シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「日本スゴイ」と異世界技術チートは、どこか似ている

 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先は、ゲームカルチャーの変遷と、それが社会にどんな具合に溶け込んでいったのかについて書いた文章です。
 
 この文章の後半に、web小説で一定の支持を集めている異世界転生チートもの、とりわけ“内政モノ”とも呼ばれるような作品群について、『シビライゼーション』のような内政が重要なシミュレーションゲームからインスピレーションを受けているんじゃないかと書きましたが、このあたりについてもうちょっと書きたいことを書きます。
 
 

『まおゆう』を観た時から、「これはゲーム的だ!」と思わずにいられなかった

 
 狭義の“内政モノ”には含まれないかもしれない作品も含めて、web小説には、異世界に近現代のテクノロジーを持ちこんだ主人公が、そのテクノロジー格差を利用して活躍する作品がそれなりあります。
 

まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」(1) (角川コミックス・エース)

まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」(1) (角川コミックス・エース)

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 第一部「兵士の娘I」

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 第一部「兵士の娘I」

 
 『本好きの下剋上』や『まおゆう魔王勇者』などは、『シヴィライゼーション』が大好きな私には、「エディタ使ってチートした時の無双プレイ」をそのまま作品したように感じられて、「おまえ、『シヴィライゼーション』を知っているだろう!!」「ついでに、エディタ使ってチートしたこともあるな?!」と疑いたくなってしまいます。
 
 テクノロジーの格差が、国力や生活の質の格差に直結することを教えてくれるコンテンツは色々ありますが、シミュレーションゲームほど、それをわかりやすいかたちで見せてくれるものはありません。それ以後に登場した、現在の“内政モノ”なweb小説では、テクノロジーの格差がさらに鮮やかに読み取れて、ひとつのエンタメとして成立しているわけですが、テクノロジー格差を活かした無双がエンタメたり得るということを世に広めた一翼として、『シヴィライゼーション』のようなテクノロジーツリーの重要なシミュレーションゲームと、それの動画配信の存在を忘れてはいけないように思うのですよ。
 
 たとえば『シヴィライゼーション』の動画配信で人気を集めていたスパ帝のような配信者は、該当ジャンルの立役者とまではいかなくても、人気動向の援護射撃ぐらいにはなったんじゃないかと、個人的には思っています。
 
 『シヴィライゼーション』のようなゲームの知名度が高まり、テクノロジー格差がエンタメたり得ることを知った人が増えたことによって、“内政モノ”の作品が作られる余地も、人気が集まる余地も、大きくなったんじゃないか、ということです。
 
幼女戦記 1 Deus lo vult

幼女戦記 1 Deus lo vult

 
 
 また、『幼女戦記』にしても、用兵周りのストーリーを読んでいるうちに、私は『Heart of Iron』シリーズを思い出してしまいました。もっと言うと、ゲーム本体の物語化というより『Heart of Iron 2』のAARを物語化したような感触がありました。ゲームの小説化というより、ゲーム実況の小説化といいますか。
 
 実際、筆者の方へのインタビュー記事を読むに、その筋のシミュレーションゲームへの造詣の深さがうかがわれたので、無関係ではないような気がします。
 
 [関連]:【アニメ最終回】『幼女戦記』作者と人気ゲーム実況者グルッペン総統が対談。この歴史SLGオタクどもの濃厚トークの宴に呆れつつ放映時間を待て!?(司会:徳岡正肇)
 
 
 テクノロジー格差を活かした無双、という意味では、『異世界食堂』も同じ範疇に入れても良いのかもしれません。あの作品、色々な方面からインスパイアされなければ思いつきそうにもない作品ですが、そのひとつに、「テクノロジー格差を活かした無双はエンタメになる」という着眼が含まれているのではないでしょうか。
 
異世界食堂 1 (ヒーロー文庫)

異世界食堂 1 (ヒーロー文庫)

 
 ねこやのマスターも、あれはあれで大した人物ですが、彼の活躍のバックボーンには、冷蔵、発酵、洗練された調理法、グローバル化した現代社会ならではの豊富かつ安価な食材など、テクノロジー格差の恩恵があります。そういう格差を大前提としているという点では、『異世界食堂』には、“内政モノ”と共通したエンタメ成分が含まれているように思われます。
 
 一人のゲーム愛好家としては、自分が好きなゲームに近いテイストの作品、ゲームの実況やゲームの改造プレイが物語化したような作品が読めるのは嬉しいことです。そして、ゲームというコンテキストにそれらの作品が立脚している限りにおいて、そうした作品群が、今しか楽しめない・今だからこそ楽しむべき作品群だというのもなんとなく感じられます。
 
 web小説、そのなかでも非常にゲーム実況寄りのコンテキストを持った作品からは、2020年代や2030年代まで読まれ続ける作品はほとんど出てこないように思われます。それでも、いや、だからこそ、こうした作品群は、今のうちに楽しんでおきたいものです。
 
 

異世界技術チートを「現代社会スゴイ」とみると……

 
 話は変わりますが、異世界に近現代のテクノロジーを持ちこんで主人公が活躍するエンタメって、どこか「日本スゴイ」に似てませんか。
 
 インターネットでは、テレビでよく見かける「日本のモノ・テクノロジー・カルチャーはスゴい」系の番組や視聴者への揶揄をよく見かけます。なぜ、「日本スゴイ」系の番組と視聴者が揶揄されなければならないのでしょう?
 
