シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

コミュニケーションが変わると、「私」が変わって「社会」も変わる

 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章は、【現代社会では、「自分」や「私」のフレームワークが、スイッチひとつで切り替えられるような方向に変わってきているのではないか】といった主旨だ。
 
 

「ひとまとまりの自己」から「分人」へ

 
 スイッチひとつで切り替えられる自己、場面やコンテキストごとにキャラを切り替える自己については、かなり前からいろいろな指摘があった。
 
 

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 
 キャラを使い分ける子どもや若者については00年代から言及があったし、90年代にも、人間関係をデジタルに切り分け、場面やコンテキストごとに態度をスイッチさせるライフスタイルを指摘する向きはあったように記憶している。
 
 昔の農村のような、同じコンテキストを共有した者同士が常に顔をあわせて暮らすような生活では、場面やコンテキストごとにキャラを切り替えるような自己は生まれない。家庭でも、田圃でも、銭湯でも、村役場でも、顔を合わせる面子は決まっていて、お互いについての情報も十分すぎるほど共有されている*1。だから、「田吾作は、いつでもどこでも田吾作でしかない」。
 
 対して、都市や郊外の生活では、場面やコンテキストを一部しか共有しない者同士のコミュニケーションが頻繁に起こる。都市や郊外で育った子どもは、家庭・学校・塾・スポーツクラブ、それぞれでお互いについて知っている情報が違っていて、それに伴い、お互いの立ち位置やキャラも違ってくることを、だんだん意識するようになる。
   
 だから、団塊ジュニア世代あたりからは、「場面やコンテキストごとにキャラを変える自己」といった認識はそれなりあったろうし、そうした認識が浸透していなければ、たとえば、援助交際なども流行らなかっただろう。援助交際は、援助交際という状況や情報を、きちんと隔離しなければ成立しない。家庭・学校・塾・スポーツクラブに、“援助交際している学生”というキャラが漏れ出てしまえば、大変なことになってしまうだろう。だから援助交際は、場面やコンテキストがバラバラになる都市や郊外では成立するが、場面やコンテキストが単一の、昔の農村のような社会環境では成立しようがない。
 
 そこからさらに進んで、スイッチひとつでキャラやアカウントを切り替えられることが当たり前の時代が到来した。キャラの切り替えは、今まで以上に当たり前のタスクとしてこなされなければならない。
 
 センチメンタルなことを書くと、私は、「イド-自我-超自我」というフロイト的な精神モデルが割と好きだし、それに即して、自己をひとまとまりのものとして捉えるのが好きだ。ひとまとまりであるはずの自己が、分裂(splitting)したり解離(dissociation)したりする病的状態を目の当たりにしていたから、というのもあるだろう。
 
 また、どんなにキャラを切り替えたとしても、最終的には、そのキャラを動かす肉体や脳はひとつである以上、最低限の共通項は残る。どんなにキャラを切り替えていても、ほとんどの人は、複数のキャラやアカウントを使い分けても精神機能が崩壊しないような、精神の統合機能を保っている。
 
 そういったこともあって、私は、ひとまとまりの自己というモデルを信奉し、平野啓一郎さんの「分人」の話には、あまり肩入れしてこなかった。
 
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 
 ところが、私よりも若い世代の「自分」に対する言及のありようや、アカウントの運用状況などを眺めていると、若い世代は、私の世代よりも更に「分人」的で、ひとまとまりの自己にあまり拘っていないようにみえる。それでいて、精神機能が破綻しているようにもみえない。
 
 人間は、コンテキストの断片化にあわせて、どれぐらい「分人」的になれるものだろうか? もしなったとして、精神の統合のためにどのような機能が求められ、それに伴ってどのような「障害」が析出するのだろうか?
 
 そのあたりは私にはまだわからない。が、今まで以上に「分人」的なモデルに寄った社会状況が来ている、とは言えそうだし、そういう社会状況に適応できる人間が当面は幅を利かせるだろう、とも予測される。
  
 

スマホ・SNS以降の「私」や「社会」は……

 
 自己のありようや精神のありようは、ある程度までは生物学的に固定されているが、ある程度からは社会的・文化的状況によって左右される。なかでも、社会のなかで人と人がどのように繋がりあい、どのようにコミュニケーションするかが変化すると、それによって大きな影響を受ける。
 
 たとえば近世のヨーロッパでは、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすという習慣と、そのための空間設計が流行っていった。
 

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 個人主義が浸透していったこの時期に、「プライベート」な感覚が人々の間に広がって、それ以降、人々は今までよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになった。
 
 空間が変わったことによってコミュニケーションも変わって、「私」も「社会」も変わっていった。
 
 日本でも、高度経済成長期以降、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすライフスタイルが流行し、そのためのマイホームやワンルームマンションが売れまくった。子どもは子ども部屋で過ごすようになり、一家に一台だったテレビは個人に一台となった。日本人は、欧米人よりもずっと速いスピードで「プライベート」な感覚を身に付け、それまでよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになっていった。20世紀末の「自分探し」ブームや自己実現ブームも、そういった背景のなかで起こったものと捉えるべきだろう。
 
 で、21世紀の現状は、20世紀末ともまた違っている。
 
 ガラケーやスマホの普及によって、21世紀の人々は、自室を持たなくても「プライベート」な時間や空間を確保できるようになった。どこにいようが、誰といようが、携帯端末を覗き込んでいる間は、「私」は「私」でいられる。
 
 だがそれだけではない。携帯端末はSNSやアプリによって、つねに「私」と誰かを――つまり、「私」と「社会」を――繋ぎとめる。そういう意味では、携帯端末には「プライベート」とは言い難い別の側面もある。Facebook、Twitter、Instagram、ソーシャルブックマーク、等々でアカウントを使いこなしている「私」は、個人的なアカウントを運用しているという点では「プライベート」的だが、複数のアプリ上で、それぞれの場に溶け込み、適応しているという点では「プライベート的」ではない。むしろ、アプリを介して「場の一部」と化しているとも言える。控えめに言っても、写真や動画を共有して「いいね」やシェアをつけあっている時の「私」の意識は、独りで写真を眺めたり、独りでビデオを視たりしている時の「私」とは、相当に異なっている。
 
 かつて、空間が変わってコミュニケーションが変わったことに伴って、「私」や「社会」が変わった。そのことを踏まえて考えると、スマホやSNSの普及によっても「私」や「社会」は大きく変わると予測されるし、それらが普及して十年ちょっとしか経っていない現在は、変化の途上だと考えるべきだろう。
 
 20世紀までの「私」の感覚は、21世紀生まれの人達にはピンと来ない、注釈の必要なものに変わっていくように私には思える。そして、「私」と「社会」の繋がりかたや、境界線も、20世紀までとはだいぶ違ったかたちになるのではないだろうか。
 
