シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

彼らの考える「ブログ世界」の此方と彼方、それとタロットについて

www.dshocker.com
 
 こんにちは、大彗星ショッカーさん。いや、中川龍さんとお呼びすべきだと思うので、ここからは、中川さんとお呼びします。お久しぶりです。お互い、こうやってインターネット上で消息が続いていること、ご壮健でいらっしゃることを嬉しく思います。
 
 中川さんの記事で、

彼らは、はてな村周辺になんか昔からいる、ひたすら趣味やオピニオンについて語っている人達です。

彼らは収益化を目的としていないので、とくに何かを達成したわけではありません。

しかしそれでもひたすら文章を書き続けています。

時にはブログを通じて喧嘩しあったりしてます。

ようするに「奇人変人」の類です。

 と書いていらっしゃいました。
 
 奇人変人認定ありがとうございます。「はてな村の奇人変人」と書かれると、ああ、そういう風にみえるのかという感慨の後に、そうかもしれないな、という納得が追いかけてきました。また、中川さんは
 

 彼らはネガティブだし、陰湿だし、人の悪口が多い。

だからあんまり合わないんですよね😢

でも彼らもブロガーとして存在していることは事実なので、せっかくなので入れてあげてください。笑

 
 と付け足すのを忘れませんでした。
 
 私は、10年前と比べれば1/4ぐらい、5年前と比べても1/2ぐらい、人の悪口を書かないように心がけてきたつもりですが、まだまだ修行が足りないと反省をしました。どんなに繕ってみせたところで、私の性根はそれほどキレイではなく、功徳が足りないのでしょう。
 
 中川さんについても、かつて、良くない言及をtwitterでしたことがあるのを私は覚えています。当時の中川さんの活動に、私が疑問を感じていたのは事実でしたが、それは口に出すべきではない、大きなお世話のたぐいだったと今は思っています。
 
 私自身がネットでやりたかったことと、当時の中川さんがネットでやろうとしていたことのギャップを、あの頃の私は許容できていなかったのでしょう。世代も境遇も目的も違う者が、ブログという共通の媒体を使っているというだけで、同じであるべきだと思ってしまう程度には、私は浅はかだったのだと思います。
 
 さて、今回、中川さんは、藤沢篤さんがつくった「Blopedia」なるものに言及しておられました。
 
ブロガー界の地図「ブロペディア」 | ふじさわブログ
 
 
 この「Blopedia」は、発表のすぐ後から私も知っていました。
 
 しかし、ブロガー界の地図をうたったこのリストに、自分の名前はもとより、自分が敬愛する(旧)はてな村出身のブロガーも、あるいはfinalventさん、ohonosakikoさんといった、もっと年上で、私以上に「奇人変人」的にうつるかもしれない、しかし内容のまっとうなブロガーの名前は出てこないだろうとも予測していました。
 
 はたして、一読してみると、私のような「奇人変人」はもとより、さきに挙げた、もっとキャリアの長いブロガーや、はてなブログ~Books&Apps方面で活躍している綺羅星のようなブロガーの名前も発見できませんでした。「Blopedia」の掲載基準条件を確認したところ、私は完全にクリアできているようでしたが、藤沢さんのブログ世界には私は存在しません。
 
 そうしたこともあって、私は、この「Blopedia」なるリストを、ひとつの世界観としてまずは眺めることにしました。編者たる「藤沢さんにとってのブログ世界」がここに網羅されていると捉えれば、そこから読み取れる世界もあるでしょう。
 
 「Blopedia」は、ある種の秩序だった考えや約束事にもとづいた世界のように、その外側に位置付けられた私には読めました。年来のブログ勇者であるコグレマサトさんが、なぜか第二世代という不自然な位置に存在していることにも意識を差し向けながら、この、「Blopedia」に記されたブログやブロガーがどのような序列関係にあって、どのような秩序世界がここに記されているのかを私なりに推測して、しばし楽しみました。
 
 ま、私のようなブロガーを「Blopedia」に載せても、編者側になんにもメリットが無いということは、よく察せられました。
 
 

ふたつのブログ世界の両方が見える人

 
 そういう、きっと美しい秩序と序列で完成したブログ世界であるところの、藤沢さんの「Blopedia」を、ちょっとわかりやすくしてくれたのが中川さんでした。
 
 中川さんは、「Blopedia」で示されたブロガー世界のウチとソトの両方を知っている、否、意識せずにはいられない人だったのでしょう。「Blopediaには、はてな村の奇人変人が載っていない」というご指摘は、「Blopedia」の秩序だったブロガー世界の外側にも、まがりなりにもブロガーが棲息していることをさし示すものでした。
 
 「Blopedia」を作った藤沢さんが見ているブログの世界と、私が親しんでいるブログの世界は、たぶん水と油に近いものなのだと思います。双方が混じり合う機会は、あまり無いのでしょう。
 
 対して、中川さん、それからたぶんヒトデさんあたりは、両方のブログ世界を知っているのですよね。そういう立ち位置にある中川さんからは、ブログの世界の全体はどのように映るのでしょうか?ブログの此方と彼方を、どんな風にご覧になっているのでしょうか?
 