 「スゴイのは日本のモノ・テクノロジー・カルチャーであって、視聴者のお前ではないから」という声や、「日本の良いところを抽出して、わざわざ余所持ち込んで自惚れているから」という声が聴こえてきそうです。
 
 それなら、異世界に近現代のテクノロジーを持ち込んで無双している作品や視聴者も、同じように揶揄されて、残念に思われてもおかしくないのではないでしょうか。
 
 異世界に転生した主人公が、近現代のテクノロジーを持ちこんで無双する、という図式は、先進国の人物が途上国にテクノロジーを持ちこんで現地で崇拝される、というのに似た雰囲気が漂っているように感じます。それ自体は、良いことなのでしょうし、良い物語なのでしょう。しかし、現地人の視点で描くならともかく、テクノロジーを持ち込む側の一人称視点で大筋を描くとしたら、なるほど、品が良くないと指摘する人は出て来るかもしれません。
 
 そういう品の良くないスメルが強烈に漂わないよう、異世界側の人物描写や概念描写に力を入れている作品もあり、そこは、創作者側が工夫しているとしばしば感じるところです。それでも、物語の図式というか布置そのものは、多かれ少なかれ「日本スゴイ」ならぬ「現代社会スゴイ」であり、“内政モノ”的なweb小説のエンタメ成分の一部が、そうした図式や布置に依っている点は否定できません。
 
 ちなみに私は、「日本スゴイ」も「現代社会スゴイ」も、エンタメである以上、需要に対して供給があって然るべきだと思いますし、自分も割と好きなほうなので、一定のシェアを保ち続けて欲しいと願っています。サブカルチャーたるもの、いろんなエンタメがあったほうが良いに決まっていますし、“お上品”な人達から少し悪く言われるぐらいでも構わないのではないでしょうか。楽しんでいきましょう。
 
 

子どもの権利を守りながら出生率を増やすなら、核家族的な子育てをやめるしかないのでは

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 先週公開した、「母親が儲かるようにならない限り、個人主義社会の少子化解決は無理」というブログ記事にはアクセスが集まって、はてなブックマークにも色々なご意見が寄せられた。
 
 だが、全体の半分しか書いていないので、続きを書いておくことにする。
 
 前回は、「女性個人が子どもを産むほど、また、上手に育てるほど、お金が儲かる仕組みにならない限り、女性個人は子どもを育てない」と書いたが、そこではメリットの話しか書いてなくて、責任や負担の話が書かれていない。
 
 はてなブックマークのコメントにも、そのことを察知している人が散見されている。
 

個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし - シロクマの屑籠

いや、女性は割と少なからず、「自然に」産みたいと思うケースも多いんだよ。ただ、にもかかわらず増えないのは、「得しない」からではなく、「ものすごく損するから」である。ニュートラルになるだけでも増える。

2017/11/06 15:04
b.hatena.ne.jp
個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし - シロクマの屑籠

立派に・順調に育てるという言葉が出てくるが、障害含め子供の生まれ持った性質や、変えられない家庭環境で難易度は変わるので、順調に行かなかった時のセーフティーネットの充実も併せて必要。

2017/11/06 11:00
b.hatena.ne.jp
 
 もし、子どもを順当に育てればお金が儲かるとしても、子育てには様々なリスクがあり、責任や負担も大きい。メリットやベネフィットだけを意識して、責任や負担を意識しない親など、そういるものではあるまい。
 
 この、個人主義社会の子育ては、だいたい親の自由裁量に委ねられている反面、子育ての責任もまた、親が全面的に引き受けることになっている。子どもが先天的な障害を持って生まれてきた場合などは、障害相応の支援がなされることになっているが、だからといって、親という役割を誰かに交替できるわけではなく、親としての責務は一生をかけて引き受けなければならない。
 
 もちろん、先天的な障害だけではなく、後天的な障害も、いや、(21世紀の社会において)障害とは呼ばれない種々の問題やトラブルも、親が引き受けなければならない部分は長く残る。
 
 個人主義社会の個人が、自分自身の権利と責任を越えて、子どものぶんまで責任を負うということ自体、なまなかなことではない。個人という単位でメリットやデメリットを計算し、それらを“できるだけ合理的に”判断するようトレーニングされている個人が、子育てという、大きすぎる責任や負担を引き受けなければならない営みにチャレンジするとしたら、それは、非-合理的なのではないか。
 
 そのあたりの非-合理性を、子どもへの愛情とか、人生の体験とか、そういった合理的とは言えない概念を使って有耶無耶にしたがる人もいるが、それはナンセンスだと私は思う。子どもへの愛情や人生の体験と、合理性の追求は、トレードオフの関係とみるより、別個の命題とみるべきではないか。
 
 合理的に判断する個人主体が、子育てをやるかやらないかを決断する際には、メリットやベネフィットと同等かそれ以上に、責任や負担に注意を払わずにはいられない。だというのに、今日の社会では、ひとたび親になってしまったら、子どもを育てること・子の親であることを、当然のように引き受けなければならないのである。これは、合理主義を良いものとする個人にとって、なかなか受け入れにくいことではないか?
 
