレートする人が連想されるかもしれません。が、SNSで所属欲求を充たそうとして所属対象がエスカレートする人も、信者ビジネスやカルト団体に呑み込まれるおそれが高く、それはそれで危ないのです。
 
 

SNS所属欲求がもたらす「分断」

 
 あくまで個人の欲求充足である承認欲求とは異なり、所属欲求は、人と人が繋がり、群れることによって充たされるものなので、規模が大きくなると社会的影響が無視できなくなります。政治運動や社会運動の主柱とはならなくとも、大量のSNSユーザーが繋がりあって仲間意識を持ち合う状況が続けば、世論を変え、ひいては社会にも影響を与えるでしょう。
 
 しかし、たとえば外国人を排斥しようというオピニオンに大量のSNSユーザーが集まってしまえば、それが世論の一翼を担ったり、そこまでいかなくとも、排外的な勢力の成立に力を貸してしまうこともあるわけです。社会を転覆させかねないオピニオンでも、一部の人々の権利や尊厳を奪うようなオピニオンでも、群れてしまえば所属欲求を充たせてしまうので、群れたい人々を止めるのは並大抵ではありません。
 
 [関連]:SNSは人を「繋げる」より「分断」している | Books&Apps
 
 上記リンク先でも触れたように、今日のSNSは、同調する意見同士を繋ぐには向いていますが、対立する意見同士がお互いの立場を慮りながら議論し、妥結点を見出していくには不向きと思われます。対立意見と苦労しながら相互理解をすすめようとしても、シンパからは評価されにくく、ときには「どうしてあんな奴とコミュニケーションしているんだ、お前も“敵”なのか」と言われてしまうかもしれません。そのような心配を冒すぐらいなら、同調する意見の持ち主同士でシェアやリツイートを繰り返していたほうが、気苦労も少なく、所属欲求も(おそらく承認欲求も)充たしやすいでしょう。
 
 少なくとも、SNSを利用するモチベーション源の多くが承認欲求や所属欲求な人の場合は、気苦労や心配を冒してまで、多様な意見に注意を払いながら振る舞おうとするインセンティブは、ほとんど無いと思われます。
 
 意見の近い者同士が同調的なシェアやリツイートを繰り返していれば、所属欲求が充たせて気持ち良く、それ自体は悪いことではありません。しかし、近い者同士で同調する方向にばかり動機づけられ、対立意見を持った人と相互理解するようには動機づけられないコミュニケーションツールが皆に利用され、それが世論を形成する一環をなしているとしたら、世の中の「分断」は促進されかねません。
 
 

砂上の楼閣も御神輿になる

 
 それどころか、所属欲求を充たすことが目的化してしまい、デマやウソを検証することなく、自分達のシンパに都合の良いメンションをどんどん拡散する人も見受けられます。
 
 東日本大震災の時も、2016年の政治イベントの時もそうでしたが、人々の大半は、メンションの事実性を検証してからリツイート/シェアを行うのでなく、所属欲求を充たし合うのに都合の良いメンションをリツイート/シェアしました。その後に事実性を確かめ、間違いを訂正したり反省したりするのはマシなほうで、多くの場合、事実の確認は永遠に見送られました――「これだけ沢山の人が支持しているんだから、間違いってわけがないだろ?」
 
 SNS上の事実とは、事実全体のなかからシンパにとって都合の良い部分を集めてパッチワークし、都合の悪いものは顧みない、そういう、選択的なものでしかないのかもしれません。
 


 
 アメリカでトランプ大統領が当選した前後、デマの拡散が問題視されました。これなどは、事実性の検証よりも所属欲求を充たし合うことを優先させがちな、いかにもSNSで起こりそうな出来事だったと言えます。しかし、事実性の検証を怠り、シンパにとって都合の良いメンションの拡散に励んでいたのは、トランプ氏とそのシンパだけだったのでしょうか。
 
 “事実のパッチワーク”を御神輿に、シンパ同士でリツイートやシェアを繰り返し、対立者を見下しながら所属欲求を充たし合うのは気持ちの良いことです。しかし、その気持ち良さに囚われずに考え・行動するのは、とても難しいことのように私は思います。
 
 

本当は怖い所属欲求

 
 所属欲求は、個人のモチベーション源となるだけでなく、人と人を繋げ、組織や共同体の下地となります。とりわけ、何かを打倒するために団結しなければならない状況下では、承認欲求には無いタイプの強みを発揮します。スポーツの対抗試合の盛り上がりや、戦禍に巻き込まれた国のナショナリズムの高揚などが、その良い例です。
 