 あっ、答えは出ていましたね。
 「奇人変人」が私が親しんでいるブログ世界に与えられた名称でした。
 
 しかし「奇人変人」とはいえ、世界に存在すると認識されるだけでも、嬉しいものなのだなぁと私は感じました。中川さんにはそれほど良い思い出が無いかもしれない、はてな村近辺のことを覚えていらっしゃって、とりあえずも言及してくださったこと、深く感謝します。
 
 おそらく、「奇人変人」という評は、2017年のブログ世界において、適切なのでしょう。“いわゆる”ブログ世界の主要な価値観は、「Blopedia」のようなもので、どこをどうあがいても、私のようなブロガーや、私に近いスタイルのブロガーは「奇人変人」の少数派なのでしょう。そのことを胸に刻み付けて、それでも私は自分がやりたいブログライフをこれからも続けていきたいと思います。
 
 

ところで中川さん、タロット占い、怖くないですか?

 
 この機会に、中川さんにタロット占いのことについて聞いてみます。というより、中川さんに質問する体裁で、私の、タロットカードに対する畏れを吐き出させてください。
 
 中川さんは、タロット占いを専業されているので、たぶんそんなことはないと思うのですが、私はタロット占いが怖くて仕方がありません。
 
 私は、二十代の前半にライダー版のタロットに出会い、しばらくの間、夢中になっていました。ことの始まりは、ひとりのタロット占い師に教えを乞うたこと、それからこのタロットのサイトを発見したことでした。90年代の終わりにこのサイトに出会って、まずは大アルカナ/小アルカナの意味を暗記するまで読みました。そこを出発点として、あれこれ勉強したり、タロット占いの実践に励んだ時期もありました。
 
 しかし、やっているうちにだんだん怖くなったのです。
 
 私がいちばん慣れ親しんだタロット占いは、ケルト十字法でもヘキサグラムでもなく、五枚のカードを使ったものでした*1

 1.[大過去・本来持っている性質]
 2.[近い過去にあったこと]
 3.[現在の状態]
 4.[近い未来に起こること]*2
 5.[遠い未来に起こること]*3
 
 専らこの方法でやっていたのですが、とにかく当たって当たって、おっかなくなってしまったのです。
 
 私がタロット占いに凝っていたのは2000~2005年頃でしたが、この時期に行ったタロットの予後を追いかけてみると、百発百中とはいかないまでも、かなりの精度で的中していました。5.遠い未来に金貨のクイーンを引いた人は円満に結婚し、ソードの5を引いた人は波乱に満ちた状況に陥り、恋愛相談で死神を引いた人は当然のように別れました。もっと穏当なカード、たとえばワンドの2を引いた人や金貨の8を引いた人なども、それらと矛盾しない生活を過ごしているようにみえました。
 
 そういった経験を繰り返すうちに、私はだんだん自分のタロットカードが恐ろしくなってしまいました。「タロットカードは人生のあらゆる場面を描いているから、当たったような気がするものに過ぎない」と反論する人もいるでしょうし、「印象強いものだけが記憶に残っているに過ぎない」と指摘する人もいるでしょう。タロットカードは自己成就の暗示を与えるに過ぎない、という人もいるかもしれません。それらを否定するすべを私は持ち合わせていません。
 
 どちらにせよ、タロットカードが本当に人間の未来を覗いているかのような感覚に、私は参ってしまって、とうとうタロットカードで占うのをやめてしまいました。
 
 中川さんは、たくさんの人のタロット占いを、より専業的にやっておられるので、こうした感覚に怖さを感じていないか、感じてはいるけれども上手く折り合いをつけて占いを続けておられるのでしょう。あるいは、プロフィール欄の記述どおりに、啓発の手法と割り切って使っておられるのかもしれません。
 
 それでもタロットカードを手にしているからには、カードが示す内容と、クライアントから感じられる執着や願いや呪いとの合間に立って、いろいろなことを感じておられるのではないかとは思います。そのあたり、どうやって折り合いをつけていらっしゃるのでしょうか。結構、大変じゃあないですか?
 
