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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「できる事」をどんどん捨てないと生きていけない

 
 三十代から四十代にうつる間に、私は、できることがものすごく増えた。
 
 今まで蓄積してきた知識の量が増え、それと関連書籍をリンクさせながら読書するようになったことで、一冊の書籍から汲み取れる情報量が飛躍的に増えた。十年前の私と現在の私では、読書の方法と効率がまったく違う。
 
 読書だけでなく、ゲームを遊ぶ時のプレイ集約性も、オフ会に参加する時のノウハウもますます高まった。自分で言うのもなんだが、この十年間で、私は驚くほど成長したと思う。体力や集中力の衰えを埋め合わせて余りあるものを、私は獲得してきた。
 
 ただ、できることが増えたけれども、体力や集中力が減った結果として、「できるけれども諦めなければならないこと」が増えた。
 
 あのゲームもこのゲームも面白そうだからやりたい。
 でも、体力や集中力が続かない。もちろん時間も足りない。
 
 今なら、あのスポーツもこの芸事も、若い頃よりよほど効果的に始められるだろう。
 でも、体力も時間も無いから、始めたくても始められない。
 
 「文章を書く」という一点についても、やりたいこと・できそうなことがもっと沢山あるのに、なかなか始められない。私はこのブログの他にも、ワインブログをひとつと、中期的~長期的なミッションの幾つかを持っているが、それらで手一杯で、それ以上のことができない。
 
 本当は私は、今までに遊んだすべてのコンピュータゲームの長短入り混じったレビューを書き記したサイトをつくりたい。それと、ワインを好きになるために必要な知識を、初めての人にもわかるように記したサイトもつくりたい。それから、ライトノベルやweb小説も本当は書きたくてしようがない。実際、プロットの骸骨のようなものはメモとしてたくさん転がっているが、これを肉付きの良いプロットに仕上げるための時間や、つくったプロットをテキストに転写するための余力が無い。
 
 どれも、十年前とは比較にならないほど精巧にやってのけられるだろう。他人の評価はともかく、自分自身が惚れ惚れとするようなアウトプットを完成させる自信はある。けれども、それらに手を出してしまえば身の破滅が待っているだろう。今やっている事すら仕上げられず、消耗しきった私は精神疾患か身体疾患にかかり、何もできなくなってしまうに違いない。
  
 だから、やりたい事をどんどん捨てないと、私はこれから生きていけないんだな、と思った。
 
 私の「選択すればできることリスト」には、実現可能性の高いいろいろなものの名前が並んでいる。正直、自分でも目移りしそうなぐらいで、中年期を迎えた自分自身に、まさかこれほどの選択可能性があるとは考えもしていなかった。そういう意味では、私は果報者だ*1
 
 しかし、知識や経験によってできることが増えた半面、それを実行するための体力や集中力や時間が目減りしてしまったがために、「選択すればできることリスト」から実際にチョイスできる選択肢の数は十年前より少なくなってしまった。あたかも、素晴らしいメニューの並ぶ居酒屋に入ったのに、胃袋が小さいせいで、2~3品しか注文できない人のようだ! もう、思春期の頃のように「あれもこれもつまみぐいしてから考える」なんて体力的・時間的余地はない。今、何かを選択するということは、他の何かを選択しないということに直結している。私は、「選択すればできることリスト」から何かを選んでいるつもりで、実は、選ばないものを捨てているのだ。そうやってできそうな可能性を捨てていかなければ精神的・肉体的に死んでしまうことがわかっているから、可能性のありそうなものでも切っていかざるを得ない。
 
 「可能性を切っていくこと」には、思春期の頃から慣れているつもりだったが、あの頃には、人生の時間はもっとたっぷりあるように思えた。けれども今は違う。自分に残された時間が少ないと肌で感じるようになったし、多くのことに「後回し」という言葉は適用できない。後回しにしている間に、私自身は年を取って、世の中も変わってしまうだろう。そもそも、私は一体いつまで生きて活動できるのか? 切ってしまった「できる事」は、たぶん、諦めなければならない。
  
 能力的な制約が減ったかわりに、加齢という、どうにもならない制約が堆積してきたことによって、私は、運命を、選択を、決めてかからなければならなくなった。今、選んでいることだけでもキチンとやっておかなければ! せめて、選んでしまった「できる事」を「できた事」にコンバートするために努めなければ! 歳月は、人を待ってはくれない。
 