 そしてもし、親としての責任を引き受けきれなかったらどうなるかというと……親としての欠格者、つまり、ネグレクトや虐待をしている親だというレッテルを張られることになる。
 


 
引用:こちらより

 
 近年、児童相談所が対応するケースが増大の一途を辿っている。これは、子ども個人の権利を擁護するという観点からみれば喜ばしい変化だが、親としての欠格という観点からみると、それだけ、欠格者が増えているということでもある。
 
 子どもの数が右肩下がりに減っているにも関わらず、虐待対応が右肩上がりに増えているということは、それだけ出来の悪い親が増えている、ということだろうか? それとも、出来の悪い親と判定される閾値が下がっている、ということだろうか? 私は、前者である以上に、後者であるのではないかと疑っている。
 
 あれもこれも児童虐待として摘発する社会とは、親が欠格者と判定されやすい社会でもある。子育てに関して、福祉や法律が定めたルールを、従来よりも厳格に守らなければ罰せられる社会である。たとえば昭和時代以前と比べると、親としての資格がより厳正に問われ、なんとなれば、罪科に処される社会である。
 
 そのような方向に傾き続けている社会のなかで、背負わなければならない責任や負担にひるむことなく、のうのうと子どもをもうけられる親は、一体どれぐらいいるだろうか?
 
 いや、あまりいないからこそ、子どもの数は減っているという側面はないものだろうか。
 
 

子ども個人の権利をここまで厳正に守った社会は存在しない

 
 私も含めて、現代人は、子ども個人の権利を守ることを当然の責務だと思っている。親個人の責任や負担がどれだけ増えようが、子ども個人の権利を守らなければならない、と考えるのが現代人の常識であろう。
 
 子どもは生まれた時から、否、生まれる少し前から、権利を保証されるべき一個人とみなされる。そのことを証明しているのが、毎日のように摘発される、虐待やネグレクトの事案である。
 
 かつて、児童相談所が手広く仕事をしていなかった頃は、今日、虐待やネグレクトとして観測され、摘発されている多くの事案がまかり通っていた。
 
 のみならず、昭和以前の社会では、子ども個人の権利、という概念自体も怪しいものだった。
 
 かつて言われていた、「七つ前までは神のうち」とは、子どもが死にやすい存在だった、というだけでなく、共同体のメンバーシップとしての立場を確立していなかった、という意味でもあった。
 
 子どもは病魔によって命を落としただけでなく、今日の基準で言えば不十分な子育てや、ネグレクトに相当する状態のなかでの事故や行方不明によって命を落としていた。
 
 民俗学の書籍には、以下のようなことも書かれている。少し長いが、抜粋してみよう。
 

 子どもが死にやすくかつすぐに生まれ変わってくるとみられてきたことが、伝統的な子ども観に色濃く反映してきたと思われる。子ども、とくに障害を持つ子どもに対しては、現代とは異なった対応がなされ、一見残酷なようであるが捨て子や嬰児殺しの形で処理したり、他方では見世物やイタコなどに弟子入りさせ、子どもの自立や自活ができるような手だてを講じようとしていたようなところもあった。嬰児殺しの形で口減らしする間引きは、カエスとかモドスという言葉で表現されたが、これはもと来た世界に戻してやることであり、子どもは生まれやすく死にやすい存在、あるいは死と再生を繰り返す存在とみられていたのである。
(中略)
 母親が自分の子どもに対してたっぷりと愛情を注ぎながら育てるようになるのは、夫婦と少数の子どもからなる近代家族が出現してからであり、それまでは「親はなくても子は育つ」という諺があるように、ムラの年齢集団や兄姉などの両親以外のさまざまな子育てのルートがあったのである。親子心中のような事件が頻繁に発生するようになるのはむしろ昭和時代に入ってからであり、大正半ば頃に今日のサラリーマン家庭の原型をなす都市の新中間層が社会的に顕著な存在として出現するようになって、直接血のつながった親子だけを親子とするという心性や態度が広まって以降のことなのであり、これと反比例して捨子の数は激減していったのである。
 
 吉川弘文館『日本の民俗 8 成長と人生』P64-65より抜粋

 
 この、民俗学の記述内容は、現代社会の善悪の基準から言って、許されるものではない。しかし、こうした子ども観は日本だけにみられた特異なものではなく、大筋では、洋の東西を問わずにみられたものでもある。人類社会は、そういう仕組みで長らく回っていた。
 

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (上)

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 こうした、子どもに個人主義が適用される前の社会を、遠い過去とみる人もいるかもしれない。祖父母の代からアーバンライフに馴染んできた家の人などは、特にそうだろう。
 
 だが、現在の中国やインドの男女比の歪さが暗に示しているように、いわゆる“途上国”だった頃には、これに類する話は日常茶飯事だった。少なくとも、「親は無くとも子は育つ」は、昭和時代の田舎では決して珍しいものではなかった。
 
 私自身の子ども時代も、21世紀に比べれば「親は無くとも子は育つ」に近かった。
 
 私は、それなり親から大事にされていたはずだが、それでも、小さな子ども同士で池や川に遊びに行くような場面はたくさん経験した。私のクラスメートに死人はいなかったが、他の学年では、事故死や行方不明があると聞いていた。私も一度、川に落ちて自力では上がれず、クラスメートに命を救われたこともある。現在よりもずっと子どもは自由に動き回れたとも言えるし、子どもは危険から保護されていなかったとも言える。ともあれ、それが自然だったし、そのことを殊更に非難する人もいなかった。
 
 
となりのトトロ [DVD]