 
 [関連]:p-shirokuma.hatenadiary.com
 

*1:もし例外があるとすれば、村祭りで何かの役を演じている時や、憑依が起こっている時や、崩壊的な精神病状態に陥っている時ぐらいだろうか

“承認ミニマリスト”というライフスタイル

 
togetter.com
 
 リンク先のtwitterまとめでは、「ミニマリストは、流通や情報の発達したテクノロジーに乗っかったライフスタイルで、脱-経済成長や脱-テクノロジー的なものではない」という佐々木俊尚さんのツイートに賛同の声が集まっている。
 
 対して、はてなブックマークには、いつものように色々なメンションがつけられ、目を楽しませてくれる。が、ミニマリストというライフスタイルが、流通技術や情報技術の発達に依拠していて、一見、モノの消費から遠いようにみえて、消費社会を突き詰めたようなライフスタイルであるという論旨は否定しようがあるまい、と私は思った。
 
 

「なるべく人間関係を持たずに承認を稼ぐ」

 
 それより、ふと思ったのは、「そういえば、ミニマリストの理屈って、人間関係とか、承認欲求とか所属欲求とか、そのあたりにも当てはまりそうだ」ということだった。
 
 ミニマリストがモノをたくさん持たずに生活できるのは、情報技術や流通技術が発展していて、いつでも・どこでもモノにアクセスできるからだ。そういう利便性がなければ、ミニマリストのようなライフスタイルは成立しないし、安定もしない。
 
 逆に言うと、いつでも・どこでもモノにアクセスできる環境が永遠不変である限り、ミニマリストというライフスタイルは理に適っている。モノをたくさん持たずに暮らすことは、整理整頓の問題や物理スペースの問題を解決できるという意味ではコスパが良い。社会全体にとってコスパが良いかどうかはさておき、少なくともミニマリスト当人自身は、モノを持たないことの恩恵に与れる。
 
 これと同じことが、「なるべく人間関係を持たずに済ませる人々」にも当てはまるのではないか。
 
 交通技術と情報技術がじゅうぶんに発展して、いつでも・どこでも他人にアクセスできるとしたら、人間関係は、どれぐらい必要だろうか?
 
 旧い社会では、人間関係と仕事や家族が密接に結びつきあっていて、人間関係を持たずに生きることは非常に困難だった。と同時に、その人間関係をとおして充たされるところの承認欲求や所属欲求は、友達関係の「つきあい」や共同体への忠誠といったものをメンテナンスしなければ充たしにくいものだった。
 
 旧い社会の人間が承認欲求や所属欲求を充たすためには、人間関係のメンテナンスという、重いコストを背負い続けなければならなかったわけだ。
 
 ところが、交通技術や情報技術が発展した現代では、人間関係のメンテナンスが必ずしも必須ではない。いや、現段階では、まだまだ仕事上の付き合いや友人関係といったものは重要だが、そういった既存の人間関係とはまったく無関係に、承認欲求や所属欲求を充たせる世の中になったのも、また事実ではある。
 
 そしてもし、既存のコネクションに頼らずに仕事が請け負えるとしたら。
 また、家族など要らないのだとするなら。
 
 ブログ、動画配信、Instagram、Twitterなどを使って、不特定多数から承認欲求を集めている人は少なくない。「認められたい」という気持ちを充たすためのメインの手段とまではいかなくても、“副収入”的に「いいね」を稼いで喜んでいる人なら、今日日はそれほど珍しくもないだろう。
 
 所属欲求も、いまではインターネットを使って簡単に充たせる。
 
 見ず知らずの者同士が寄り集まって、リツイートやシェアの輪が広がっていくのを眺めているだけで、私達は所属欲求を充たすことができる。誰かをみんなで炎上させたり、ネット上のムーブメントに乗っかったりすることで、いっそう所属欲求を充たすこともできる。
 
 もう一歩踏み込んで承認欲求や所属欲求を充たしたい人なら、オフ会で出会うという手もある。首都圏や首都圏に比較的アクセスの良い場所に住んでいる人なら、声さえかけあえばオフ会に出るのはたやすいことだ。
 
 なにより、こうしたインターネットを用いた縁は、人間関係をメンテナンスする必要が無い。もちろん、人間関係をメンテナンスして抱えたい人は抱えたってかまわない。だが、人間関係という、それなりに甲斐性がなければ続けられない重い荷物をわざわざ背負う必要は無いのだ。
 
 交通技術や情報技術がじゅうぶんに浸透したおかげで、なるべく人間関係を持つことなく承認欲求や所属欲求を充たす、いわば、“承認ミニマリスト”とでもいうべき生き方が可能になっている。
 
 

“承認ミニマリスト”の長所短所

 
 “承認ミニマリスト”の長所は、ミニマリストの人間関係版だ。
 
 つまり、インターネット等を介していつでも他人と繋がり、承認欲求や所属欲求を充たせるという前提にたって、人間関係をメンテナンスするコストを最小化できる。そのぶん、しがらみからも自由だ。自分の時間を、自分が考えたいように過ごすには、ある意味、最適なライフスタイルと言える。
 
 と同時に、ミニマリストが背負っている短所と同じような弱点を、人間関係の次元で背負うことになる。
 
 ミニマリストは、いつでも・どこでもモノにアクセスできるからこそ生活が成立する反面、ある日、災害等でモノにアクセスできなくなった場合には、モノを何も持っていないがゆえに真っ先に困窮してしまうだろう。モノへのアクセシビリティに高度に依存しているがゆえに、モノへのアクセスに少しでも支障を来してしまったら、ミニマリストはその影響を深刻に蒙ってしまう。
 
 “承認ミニマリスト”もそれと同じで、いつでも自分が承認欲求や所属欲求を充たせるという前提が成立しなくなれば、心理的に充たされない状態に陥ってしまうだろう。いつでも・どこでもネット経由で承認欲求や所属欲求を充たせるからこそ、心理的にやっていける反面、ある日、なんらかの理由でインターネットにアクセスできなくなったり、承認欲求を充たすための材料が無くなったりした場合、かなり困ってしまうのではないだろうか。
 
 私は、モノも人間関係も、ある程度は減らしたほうが生きやすくかろうとは思う反面、少なすぎてもいけないのではないか、とも思っている。テクノロジーの進歩によって、モノをたくさん溜め込んだり、人間関係をたくさんメンテナンスしたりする必要性が減っているのは結構なことだが、“なにごとも、過ぎたるは及ばざるがごとし”ではないか。それとも、こんな風に思う私は、旧い人間なのだろうか?
 