 これは四十代前半の私が正直に思っていることで、五十代前半~六十代前半の私は、きっと違ったことを思うのだろう(もし生きていたらの話だが)。そして、この文章を十年後~二十年後の私自身が読み返すしたら、さぞ羨むかもしれない。が、ともあれ今こうやってブログを書いていること自体も「できる事」の取捨選択のひとつで、私は、この文章をどうしても書き残して、未来の私に伝えてみたかったのだと思う。
 
 「できる事」をどんどん捨てなければ生きていけないのだとしたら、せめて、選ぶべきものをキチンと選んで、選んだからには最善を尽くしていきたい。
 
 

*1:現代人のセンスでは、選択可能性が多いほど幸せで選択可能性が少ないほど不幸せということになっているから、そのセンスに則って言えば果報者、という意味でしかない点に注意

FC版ウィザードリィ30周年記念誌『ウィザードリィの深淵』に参加させていただきました

 
 
 
 去年の暮れ頃、こちらのウェブサイトを主宰しているPinさんという方から、FC版ウィザードリィ30周年記念誌『ウィザードリィの深淵』の「俺とWIZ」コーナーに参加しませんかとお誘いおいただき、短い文章を寄稿いたしました。*1
 
 それにしても、とんでもない同人誌です。
 
 FC版ウィザードリィのリリースに関わった人達のインタビューがびっしりで、凄いボリュームです。ウィザードリィ伝導師の須田Pinさん、Wizardry原作者のロバート・ウッドヘッドさん、FC版ビジュアルデザイン担当の末弥純さん、『隣り合わせの灰と青春』のベニー松山さんといった、錚々たる面々も含まれていて、資料的価値は相当なものだと想定されます。すでに30年の時が流れ、関係者の記憶が薄れてしまっている部分もあるようでしたが、今、記録しておかなればますます散逸してしまうものなので、FC版ウィザードリィを振り返るうえで、重要な資料になるのではないかと思います。
 
 それでいて、この同人誌は「同人誌らしさ」をも併せ持っていました。「俺とWIZ」コーナーには、たくさんのウィザードリィ愛好家の個人的な言葉が綴られていますし、遊び心のある企画が所々に散りばめられています。単なる「お堅い証言集」ではないんですよね。同人誌らしさっていうより、ひょっとしたら往年のゲーム誌らしさなのかもしれませんが、とにかく、懐かしい楽しさが宿っています。
 
 インタビューに登場している皆さんは、私よりもいくらか年回りが上なので、言及されている他ハードやゲームソフトの名前がすごく古かったです。PC-1200、PC-6001、PC-8801、『ゼビウス』『スペースインベーダー』『ハイドライド』『ブラックオニキス』……挙げていくとキリがありませんが、とにかく、コンピュータゲーム黎明期のゲーム少年がどんなハードでどんなゲームを楽しんでいたのかを垣間見せてくれます。パソコンショップの周辺で、ゲームマニア・マイコンマニアがどんな風に過ごしていたのかを思い出す民俗的資料としても、なかなか良いかもしれません。
 
 FC版ウィザードリィ30周年記念誌『ウィザードリィの深淵』は、5月14日のゲームレジェンドにて頒布予定とのことです。
 
 ウィザードリィが好きで、ゲーム黎明期の雰囲気が好きな人なら、手に取ってみる価値があるんじゃないかと思います。
 
 

*1:5月13日補足:主宰のPinさんと須田Pinさんは別人だそうです。てっきり同じだと思っていました!

内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしている人は、何もわかっていない

 
 
 「あいつらは、内容の無いことばかり喋っている」と言って、学校や職場の同僚を馬鹿にする人は多い。思春期にありがちなセリフかと思いきや、年配の人が、同じようなことを喋っているのを見て驚くこともある。ほとんどの場合、このセリフは人望が無い人の口から出てくる。
 
 いつも哲学している人や、いつも世界の重要事についてだけ考えている人は、世間には滅多にいない。いや、実のところ、「あいつらは内容の無いことばかり喋っている」と言っている本人だってそうなのだ。有意味なこと・重要なことだけを喋る人間など、まずもって存在しない。仮にいるとしたら、事務的な内容や数学の解法のような内容しか喋らない、ロボットじみた人間になるだろう。
 
 少なくとも、「あいつらは内容の無いことばかり喋っている」などという、内容の無いことをペラペラ喋ったりはしないだろう。
 
 