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 私が生まれ育った、昭和時代後半の田舎でさえこうなのだから、より多くの子どもが死んでいた昭和時代前半や、それ以前の田舎については推して知るべし、である。そういう目線で『となりのトトロ』を観ると、あれは“神隠し”と紙一重な物語にみえる。そして、現代社会にはもうトトロはいないんだ、出会えないんだということもよくわかる。
 
 なぜなら、子どもが独りで森に入ることを許すような親は、児童相談所が、社会が、許さないであろうからである。
 
 

個人主義、子どもの権利、親の責任や負担のヘッジを鼎立させるには

 
 子ども個人の権利を守ること自体は、結構なことである。
 
 だが、これほどまでに厳正に守られる子どもの権利を、では誰が背負い、庇護しているのかといったら、子どもの養育者である親である。このことは、個人主義や合理主義の浸透した現代人のイデオロギーと、すこぶる相性が悪かろう。どうしてそんな不条理を、親という個人が引き受けなければならないのか。
 
 だからといって、昔に帰れば良いというものでもなかろう。
 
 私達は、個人主義を良いものとし、子ども個人の権利が守られる社会を良い社会だと決めている。「七つ前までは神のうち」を蘇らせるのは、こうしたイデオロギーに反するものだ。私達が良いと思うイデオロギーを守りながらこの問題を解決するためには、子ども個人の権利が守られつつ、それでいて、親が背負わなければならない責任や負担を減らせるようなシステムが立ち上がってこなければならない。
 
 そうなると、核家族で親個人がすべてを引き受けて子どもを育てるという、個人主義社会にありがちなテンプレートでは、どうにも立ちいかないのではないだろうか。
 
 個人主義と、子どもの権利と、親の責任や負担のヘッジを鼎立させようとしたら、最終的には、子育ては再び複数の養育者が複数の子どもを同時に育てて、きょうだいやきょうだい的な年上-年下関係を含んだものに戻るのではないかと、私は思う。責任も負担も、喜びも苦しみも、親個人がダイレクトに負うのでなく、もっと集団的・分業的なものにならない限り、それらを鼎立させたうえで出生率を上げるのは無理ではないか。*1
 
 今日の社会でも、保育所や幼稚園や学校といったかたちで、子育ての一部分は親の手を離れている。しかし、これらは親の時間的負担や教育的負担を減らすものではあっても、親の責任や金銭的負担を分担してくれるものではない。責任や金銭的負担、あるいは喜びや成果といった部分も協同・分担しなければ、結局、親が背負わなければならないものは大きいままである。
 
 現在の子育てシステムは、親に責任や負担が集中するのを避けきれていなくて、それもあって子どもの数が増えにくくなっている。そこを改善させつつ、個人主義と子どもの権利を守れるようなシステムへの再編が待ち望まれる。
 
 いや、それができなくても日本人が衰退するだけだ、という見方もできなくはない。日本人が衰退すれば、子どもが増え続ける別の国の人や、別の社会によって置き換えられていくだけのことだ。どうあれ、後の社会に受け継がれていくのは、子をもうけて社会を維持した生者と、彼らの信じるイデオロギーや価値観だけである。
 
 死者のイデオロギーや価値観は、後の社会に受け継がれていかない。
 
 

*1:ちなみに、子育てが集団的な新しいスタイルに移行した暁には、旧来の家父長的な抑圧はもちろん、核家族システムにありがちな抑圧の問題も、システムの再編によって消失するだろう。つまり、「エディプスコンプレックス」も「母子密着」も、そのような未来社会では問題とはならない。そのかわり、家父長的な抑圧が無くなった後に、核家族的な抑圧が新たに立ち上がってきたのと同じ理屈で、システムの再編によって、新しい抑圧が立ち上がってくると思われる。

ゲーセンという「場」を思い出しながら、SNSという「場」に思いを馳せる

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 
 リンク先は、「スマホが無かった頃の待ち合わせ」についてのものだ。
 
 これを観て、ふと、スマホが無かった頃の思い出話やらなにやらを書きたくなったので書いてみる。 
 
 スマホが無かった頃も、「待ち合わせ」は時々やっていた。学校で約束するか、家電話で連絡を取り合って、何時にどこそこに集まろう、といった風にである。小学校時代から大学生時代まで、私は待ち合わせの保険としての携帯電話を使えなかった。
 
 私もそれなりオタクだったので、携帯電話を使うようになったのはパソコン通信を使うよりも後だった。だから、「オフ会への待ち合わせが携帯電話無し」という経験もあった。オフ会のメンバーが携帯電話を持っていなかったために連絡がつかず、やむなく彼を置いて場所移動……といったことも経験した。そんな調子でも世の中は回っていた。
 
 ただ、自分自身の子ども時代や大学生時代を思い出すと、そもそも、待ち合わせという行為自体が少なかったように思う。特に、通信手段を使って約束をとりつけて、それから人に会うことは少なかった。
 
 子どもの頃、みんなで遊ぶ際に重要だったのは、「人」よりも「場」だった。 
 
 広場や公園に行って、そこにいる面子と、その時にできる遊びをやる。ちょっと年上でも、ちょっと年下でも、それはそれで、遊び方を考えて遊んだ。私が子どもだった頃は、年上と年下が適当に出会って遊ぶことは全く珍しく無かった。
 
 誰にも出会えない日もあったし、逆に、あまりにもみんなが集まり過ぎて、収集がつかないほどの集団でケードロや鬼ごっこをやる日もあった。友達の家に直接出向いて、友達がいれば遊ぶし、いなければ仕方がないと思って諦めることも多かった。目的意識が無かったとも言えるし、おおらかだったとも言える。
 