 しかし、所属欲求にモチベートされた集団それぞれがひたすら内輪の仲間意識を優先させ、事実を軽んじ、対立者を軽蔑して話し合いを怠り続ければ、社会はバラバラになり、争い事が起こってしまいます。
 
 マズローやコフートの著作には、こうした問題の悪しき例としてナチスドイツが登場します。個人として承認欲求を充たすことが困難となり、ナショナリズムを介して所属欲求を充たすことも難しくなったドイツ人にとって、西側諸国にも強気で、パフォーマンスの派手な“愛国政党”は、所属欲求を充たしてくれる頼もしい集団とうつったでしょう。しかし、それに乗りかかってしまった人々は、大きな過ちを犯しました。
 
 ほとんどの人が 個人の承認欲求を主なモチベーション源として行動しているうちは、こうした所属欲求の危険性はあまり気にする必要がありません。しかし、モチベーション源としての所属欲求が再浮上し、それがそれが世論や政治に影響を及ぼすようなコミュニケーションの布置ができあがっているとしたら、所属欲求の長所だけでなく、短所やリスクも思い出しておく必要があります。
 
 『認められたい』についての補足説明のつもりが、風呂敷の広い話になってしまいました。ともあれ、所属欲求は承認欲求と同じぐらい重要な人間のモチベーション源なので、よく知って、よく“使って”いくのが望ましいと思います。承認欲求についてだけでなく、所属欲求にも注意を向けましょう。
 
 
 

認められたい

認められたい

 
 

*1:最近のアニメ映画にありがちな「リピーター視聴」には、作品のディテールを確かめるという意味合いだけでなく、ときに、作品を御神輿として所属欲求を充たすための手続きとしての意味合いもあるように私には思われます。

*2:=『認められたい』でいえば「レベルアップ」

読売新聞朝刊「よみうり堂」にて『認められたい』をご紹介いただきました

おしらせ

  

認められたい

認められたい

 
 
 本日、3月19日の読売新聞朝刊にて、拙著『認められたい』をご紹介いただきました。
 
 限られた時間のインタビューでしたが、「所属欲求を充たせる前提が失われて、承認欲求を充たさなければならない社会ができあがった」等、要点を押さえた内容になっていてびっくりしました。いつも思うんですが、新聞記者さんって、要点をおさえた短い文章をまとめる能力が凄いですね。見習いたいものです。
 
 ついでに、これまでに承認欲求や所属欲求について私が書いてきた過去記事の一覧、連載の一覧のリンクを貼っておきます。承認欲求や所属欲求についてもっと読みたい人は、リンク先を読んで回るといろいろと気付きがあるかと思います。『認められたい』の内容を理解する参考にもなるかと思います。
 
 
 【おもに承認欲求に関連して】
トラウマは本当に「ある」?/目的論・原因論どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる? - シロクマの屑籠
未熟な承認欲求、成熟した承認欲求 - シロクマの屑籠
結婚と承認欲求/所属欲求 - シロクマの屑籠
メディア。承認欲求。社会的成功。 - シロクマの屑籠
“承認欲求の流動食”に依存する人々 - シロクマの屑籠
ニコニコ生放送で脱いでも「救い」になんてなりませんよ - シロクマの屑籠
過剰なネット承認欲求と、神経の磨耗について - シロクマの屑籠
 
 
 【2014年に連載した承認欲求についての連載】
承認欲求そのものを叩いている人は「残念」 - シロクマの屑籠
承認欲求の社会化レベルが問われている - シロクマの屑籠
承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について - シロクマの屑籠
私達はどのように承認欲求と向き合うべきか - シロクマの屑籠
ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史 - シロクマの屑籠
私がネットで「承認欲求」を使おうと決めた理由 - シロクマの屑籠
 
 
 【現在連載している所属欲求についての連載】
【たすけて!所属欲求!】1.承認が足りないおじさん・おばさんは所属しろ! - シロクマの屑籠
【たすけて!所属欲求!】第二回:共同体消失と、SNSによる所属欲求の復活 - シロクマの屑籠
※第三回は3月21日以降に掲載予定です。
 
 
【おもに所属欲求に関連して】
それって本当に承認欲求?――群れたがりな私達 - シロクマの屑籠
足りないのは承認欲求?それとも所属欲求? - シロクマの屑籠
誰かを尊敬する力、他人に敬意を抱く力 - シロクマの屑籠
 
 
 
 おかげさまでご好評をいただいております。本屋さんで見かけたら是非、手に取ってやってください>『認められたい

 
 