「コミュニケーションの内容」より「コミュニケーションしていること」のほうが重要

 
 人間同士のコミュニケーションのなかで、「コミュニケーションの内容」が本当に問われる場面はそんなに多くない。
 
 もちろん、業務上の指示やディベートの際には、内容こそが重要になる。しかし、日常会話の大半は、コミュニケーションの内容よりも、コミュニケーションをしていることのほうが重要だ。
 
 その典型が、「おはようございます」「お疲れ様でした」「おやすみなさい」といった挨拶のたぐいだ。
 
 挨拶には内容は無い。昔は、“お早うございます”にも内容があったのかもしれないが、もはやテンプレート化している今では、無いも同然だろう。だが、社会人になったら真っ先に挨拶が問われることが示しているように、コミュニケーションに占める挨拶のウエイトは馬鹿にできない。
 
 日和や季節についての会話や、女子高生同士のサイダーのような会話も、しばしば「内容のない会話」の例として槍玉に挙げられる。しかし、交わされる言葉の内容そのものにはあまり意味が無くても、言葉を交換しあい、話題をシェアっているということ自体に、大きな意味がある。
 
 言葉には、一種の“贈り物”みたい効果があって、言葉を交換しあうことが人間同士に信頼や親しみを生む。というより、黙っていると発生しがちな、不信の発生確率を減らしてくれる、と言うべきかもしれない。
 
 人間は、「私はあなたの存在を意識していますよ」「私はあなたとコミュニケーションする意志を持っていますよ」と示し合わせておかないと、お互いに不信を抱いたり、不安を抱いたりしやすい生き物だ。だから、会話内容がなんであれ、お互いに敵意を持っていないこと・いつでもコミュニケーションする用意があることを示し合わせておくことが、人間関係を維持する際には大切になる。

 

「空っぽのコミュニケーションが好き」も立派な才能

 
 だから、内容のなさそうな会話を楽しそうにやっている人達のほうが、内容の乏しい会話を馬鹿にしている人達よりも、コミュニケーション強者である可能性が高い。
 
 言葉を交わす行為をストレスに感じたり、厭ったりしている人は、この、“贈り物”としての言葉の交換をあまりやらないか、やったとしてもストレスと引き換えにやることになるので、そのぶん、信頼や親しみを獲得しにくく、相手に不信感を持たれてしまう可能性が高くなる。
 
 対照的に、言葉の交換がストレスと感じない程度に定着している人や、言葉の交換をとおして承認欲求や所属欲求を充たせる人は、ますます信頼や親しみを獲得しやすく、不信を持たれにくくなる。ということは、学校や職場での立ち回りにアドバンテージが得られるってことだから、「空っぽのコミュニケーションが好き」は立派な才能だ。
  
 こうした言葉の交換の効果は、いつも顔を合わせる間柄、日常的に顔を合わせる間柄においてモノを言う。毎日のように顔を合わせて言葉を交わすからこそ、毎日の挨拶やコミュニケーションが大きな信頼や親しみを生むし、そこらへんが不得手な人は、不信の芽を育ててしまいやすい。挨拶も世間話もせず、飲み会にも出席しないような人は、遅かれ早かれ孤立する羽目になるだろうし、その孤立によって、成績や業績の足を引っ張られやすくなるだろう。
 
 だから、「内容の無いコミュニケーション」「空っぽのコミュニケーション」を馬鹿にしている人は、何もわかっていない、と言える。職場で最適なパフォーマンスを発揮し、チームワークを発揮していきたいなら、むしろ、挨拶や世間話を楽しんでいる人をリスペクトして、その才能、その振る舞いを見習うぐらいのほうが良いのだと思う。もちろん、挨拶や世間話は出来るけれども業績や成績がまったくダメな人もやはりダメなのだが、自分の業務や成績のことばかり考え、言葉の交換を軽んじているようでは、渡世は覚束ない。
 
 

「空っぽのコミュニケーション」上手になるためには

 
 じゃあ、どうすれば「空っぽのコミュニケーション」が上達するのか?
 