 大学生になってゲーム狂いがいよいよ高まり、サボれる限り授業をサボってゲーセンに通うようになると、いよいよ「場」が重要になった。そう、私はゲーセンの住人になったのである。
 
 朝、どうしてもサボれない医学実習が早めに終わると、私は残りの授業のことはすっかり忘れて真っ直ぐにゲーセンに向かい、本当の一日が始まった。
 
 開店直後のゲーセンにも、仲間がいないとは限らない。授業よりもゲームのほうが大事な廃学生は他にもいた。朝から格ゲーをやったり、シューティングゲームの攻略談義に花を咲かせた。
 
 昼が過ぎ、夕方が近づいてくると、少し真面目な大学生や高校生が集まって来た。歳の差があってもゲームが上手けりゃみんな友達。いや、友達とはいわなくても、好敵手たりえるのは良いことだった。
 

 
 『ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ』のような、4人プレイが出来るゲームになると、ゲーセンの常連全員が交代に遊びまくった。当時はもう、「ゲーセンは不良のたまり場」的な空気はほとんど無くなっていたし、ゲーセンに通い詰めているメンバーは顔が知れているせいか、トラブルに巻き込まれることもなかった。カツアゲをする連中が目をつけていたのは、ゲーセンに滅多に来ないような人々だ。ゲーセンの住人になってしまえば何の問題も無い。
 
 かつて、ゲーセン専門誌『アルカディア』が、面白いアンケートを出していたことがある。
 
 携帯電話普及期に、購読者に対して「あなたは携帯電話を使っていますか」というアンケートを行ったものだ。アンケートの結果は、「『アルカディア』を購読するようなゲームオタクは、同世代の一般人口に比べて携帯電話の保有率がかなり低い」というものだった。
 
 当時の私は、このことを「ゲームオタクの、コミュニケーションの意志と能力の欠如」と解釈していたが、それは一面的な解釈だったと思う。なぜなら、ゲーセンという「場」に集う趣味生活をしている限り、携帯電話が無くても困らなかったからだ。
 
 「人」と「人」を繋ぐツールが無くても、ゲーセンという「場」に行けば誰かがいて、それでコミュニケーションは成立したのだから。
 
 

「場」から「人」へ。そして再び「場」へ。

 
 それから携帯電話の時代が来た。
 
 90年代末~00年代前半にかけて、携帯電話が爆発的に普及して、誰かと待ち合わせる際の必須アイテムになった。電話とメールは、人と人とを繋ぐ強力な通信手段だ。「場」に頼るまでもなく、誰かと連絡を取ることも、決まった時間に決まった場所で待ち合わせることもできる。
 
 携帯電話の登場によって、たぶん、世の中のありとあらゆる「場」の持つ力は(少しずつ)弱くなったのだと思う。少なくとも、そこに行けば誰かに会える、というタイプの「場」に関してはそうではなかったか。
 
 なぜなら、わざわざ「場」に赴かなくても、誰かとコミュニケーションできるからだ。「場」には、そこに行けば誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待が帯電する。けれども、もっと確実にコミュニケーションできる手段が普及してしまえば、「場」に赴かなければならない必然性は下がる。とりあえず「場」に出かける・ブラブラと「場」に出かけることが減って、「場」に出かけるとしても、より目的意識を持って出かけるようになる。
 
 私も、携帯電話を持ってからは、ゲーセンに行く前に電話やメールで連絡することが増えた。そうでなければ、一人でゲーセンで遊ぶと腹を決めるようになった。私にとってのゲーセンは、ブラブラと出かける「場」から、もっと目的意識をはっきりさせて出かける「場」へと変わっていった。
 
 じゃあ、携帯電話が「場」を損ねるだけのものだったかというと、そうではなかった。
 
 ゲーセンのような「場」が力を失ったかわりに、SNSという、大きくて不定形な「場」ができあがった。誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待は、SNSという、オンラインの「場」に帯電するようになった
 
 いまどきの人は、誰かの会うのを期待して公園やゲーセンをブラブラしたりはしない。そのかわり、隙間時間にSNSをブラブラと眺めて、誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないと期待するようになった。それか、タイムラインの誰かが面白い出来事を運んできてくれやしないかと期待するようになった。
 
 SNSだけがオンラインの「場」を形成したわけではなく、その前には、掲示板やメーリングリストやブログといった「場」もあったけれども、普及率や即応性や完成度からいって、SNSの普及をもってオンラインの「場」がオフラインの「場」を包み尽くす段階に到達した、と言ってしまっていいように私は思う。
 
 私達は今、SNSをはじめとするオンラインの「場」を24時間365日シェアしあって、そこでコミュニケーションをして、体験をも共有するようになった。もちろん、オフラインの「場」も健在ではあるけれども、オフラインの「場」は、SNSでのフォロー/被フォローやシェアやリツイートといった共有のまなざしによって、いつもオンラインの「場」に包含されるようになった。
 
 少なくとも、オンラインの「場」に包含されたオフラインの「場」というのは間違いなくあって、たとえば「インスタ映え」を巡るユーザーの言動などは、オンラインの「場」がオフラインの「場」に覆いかぶさるさまを教えてくれる。「インスタ映え」のためにオフラインでの行動が左右される人は、オンラインの「場」をオフラインの「場」と同等か、それ以上に優先させているからそうするのだろう――オフラインの「場」のほうがオンラインの「場」より大切なら、「インスタ映え」のために時間や注意を割くより、目の前のリアルに時間や注意を割いてしかるべきだからだ。 
 