 いまどきの、インターネットで承認欲求や所属欲求を充たし慣れている人達が、このあたりをどう思っているのか、ちょっと気になる。
 

「あなたのセックスの正しさ」が問われる社会が近づいてくる

 先日、twitterのタイムラインで共感したくなる文章を発見した。
 


 
 私のセックス観も、これに近い。性行為がどうあるべきかは、カップルそれぞれが決めれば良いことで、自由なカップルの在り方、自由な性行為のありかたがあって良いはずだ、と私も叫びたくなる。
 
 

しかしプライベートな関係は、介入を受け続けてきた。

 
 だが、私達の社会の変化や常識の変化を思い出すと、「性行為はプライベートなカップルのもの」という現代の感覚が、いつまで通用するのか怪しく思えてくる。
 
 かつては、家庭の問題の多くがプライベートな問題として、当事者の自由に任されてきた。
 
 子どもをどういうやり方で躾けるのか。子どもをどのように取り扱うのか。体罰はどこまで構わないのか。子どもをどこまで労働に参加させて良くて、どこまで学校に通わせるべきか。
 
 こういったことに対し、表向きとして「今日の子育てはかくあるべき」というお題目があったとしても、行政機構や警察機構が介入する範囲は限られていて(介入できる手段や能力も限られていた)、そのような介入が常識だと考えている庶民は少なかった。
 
 ところが、歳月が流れるにつれて、「子育てかくあるべき」に対する行政機構や警察機構の介入は深まっていった。虐待やネグレクトへの介入がわかりやすいが、行政による、親子の細やかなチェック機構の発展などもそれにあたる。目が行き届くようになった・サービスが行き届くようになったと同時に、そのぶん、子育ては外部からの介入を許し、そこに頼るようにもなった。
 
 世の中の風潮や庶民の常識もそれに即して変わっていった。正しくない子育てを見かけたら行政的な介入をすべきだという感覚は、この数十年の間に、進歩的な感覚から常識的な感覚に変化した。今、子育てに対する諸介入に疑問を感じたり、あまつさえ反発を感じたりすれば、その人は非常識で「正しくない」人とみなされるだろう。
 
 このように、きわめてプライベートな営みだった子育てに対する、「正しくあるべき」という常識感覚がいつの間にか浸透して、「正しくない」子育ては介入や矯正の対象、あるいは懲罰の対象とみなすのが当然になった。こういう数十年来の流れを振り返ると、子育ての例を追いかけるように、「正しい」性行為が浸透していく可能性もけして低くないと、私は想像せざるを得ない。
 
 
 「ピピーッ!あなたは手順通りにセックスしていません!いきなり異性の服に手をかけてはいけません!いきなりキスをせがんでもいけません!」
 
 「同意書を書く前の“ちょっと休憩していこう!”はパートナーに対するセクハラです!事前に性行為同意書を必ず書きましょう。」
 
 「性行為同意書に連名のサインをして、“当局”に届け出るまで、性に関連した行為はすべきではありません。」
 
 こういった「正しさ」は、2017年の性行為には求められない。手順通りにセックスしなければならないと思っている人はいないし、カップルの関係性いかんによっては、部屋に入るなり異性の服に手をかけるとか、いきなりキスをせがむといったこともあるだろう。なにより、性行為同意書なるものを連名でサインして、“当局”に届け出なければならないと思っている人はいるまい。
 
 だが、私達の常識が変化し、それとともに社会も変われば、プライベートな性行為に「正しさ」が求められる可能性はあり得る。性行為への介入・摘発・管理といったものが進み、そのことに誰も疑問を感じなくなり、子育て同様、「正しくない性行為を防止するために、介入があったほうが良いに決まっている」が常識感覚になってもおかしくはない。そして、
 


  
 ここで藤沢数希さんがtwitterに書いているように、「正しくない性行為」に該当する描写は、映画やドラマから消えていくのだろう。
 
 

カップルの権力勾配問題

 
 ところで、「正しくない子育て」に行政機構や警察機構が介入しなければならなかった背景のひとつとして、「親子間の権力勾配」があった。
 
 一般に、家庭において強い立場なのは親で、弱い立場は子どもだ。子どもを虐待したり教育を受けさせずに労働を強制させたりする親がいたとしても、家庭が治外法権では子どもの諸権利は守られない。あらゆる家庭の子どもの諸権利を守るためには、プライベートという名のもとに介入を免れていた家庭に、行政機構や警察機構が介入できるような仕組みや、正しい子育てに関する常識感覚の浸透が必要になる。
  
 同じ論法で性行為について考えるなら、「男女間の権力勾配」は存在するのだろうか?
 
 もし、カップルの間に権力勾配が存在すると想定するなら、「正しい子育て」にいくらか近いかたちで「正しい性行為」への介入や常識感覚の浸透が起こるだろう。「あらゆるカップルの、弱い立場の側の諸権利を守るために」。
 
 


 
 カップルとは男女ばかりとは限らないし、必ず男が強くて女が弱いとも限らないから、5mmさんが書いているような捉え方のほうが適切か。
 
 カップル内の権力勾配にはいろいろなかたちがあり、必ず平等というわけではない。カップル双方の権利を守るという一事にこだわるなら、権力勾配にもとづいた依存や搾取を含んだカップルには介入や摘発が行われなければならないし、性行為もまた、そのような懸念を外部に与えない、「正しい」かたちをとらなければならなくなるだろう。そのことがみんなの常識感覚になった時点で、性行為の「正しい」社会ができあがる。
 
 こうした「正しさ」を性行為に追求していくと、ますますもって性行為とは、あるいはカップルのマッチングとは、面倒なものになるだろう。最近の男女は交際しないといわれるが、男も女もむやみにカップルをつくらず、人間の相手をしないほうが気楽という風潮がますます広まるかもしれない。
 
 だが、権力勾配にもとづいた依存や搾取が疑われる性行為を撲滅するという、正しいに決まっていることを推進するためなら、そういった面倒さや億劫さを引き受けるのが、市民として正しいあり方なのだろう。……たぶん。
 
 正しい子育て。正しいセックス。正しい社会。
 
 「あなたのセックスは正しくない」と言われる社会ができあがるまで、あと何年ぐらいだろうか?
 