 一番良いのは、子ども時代から挨拶や世間話を毎日のように繰り返して、そのことに違和感をなにも覚えない状態で育ってしまっておくことだと思う。毎日挨拶ができること・世間話を楽しむことには、文化資本(ハビトゥス)としての一面があるので、物心つかない頃からインストールしてしまっているのが一番良い。
 
 だが、一定の年齢になってしまった人の場合は、自分の力でコツコツと身に付けていくしかない。その際には、会話の内容だけでなく言葉を交換すること自体にも重要な意味があることをきちんと自覚して、「こんな会話に意味は無い」などと思ってしまわない事。それと、そういう会話を上手にこなしている人達を馬鹿にするのでなく、社会適応のロールモデルとして、真似できるところから真似ていくことが大切なのだと思う。
 
 そしてもし、今の職場で挨拶や世間話をする機会が乏しいなら、そのままほったらかしにしておかないほうが良い。世の中には、挨拶や世間話をする機会が非常に乏しく、業務上のやりとりだけの職場も存在するが、それをいいことに言葉の交換をおざなりにしていると、じきに「空っぽのコミュニケーション」ができなくなってしまう。そのような人は、職場以外でもどこでも構わないから、挨拶や世間話を実践して、「空っぽのコミュニケーション」ができる状態をキープしておいたほうが良いと思う。いざ、「空っぽのコミュニケーション」が必要になった時、慣れていないととっさに出来ないものだから。
 
  

認められたい

認められたい

 
 →つづきはこちらです。

「ここで認められないと詰む」は詰む

 
 新年度が始まって1カ月。
 
 新環境は、社会のなかの“ふるい”のようなもので、新環境になじんで適応できるか否かを試しているようなふしがある。学校や職場がコロコロと変わる現代社会では、「新環境になじんで適応する」という課題は、まず避けてとおれない。
 
 新しい職場や新しい学校に慣れるのは辛い。慣れていないことに取り組むと体力や精神力を消耗するし、なにより、新しい人間関係を作り直すのが大変だ。長い人類史のなかで、そういった課題を突き付けられていた人が一握りだったことを思えば、これはけっこう理不尽なことだと思う。

 この時期、新環境についていけない人のことを俗に五月病と呼ぶ。しかし、冷静に考えてみれば、進学や就職や異動のたびに新しい人間関係を毎回作り直して、毎回うまくいくってのは、どこか奇跡的な気がする。常識を脇に置いて考えると、人生のなかで二度や三度ほど五月病めいたエピソードがあるほうが、人間としては自然ではないだろうか。

 

「絶対認められたい」と力んでしまう人々

 
 新環境にうまく適応し、そこで認められたいと願うこと自体は、人としておかしくない。だが、絶対に認められたいと思い込んだり、この仕事・この課題を死守しなければならないと思い詰めてしまうと、かえってうまくいきにくくなる。周囲の期待や評価を自分の味方にできる人は、いるようでいて、案外と少ない。

 どういう時に、人間は「絶対に認められよう」と力んでしまうのか。
 
1.ひとつは、目の前の新環境以外の、承認欲求や所属欲求の補給線が乏しい場合。
 
 新しい学校や職場に適応できるかどうかは、これからの社会生活を左右するファクターだから、そこを重視するのは当然だ。だが、新環境に適応するにあたって、周囲の期待や評価はどのていど必要なものだろうか? 実際には、絶対に認められようと力んでいる人が感じているほど、期待や評価を集めなくて構わないこともあるし、後述するように、時と場合によっては、期待や評価を集め過ぎないほうが良いことすらある。

 ところが、承認欲求や所属欲求の補給線の乏しい人には、そういう醒めた目線が難しくなる。なぜなら、よそで承認欲求や所属欲求が充たせていなければ目の前の学校や職場で充たすほかなく、そこに自己評価を全賭けするしかなくなってしまうからだ。自己評価の一部が賭けられているのでなく、全部が賭けられているとしたら、緊張したり足がすくんだりしてしまうのは無理もない。 

 反対に、家庭や趣味仲間や地元コミュニティに、承認欲求や所属欲求の補給線をなにか持っている人は、新環境ですぐさま認められなくても、自己評価がゼロになってしまうおそれがない。なぜなら、自分が認められるレイヤーが複数あって、一か所で自己評価がなかなか高まらなくても、それで自己評価が全滅してしまうおそれが無いからだ。こういう人は、一度に複数のレイヤーで同時につまづくか、過労や消耗といった身体的ダメージが蓄積するかしない限り、相当しぶとい。

2.もうひとつは、今まで失敗経験があり、余計に力が入り過ぎている場合。就職に失敗し、「今度こそは」という思いで再就職する人に割とみられるパターンだが、「今度こそは」という気持ちは、ときに、人を無駄に力ませる。無駄な力みは違和感となって周囲に伝わりやすく、ただそれだけで適応を難しくする。「うまくいかなくてもいいから、やってみる」ぐらいの気持ちのほうが、この点ではまだしも有利だ。