【たすけて!所属欲求!】第二回:共同体消失と、SNSによる所属欲求の復活

汎適 執着 本家アブストラクト

 
 *現在、所属欲求についてのブログ記事を連載中です(全三回)。承認欲求はよくわかるけれど所属欲求はよくわからない人、『認められたい』の拡張パッケージ的な文章が読みたい人に、特にお勧めです。*
 
 
 第一回は、中年期以降まで見据えるなら、承認欲求だけでなく所属欲求もモチベーション源にして生きたほうがやりやすい、といった話をしました。
 
 また、承認欲求に過重がかかりやすくなってしまった時代背景として、所属欲求が軽視され、所属欲求を充たせるセーフティネットに相当するコミュニティが希薄化していった流れについても書きました。
 
 この第二回では、所属欲求を充たすための機会が一度希薄化し、2010年代になって一気に蘇った、そのあたりについて記します。
 
 

所属欲求に慣れる機会は遍在していた。が、ラクではなかった

 
 個人が独りで生き抜くことの難しかった江戸期後半~戦前の日本社会では、地域共同体や血縁共同体のメンバーシップの一員であることが重要でした。共同体への所属は、地元で生きていくのに必要不可欠な“立場”やスキルアップの機会を提供すると同時に、所属欲求を充たし慣れる機会をも提供していました。
 
 断っておきますが、「所属欲求を充たし慣れる機会がある」=「誰もがラクに所属欲求を充たせた」わけではありません。地域行事に必ず参加しなければならず、地縁や血縁のしきたり、上下関係に従わなければならなかったのは、けして楽ではなかったはずです。また、メンバーのなかには理不尽な年長者や意地悪な同輩といった人間もたいてい含まれていますから、それらとの付き合いに苦労することもあったでしょう。
 
 所属欲求を充たし慣れる機会の多い社会とは、否応なく所属欲求を充たしながら生きなければならない社会、それができなければ精神的/社会的にドロップアウトする危険の大きな社会でもあったわけです。

 個人単位で承認欲求を充たす意識や方法の乏しかった当時、所属欲求を充たせない境遇に置かれるのは、堪えたことでしょう。たぶん、承認欲求を主なモチベーション源としている人が承認欲求を絶たれるとすごく心が飢えるのと同様に、イエや地域を介して所属欲求を充たすことを主なモチベーション源にしていた人が所属欲求を絶たれたら、すごく心が飢えたのではないでしょうか。
 
 そのかわり、いくらか不満を感じる年長者やちょっとウマの合わない同輩ぐらいとならメンバーシップを共有できるよう、ほとんどの人がトレーニングされました。子守りも農業も冠婚葬祭も、なにもかもが地縁や血縁のなかで行われていた社会では、所属欲求を充たすことに習熟する機会が豊富でした。また、人的流動性が低く、メンバーが滅多に入れ替わらないので、対処の難しいメンバーに対しても、時間をかけて馴染んだり他の年長者から対応策を教わるだけの猶予がありました*1。馴染むための時間的猶予があった点は、臨機応変なコミュニケーションが苦手な人、たとえば新しいメンバーに馴染むのは苦手でも馴染んでしまえばうまくやれる人、口下手でも誠実で真面目な人には、有利に働いたことでしょう。
 
 

共同体の希薄化と、所属欲求の没落

 
 そうした、所属欲求に慣れやすい/慣れていかなければならない共同体は、時を経るにつれて、希薄化していきました。
 
 まだ、地域共同体で生まれ育った若者が大多数を占めていた高度経済成長期には、所属欲求は、人々のモチベーション源として、企業や地域を結び付ける重要なファクターとして機能しました。個人主義的なライフスタイルに憧れる人が増えてはいましたが、社員旅行や盆踊り大会が体現していたように、あるいは麻雀やボウリングの流行が示していたように、当時の壮青年は集団的なレクリエーションに対して積極的で、そもそも、娯楽や余暇の相当部分が独りでは遊べないレクリエーションによって占められていました。レクリエーションとは少し違うかもしれませんが、若者の政治運動が盛り上がったのもこの時期です。
 
 しかし、80年代にさしかかる頃から、こういった集団的なレクリエーションや運動はダサくて格好悪いものとみなされていきます。この世代の若者は『新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)』に象徴されるような、消費個人主義に適合したライフスタイルを志向し、「シラケ世代」「新人類」などと呼ばれました。そうした志向は、“トレンディ”な若者に限定されたものではなく、地域から乖離し、好きな趣味生活をひたすらに追究した若者*2とも共通したものでした。
 