発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない

 
 精神医療が世の中を変えて、世の中が精神医療を変えていく。
 
 そういう視点で、精神医療と世の中の相互作用を眺めていると、つい、ブロガーっぽいことを考えたくなる。
 
 
1.昔の精神医療には「狂気」しか無かった。
 
 「発達障害」も「社交不安性障害」も「境界性パーソナリティ障害」も昔は存在していなかった。今日ではよく知られている心の病気が出揃ったのは、20世紀になってからのことだ。
 

 十八世紀には、たったひとつしか心の病気が存在しなかった。狂気 insanity である。狂気という診断が意味していたのは、今日の臨床家が精神病という語で意味しているもの、あるいは口語的に「狂った crazy 」と言われているものだった。「狂気」とは、多くの場合妄想や幻覚を伴ったり、重いメランコリ―や高揚状態を伴うなど、患者が現実となんらかのかたちで接触を失っている状態のことを意味していた。
(中略)
 狂気というひとつの病気だけが存在するというこの単純な疾病分類は、十九世紀の大半を通じて米国とほとんどのヨーロッパを支配下においた。
 ナシア・ガミー『現代精神医学原論』 より引用

 
 心の病気が「狂気」ひとつだった頃、メンタルヘルスの問題として治療の対象になっていたのは、かなり重症の「狂気」に該当する、比較的少数だった。しかも、すべての「狂気」が精神医療を受けているわけではなく、「狂気」の多くは街に存在し、放浪者の群れ、居酒屋の酔客の殴り合い、路上での痴話ゲンカといった風景のなかに含まれていた。
 
 医療制度や福祉制度が弱く、警察力も行き届かなかった過去の社会では、「狂気」という単一の分類でもおそらく十分だったのだろうし、そこまで絞ってすら、すべての「狂気」を手当てする見込みが無かったのだろう。
 
 黎明期の精神医学は、未来への発展可能性という意味では疑いなく重要だった。だが、当時の世の中を塗り替えるほどの影響力があったとは、考えにくい。
 
 ところが、19世紀に統合失調症*1が発見されたのを皮切りに、「狂気」は細かく分類されはじめた。今日、精神疾患として知られている諸々の原型は、20世紀の中頃までにはだいたい発見されて、研究家によって詳しく書き残された。なかでも、治療方法や治療の見通しについて大きな違いの見出せるいくつかの精神疾患が注目されていった。
 
 80代ぐらいの大先輩から昔話をうかがうと、昭和時代の精神科医は、3つか4つの病名に分類できれば、だいたい間に合ったらしい。
 
 つまり、統合失調症、躁うつ病(うつ病含む)、神経症の3つ、あるいは、癲癇(てんかん)を加えて4つ、ということだったらしい。
 
 20世紀の中頃から、精神医学の世界でも有用な薬物が発見されはじめた。が、抗うつ薬や抗精神病薬や抗てんかん薬は、こうした分類に概ね収まるものだった。そして、精神医療を実際に受ける人の割合は、まだまだ少なかった。
 
 
2.ところが20世紀の後半あたりから状況が変わっていく。
 
 これまでのシンプルな分類には当てはまらない、しかし当人や周囲が困り果てて精神医療の門をノックする人の割合が、少しずつ増えていった。
 
 たとえば、境界性パーソナリティ障害などもそれにあたる。
 
 人間関係が不安定で、衝動的で、情緒も安定しない――境界性パーソナリティ障害のような人物像はとりたてて新しいものではない。太宰治はそれに近いし、ドストエフスキーの作品にもそれらしい人物像が描かれている。
 
 だが、そのような人物が精神医療の門をノックすれば、それは「患者」や「症例」となり、病気として認識されることになる。この、新しい治療ニーズに応じるべく、精神科医は研究を重ね、疾患概念を確立し、知識を広めていった。
 
 日本でも、1980年代には、この境界性パーソナリティ障害*2が知られるようになり、90年代後半の心療内科ブームを経て一般にも広く知られるようになった。「ボダ」というネットスラングが生まれたのも、そういった経緯の延長線上にある。
 
 うつ病や神経症と同じ手当てが通用しない、しかし20世紀後半の社会には適応しにくい境界性パーソナリティ障害のような病気を、新しい病気として定義し、手当てを確立していったのは、世の中に対する精神医学の貢献だったと私は思う。
 
 社交不安性障害(SAD)などについても同じことが言える。人的流動性が高まり、産業の大黒柱がサービス業となった社会状況のなかで、コミュニケーションに際して動悸や不安が生じる病気をピックアップし、SSRIや認知行動療法で手当てしていけるようになったのは、精神医学の面目躍如といえる。
 
 このように、新しい病気が治療の対象となり、それらが世の中に広く知られるようになって、より多くの患者さんが適切な手当てにアクセスできるようになった。統合失調症やうつ病も、早期発見・早期治療の合言葉のもと、重症になるまで放っておかれる人が減少し、より多くの人が精神医療を受けるようになった。これらは、「受診した患者さんの生活の質に貢献する」という医療の原則にも合致しているし、社会全体の経済生産性にも貢献しただろう。
 
 
3.しかし、本当に良いことづくめだったのだろうか?
 
 さきに書いたように、「受診した患者さんの生活の質に貢献する」という点では、精神医療は良いことをしてきたし、診療の現場では、目の前の患者さんに貢献すること以外は考えなくても構わないと、私は思う。
 
 では、精神医療とは無関係に街で暮らしている人や、世の中全体にとっても、これは良いことづくめだったのだろうか?
 
 「世の中が変わって、それに伴って新しい治療ニーズが生まれて、それで受診した患者さんの生活の質に貢献できるなら、良いことに決まっているじゃないか」と人は言うかもしれない。
 
 然り。
 
 世の中が変わって、それに伴って治療ニーズが生まれて、それで患者さんの生活の質が向上すること自体は、良いに決まっている。
 
 ここで私がちょっと引っかかっているのは、世の中の変化にあわせて新しい治療ニーズが生まれ、境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害といった病気が広く知られるようになったことをとおして、世の中の常識や人間観が精神医療によって修正を受けているんじゃないか、というものだ。
 
 この引っかかりを、もう少し疑い深い路線にすれば、「精神医療のシステムが、世の中の常識や人間観をコントロールしているんじゃないか」となろうし、もう少し控え目な路線にすれば、「精神医療のシステムは、世の中の常識や人間観の変化をブーストしているのではないか」となるだろう。
 
 まだ、境界性パーソナリティ障害も社交不安性障害も知られていなかった時代、たとえば1980年頃のことを思い出してみて欲しい。
 
 世の中には、それらに相当する人がまだたくさんいて、その大半は精神医療を受けていなかった。その状況を、「精神医療が行き届いていなかったから、生活の質の低い状態に甘んじていた」ということもできよう。だが、正反対に考えるなら、それらに相当したとしても社会に包摂されていたということでもあり、それそのままでも生きていけた、という見方もできるのではないだろうか。
 
 たとえば昭和演歌の歌詞を思い出してみて欲しい。今にして思えば、昭和演歌で歌われるロマンは、境界性パーソナリティ障害、アルコール依存症、共依存といった、現代では精神医療と馴染みの深いもので満ち溢れていた。
 
 いや、演歌に限らず、たとえば尾崎豊の『15の夜』にしても、チェッカーズの『ギザギザハートの子守歌』にしてもそうだ。心療内科が一大ブームになる以前の歌謡曲には、今だったらメンタルヘルスの病気とみなされそうなフレーズがゾロゾロと出てくるが、そういった歌はたくさんの人に支持されていた。特定のニッチがそうなのでなく、テレビや有線放送のメインストリームとして、今だったら精神医療を連想させるような歌詞がどんどん流れ、みんながそれを当たり前のものとして受け取っていた。
 