 こういう、オンラインの「場」の優越というか、重要性の上昇というかは、先日の『シン・ゴジラ』TV初放送の時のtwitterにも当てはまることで、あの夜、twitterに群れていた人々は、twitterという「場」に集まって、みんなで『シン・ゴジラ』鑑賞していたわけだ。いや、人によっては映画鑑賞そのものが目当てだったのでなく、コミュニケーションや共犯意識こそが重要だったのかもしれない。
 
 同じことは、往年の『天空の城ラピュタ』の「バルス!」にも言えるし、『君の名は。』がSNSを介して飛び火のように広がっていった体験にも言える。人気のソーシャルゲームと、その体験についても言えるだろう。いまどきの人気コンテンツは、SNSという「場」に集まって楽しまれるのが当然になっていて、そのシェアの規模が大きいほど、そのコンテンツは更なる人気を獲得する。
 
 SNSという「場」、あるいはメディアがあまりにも大きく、あまりにも繋がり過ぎるものだから、オンラインの「場」がオフラインの「場」やコンテンツや個人に与える影響が、無視できなくなってしまった。
 
 いまどきは、自分一人だけでコンテンツと向き合おうと思ったら、意図的にSNSを遠ざけなければならない。それでさえ、意図的にSNSを遠ざけるという行為じたいが、既にSNSの影響を受けているという逆説からは逃れらない。そうこうしているうちに、SNSという「場」に引っ張られて映画館に足を運んでいたり、ナイトプールで写真を撮っていたりする。
  
 今も昔も、人は、コミュニケーションのために「場」を利用して、その「場」から影響を受けながら生きている。そういう意味では、SNS以前と以後に根本的な違いは無くて、人はコミュニケーションや社会的欲求のために集って影響を与え合うものなのだろう。
 
 ただ、ゲーセンなどの「場」に若者が集まっていた時代と、SNSで常時「場」ができあがって老若男女が集まっている時代では、影響の受け方も、コミュニケーションの形式も、コミュニケーションの速度も、いろいろ違ってきているとは思う。おそらく、人格形成や価値観も違ってきているだろう。そのあたりについて、まだまだ書きたいことはあるけれども、そろそろ時間切れなので、今日はこのへんで。
 
 

LITALICOさんの研究交流会に参加し、最良の可能性を見たように思いました

 
litalico.co.jp
 
 
 昨日(11月11日)、リンク先のLITALICOさんからお誘いを頂いて、「よく発達した発達障害」をテーマとした研究交流会に参加させていただきました。
 
 リンク先をご覧いただければわかるように、LITALICOさんは2012年から障害者支援の活動を行っており、まだ新しいにもかかわらず、この手の組織としてはかなりの規模に成長しています。
 
 そういう組織なので、内心、医療寄りの堅苦しい研究交流会になるのではないか、と身構えていたところもあったのですが、参加してみると、「ざっくばらんにやりましょう」という空気が会場全体に漂っていて、伸び伸びとプレゼン&意見交換できたように思います。
 
 私のような、精神疾患以上に社会適応に魅了されてしまった精神科医でも伸び伸びと参加させていただけた理由は、「よく発達した発達障害」をテーマとして選んでいただいたから、だけでもないように感じられました。
 
 スタッフの皆さんの言動から察するに、発達障害や精神障害といったものを適応の妨げになるハンディとみるだけでなく、適応のアドバンテージとしてもみる視点が、皆さんの感覚として共有されているように思われました。
 
 もちろん、障害者支援組織たるもの、「その人の長所を生かそう」とか、「その人の特性や個性を大事にしよう」とか、そういったお題目は必ず掲げているものです。
 
 しかし、そうしたお題目を、現実の支援活動や、被支援者の経済的可能性まで結びつける水準でやっていこうとする、そしてやってのけてもいる組織となると、ザラにあるものではありません。
 
 

レゴ (LEGO) クラシック 黄色のアイデアボックス スペシャル 10698

レゴ (LEGO) クラシック 黄色のアイデアボックス スペシャル 10698

 
 また、交流会の後半に、レゴブロックを使ったワークショップがあったのですが、レゴブロックを箱庭療法のように使ったうえで、どれほど個人が異なる考え方を持ち得るのか、その異なった考え方を組み合わせると一体どういう面白いことが起こるのかを見事にみせてくれました。
 
 社会は、レゴブロックほど組み合わせやすくもないでしょうし、もっとややこしいものでもあります。しかしブロック遊びをとおして、多様性とその組み合わせの妙をここまで意識できる方法を知っていて、参加者に魅せてくれる手法には感服しました。これは、かなり「わかって」ないとできない芸当だと思います。
 
 交流研究会の内容はクローズなのでお知らせすることはできませんが、プログラムの内容にも、参加者の皆さんとのコミュニケーションにも、スタッフの皆さんの運営やお計らいにも、大変楽しませていただきました。と同時に、障害者支援の最新のかたちのひとつを垣間見ることができて、ブロガーとしてだけでなく、本職のほうでも得るところが大きかったと思います。
 
 