 タロットカードを見つめて、クライアントをも見つめている中川さんは、きっと、ブログの世界のこともよく見つめていて、いろいろなことを考えてらっしゃることでしょう。たまにで構いませんので、あなたのインターネット観やブロガー世界観などをきかせてくださいね。そして、これからもご活躍ください。
 

*1:もう、そういったフォーマルなカードの並べ方は、すっかりご無沙汰になって忘れてしまいました

*2:五年以内ぐらいのスパン

*3:五年超ぐらいのスパン

バリューを捏造するインフルエンサーは要らない

ワインの帝王ロバート・パーカー

ワインの帝王ロバート・パーカー

 
 ロバート・パーカーというワイン評論家をご存知だろうか。
 
 彼の名は世界じゅうに知れわたり、彼がワインをどう評価するのか、ワイン愛好家は知りたがっている。ボルドーやカリフォルニアの高級ワインを買う際に、“パーカーポイント”を参考にする人は少なくないだろう。
 
 と同時に、パーカーはワインのバリューを掘り起こす人でもある。
 
 彼が高得点をつけたワインは、値段が高くなることが多い。もともと高級で有名なワインに限った話ではなく、無名なワインをパーカーが高く評価すると、一躍、ワインが認められて値上がりすることもある。
 
 ロバート・パーカーという人は、ワインを品定めする人であると同時に、ワインのバリューを作り出している人とも言える。まさに、ワイン界を代表するインフルエンサーだ。
 
 

ネットには怪しいインフルエンサーがいっぱい

 
 翻って、インターネットのインフルエンサーはどうだろうか。
 
 昨今のインターネットには、インフルエンサーに相当する人、インフルエンサーを目指している人が多い。何かを創作する人と同じくらい、何かを紹介する人、情報のハブ、キュレーターとかいったものに憧れる人が多い。
 
 インフルエンサーになるためのセミナーのたぐいに、人が集まるような情勢である。
 
 では、インターネットのインフルエンサー諸氏は、バリューを作り出しているのだろうか。
 
 そういう人もいる。
 
 昔の、いわゆるニュースサイト管理者は、どこからともなく無名な面白さ、無名な有用さを見つけてきて紹介していた。それで日の目を見たコンテンツも少なくないだろう。まさに、インターネット上のインフルエンサーと呼ぶにふさわしかった。
 
 その後も、インターネット上のいろいろなサービスに、同じようなインフルエンサーが現れた。それぞれのインフルエンサーの価値観を反映した、それぞれの紹介によって、新しいものが広まって、無名なものにバリューが生じた。それは、基本的に良いことだったと思う。
 
 しかし、インターネット上のすべてのインフルエンサーが、バリューを生み出したとは言い切れない。影響力のあるアカウントによる、ステルスマーケティング(ステマ)の問題は何年も前から騒がれているし、影響力にあぐらをかき、真贋の定まらないネットサービスを推すインフルエンサーもいる。
 
 無名なものにバリューを生み出すのは、インフルエンサーの良い面だが、無名であるべきもの、本来は無価値であるか有害ですらあるものに偽りのバリューを与え、平気な顔をしているようなインフルエンサーは、インフルエンサーの面汚しではないだろうか。
 
 バリューを捏造して平気な顔をして、捏造によってみずからが利益を得るようなインフルエンサーは、インターネットには要らない、と私は思う。
 
 

定見の有無をよく見極めよう

 
 もちろんインフルエンサーとて人間だから、完璧でも万能でもない。
 
 冒頭で紹介した、ワイン評論家のロバート・パーカーにしても、すべてのワインマニアから全幅の信頼を集めているわけではない。「濃いワインを贔屓しているのではないか」「繊細なワインがわかっていないのではないか」といったパーカー批判は、ときどき耳にする。
 
 しかし、およそ彼が高得点をつけたワインには、“パーカーが高得点をつけそうな”美質が見つかる。そういう意味において、彼は信頼できるインフルエンサーだ。ロバート・パーカーには定見があると言える。評価がブレないからこそ、その人ならではの偏りがあったとしても信頼できる。
 
 これは、インターネット上のインフルエンサーにも言えることだろう。
 
 信頼できるのは、なんらかの定見がみてとれるインフルエンサーだけだ。無定見なインフルエンサーの評価など、まったく信頼するに値しない。ましてや、自分の利益のためなら、なんでもレコメンドし、いつでも手のひらを返すようなインフルエンサーの言うことを、どうして信頼できるだろうか。
 
 バリューを捏造するインフルエンサーほどではないにせよ、無定見なインフルエンサーもたいがいである。情報の受け手の立場からすれば、山師のたぐいとみて差支えない。人を惑わせる、悪い存在である。
 