 80年代においても、『15の夜』や『ギザギザハートの子守歌』で歌われていた人物像は、社会適応の雛型から遠かったに違いない。演歌に出てくる人物像も同様で、手堅い生き方をしている人達からみて、眉を顰めるような人物像だったには違いない。
 
 それでも、社会はそのような人々を含んでいたし、そのような人々がそれそのまま社会に存在することに、誰も疑問は感じていなかった。ましてや、精神の病気として治療が必要だと考える人は、一部の精神科医をのぞけば非常に少なかっただろう。
 
 しかし、精神医療の新しいニーズが世の中にどんどん浸透し、境界性パーソナリティ障害などが病気として広く知られるにつれて、そのような人々は医療機関を受診するようになり、診断を受けるようになり、治療を受けるようになった。やがて社会は、そのような人々が医療機関を受診するのが望ましい、いや、未受診・未治療であるのはおかしい、とみなすようになった
 
 「あなたは情緒が安定していない。だから精神科や心療内科に行きなさいよ」「これは心の病気だから、治療を受けて治す必要があるね」――こういった台詞の該当範囲が、重い精神病の領域から、かなり軽く、かなり広い範囲に広がっていったのである。
 
 そして、心の病気の該当範囲が広がって、そのことが周知徹底された結果として、心の病気に該当しない範囲は相対的に狭くなった。もはや、昭和演歌や『15の夜』の歌詞のような人物像は、それそのままで社会に存在することを許されない。
 
 誤解を受けたくないのでしつこく繰り返すが、私は、新しい病気が治療の対象となり、それらが広く知られるようになり、より多くの患者さんが適切な手当てにアクセスできるようになったこと自体は良いことだと思っている。
 
 また、こうした変化が、精神医療の活動だけによってもたらされたと主張したいわけでもない。
 
 こうした変化をもたらした要因としては、都市化や郊外化、人的流動性の高まり、個人主義的イデオロギーの浸透、ライフスタイルの“先進国化”といった、世の中そのものの変化による影響のほうが大きいと見積もるのが筋だろう。
 
 とはいえ、変わりゆく世の中に歩調を合わせるように、精神医療は次々に新しい病気をクローズアップし、世の中に知られるよう努力し、治療ニーズを開拓していった。そして、境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害といった病気がみんなに知られるようになると、それらに該当する人をそれそのままに社会のなかで受け容れるよりも、治療を受けるのが望ましいように、常識や人間観が変わっていった。こうした変化を促したという点において、精神医療は、変わりゆく世の中の変化に加担したと言えるし、現在の私達の常識や人間観をかたちづくる重要な一要素になったとも言える。
 
 境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害などを誰も知らなかった時代には、もう戻れなくなった。
 
 
4.そして21世紀の日本では、発達障害がトピックスとなった。
 
 自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害を含む)も、注意欠陥多動性障害(ADHD)も、病気としての概念自体は20世紀のうちに存在していた。が、診断されることは比較的稀だった。これらの発達障害に該当している人のうち、当人や周囲が困り果てて精神医療の門をノックする比較的重症な患者さんについても、統合失調症や境界性パーソナリティ障害といった他の診断名で対処されていることが多かったといわれている。
 
 だが、発達障害がにわかにトピックスとなり、日本全国の精神科医が積極的に診断と治療に取り組むようになると、ASDとADHDの診断頻度はものすごい速度で増加した。メディアでも啓蒙活動が盛んに行われ、これらの病名は、非常に有名になった。今までは男性に多いと思われていたASDやADHDが、実は女性にもかなり多いことも判明した。
 
 ASDやADHDがトピックスとなり、みんなに知られるようになっていった背景には、精神医療の進歩だけでなく、21世紀の人々が社会適応するためのハードルが20世紀よりも全般的に高まり、一部のホワイトカラー層にだけ求められていた資質が、より多くの人々に求められるようになった、という変化があるだろうとは思う。少なくとも、ことの始まりに関しては、この両者だけでほとんどの説明がつくはずだ。
 
 しかし、燎原の火のごとく病名が広まり、たとえば、空気を読めないクラスメートを高校生が「アスペ」などと呼ぶようになり、夫婦間のディスコミュニケーションはカサンドラ症候群ではないかと積極的に疑われるフェーズに入ってからは、それだけとも思えない。ASDやADHDに該当する人は、まず診断・治療を受けるべきと誰もが思うようになったことによって、(特に軽度の)ASDやADHDに相当する人がそれそのままに社会のなかで受け容れられる可能性はむしろ低くなったのではないか?ますますもってASDやADHDを精神医療が引き受けなければならない、診断や治療をしなければならない、一種のマッチポンプ現象が起こっているのではないだろうか?
 
 個別の患者さんがASDやADHDと診断され、それに見合った手当てを受けたり処世術の再構築を期したりするのは良いことである。とりわけ、ASDやADHDに該当する子どもが早々に発見されて、養育が工夫されたり治療が導入されたりすることには大きな意義がある。
 
 しかし、そのことは別にして、ASDやADHDにぎりぎり該当する人までもが次々に精神医療の対象となり*3、誰もがASDやADHDを病気として認識するようになって「あなたは空気が読めていない。だから精神科や心療内科に行きなさいよ」「不注意で落ち着きが無い子だから、治療を受けて治す必要があるね」とみなすようになった社会は、果たして、ASDやADHDに該当する人が、それそのままに社会のなかで受け容れられやすい社会になったと言えるのだろうか?
 
 1980~90年代において、空気が読めないこと・落ち着きが無いことは、精神医療に直結する問題ではなかった。今だったらASDやADHDと診断されるような人々も、当時の社会に適応するのに苦労はしていただろうし、当時だったら、たとえば「オタク」というレッテルを貼られて敬遠されるぐらいのことはあったかもしれない。だとしても、空気が読めないこと・落ち着きが無いことが病気に直結することはなく、そのような人は、社会のあちこちにそれそのままに暮らしていたように記憶している。
 
 私が通っていた小学校や中学校、私が属していた地域社会にも、今にして思えばASDやADHDに該当する生徒はそれなりいたが、苦労しつつも、学校や教師や地域は彼らを包摂していた。彼らは変わり者や困り者と思われていたかもしれないが、病気だとは誰も思っていなかった。
 
 だが、今はそうではない。誰もがASDやADHDといった病名を知っているし、それらが社会適応にどんな問題を引き起こすのかも周知されている。そういった病名が知られていったプロセスのなかで、精神科や心療内科を受診した患者さんそれぞれに福音があったのは間違いなかろう。それは基本的には良いことで、必要なプロセスだった。だが、病名がみんなに知られて、それらが社会適応にどんな問題を引き起こすのかも周知されてしまったことによって、ASDやADHDは、いよいよもって、診断・治療されなければならない病気になってしまった
 