 こういった個人主義的な若者が多数派を占めるためには、若者が独りで好き勝手なことをできるぐらいの、経済的余裕や空間的条件が揃っていなければなりませんでした。幸い、“一億総中流”と言われていた頃の家庭の大半には、子どもに種々のガジェットや子ども部屋を与えるだけの余裕がありました。また、塾通いや稽古事通いなどによって子ども同士のスケジュールが分断されやすくなったため、子どもが独りで余暇を過ごさなければならない時間*3が増えていきました。
 
 独りで過ごす時間が増え、その必然的帰結として、メンバーシップ意識よりも個人としての自意識が優勢な若者に対し、マスメディアは、モノやファッションを買い求めて自己演出する方法、つまり“恰好つけて承認欲求を充たす方法”をどんどん流し込みました。ファッション雑誌やDCブランドが全盛期を迎え、さらにバブル景気が重なり、そうしたモノやファッションを買って承認欲求を充たす手法は、年長者をも巻き込んでいきました。
 
 他方で、拘束力を伴った旧来の共同体は減り続け、たとえば、新興のニュータウンや高層マンションに生まれ、個人主義的なライフスタイルに忠実に育てられた子どもなどは、所属欲求を充たし慣れないまま成人することも珍しくなくなりました。“トレンディ”な若者は、いまだ土着性を引きずって群れている若者を「ツッパリ」「ヤンキー」と呼んで軽蔑し、時代遅れとみなしました。かつてはどこの学校にもありふれていた「ツッパリ」や「ヤンキー」はだんだん珍しくなり、と同時に、彼らを包摂していた地域共同体もますます衰退していきました。

 こうした変化の総仕上げとして、バブル景気が崩壊し、大企業の倒産やリストラの嵐が相次ぎました。自己責任論が台頭するなか、企業に所属意識やメンバーシップ意識を持つような、所属欲求をモチベーション源としたワークスタイルは完全に時代遅れになりました。飲みニケーションや社員旅行といった、メンバーシップ意識を前提とした“社内の付き合い”が敬遠されていったのもこの時期です。
 
 2000年頃、会社や組織に背を向けて自分自身の成果を追いかけたがる若者を「自己中心的な若者」とバッシングする向きがあったと、私は記憶しています。ですが、その背景として、そもそも所属欲求を充たせる/充たさなければならないような共同体が衰退し、子どもが独りで過ごさなければならない時間が増大し、老若男女がこぞって消費個人主義にのめり込んでいった、複数の社会変化があったことは踏まえておかなければならないでしょう。そのような変化のもとで育った若者達が、所属欲求よりも承認欲求を志向したライフスタイルと心理に傾いたのは、もっともなことだと私は思います。

SNSによって蘇った所属欲求

 
 かくして20世紀末~21世紀のはじめにかけて、日本人のモチベーション源は、所属欲求よりも承認欲求を充たす方向へと傾き続けていきました。自己実現や承認欲求をテーマにした書籍が毎年のように出版され、所属欲求は、体育会系の領域などを除いて希薄になる一方のようにみえました。
 
 しかし2010年代に入って情勢が変わってきたように思います。所属欲求を充たす新しい機会と空間を提供するようになったのは、インターネット端末、とりわけスマートフォンと、SNSです。
 
 ガラケーやmixi、スマートフォンやSNSが普及するにつれて、ネットコミュニケーションは日本社会全体に、着実に広まっていきました。2009年頃からはtwitterとFacebookが急伸し、のちにLINEが加わりました。はじめ、これらのツールに触れた人々は、こぞって「いいね」を求めて、つまり、承認欲求がモチベーション源となってコミュニケーションしているかのようにみえました。自分の書き込みを読んで欲しい、なにか反応して欲しいという気持ちがあればこそ、mixiのあしあと問題や、LINEの既読スルー問題なども話題となったのでしょう。
 
 ところが東日本大震災が起こった前後から、twitterやFacebookは、主義主張や立場ごとに寄り集まって意見をぶつけ合う、党派性を帯びたコミュニケーションの場としての顔貌を露わにしはじめました。

 原発を巡って、与野党を巡って、ジェンダーを巡って、表現規制問題を巡って、たくさんの人が「こちら側か」「あちら側か」にわかれて集団を形成しました。いや、集団未満と言うべきでしょうか。リツイートやシェアによって暫時的に繋がっただけの現象を集団と呼ぶのは――まして共同体と呼ぶのは!――私には過大評価のように思えるからです。