たとえ今は、大都市圏だけだとしても

 
 こういう、先進的な取り組みを目の当たりにしていると、私は「くっそ、東京と田舎ではやっぱりギャップがあるな」と羨ましく思ってしまうほうです。LITALICOさんのアメニティや活動、スタッフの皆さんの知識などから察するに、これらは、現在の地方の障害者支援では望むべくもないからです。
 
 しかし、サービスとか文化とかいったものは、東京から地方へと広がっていくのが通例です。
 
 今は大都市圏にしか存在しないサービスても、いつかは地方中核都市に、やがてはもっと小さな都市に伝播していく可能性はあるでしょう。現に、LITALICOさん自身も、首都圏以外に業務を拡大していると伺いました。
 
 私は、発達障害概念(や、その他の、幅広い層が該当し得る精神疾患概念)が社会に浸透していくエフェクトについて、肯定的なエフェクトだけがあるのでなく、副作用のようなエフェクトもあり得るし、どちらにせよ、概念の拡大は、社会を変えていくと思っています。
 
 [関連]:発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない - シロクマの屑籠
 
 だとしても、そうした変化が不可避なものだとしたら、できるだけ良いように変化して欲しいものです。発達障害や精神障害の支援が、より望ましく、バリエーションや可能性に富んだものになっていくなら、それが良いに決まっています。
 
 今回の交流研究会をとおして、私は、そういった可能性の最良のもの(のひとつ)を見たように感じました。
 
 いつか地方にも、LITALICOさんに比肩するサービスや、LITAICOさん自身が来てくれたらいいなと思います。
 
 なんにせよ、知見が広がり、インスピレーションも広がる研究交流会を経験できました。参加者の皆様、スタッフの皆様に、改めて御礼申し上げます。
 

個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし

 
 


 
 リンク先によれば、日本の15歳以下の人数より、ペットとして飼われている犬猫のほうが多いのだそうだ。
 
 実際どうなんだろうと思って調べてみると、犬猫の総数自体も少しずつ減っていて、現在は2000万頭を切っていることがわかった。
 


 ※平成28年 全国犬猫飼育実態調査 より。

 
 とはいえ、現在の日本の15歳以下の人口は既に1600万人を切っているので、冒頭で紹介したtwitterのコメントは間違っていない。
 
 犬猫に比べれば、子どもを育てるにはお金もかかるし、心配しなければならないこと・負わなければならない責任も多い。ペットを飼うような感覚で子どもをもうける人は今日の日本では稀なので、出生数を増やさなければ国が衰退するからといって、おいそれと、個人が子どもをもうけるとは考えられない。
 
 

「誰が子どもをもうける主体者なのか」

 
 さっき私は、何気なく「個人が子どもをもうけるとは考えられない」と書いた。 
 
 そう、個人、である。
 
 現代社会において、子どもをもうける主体となるのは、個人である。それも、男性ではない。実際に妊娠を選択し、出産をも選択するのは、女性個人である。女性個人が子どもを産みたい・育てたいと決定した時だけ、この国では子どもが生まれて、子どもが育てられる
 
 かつては、イエとか、国とか、そういったユニットが子どもをもうける主体者だった。子どもをもうける主体者は男性側だった、とも言い換えられるかもしれない。出産のリスクや子育ての負担を、女性が全面的に負担していたにも関わらず、女性の意志や主体性は軽んじられて、蔑まれていた。今日でも、先進国とは呼ばれない国々においては、そのような傾向はまだまだ残っている。
 
 しかし、女性の権利が守られるようになり、女性の意志や主体性が尊重されるようになると、子どもをもうける主体が、イエや国や男性となることはあり得なくなった。少なくとも日本では、この数十年の間に、そのような傾向は大幅に少なくなった。今日では、子どもをもうけるか否かは、女性ひとりひとりが自己決定することとされている。
 
 女性が子どもをもうけない・もうけられないと判断したら、子どもは生まれない。子どもをもうけない・もうけられないと判断している女性を、無理矢理に孕ませて、無理矢理に子育てさせて子どもが増えるようなことは、21世紀の日本では起こり得ない。
 
 だから、子どもを増やしたい・国の人口を回復したいと思ったら、やるべきことはきわめてシンプルなのだ。少なくとも、原理的にはシンプルである。
 
 日本全国の女性が、子どもを産みたくて育てたくて仕方がない状態をつくることである。子どもを産んで育てるほど幸せになれるとか、儲かって笑いが止まらないとか、そういう構図をつくれば、子どもは増える。それこそ、どんどん増えるだろう。
 
 逆に言うと、日本全国の女性に、子どもを産みたい・育てたいとモチベーションづけることができない限り、日本の人口は、絶対に、絶対に、絶対に! 増えることはない。子どもを生むという行為の、実務と決定主体の両方を女性が握っている以上、その女性が子どもを産みたくならない限り、人口が増加に転じることなどあり得ない。
 
 少子高齢化について、いろいろなことが言われて、いろいろな政策が採られている。子ども手当、待機児童問題の解決などは、やらないよりはやったほうが良い政策だろう。教育無料化などもそうだ。
 
 しかし、これらの政策は、いずれも「子育ての負担を減らすためのもの」「子育ての難易度を下げるためのもの」と女性には感じられていることだろう。子どもを産みたいけれども、経済的負担や育児問題があって躊躇っている人の背中を、ほんの少し押すようなものだ。この水準で、人口が増加に転じるほどの出生率増加――つまり、出生率が2を軽々と超えるような出世率――が生じるとは思えない。為政者も、そこまでは期待していないだろう。
 