 

マミさんには解脱や涅槃は似合わない。菩薩行がよく似合う

 
anond.hatelabo.jp
 
 『魔法少女まどか☆マギカ』の巴マミさんにかこつけて、初期仏教の素晴らしさを説く記事を見かけました。
 
 なるほど、初期仏教が良いことに異存はありません。
 
 しかし、大乗仏教を信奉し、マミさんの魅力もまた大乗仏教的だと感じる私としては、「いや、マミさんがしっくり来るのは初期仏教じゃなくて大乗仏教なんじゃないか?」と思ったので、制限時間40分で思うところを書いてみます。
 
 

マミさんには解脱や涅槃なんて無理ですよ

 
 まず、マミさんには阿羅漢だの解脱だのといった、仏教でいうところの自力本願が難しいと考えざるを得ません。
 
 もともと、魔法少女とは、執着の強い存在です。
 
 何かを願って奇跡を起こす存在としての魔法少女。強く何かを願えること、強い奇跡を起こせること自体、その背景として、強いエネルギーを、執着を必要とせずにはいられません。暁美ほむらにしても、彼女が諦めることなく時間を巻き戻して戦えたのも*1、それだけ、彼女がまどかという存在に執着を募らせていたこそからでしょう。
 
 強い魔法少女には、強い執着がある、と考えて差し支えないのではないでしょうか。いや、現世においても、強い人間には、強い執着があるように思われますが。
 
『魔法少女まどか☆マギカ』という作品自体が、そういった執着や囚われの因業が巡っていく作品なわけですから、初期仏教の目指すような阿羅漢の境地に辿り着くのは、なかなかに困難でしょう。
 
 で、マミさんについて考えるなら、尚更と言わざるを得ません。
 
 彼女には執着の片鱗がたくさんみられます。
 
 後輩に対して良き先輩でありたい。
 
 綺麗な住まいに住んで、甘いお菓子を後輩と一緒に食べていたい。
 
 一人ではいたくない。
 
 自分の技芸に、それらしい名前*2をつけずにはいられない。
 
 冒頭リンク先の筆者さんは、マミさんについて
 

たとえばマミさんは現在こそ後輩女子との姉妹愛を求める中学生ですが
更に孤独感を深めると飲酒や妄りなセックスを覚えて依存していきがちなタイプに見えます。注意が必要です。

 と、まるで、一世代前の聖職者が若い女性を戒める時の台詞めいたことを書いていますが、とにかく、彼女に執着があるのは事実でしょうし、その執着が最悪のかたちで具現化すれば、飲酒やセックスに溺れるといったことも無いとは言えないかもしれません。
 
 もちろん、魔法少女の場合は、飲酒やセックスに溺れる以前に、「ソウルジェムが濁る」のでしょうけれど。
 
 
 話を戻しましょう。
 
 とにかく、そういう、執着が露わにみてとれるマミさんが、瞑想だなんだで阿羅漢の境地、解脱の境地に辿り着けるとは、私には思えないのです。
  
 もちろん、仏教の基本のひとつである「戒」は、魔法少女にも有用だとは思います。真言宗智山派、智積院のウェブサイトから十善戒を引用すると、
 

不殺生(ふせっしょう)むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)うそをつかない
不綺語(ふきご)無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)まちがった考え方をしない

http://www.chisan.or.jp/taiken/juzenkai/

 これらは、在家の大乗仏教徒でも守りなさいと勧められているものです。
 
 こうした「戒」は、自分の執着が汚れた方向に向かわないようにするための、つまり、ソウルジェムが汚れてしまわないようにするための、一種のライフハックみたいなものです。仏教に限らず、一神教の領域にも「戒」に相当する決まり事はあるでしょう。
 
 現実の人間であれ、魔法少女であれ、こういった心がけは健やかに生きていくにあたって重要なものです。
 
 とはいえ、24時間、完璧にこれらを守りきれる人なんてまずいません。
 
 「戒」を守って、慈悲を念じて、瞑想すれば誰でも解脱や涅槃に辿り着けるなら、世の中は、もっと解脱した人で溢れているのではないでしょうか。しかし現実はそうではなく、仏道を真面目にやっている人も執着にまみれて生きているし、運動・野菜・瞑想をやたら推している人達にしても、阿羅漢や解脱の境地からは程遠いわけです。
 
 である以上、マミさんが初期仏教の方向で自力本願に励んだとしても、執着を寂滅する境地には至らず、もがき続けるのではないでしょうか。
 
 

あのとき、マミさんはキュウべえに「涅槃」を願わなかった

 
 