 今日の社会では、精神科医だけでなく、みんなが発達障害に敏感だ。
 
 乳幼児期のスクリーニング検査に引っかからないような、比較的軽めのASDやADHDの生徒が、中学校や大学の先生に指摘されて、受診するようになった。
 
 会社の上司や同僚に「発達障害ではないか」と言われて受診する人もいる。二十代のASDやADHDの若者が不適応を起こして受診するばかりとは限らない。五十代六十代の人生のベテランが、肩を落として精神科の門を叩くこともある。
 
 また、ASDやADHDは夫婦関係の大きなハードルとしてすっかり知られるようになった。伴侶が発達障害であることを知って、それにうまく対応する夫婦もいれば、伴侶が発達障害であることを知って、そこから離婚に至る夫婦もいる。
 
 しつこくて恐縮だが、ASDやADHDが病気として知られるようなって、医療や福祉の手が差し伸べられるようになったことは、個々の患者さんにとって良いことだし、ASDやADHDが病気とみなされ、配慮が必要とみなされるようになったことによって得られるメリットは確かににある。
 
 しかし、ASDやADHDが病気とみなされ、配慮されるようになったということは、ASDやADHDが病気とみなされなければならなくなったということ・配慮されなければならなくなったということと、同時進行だったことを、ときどき思い出しておいたほうが良いのではないだろうか。
 
 発達障害のことを誰もが知っている社会ができあがればできあがるほど、発達障害に該当する人は、精神医療による診断と治療を免れたまま、それそのままに暮らすことが難しくなっていく。変わり者や困り者と思われながら包摂されることも難しくなる。かわりに、発達障害の人は精神医療を受け、医療や福祉の手当ての対象となり、発達障害という診断を前提として社会に受け容れられることとなる
 
 このような大局的な変化は、どこまで良いことで、どこからまずいことなのだろう? そして今まで発達障害と診断されてきた人はともかく、これから発達障害と診断されるであろう人、あるいは発達障害と決して診断されることのない人に、どのような社会的影響を及ぼすのだろう?
 
 なにより、この現在進行形の変化は私達の社会の常識や人間観をどのようなものに変えて、心の病気に該当しない範囲は、これからどうなっていくのだろうか。
 
 
5.白衣を着ている時、私が考えていることは単純だ。
 
 目の前の患者さんにとってのベストを考えること。目の前の患者さんの生活の質の向上や社会適応のお手伝いをすること。精神科医としての診断技能や治療技能は、そのためのツールだし、そこに疑問や不安は存在しない。学界の指導に従いながら、精一杯のことをするだけだ。
 
 だが、白衣を脱ぎ、社会の常識や人々の人間観の移り変わりについてブロガーとして考える時、私は、精神医療という大きなシステムと、社会という更に大きなシステムとが影響を及ぼし合った結果として、どのような相互作用が起こるのか、つい考え込んでしまうし、疑問や不安が生じることがある。
 
 社会は、構造化された診療面接や、医療者の善意や、操作的診断基準の理念のとおりにはできていない。社会の常識や人間観は、精神科医の思惑通りにではなく、社会との相互作用に沿ったかたちで変わっていく。何かを診断すること・何かを名付けること・何かを知らしめることは、医学的・経済的利益だけをもたらすわけではない。社会に広まれば広まるほど社会的影響をも呼び起こし、それが明日の社会のかたちを、ひいては未来の人間が社会に適応するために必要とされるものをも変えていく。
 
 精神医療は、ミクロな個人にも、マクロな社会にも、多くの貢献をしてきた。そのことを疑う必要は無いし、これからも多くの貢献が為されるだろう。ただし、たくさんの良い事を為せば、それに付随して、ひとつやふたつの瑕疵、あるいは副作用のような変化がついてまわるのが世の常でもある。

 つまり、発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れないのだ。

 精神科医としての私は、これからも目の前の患者さんにとってのベストしか考えないが、ブロガーとしての私は、社会の常識や人間観の変遷について、過去と未来をもっと見つめて、もっと勉強したいと思う。
 
 

*1:昔の呼び方で言う、分裂病

*2:厳密に言うと、当初は境界性パーソナリティ障害ではなく、境界例、あるいは境界線例というべき、もう少し広い疾患概念だった。

*3:注:ここで、ASDやADHDがスペクトラムという概念であることを思い出しておいていただきたい。

テキストサイト~はてな村の思い出(シロクマ編)

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 今朝は紅茶を飲みながら、優雅な土曜の朝を過ごしていたが、インターネットに「集会!」の狼煙があがっているのを見つけてしまい、今、キーボードを叩いている。
 
 id:orangestarさん、つまり、小島アジコさんが語ったテキストサイト~はてな村~はてなブログの記憶は、だいたいあってると感じるが、ところどころ私の記憶と食い違ってもいる。それは当然だろう。あの頃から既に、インターネットは広大で、ニッチは細分化されていて、アジコさんが見聞きしたインターネットと、私が見聞きしたインターネットは違っていたのだから。
 
 けれども、こういうテキストサイト老人会みたいなイベントが起こり、はてな村の古いアカウントが集まりそうなネットの風が吹いた日には、みんなの思い出話を並べて、読み比べることができる。ひとつひとつの思い出話は食い違っていても、当時を思い出す一助にはなろうし、小さな物語が寄り集まって、インターネット・サーガができあがるのだろうと思う。
 
 というわけで、アジコさんに便乗して、私なりに、テキストサイト時代~はてな村時代~はてなブログを使用している現在までを回想してみる。
 
 

テキストサイトと私

 
 テキストサイト。
 
 わかったような、わからないようなインターネットの文化圏だが、それが、ひとまとまりのコミュニティ=カルチャーだったのは間違いないと思う。アジコさんがおっしゃっているように、それはreadmeにだいたい登録しているものだったと思うし、readmeについてグダグダと言及しているテキストサイト運営者はそれなりに見かけたと思う。21世紀初頭のささやかなインターネットの一幕とはいえ、侍魂をはじめ、アクセス数*1の大きなテキストサイトは存在していたのだから、readmeに執着する人がいたのは当然だと思う。今でいえば、twitterのフォロワー数にこだわるようなものだろうか。
 
 私はテキストサイトといわれる文化圏の、辺境に住んでいた。
 
汎用適応技術研究[index]
 
 オタクの社会適応と、脱-オタクファッションがメインテーマだった私のサイトは、テキストサイト文化圏の中心からはかなり遠かったと思う。それと、当時の私の中二病感覚がこう告げていた――「readmeを気にするなんて、格好悪いんじゃないか」と。
 