 とはいえ、リツイートやシェアには同調する者同士を集める強い力があります。もし、SNSに「いいね」ボタンしかついていなかったら、ひとつのアカウントが別のアカウントに承認される以上の展開は望めなかったでしょう。ところが、リツイートやシェアは、ひとつの投稿に集まる承認の上限を高めただけでなく、リツイートする者同士・シェアする者同士が同族意識や仲間意識をリアルタイムに体感できる、便利な手段*4だったのです。
 
 膨大なリツイートやシェアを伴った投稿やトピックスは、さながら、祭りの神輿やトーテムポールのような役割を帯びます。SNSとスマホの利便性のおかげで、いつでもどこでも誰でも、この所属欲求の祝祭に飛び込むことができます。自分では弁が立たない人、美しい写真やイラストを作れない人でも、リツイートやシェアをすれば集まりに加わって、所属欲求が充たせます。さしずめ「リツイートやシェアすることによって、“神輿”や“トーテム”をいつでもどこでも誰でも持ち上げてワッショイできる」、といったところでしょうか。
 
 たぶん、私達ネットユーザーは、「いいね」をもらうことによって承認欲求を充たしながらも、リツイートやシェアで所属欲求を充たせることに、だんだん気付き、味をしめていったのではないでしょうか。
 
 ネットを使った所属欲求の相互充当が、SNS以前に無かったわけではありません。趣味のオフ会、2ちゃんねるの実況板、ニコニコ動画のコメント弾幕などは、所属欲求を充たしやすい機会だったと言えるでしょう。しかし、これらはユーザー数においても拡散力においても今日のSNSに比肩するものではなく、社会全体に所属欲求を介した繋がりをつくりあげるほどのものではありませんでした。
 
 圧倒的な人数が利用し、いつでもどこでも誰でも承認欲求や所属欲求を充たせる手段として定着するには、SNSとスマートフォンの普及と、ユーザーの習熟を待たなければなりませんでした*5
 
 SNSによる所属欲求の相互充当があまねく定着した結果、私達はますます投稿やトピックスをリツイート・シェアするようになり、ときに、数千人~数万人単位で所属欲求の相互充当をかたちづくるようになりました。2016年に相次いだエンタメ作品の大ヒットや種々の炎上騒動などの背景には、SNSを用いて所属欲求を充たせる喜びを知り、それをもモチベーション源としながらコミュニケーションに時間を費やす現代人の社会適応の姿があります。
 
 20世紀後半から21世紀のはじめにかけて、多くの日本人は承認欲求に夢中になり、所属欲求を忘れかけました。しかし、社会的生物としてのホモ・サピエンスの性質が変わったわけではない以上、いつでもどこでも誰とでも所属欲求を充たせる手段が与えられれば、所属欲求がそれに即したかたちで復活したのは当然だったのかもしれません。
 
 なんにせよ現代人は、SNS上で所属欲求にも強く動機付けられながら群れ集い、旧来とは異なったかたちの世論、流行、党派性といったものを生み出すようになりました。次回は、そのような新しい所属欲求のかたちがもたらす、可能性と危険性について、述べてみる予定です。
 
 

認められたい

認められたい

 

*1:尤も、よその地域から嫁入りする女性に、そうした猶予があったのかは怪しいところですが

*2:のちに、彼らはオタク、サブカルと呼ばれるようになります

*3:たとえば塾帰りの時間のような

*4:あるいは導線

*5:日本においては、SNSを介した所属欲求の相互充当に皆が習熟していくきっかけとして、東日本大震災があったように思われます

【たすけて!所属欲求!】1.承認が足りないおじさん・おばさんは所属しろ!

執着 汎適 本家アブストラクト

*これから、所属欲求についてのブログ記事を連載します(全三回)。承認欲求はよくわかるけれど所属欲求はよくわからない人、『認められたい』の拡張パッケージ的な文章が読みたい人に、特にお勧めです。*
 

認められたい

認められたい

 
 

はじめに

 
 新著『認められたい』では、承認欲求と所属欲求について、なるべくわかりやすく解説したつもりです。それでも、よく見かける承認欲求という言葉に比べて、所属欲求という言葉はイマイチわかりにくい読者さんもいらっしゃったかもしれません。
 
 また、執筆段階では十分意識できていませんでしたが、最近、ネットユーザーのモチベーション源として、所属欲求が承認欲求に並ぶほど機能しているさまが捉えやすくなってきました。2010年代後半のネットユーザーは、明らかに、承認欲求と所属欲求の両方に強く動機づけられて行動しているようにみえます。
 
 そういった動向も踏まえて、もう少し所属欲求について書き足したい気持ちが堪えきれなくなったので、これから三回にわたって、所属欲求についての補足説明や今後の展望などについて記してみます。
 