 そもそも、マミさんが事故に遭ってキュウべえが現れた時、彼女は「涅槃」を願うべきだったのではないでしょうか。
 初期仏教のゴール設定から考えるなら、そうならざるを得ません。
 
 キュウべえをもってすれば、一人の人間が阿羅漢になる程度の奇跡など朝飯前でしょう。宇宙全体の因果の流れを改変してしまうのでなく、一人の人間が因果の流れから出ていくだけなら、彼の生業にもあまり影響はないでしょうし。
 
 しかし、マミさんは「生」を願いました。自分だけの生を願ったのか、家族全員の「生」を願ったのかちょっとわかりませんが、とにかく、願いが「涅槃」でなかったのは確かです。マミさんは生きていたかったのです。
 
 私は、「涅槃」を願うことなく、生きることを選んで、ときには美しく、ときにはみっともなく生きあがくマミさんのことが大好きです。解脱や涅槃を願うなら、生きあがく人間が好きなどと言ってはいけないのかもしれませんが、思うに、『まどか☆マギカ』という作品の魅力の80%ぐらいは、そうやって生きあがく人間達の、美しさやみっともなさで成り立っているのではないでしょうか。
 
 

マミさんは菩薩だ。菩薩の道を歩んでいらっしゃる

 
 で、マミさんが魔法少女になった後に何をしたのかというと、魔女から人々を守るために孤軍奮闘し、まどか・さやかに出会ってからはできるだけ良き先輩であろうと努めたのでした。
 
 第三話で語られていたとおり、マミさんは、自分が魔法少女になってしまったことに不安もあったし、寂しさも抱えていました。その後の展開が教えてくれるとおり、マミさんは不完全で、弱さも抱えた人間だったわけです。
 
 それでもマミさんは、魔法少女として、あるいは一人の人間として、他人に対して自分ができることを為そうと努めていました。
 
 もちろん、そうした努めのなかには、彼女自身の執着によって駆動していた部分もあるでしょう。彼女の活動は、純粋に他人のためだけに尽くしていた、とは言い切れない部分もあります。
 
 でも、人間のやることなんて、多かれ少なかれそういうものじゃないですか。私は、マミさんの活動の動機のなかに、彼女自身の執着が混じっていることを批判できません。だって、それが人間ですから。
 
 (私が理解しているところの)大乗仏教では、解脱や涅槃といった“ゴール”に辿り着いていなくても、世の中のために出来る限り頑張っていく人のことを菩薩と呼びます。
 
 菩薩といえば、地蔵菩薩や弥勒菩薩などが有名で、阿弥陀如来や釈迦如来と何が違うんだと思う人もいるかもしれません。が、悟りを開いて文字どおり成仏している如来とは違って、菩薩はいまだ修行中の身です。あるいは成仏なんて二の次にして、衆生を救うために頑張っているのも菩薩です。
 
 そうやって考えていくと、魔法少女ってのは、いや、人間はみんな、菩薩になり得るとも言えます。慈善事業も、ネットビジネスも、文芸活動も、良かれと思って努めるものである限り、菩薩行と言って良い側面を持ち得るでしょう。むろん、人間のやることですから、良かれと思って努めた結果、悪い結末がもたらされることもあるでしょう。それでも、そうやって不完全な者同士が繋がりながら生きているのが人間だとしたら、さしあたって、執着に対峙するという意味でも、善行を心がけるという意味でも、私達は菩薩行に励むしかないと思うのです。
 
 こういう風に考えると、マミさんの美しさや愛らしさも、弱さや脆さも、菩薩行に邁進する人間の性質を反映しているように思います。
 
 マミさんの魅力は、阿羅漢や涅槃者の魅力ではなく、菩薩行に励む者の魅力ではないでしょうか。
 
 

たくさんの菩薩行の末にまどかが現れる物語

 
 マミさんに限らず、ほかの魔法少女の魅力もまた、不完全な人間が精一杯つとめている類のものだと私は理解しています。唯一の例外は「最終回の鹿目まどか」で、なるほど、最終回のまどかは阿弥陀如来に比肩されるべき存在ですが、そのまどかにしても、前の段階では一人の善良な少女でしかなかった――つまり菩薩だった――のです。
 
 最終回に阿弥陀如来モードに入る以前のまどかは、さしづめ、法蔵菩薩*3といったところでしょうか。
 
 私は、第十話に出てくる「キュウべえに騙される馬鹿な私を助けてあげてくれないかな?」と言いながらほむらにグリーフシードを差し出すまどかがとても好きです。この時のまどかは、最終話のまどかと違って、マミさんや他の魔法少女に近い。
 