3.また、若い人の場合は、それと正反対な人も見かける。今まで失敗らしい失敗をしたことがない……というより、失敗できない人生を歩いてきた人の「絶対に認められたい」。良い高校に入り、良い大学に入り、課外活動も立派で、良いところに就職する……といった、他人が羨むような人生にみえる若者の内心が、じつは金ぴかのレールから逸れてしまうことへの強い不安に満ちていて、いつも金ぴかのレールの上で認められていなければ生きていられない、といった境地のことはよくある。

 いわば、自己評価を金ぴかレールの上に固定してしまっているタイプだが、伊達に金ぴかレールを歩き続けていないというか、これまで培ってきた有能さと根性で、あるていど周囲の期待や評価を勝ち取れることも多い。そのかわり、いったん新環境からドロップアウトし、今までどおりには認めてもらえないと感じはじめると、自分が認めてもらえていないという未経験の状況に対応できないまま、不適応を重ねて泥沼に陥ってしまう。本人も、こうした弱点を無意識のうちに知っているので、絶対にレールから逸れないように努めてはいるが、そのことを他人に察知されて、いいように利用されてしまうこともある。
 
4.あと、意外と軽視できないのが、頑張って認められようとして、その頑張りが等身大の自分よりも高い評価を呼び込んでしまい、新環境に適応するハードルをみずから高めてしまう人。
 
 新環境のなかで期待や評価を集めるのは、一般に、良いこととみなされている。確かに、給与や昇進やコネクションといった点でみれば、「あいつは期待できる」「あの人、なんかいいよね」と思われるのは良いことかもしれない。だが、そういった期待や評価が、より難しい課題を・より早く呼び寄せてしまうこともある。本人としては、とにかくも新環境に適応しようと頑張っているつもりが、かえって適応のハードルを高め、苦しめてしまっていることが往々にしてある。人生経験を積んだ後はともかく、まだ若いうちは、そうした行き過ぎた適応による自縄自縛の罠にハマる人は案外いる。この自縄自縛を経験した人は、どこまで認められるのが自分にとって適正で、どこからが不適(または無謀)なのか、考え直さなければならない。
 
 なお、先に挙げた金ぴかレール系の優秀さに囚われている人などは、そこらへんを上司や同僚に察知されてしまい、難しい課題を処理するポジションに、良いように転がされてしまう危険性が高くなる。「絶対に認められたい」というこだわりは、見える人には手に取るように見えるので、付けこまれる隙となる。難しいところかもしれないが、そういう人は、どこかで適度に挫折したり認められずに落胆したりしておいたほうが、人生の防御力があがる。
 
 

「ここで認められないと詰む」は詰む

 
 ツラツラ書いてきたが、何が言いたいのかというと「認められなくてもいいや」って気持ちが本当は大事だよね、ということと、そういう気持ちを成立させるための前提条件に気をつけなきゃいけないよね、ってことだ。新しい学校や職場に適応し、ちゃんと認められる状態になるに越したことはないけれども、そのことで心がいっぱいになるような状態を避けるためのコツみたいなものが、人生を転がしていくにはあったほうが良いと思う。

 で、新著でも書いたけれども、その結構大きなウエイトは承認欲求や所属欲求の補給線を分散させること、「認められたい」を充たせるレイヤーを複数もっておくことにかかっている。金銭欲や栄達欲しか見ていない人には、一見、無駄にみえたりコストパフォーマンスが悪かったりする付き合いや趣味の世界が、「ここで認められないと詰む」を軽減させるためのバッファとして、あるいは自己評価のリスクヘッジ先として有効に機能している人はたくさんいる。人生や自己評価を一点集中させるのは、思うほど効率的な生き方ではない。

 ただし、付き合いや趣味の世界などにかまけ過ぎると、今度は時間的・体力的に死ぬことになるので、どこらへんが自己評価のリスクヘッジと、時間的・体力的に死ぬことの妥協点になるのか、それぞれに自分の答えを探して、一番良いところに持っていく必要がある。
 
 それと、経済的にも死なないように。極論を言うなら、メチャクチャにお金を使って承認欲求や所属欲求を充たして「ここで認められないと詰む」をリスクヘッジできるほどの金銭的余裕があるなら、やっちゃったって構わないのだと思う。でも、ほとんどの人はそこまでの金銭的余裕が無いはずだから、経済的に死なないための配慮は必要だ。
 