 なお、この連載は『認められたい』が未読でも読めないことはありませんが、少し難易度が高いかもしれません。既読のほうが、絶対に理解しやすいと思われます。こちらを先にお読みになって興味を持たれた方は、本屋さんで『認められたい』を手に取ってみてください。
 
 

所属欲求とは

 
 所属欲求とは何か、ここでも振り返っておきます。
 
 所属欲求とは、心理学者のA.マズローが提唱した欲求段階説に登場する、人間関係にまつわる欲求のひとつです。
 
 マズローのモデルによれば、人間は、衣食住や身の安全といった基本的欲求が充たされると、ついで、人間関係にまつわる欲求を充たしたくなり、稀に、自己実現欲求に芽生えるそうです。
 

 
 人間関係にまつわる欲求は、マズローのモデルでは承認欲求と所属欲求に分けられています。承認欲求は、個人単位で褒められたい・注目されたい欲求、所属欲求は、誇れるメンバーシップの一員でいたい・敬愛する人と一緒にいたい欲求などです。
 
 マズローが活躍した1960年代のアメリカは、現在よりも地域コミュニティが機能していた“古き良きアメリカ”で、そういったコミュニティに属さず“根無し草”的に生きていける人がまだ少なかった時代でした。そのような時代背景があってか、マズローは、所属欲求を承認欲求よりも前段階の欲求として記しています。生まれながらにして誰もがコミュニティに属し、仕事や生活を支え合っていた社会では、たぶんそれが自然なことだったでしょう。日本でも、たとえば団塊世代の多くの人は、まず所属欲求ありきで年を取っていき、個人主義的な考え方とライフスタイルが浸透していくにつれて、承認欲求のウエイトの高いライフスタイルに移行していったように見受けられます。
 
 ただし、郊外化や都市化が進行した後の社会、たとえば1980年代以降の、日本の郊外などで生まれ育った子どもの場合は、この限りではありません。コミュニティへの所属がずっと希薄となり、親から個人主義的な考え方とライフスタイルを専ら叩き込まれて育った子どもは、むしろ逆で、スタンドアロンな承認欲求がデフォルトで、所属欲求が乏しい人が珍しくないよう見受けられます。
 
 そのことを踏まえて、私は、承認欲求と所属欲求の間に優劣はつけられず、育った環境や社会状況次第で、どちらが優勢になるのかが変化するという風に捉えています。と同時に、どちらか一方だけをモチベーション源として生きるのは難しく、『認められたい』で触れたように、どちらの欲求も、適切な経験を積み重ねて、適切なかたちにソーシャライズされていかなければ(=レベルアップさせていかなければ)、心理-社会的な適応が難しくなる、とも考えています。
 
 

思春期が終わった後に重要になる、所属欲求のアドバンテージ

 
 で、タイトルの「承認の足りないおじさん・おばさんは所属しろ!」について詳述していきます。
 
 承認欲求は、自分自身という個人に評価や注目が集めることで充たされることで専ら充たされる欲求で、これが、スキルアップのモチベーション源として重要なのは論を待ちません。
 
 ですが、そういった承認欲求を主たるモチベーション源としてスキルアップしやすく、それを生き甲斐にしていられる時期は、そんなに長くはありません。
 
 人間は、年を取っていく生物です。生物学的にも、社会的にも、老いていきます。経験の積み重ねによって老いをカヴァーできる部分もたくさんありますし、人は生涯かけて成長し続けていくものですが、後発世代の目覚ましいスキルアップを、朝日を仰ぐような気持ちで眺める日は、必ずやって来るでしょう。中年期以降の心理的成長のなかには、自身の衰えと向き合う姿勢や、自分よりも若い世代が台頭していくのを眩しく思い、見守り、祝福する姿勢も含まれて然るべきでしょう。
 
 そうでなくても、立身出世の限界、才能の限界、体力の限界、家庭の事情などによって、自分自身の栄達やスキルアップに集中できなくなる状況が起こりがちです。E.エリクソンは、中年期の発達課題を生殖性Generativityと位置づけ、問われるべき徳として「世話すること」を挙げましたが、これは、中年期以降の加齢の影響と社会的ポジションを考えると言い得て妙だと思います。自分自身の可能性の限界がみえてくるタイミングで子どもや後輩の世話や指導が期待されるようになり、年下世代にリソースを差し向けたほうが自分自身の成長よりも伸び幅があると感じたりもします。そこに、高齢者の世話や後見といった役割も入ってきます。
 