 不完全ではあっても最善を尽くしているがゆえに、魔法少女のソウルジェムは少しずつ濁っていかざるを得ないし、そのままずっと生き続ければ、いつか、魔女になってしまうのは必然かもしれません。それは、現実世界の人間でも同じで、えてして、一番善き行いを心がけている人、一番高邁な理想に向かって突き進んでいく人の心が、一番激しく痛んで、一番汚れていくものではないでしょうか。
 
 そんな、現実の寓話のようにもみえる魔法少女たちの菩薩行が、ほむらの超人的な努力の積み重ねの甲斐もあって、最終的にアルティメットまどかによって救われるわけですから、まどかが阿弥陀如来に喩えられるのも納得がいきます。
 
 私は大乗仏教が好きな人間なので、魔法少女達が菩薩行に励んでいることにも、最終的にまどかが救済をもたらしてくれる展開にも、心を強く動かされました。グダグダと書いてきて、結局何が言いたいのかっていうと、マミさんはマミさんのままでも最高で、すごく魅力的だってことです。
 

 

魔法少女まどか☆マギカ ねんどろいど 巴マミ (ノンスケール ABS&PVC塗装済み可動フィギュア)

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*1:そして、その因果としてワルプルギスの夜を一層肥大化させていったのも

*2:ティロ・フィナーレなど

*3:注:阿弥陀如来が如来になる前の、菩薩の時の呼び名

悲しさを忘れるために何かに没頭することの是非

 
 悲しいことがあった時、悲しさから逃れるため・心の空白を埋め合わせるために、何かに没頭する人は少なくない。
 
 悲しいことがあった時こそ休まず出勤する、それどころか、いつもより長く仕事をする人がいる。あるいは、いつもより長くランニングする人、いつもより長くweb小説を読む人。それらは、悲しさに押しつぶされずに日常生活を維持するための行動として、理解できるものではある。
 
 反面、悲しさを忘れるための没頭には、危なっかしい面もある。
 
 悲しさを忘れるための没頭は、悲しさが心の中や頭の中に蘇ってこないようにするのが目的なので、なるべく長時間続けようとしがちだ。多少の疲労があったとしても、悲しさが蘇ってくるより少し疲れていたほうが気持ちとしては楽なので、疲れたまま、いつもより多く仕事をしたり、いつもより多くランニングしたりすることになる。
 
 哀しさを忘れるための没頭は、ゆえに、疲労の蓄積に鈍感になってしまいやすい。
 
 悲しいことがあった後、心に必要なのは――いや、神経に必要なのは――気分転換以上に、たくさん寝ること、休養をとることだ。もちろん悲しいから眠れない・休めないというのはわかる話で、それが持続し、悪くなる一方なら医療の助けが必要な場合もあるかもしれない。なんにせよ、睡眠や休息を軽視して、悲しみから逃れるために疲労をおして働き続ける・遊び続けると、神経にとって大きな負担になる。やり過ぎれば、かえってメンタルヘルスの危険を招きかねない。
 
 それともう一つ。悲しさを忘れるために何かに没頭する行為は、とりあえず悲しさを意識から追放することはできるけれども、悲しさを葬送するには向いていない。悲しさは、忙しさによって当座の間は追い払えるが、忙しくなくなったら舞い戻ってきてしまう。悲しさが舞い戻ってきた時に心身が疲弊していると、悲しさはものすごく堪える。悲しさを忘れるために没頭して疲れ果てている時に、葬送されざる悲しさが不意に戻ってくると、にっちもさっちもいかなくなる。
 
 じゃあ、どうすれば良いのか。
 
 私は、どうしようもないんじゃないかと思う。
 
 せいぜい、今までどおりに働き、今まで通りに遊び、むやみやたらに生活のペースを乱さず、できるだけ自分の神経に負荷をかけず、しみわたるような悲しみが全身から抜けていくのを、じっと待つしか無いのではないだろうか。
 
 悲しみは、何かに没頭すれば無くなるかのように思っている人がいるが、違うと思う。いつも以上に何かに没頭しながら、後は時間が解決するのを待つ……というのは、一見、賢い方法にみえるが、それで追い払える悲しみは、せいぜい、数日程度で忘れられるレベルのものでしかない。年単位で葬送しなければならないような、大きく深い悲しみは、没頭による逃避では忘れきれない。忘れるよりも先に、心身がへばってしまう。
 