 この視点で考えると、トータルとしての適応ゲームは、「認められたい」を巡る自己評価のリスクヘッジと、時間的・体力的制約と、経済的制約の妥協点探し、に限りなく近くなる。

 この3つの要素は、個人によって強弱がまちまちなので、自己評価のリスクヘッジをあまりしなくて大丈夫な人とそうでない人、時間的・体力的な制約が少ない人と大きい人、経済的制約が緩い人と厳しい人では、適応ゲームの最適解もまちまちになる。だから、ある人にとっての最適解が、別の人には「ものすごくお金を無駄遣いしている」ようにみえることもあるだろう。このあたり、自分で考えて、自分でその加減を調整していくしかない。

 適応ゲームの最適解がまちまちになるということは、人生の最適解もまちまちになるということだ。そのなかで、ときに笑い、ときに苦しみながら、人の人生はなるようなかたちに収まっていくのだろうし、収めていくほかないのだろう。こうしたことは、三十代や四十代にもなれば大半の個人が気付くものだけど、十代や二十代のうちから勘付いて、実行できる人はあまりいない。

 なので、今、「ここで認められないと詰む」と思い込み始めている若い人は、とりあえず、疲れているなら神経を休めて、少しゆとりがあるなら旧交を温めたりして、自分自身がグラグラ煮え過ぎないよう、軌道修正してみて欲しいと思う。そして今すぐは難しいとしても、自分自身にとっての適応ゲームの最適解を、少しずつ探してみて欲しいとも思う。
 
 

認められたい

認められたい

 

傑作ワインの基準で、傑作アニメについて考えてみる

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 No.I don't think so.
 
 私はid:orangestarさんから、このように言及されるとは思っていなかったので、驚いてしまいました。たとえるなら、「はてなシティの海辺で小魚を網で捕っていたら、突然、空から鯛のおかしらが降ってきた」ような驚きです。
 
 さておき、私も自分の意見ってやつを書き並べて、インターネットディベートごっこをやりましょう。「違った意見」をぶつけあってホカホカできる相手って、あまり見つからないですからねえ。
 
 

「傑作の定義は人それぞれ」という原則論に立ったうえで

 
 まず、あらかじめ断っておきたいのは、「傑作」という言葉の定義は曖昧だ、ということです。リンク先の記事についたはてなブックマークにも、さまざまな「傑作」定義に基づいたコメントが並んでいますね。「傑作とはなにか」の定義は人それぞれであって構わないでしょう。また、同一人物においても、時と場合と対象によって定義の揺らぎが生じるはずです。
 
 ただし、これでは「傑作」について意思疎通がとれなくなってしまうので、「私が語る傑作とは」「ここでいう傑作とは」みたいな但し書きが必要になります。
 
 ひとつ前の記事でも、私は
 

『鉄血のオルフェンズ』を、私は傑作と評することはできません。ただ、ここでいう「傑作」とは、セールス良好で、みんなの話題と記憶に残るような作品になる、という意味です。この視点で言うと、『Vガンダム』『ガンダムF91』といった、一部の愛好家に熱烈に愛される作品は「傑作」に含まれません。もちろん『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も「傑作」に含まれず、どちらかというと『けものフレンズ』や『魔法少女まどかマギカTV版』あたりのほうが「傑作」という認識です。

 と書いていて、ここではセールス良好でみんなの話題と記憶に残るような作品を意味していますよー、と前振りをしています。
 
 ですがちょっと失敗もしました。私は「傑作たるもの、完成度が一定の水準に達していて、破綻や欠点が大きすぎず、そのジャンルのほとんどの愛好家が高い評価を与えざるを得ない」と付け加えておくべきでした。なぜなら、『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も、あれはあれで社会現象に繋がるほどセールスに貢献し、みんなの話題と記憶に残る作品だったからです。でも、私は『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』を「傑作」とは呼びません。24話までは、傑作と呼んで差し支えなかったでしょう。でも25話と26話は事実上未完成*1だったので、TV版だけでは「傑作」と呼ぶのは憚られます。劇場版の25話と26話が加わって、ようやく「傑作」らしくなりました。
 
 このような考え方は、ワインを楽しんでいるうちに身に付き、他ジャンルの鑑賞にも適用されるようになったものなので、それについてツラツラ述べてみます。
 

*1:ちなみに私自身はあの25話と26話がものすごく“好き”で、私の人生を変えたのはここだと思っています。自己啓発セミナーみたいだって?うるせえんだよ!

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