幼児期と社会 1

幼児期と社会 1

 
 だから「自分」「個人」という小さな器に固執するのでない限り、中年期は、自分自身以外の対象に気持ちを傾けたほうが手応えを実感しやすい時期と言えます。少なくとも、自分自身の成長に手一杯な思春期以前や、生命を保つのも大変な老年期以後に比べれば、そうでしょう。
 
 そんな境遇になった時、承認欲求しか眼中になく、自分自身が褒められたり評価されたりすることだけをモチベーション源にしていては、自分自身の伸びしろの限界に直面するばかりです。あるいは、子どもや年下世代を、自分の承認欲求を充たすための道具としてこき使う中年もいるかもしれませんが、そのような生き方は、いわば後発世代を食い物にして思春期の延長戦をやるようなもので、勧められたものではありません。
 
 いつまでも思春期が続き、いつまでも自分自身の成長やスキルアップに夢を託して生きていけるのなら、所属欲求をほったらかしにした、承認欲求に軸足を乗せっぱなしのライフスタイルも悪くないかもしれません。が、実際の人間はそうではないので、思春期においても所属欲求を完全に放棄するのでなく、中年期以降のモチベーション源として無視できないであろう所属欲求にもなんらかの形で馴染み、その充たし方を洗練させつつ(=レベルアップさせつつ)生きたほうが生きやすいはずです。実際、まずまずうまくやっている中年の大多数は、承認欲求と所属欲求をうまく折衷させながら生きている人々で占められているようにみえます。
 
 

「認められたい」でも梯子を外されたロスジェネ世代

 
 20世紀後半の日本は、大人も子どもも「自分」「個人」に向かって突き進みました。と同時に、エイジングの曖昧な、終わりなき思春期がいつまでも続くかのような気分が蔓延した結果、人々は承認欲求に根差したライフスタイルにしがみつき、所属欲求の必要性は語られず、古臭くてダサいものとみなしました。成人はコミュニティの希薄なマンションや郊外で“ニュー・ファミリー”を志向し、若者はワンルームマンションで好きなように暮らすのが“トレンディ”な、そういう状況が数十年にわたって続いたわけです。
 
 個人主義が浸透したこと自体は、私達には必要なことだったのでしょう。しかし、「個人」や「自分」に老若男女が固執した結果、「認められたい」という気持ちに占める承認欲求の割合は、高止まりし続けました。“ツッパリ”“ヤンキー”“体育会系”といった、所属欲求寄りの若者をダサいとみなす人達においては、特にそうだったと言えます。
 
 その結果、所属欲求という、承認欲求と同じぐらい重要なモチベーション源に不慣れなまま中年期を迎えてしまう……というのが、団塊ジュニア世代~ロスジェネ世代にありがちな心理的陥穽だったのではないでしょうか。
 
 「認められたい」の移り変わり、モチベーション源の移り変わり、という視点でみるなら、フリーターが流行語になったバブル全盛期も、自己責任論が台頭した就職氷河期も、内実はさほど変わっていなかったとも言えます。一貫して、承認欲求をモチベーション源としたワークスタイルやライフスタイルが若者に支持されていたと言って良いでしょう。
 
 しかし、そのような風潮の陰で進んだのは、「認められたい」を巡る大きな格差でした。経済面だけでなく心理面においても、持てる者が多くを掴み、持たざる者は持たなくなってしまいました。承認欲求中心なライフスタイルが流行ったとはいうものの、実際に社会的地位やスキルアップの勘所を押さえたのは、所属欲求の取り扱いに慣れている人々、つまり、同輩や先輩と心理的同盟を結ぶことにモチベーションを感じやすい人々でした。
 
 所属欲求を敬遠してきた者は、スキルアップのためのモチベーション源を、専ら承認欲求に依存せざるを得ません。企業も地域も所属欲求を充たしてくれない個人主義社会が到来した以上、所属欲求のセーフティネットに相当するものは存在しません。それによってしがらみが無くなり、自由になったのも事実ですが、集団に所属し、そこから心理的・社会的・技能的なメリットを汲み出す機会は、個人の意志と能力次第になってしまったとも言えます。
 
 所属欲求を充たす機会が乏しい人は、そのぶんも承認欲求で充たすしかありません。承認欲求がクローズアップされる社会の背景には、所属欲求を充たす意識と手段が減り、それによって、承認欲求に過重をかけざるを得ない人が増えた、という流れがあるように思います。この変化が、20世紀後半~21世紀初頭にかけての日本の社会病理を形づくった、おおきな要因になっていたのではないでしょうか。
 
 