 それよりは、悲しみを抱えて暮らしながら、いつか、悲しみが占めている部分が別の何かによって埋められていく日が来るのを、じっと待ったほうが得策なのだろうと思う。
 
 人は、目の前に大きな悲しみが現れた時に、その悲しさを忘れるために、つい、何かに没頭してしまうし、それは短期的には有効な適応機制ではある。けれども、短期的にはどうにもできそうにない、大きな悲しみに対しては、それがむしろ不適応や不健康を招くおそれもある。悲しみに対処するのはとても難しいものだが、身体や神経の負担を顧みず、とにかく忘れようとするのは、危なっかしいと思う。
 

手の届きにくい“消費の対象”としての子ども・子育て

 

 以下は、全国の大半に当てはまる気がするけれども、出生率・教育費・意識の高さ・待機児童問題などを考えるに、東京とその周辺に最も当てはまると思うので、そういう前提で書き残しておく。
 
 

東京の子育てはハードルが高すぎる

 
 今日、とりわけ東京では、子どもはショーケースの向こう側の存在にみえる。
 
 比喩ではなく、宝飾品のたぐいや、高級ワインや、スポーツカーに近づいていると思う。
 少なくとも昭和時代の中頃に比べれば、子どもはショーケースの向こう側の存在に例えやすくなった。
 
 この、洗練された消費社会では、一面において、子ども・子育ても消費の対象だ。消費の対象が“モノ”より“コト”などと言われている今日では、とりわけそうだろう。90年代には、マイホームに暮らす核家族というイメージが消費の対象になったが、10年代においても、幸福な親子の姿は消費の対象たり得る。テレビや動画のCMに出て来る家族像は、イメージであり、商品であり、消費の対象としての側面を免れない。
 
 「こんな家族って素敵でしょう?さあ、お買い求めください」である。
 
 幸か不幸か、東京で子育てをしている人々、なかでも、見事に子育てをやっている人々は、そのイメージどおりの家族を、まさにやってのけている。少なくとも目に付きやすい場所で目に付く家族は、CMに出てきてもおかしくないような子育てを実演している。彼らは、消費の対象としての子育ての購買者であるとともに、宣伝者でもある。
 
 「こんな家族って素敵でしょう?さあ、お買い求めください」である。
 
 現代人の大半は、ただ子どもを産んで、ただ飢えさせないだけでは良い子育てとはみなさない。
 
 子どもは教育されなければならない。
 教育にはカネがかかる。その費用も負担しなければならない。
 東京周辺は、教育費の水準が全国トップクラスである。
 塾や稽古事に行かせない子育てなど、誰もイメージしていない。
 
 子どもを育てるには良い生活環境も必要だ。
 何をもって良い生活環境とみなすかには、価値観の違いもあろうけれども、ともかく、一定の清潔なスペースがあったほうが良いし、泣き声対策や騒音対策まで考えるなら、子どもを育てやすい環境というのも難しい。
 
 参観日、運動会、そのほか親子で楽しむ余暇も、ノーコストというわけにはいかない。勤務先が学校行事への参加を許容していたとしても、現場では一定の気遣いは必要だし、親子で楽しむ余暇には必ずと言って良いほどカネがかかる。
 
 ところが今日、子どもをもうける・子育てをやるというのは、言外に、これらの諸条件が前提になっている。これらを欠いた子育てをイメージしている東京人などいないし、実際、これらを欠いた子育てをやってのける東京人もなかなかいないだろう。
 
 それどころか、これらの前提を欠いていればいるほど、「親としてできていない」とみなされかねない。他人から批判されなくても、世間の子育てのイメージから乖離していると親自身が自覚していれば、それだけで罪悪感に苛まれる。なぜなら、子育てとはこういうものだ、こういうものであるべきだという固定観念が、いや、ルールが、社会の隅々に浸透しているからだ。
 
 お役所的には、教育や生活環境や親子行事にあまりに消極的な親は、程度によっては、ネグレクトや虐待の嫌疑をかけられかねない。児童相談所の活動は、本義として子どもの権利を守るものだが、付随的に、親が子育てに要する最低基準コストを規定している、ともいえる。
 
 そのうえ、子育てを始める前段階にも膨大なコストがかかる。少なくとも、イメージとして流通し、商品として、消費の対象として期待されるような子育てを始めるには、相当なコストが要る。
 
 夫婦であれシングルマザーであれ、何も考えずに子どもを産んで、何も考えずに子育てに突入する親は、今日日はあまりいない。子どもをもうけるという行為は、神様からの授かりものである以上に、個人の選択、ライフスタイルの選択である。少なくとも、イメージどおりの子育てを前提としている人々は、子育てに要するコストと自分の手持ちリソースを天秤にかける程度には“賢い”。
 
 そもそも、子どもは一人ではもうけられない。男性と女性がつがいになってもうけるものだから、どんなに子どもが欲しくても、そのためのパートナーに巡り合えなければ子育ては始められないのである。そして、このパートナーに巡り合うためのコストが、これまた高い。バブル景気の時代よりは下がったじゃないか、若い女性ならコストが少ないんじゃないかと反論する人もいるかもしれないが、恋愛にせよ婚活にせよ、ハードルはそんなに下がっているようにはみえない。若い女性にしても、結婚に考えを巡らせるのは相当大変だ。
 
 

で、全部のハードル越えられる東京人って、どれぐらいいるの?