 そのreadmeと距離を置く感覚は、当時やりたかったことがテキストサイトの本流とズレていたこと・テキストサイト文化圏で囁かれていた「モテるモテない」「ネゲットがどうたらこうたら」「オタク自虐芸」が気に入らなかったこと、等々と繋がっていた。ゲームをやりこむことよりアニメを視ることが流行っていて、アニメを視ることよりミステリーを読むことが流行っていたのも、私の感覚にはフィットしていなかった。だから私は、自分はテキストサイト文化圏の辺縁にいるのがお似合いだと思っていた。
 
 けれども、テキストサイト運営者とコミュニケーションするのは楽しく、ドキドキすることだった。日記を書いている者同士がお互いをdisったり、議論らしきことをやったりするのを視ているだけで、やたら楽しかった。結局それは、2017年のアルファツイッタラーの醜聞やらネット人士の屈辱やらをヤンヤと眺めるインターネット愉悦行為とだいたい同じだったのだが。
 
 私も、BBSにあれこれの意見を書いたりお話をしたりした。コメントを書き、そのコメントについたレスポンスを読むに至るまでの時間は、今よりもゆっくりしていたけれど、見知らぬ人と人が、ウェブサイトの運営者同士であるということで繋がれるのは、かけがえのない喜びだと感じた。BBSに投稿する際、自分のハンドルネームと自分のウェブサイトのURLを書き込むのが名刺のような感覚で、ああ、ウェブサイト持ってるっていいよなーと思っていた。
 
 いろいろな人とお喋りした。そのなかには、後のはてな村時代にコミュニケーションしていく人や、はてなブログ時代にすら健在な人も存在する。手斧文化なところがあった反面、馴れ合い的なところもあったと思う。ただ、みんな素朴で、みんな若かった。そして社会的オーソリティがテキストサイトのオーソリティと結合するような雰囲気は、私にはまったく感じられなかった。たとえば弁護士のアカウントだから偉いとか、たとえば起業家のアカウントだから偉いとか、そういう雰囲気はテキストサイト時代にはなかったと思う。そして、小さなテキストサイトという圏域で、人気を巡って、ネゲットを巡って、小さなプライドを巡って、人はお互いを見つめ合いながら、基本的には、自分が書きたいテイスト、自分が書きたい情念を大切にしていたと思う。
 
 「芸」をやるテキストサイトはたくさんあった。だが、「芸」をやるテキストサイトは、自分の「芸」を信じていたと思う。それじゃあ現在のブロガーやツイッタラーが「芸」を信じていないかのようにみえるかもしれないけど、いや、実際そうなのだ。これは、私が歳を取ったからそう感じるのかもしれないし、「芸」や「キャラ」を巡っての人々の捉え方やマネジメントが変わったか、私よりも若い世代のメンタリティの構造自体が変わっていったせいなのかもしれない。
 
 

はてなダイアリーと私

 
 私がはてなダイアリーに引っ越してきたのは2005年10月なので、それ以前に盛り上がっていたといわれる、ギークや知識人がはてなダイアリーを持て囃していた頃のことをあまり知らない。ただ、はてなダイアリーというものが盛り上がってきたという空気自体は入植以前から感じていて、はてなブックマークが実装され、それが自分のウェブサイトにもたくさん承認トークンを落としていってくれるのを実感して、これはいいなぁと思った。そんな矢先にお誘いを受け、はてなダイアリーをスタートした。
 
 はてなダイアリーは、手斧の飛び交うモヒカン族の土地だった、らしい。
 
 ただ、テキストサイト時代と比較しても、はてなダイアリー、いや、旧はてな村は、賞賛も批判も憎悪も率直に言い合う文化圏であるなぁと感じていた。私がそう感じた原体験のなかには、おおつねまさふみさん(otsuneさん)の存在があったと思う。いや、彼ははてなダイアリーを書いていたのでなく、はてな村のあちこちに出没して言及をしていたのだけど。この、おおつねさんに限らず、はてな村にいる人達は、ストレートにモノを書く性質があった。私はオタクの社会適応についてあれこれ書いていたので、非モテ論壇をはじめ、色んな人からブッ叩かれた。非常に心を打つ批判もあった反面、ただの罵倒、ただの脅迫も少なくなかった。しかし、それがブログの世界なのだと私は思うことにしてしまっていた。はてな村だけがブログの世界、インターネットの世界ではなかったのに。
 
 アジコさんは、はてなダイアリーの全盛期を2008-2009年頃と書いておられたし、「ハックルベリーに会いに行く」「ちきりんの日記」に軸を置くなら、それはそうだったのかもしれない。
 
 ただ、そこはそれ、見える風景は個人によって変わるわけで、私にとってのはてなダイアリーの全盛期は2006~2007年頃だった。
 
 つまり、「分裂勘違い君劇場」が、現在の基準では非常に長いブログ記事を投稿していたにも関わらず、連日のようにホットエントリを賑わせて、その周辺に綺羅星のようなブログが輝いていた頃だ。文学フリマに親和性のありそうな、ポストモダンをかじって中毒症状が出ているような若いオタクサブカルが、考え抜かれたような、それとも考えの足りないようなテキストを、ブログ上にモリモリ吐き出していた。非モテ論壇は非モテ論壇で、気炎をあげていたと思う。涼宮ハルヒの憂鬱。秋葉原の路上パフォーマンス。はしごたん。要は、勇気が無いんでしょ。
 
 2006-2007年のはてなダイアリーは、いや、はてな村は「層が厚かった」と思う*2
 
 テキストサイト時代の生き残り、オタクサブカル論壇、2005年以前からのギークや知識人、新たにスタートするブロガー、等々が本当に入り乱れていた。そうした人達が、はてなブックマークやトラックバックを通じて文通したり、手斧を投げ合ったり、賛意を示したりしていた。一部のアルファブロガーだけが目立つのでなく、新参から古参まで、なんとなくお互いを認識しあいながら、手斧を投げ合うことが許容される狭い狭いネットコミュニティ。もちろん、それが快適だった人もいれば、それが不快だった人もいただろう。私も、良い思いばかりしていたのでなく、ときには嫌な思いをすることもあった。でも、それがブロガーの世界、はてな村の世界だと思っていた。
 
 ところが、2008年頃から、その多様なはてな村の層が薄くなったと私は感じていた。
 
 ちょっと目先の利く人はtwitterに魂を奪われ、そちらで承認欲求を充たしてしまうようになった。今のような、あざといアルファツイッタラー狙いな人は珍しかったけれども、「ふぁぼ界隈」には、readme時代から連綿と受け継がれる、承認欲求の匂いがふんわり漂っていて、近付きすぎないようにしようと思ったものだ。
 