 この個人主義社会においては、女性が子どもを産むほど収入が得られ、女性が子どもを順調に育てるほど収入が伸びるような状況にでもならない限り、出生率が増加に転じるとは思えない。現在でも、次から次へと子どもをもうける女性がいないわけではないが、数は少ない。大多数の女性が次々に子どもをもうける社会になるためには、子どもが増えるほど女性の年収が高くなって、子育ての上手な女性のなかから、出産と子育てを専業とするプロが現れるぐらいでなければなるまい。
 
 それこそ、子どもを6人立派に育てあげている母親の年収が、それだけで1000万~2000万円になるのが当然の社会が望ましい。
 
 国家が子育てに支払うとしても、民間が「子育てファンド」のようなかたちで支払うとしても、子どもと年収が直結することにグロテスクさをおぼえる人もいることだろう。私も、その一人である。
 
 だが、これほどまでに個人主義と資本主義が私達の価値観のうちに浸透して、それに基づいて個々人が行動を選択するようになった以上、挙児や子育ての領域でも、そういった価値観との辻褄合わせは必要なはずである。そして、その辻褄合わせができずにグズグズしている国は、子どもが減って国が傾いていくのが道理だろう。
 
 

それだけの政治決定が、日本でできるのか?

 
 やるべきことがシンプルでも、やってのけるための条件は複雑だ。
 
 女性が子どもを産むほど収入が増えて、順調に育てるほど収入が伸びるような社会を実現するのは、現在の日本の政治状況では困難である。
 
 これに近いことを成し遂げている国が無いわけではない。
 
 ひとつは、出生率の回復が報じられて久しいフランス、もうひとつは最近になって出生率が急速に回復したロシアだ。
 


 ※グラフはgoogleからの引用

 
 [関連]:日本以上に深刻な少子化問題を解決した、ロシアの大胆な「奇策」 - まぐまぐニュース!
 
 しかし、これらの国と同じことを日本でできるかといったら、なかなか大変そうである。
 
 フランスは第一次世界大戦以来――というより、ナポレオンが戦争をやりまくって以来――少子化問題に向き合い続けてきた。
 
 そのようなフランスと、半世紀前まで子どもが増えすぎることを心配していた日本では、少子化に対する合意形成の基盤は大きく異なる。フランスは、子どもを産む女性を助けるためにたくさんの手を打っているようにみえるが、そうした援助は、最近になって急に始まったわけではない。20世紀以前からの積み重ねの結果として、女性が子どもを産み育てやすい、現在のフランスができあがった。
 
 そうした歴史的経緯の無い日本で、フランスと同等以上の政策をいきなりやってのけるのは、政治状況から考えて不可能だろう。
 
 もっともっと日本が少子化問題に直面して、もっともっと少子化問題の痛みに苦しみ抜かない限り、フランス以上の政策を採れるような機運は生じないだろう。
 
 一方ロシアは、フランスほど長くは少子化問題に向き合ってこなかったが、プーチン大統領が就任して以来、少子化対策が動き出した。彼が就任する以前から、ロシアでも少子化は懸念されていたが、大した成果は得られていなかった。だが、強い権力の集中した大統領が動いたことで、ロシアは強い少子化対策を実現することができた。
 
 しかし、これはロシアという国の、強権的な大統領がやったことであって、議会制民主主義がしっかりと定着した日本でやれることではない。先日の選挙では安倍総理率いる自民党が大勝したが、その自民党ですら、プーチン大統領と同じことをやろうとすれば選挙で敗けてしまう――つまり、できない――だろう。強権的な政治構造のロシアにおいて、プーチン大統領という人物が出てきたからこそ、少子化対策に剛腕をふるうことが可能になった。
 
 こんなことが、“まともな”議会制民主主義をやっている日本でできるわけがない。
 
 フランスのように、少子化に向き合い続けてきた歴史的経緯も無く、ロシアのような、強権的な政治構造も無い日本は、結局、もっとスローな少子化対策しか採りようがない。そんななかで、ときの政府が実施している少子化対策は、かなり頑張っているほうだと個人的には思うが、これでは間に合わない。
 
 日本でフランスやロシア並みの少子化対策が進んで、たくさんの女性が子どもを産みたい・育てたいと思うようになるためには、もっと少子化問題にみんなが痛めつけられて、少子化を解決しなければ破滅しかないこと、未来を握っているのは、国でもイエでも男性でもなく女性個人であることを、骨身に染みるほど痛感しかければ、それに似つかわしい政治状況は立ち上がってこないだろう。
 
 

「母を大切にしない国はじきに滅ぶ」

 
 女性が子どもをどれだけもうけて育てるかは、国全体の命運を左右し、経済の行方をも左右する、一大事だ。その一大事が、女性それぞれの個人的な選択にゆだねられている以上、女性に対して豊富な選択肢を提供して、出産や子育てに携わる女性の立場や収入や権利を強化しない限り、国の衰退は不可避である。だというのに、そのための政治決定ができない日本という国は、まだ当分は衰退し続けることを余儀なくされるのだろう。
 
「出産と子育てのスペシャリスト」が、ひとつのキャリアとして尊敬されて、経済的にも社会的にも報われるような社会に日本が到達するのに、あとどれぐらいかかるのだろうか。
 
 母を大切にしない国は、父を大切にしない国や、老人を大切にしない国よりも早く、衰退するだろう。