 
 このように、今日、子どもをもうけて子育てをするためには、たくさんのハードルをクリアしなければならない。
 
 まず、パートナー探しのためのコストを費やしてパートナーに巡り合い、挙児についてのコンセンサスをまとめるか一人で挙児する覚悟を決めるかして、お役所が要求する子育ての最低ラインは当然クリアして、世間と自分の価値観に染み込んだ子育てのイメージや前提にかなった、高コスト体質な子育てをやってのけなければ、「子育てができている」という手応えが掴めないようになっている。
 
 だから私は、「現代の子ども・子育てはショーケースに入っている」と例えずにはいられない。
 
 特に東京では、子育ては本当に大変だと思う。
 
 待機児童問題という、共働き夫婦にとって、否、共働きではない夫婦にとっても重要な問題が、いまだ解決されていない。祖父母に子育てを手伝ってもらいにくい夫婦も首都圏にはたくさんいる。
 
 教育にはとにかくカネがかかる。今日日は、地方の郊外でも、結局、子どもに何かを習得させるためにはリソースを投下するしかないのだが、首都圏は、その相場が高い。見栄っ張りな親にとって、教育費は、底なし沼のようなものだ。 
 
 また、地方都市と比較して、東京では、CMに登場してもおかしくないような親子連れを見かける頻度が高い。
 
 上野動物園や井の頭公園といった「おでかけスポット」に限らず、たとえば駅前のスターバックスで一服している親子連れ、タワーマンション併設の公園で遊んでいる親子連れ、住宅街のコンビニや商店街で見かける親子連れも、バリエーションこそあれ、CMに出てきてもおかしくない雰囲気だ。地方都市にもそういった親子連れはいるが、東京のほうが、全体的に粒が揃っている。
 
 昭和時代には許されても、平成時代には眉を顰められるような叱り方をしている親を見かけることも、東京ではまず無い。そのような親が東京にいないわけでもなかろうが、少なくとも、他人の目に触れてはいけないという意識が、東京では徹底しているとみえる(地方都市では、ときどき“粗を見かけることがある”)。
 
 東京の出生率は、全国で最も低い1.24*1だという。
 
 そりゃあそうだよね、と私は思わざるを得ない。
 
 東京で子育てをやってのけるためには、パートナー探しから始まって、たくさんのハードルをクリアしなければならない。子育てを始めたとしても、イメージどおりの子育てを実践するために、全国トップクラスのコストを投じなければならない。そのうえ、東京には、子育てとコストを競合するような消費の対象が無尽蔵に存在して、人々を魅了し続けている。
 
 これでは、20代~30代の人が子育てにしり込みするのは無理も無い。
 
 

子どもがショーケースに入っている国に、未来などあるのだろうか。

 
 “コトの消費”“体験の消費”といった観点だけからみても、子育ては素晴らしいものだが、楽なことばかりではないし、大半の人にとって、一生を左右するほどコストがかかる。コストという表現が馴染まないと指摘する人もいるだろうが、消費個人主義が浸透し尽くした現代の東京で、コストを意識しない子育てなど考えられない。それゆえ、東京での子育てはショーケースの向こう側に輝く“消費の対象”という側面を免れない。
 
 今日日、東京で子育てをやりおおせている人々、CMに出てきてもおかしくない雰囲気の親子をやってのけている人々は、皆たいしたものだと思う。それが体裁に過ぎない場合ですら、簡単にできるものじゃない。どうあれ彼らは、ショーケースに手を伸ばしてみせたのである。
 
 他方、子どもと子育てがショーケースに陳列されて、おいそれと手が出せない状況が続く限り、東京の出生率が高くなることなどあり得ない。そこに全国の若者が吸い寄せられ続けるとしたら、日本の未来はお察しである。
 
 どうして子どもはショーケースの向こう側に行ってしまったのか?
 
 その背景はいろいろ思いつく。だが、書くのも疲れてきたし、ちょっと憂鬱になってきたので、今日はこのへんで。
 

*1:2016年、厚労省