 綺羅星のようなブロガー達も、一人、また一人とブログからtwitterに軸足を移していった。海燕さんのように、niconicoに向かった人もいる。非モテ論壇は壊滅し、オタクという言葉も急速に陳腐化し、アイデンティティを仮託できるようなものではなくなった。2ちゃんねるのまとめサイトが隆盛をきわめた時期だから、読み専の人達は、多くが2ちゃんねるまとめサイトに向かったのではないだろうか。なんにせよ、はてな村・はてなダイアリーが寂れたような印象を当時の私は持っていた。
 
 あと、はてな村の衰退にちょっと関係しているのは、はてなダイアリーのフォーマットを使って中堅ニュースサイトをやっていた人達の撤退だと、個人的には思っている。はてなダイアリーに存在していた幾つかの中堅ニュースサイトが、オタク寄りなブロガーのコミュニケーションに果たした役割は小さくないと思う。たとえばSu-37さん、神コップさん、後発のゴリラブーツさん、これらに代表されるようなはてなダイアリー内のニュースサイト網は、放っておくとはてな村の歴史から漏れてしまいそうなので、ここに書き記しておきたい。
 
 2013年にブログがSNSにトラフィックを奪われる時代は終わった。ブログがSNSからトラフィックを集める時代が始まっている。 - シロクマの屑籠に書く少し前まで、はてな村は、一部のアルファブロガーや準アルファブロガーはともかく、滋味深い中堅がどんどん流出し続ける状態だったように私の目にはうつった。それは寂しいことだった。しかし、旧はてな村が衰退しはじめたとしても、新はてなタウンが興隆しつつあったのだ。
 
 

はてなブログと私(の2017年現在)

 
 (株)はてなは、はてなダイアリーの後継としてはてなブログをリリースしていた。しかし私はノーマークだった。せいぜい、「B!KUMA」程度の意味しかないとたかをくくっていた。あるいは「どうせ、はてなハイクみたいに失敗するんでしょ」と。
 
 ところが、はてなブログは頑張った。旧はてな村とはどこか違ったユーザーがどんどん入ってきて、存在感が増していった。私は、旧はてな村とコミュニケーションの作法がちょっと違うなと戸惑った。
 
 私がはてなブロガー内のまとまりをはじめて意識したのは、「サードブロガー」だった。
 
d.hatena.ne.jp
 
 未知との遭遇。
 
 しかし、今にして思えば、この「サードブロガー」に含まれていたブロガー達の文化習俗は、自分が慣れ親しんだものとそれほど隔たってはいなかった。その後、はてなブログで遭遇した様々なブロガー達の文化習俗は、サードブロガー以上に、はてな村のソレと違っていた。
 
 そして、はてな村の、殺伐とした、それでいて拳に力と心を込めて殴り合って、喧嘩しても仲直りできる者同士が友誼を培っていくような文化習俗は、明らかに時代遅れになっていった。
 
 もう、見知らぬブロガーに力一杯噛み付いてはいけないらしいのだ!そういう言及は、いけないこととみなされかねない。
 
anond.hatelabo.jp
 
 上記リンク先は、「いまどきの若者や子どもにとって「批判」はタブーだ、はてなの中高年はそれがわかっていない」という主旨だ。だが、これは、旧はてな村民と、最も新しいはてなブロガーの間にもあるていど当てはまるように思う。
 
 旧はてな村民の流儀でもって、新規のはてなブロガーに批判記事を書くのは難しくなった。少なくとも、批判を通して意思疎通し、「雨降って地固まる」のような、友誼のきっかけとして批判的な記事をやりとりできる若いブロガーというのは、なかなかいないと思う。昔のはてな村では、それが一種の流儀として強制されていたが、同じことを新規のはてなブロガーに対してやったら、悪役とみなされるだけだろう。
 
 

 *3
 
 もちろん、旧はてな村の流儀は、単なる批判というより、手斧というメタファーが似合うようなものだった。だから、それを蘇らせるべきだとは思わない。しかし、旧はてな村民が手加減に手加減をほどこし、そっと言及したものですら、新規のブロガーが目を回したり、怒りを感じたり、絶対にスルーするのをみて、ブロガーがブロガーに言及すること、ブロガーがブロガーに批判や意見を書くことの根本的な意味が、テキストサイト時代やはてなダイアリー時代とも違っているのだろう、と私は感じるようになった。
 
 現在も私は、はてなブログに言及する時に、どう言及をすれば良いのかわからなくなることが多い。テキストサイト時代からの知り合いや、旧はてな村民が相手なら、今までどおりの言及で構わない。あざなわさん、hagexさん、ポジ熊さん、サードブロガーの皆さんなどに関しても、そんなに気にしなくても構わないだろう。
 
 だが、たとえばミニマリストのブロガーの集まりに言及するとしたらどうすべきなのか? たとえば「勉強になりました!」「参考にさせていただきます!」とブックマークするのが当たり前だと思っているブロガーコミュニティに言及するとしたら、どうやるべきか? こういった事が、今の私にはわからない。
 
 旧はてな村は、はてなブロガーの増加によって、はてなタウンに吸収された、と言われることがある。それが間違っているとも思えない。
 
 だが、結局私は、テキストサイト時代~はてな村時代に身に付いた文化習俗をフォーマットとして考えたがり、コミュニケーションしたがるので、新はてなタウンに流入してきた人達からみれば、「得体の知れない、野蛮な原住民」とみなされるのは不可避なのだろう。同じはてなブログを使っているとしても、歳の差があり、価値観の差があり、奉じるインターネットの規範意識の違いがある。
 
 旧はてな村民は、さしずめ、若い世帯がたくさん暮らすピカピカのニュータウンの真横の限界集落で、動物の皮を剥いで肉を取り、ゲテモノを料理して屋台に並べ、焚き火を囲んで焼酎を飲みながら大声で喚いている、そのような中年存在とうつるのではないか、と自嘲気味に思うこともある。だが、それでいい。
 
 すっかり長くなったのでそろそろ終わるが、ここに書いた回想は、id:p_shirokumaという個人の思い出話で、当然、他の人には違った風景が見えていたはずだ。だから、違和感がある人や、もう少し違った角度から昔を振り返りたい人は、どしどし記憶を書き記して欲しい。たくさんの人の記憶が寄り集まって、どうか、良いサーガを。
 
 [関連]:俺の主観で書いたインターネットの文化と流行の歴史(2005-2007)
 [関連]:俺の主観で書いたインターネットの文化と流行の歴史(2008〜2016)
 

はてな村奇譚上

はてな村奇譚上

 
 

*1:PVという表現は当時はあまり使われていなかったと思う

*2:はてなダイアリーのなかには、当然、はてな村とは言えない、もっと静かな圏域や、ハロプロ界隈のように独自の文化圏を築いているものもあった。この文章でいうはてなダイアリーとは、はてな村とその周辺を指していると思っていただきたい

*3:このシロクマは小島アジコさんが描いたもので、転載をご承諾いただきました。ありがとうございます。