所属欲求を諦めるのはまだ早い。

 
『認められたい』で記したように、所属欲求を充たし慣れていない人でも、なんらかの人間関係に所属意識を持ち続ければ、所属欲求を充たし慣れていく可能性はあります。なにせ、人間は太古から群れて過ごしてきたのですから、同胞意識を持ったり望ましいリーダーに率いられたりするのが心底嫌いな人は、そんなにいないはずです。欲求を充たし慣れているのか、欲求を年齢相応なかたちで充たすための適切な社会化(=レベルアップ)ができているかが問題なだけで。

 一般に、所属欲求を充たし慣れていない人は、やたらとハイレベルなメンバーシップや指導者を求めがちで、そのことが災いして、カルトな集団や教祖に吸い寄せられることがあります。カルトな集団のリーダーやメンバーは、そのような人を積極的に探しています。
 
 では、どうやってリスクを回避しながら、所属欲求に慣れていけば良いのでしょうか。
 
 『認められたい』では、その回答をH.コフートの提唱した変容性内在化という概念に求めました。つまり、お互いに百点満点とはいかない者同士でも付き合いが続き、そのなかで、ほどほどに「認められたい」気持ちが充たされていく体験を積み重ねることによって、所属欲求を充たし慣れていくのです。
 
 所属欲求を充たし慣れていない人、つまり仲間意識を持ったり誰かをリスペクトしたりする機会が乏しいまま成長した、たとえば『山月記』の李徴のような人にとって、ごく普通の同世代に仲間意識を持ったり、上司や先輩の良いところに着眼したりするのは、簡単ではありません。仲間意識やリスペクトを抱ける人間関係には、ときたましか遭遇しないでしょう。それこそ、李徴にとっての袁傪のように。
 
 ですがもし、そのような人間関係を掴んだら、なるべく短気を起こさず、簡単に相手を見限らず、長い付き合いを心がけましょう。自分だけ褒められたい・他人は自分を盛り立てるためのアクセサリだ、などと思うのはもうやめましょう。もし、それがあなたの今の本心だとしたら、それは、加齢に伴う衰えとともに中年期危機を招く危険な賭けだと私は思います。
 
 そうではなく、完璧とはいえない他人にも敬意を払いましょう。完璧とはいえない他人に敬意を払うことは、完璧とはいえないまま生きてきた自分自身に許しを与える道にも通じています。いろいろな意味で、他人に払った敬意は自分自身に返ってくるのです。
 
 今日では、オフラインの世界だけでなくオンラインの世界でも、「認められたい」を充たせるような人間関係が生じ得るようになりました。この文章をお読みの方は、きっとオンラインでもコミュニケーションしてネットコミュニティにも属しているでしょう。たとえば、はてなブログ-はてなブックマークから成る(株)はてなのコミュニティなどもそうです。もし、そういったコミュニティを見つけ、一目置き合えるようなアカウントや敬意を払えるようなアカウントと相互認識が芽生えたら、長くお付き合いしていただきたい、と思います。
 
 かく言う私も、たぶんそうやって、このネットコミュニティで所属欲求を充たしながらブロガーを続けてきたのだと思います。ときには怒り、ときには失望し、ときには喧嘩することがあっても、関係性が途切れなかったブロガーやブックマーカーのおかげで、私の所属欲求はいくらかなりとも成長したのだと思います。でも、それは一朝一夕にできたことではありません。古参アカウントの皆さんと長い歳月を共にし、オフ会でお目にかかることもあったからこそ、「雨降って地固まる」や「適度な欲求不満」を含んだ、所属欲求のレベルアップにつながる体験が成立したのでしょう。
 
 専ら承認欲求をモチベーション源にしている人のなかには、「駄目になったら、また別のコミュニティに行けばいい。他人は他人で俺は俺だ」的に、コミュニティに居つく機会や長く付き合う機会をぞんざいに扱って生きている人も少なくないように思います。しかし、それだけでは所属欲求を充たし慣れることはできませんし、承認欲求に過重がかかった状態が長く続いてしまうでしょう。属しているコミュニティ、仲間意識を感じられる同輩、敬意の対象にしている師匠や先生のたぐいがいるなら、大切にして欲しいと思います。
 
 所属欲求を充たし合えるような、敬愛の気持ちが通い合った人間関係とは、基本的に良いものです。お互いの承認欲求や所属欲求を充たし合える関係が長続きすれば、それらを充たすための適切な社会化も進んでいきます。所属欲求を充たし合うのに、遅いということはありません。承認欲求にとらわれ過ぎてキツいという人は、もうひとつの「認められたい」、所属欲求に着眼して、その充足と成長に心を傾けていただきたいと思います。