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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

感情を殺す仕事

 

猫を殺す仕事

猫を殺す仕事

 
 上記作品とはちょっと違う話だけど、ふと、思い出したことを。
 
 
 子どもははじめ、言葉や理性にもとづいて振る舞うのでなく、本能と感情にもとづいてコミュニケーションする。喜怒哀楽、すべての感情が子どもの内からあふれ出る。
 
 だが、その子どもの豊かな喜怒哀楽が、親の子育てによって、そしてその親の子育てのかたち自体を規定する現代的な文化と風習によって、削られ、叩かれ、整形されていく。だいたい小さい方向に。
 
 その喜怒哀楽を削って叩いて整形するプロセスを、ある人々は「社会化socialization」と呼ぶし、それは間違っていない。現代社会の習いによれば、子どもの豊かな喜怒哀楽が、身体と同じように大きくなっていくことはあってはならないし、もちろん親もそのような成長を望んでもいない。
 
 だが、そうやって感情を整形していくプロセスは、みようによっては酷薄にみえる。150年ほど前の西洋のように肉体的折檻によって整形していくのもたいがいだが、肉体的折檻に頼らず、真綿で首を絞めるような「秩序だった教育」によって「よりよく」整形していくプロセスも、これはこれでたいがいである。
 
 なにより、そうやって子どもの感情を整形していくプロセスを実行する親自身が、まず、みずからの感情を整形し、都合の良い感情だけを子どもに差し向けて「秩序だった教育」を実践してみせなければならない。なぜなら、社会がそのように強く要請しているからだ。児童相談所の世話にならないためにも、「毒親」の汚名を避けるためにも、子どもの感情整形プロセスにおいては、まず、親自身が一層の感情整形を行うよう、努めなければならない。
 
 子どもに怒りの感情を向けてはいけない。
 まして拳骨など振るおうものなら「暴力」である。
 親とは、子どもを善導する存在でなければならない。
 率先して感情を整形し、身をもって望ましい感情整形のなんたるかを示すべし!
 
 喜怒哀楽のうち、喜楽を、社会化されたかたちで表明することが望ましいとされる社会において、真っ先に殺されるべき感情は、怒りであり、ついで、悲しみである。
 
 怒りは、よほど巧みに表明されない限り、現代社会で存在を否定されてしまう。本来、すべての人間に溢れんばかりに存在するはずなのに、現代社会では怒りの感情の発露は忌避されがちだ。ところが、まさにその「よほど巧みに」怒りを表出するために必須な成長プロセスの途上にあって然るべき、怒りの太古的発露は、核家族という小さなウサギ小屋においても、幼稚園や保育園においても、歓迎されないため、相当部分が殺されることになってしまう。悲しみや嘆きも、子育てという名の演目では悪役とみなされがちで、経験をとおして洗練させていくためのプロセスが省かれてしまうことがある。
 
 そうやって、怒りや悲しみを、削って、叩いて、整形して、できあがるのは一体どのような人間だろうか。
 
 もちろん社会は、「秩序だった教育」をとおして、都合の良い感情の――つまり喜楽中心の――ニンゲンが生産されることを期待している。だが、感情を殺す仕事は教育機関よりも養育者によって専ら行われるので、親という名のフィルターがどうであるかが鍵になる。幸か不幸か、ほとんどの親はそのことを直感しており、できるかできないかはさておいて、自分自身の感情を意識的に取り扱おうとする。 感情を! 意識的に! 取り扱う! だなんて!
 
 だが、子どもの感情を殺し過ぎればこじれてしまう、その手前の段階の話として、親自身の感情を殺し過ぎてもうまくいかない。ただでさえ難易度の高い感情整形プロセスを、「怒りや悲しみを殺す方向で」頑張っても、怒りや悲しみは決壊寸前のダムのように溜まりに溜まるばかりで、実際は、そのスレスレ一杯な濁流が子どもに流れ込むことも多い――子どもは言葉や理性よりも本能や感情によってコミュニケーションする存在だから、言葉や理性の次元で怒りや悲しみを封じ込めたつもりでも、本能や感情の次元でダダ漏れになっていれば直撃してしまう。結果、制御しようにも溢れまくってしまった怒りや悲しみによって、かえって「秩序だった教育」が妨げられることになる。せいいっぱい理性と言葉に頼ろうとした結果が「毒親呼ばわり」という悲しい家庭が、一体どれだけあることか
 
 怒りや悲しみが大っぴらにされず、許されなくなった社会で育てられてきた親達が、よほど巧みな怒りや悲しみの操縦技術を身に付けていることはあまり無い。怒りが存在するということ、悲しみが存在するということ、ただそれだけで抑圧されるべき感情である思い込み(あるいは世間体)のなか、怒りや悲しみは親子双方において削られ、叩かれ、整形されようとして、けれどもそのためには怒りや悲しみが十分育って習熟されていなければならないパラドックスがどこまでも広がっている。それは、先天的/後天的な親子の問題であると同時に、社会全体において、怒りや悲しみの社会化がおざなりになっているということであり、皆がそれを持て余しているということでもある。その最先端の状況として、核家族という小さな空間において、怒りや悲しみは、削られ、叩かれ、整形されて、だけど上手くいかなくて、怒りや悲しみは檻の中でますます始末に負えなくなった怪物のような姿で次世代へと受け継がれていく。
 
 この先、どうなっちゃうんでしょうね?
 

では、君が失敗したら思いっきり笑ってさしあげようぞ。

執着

 
 
www.ishidanohanashi.com
 
 「決まりきったレールには乗りたくない」
 「“普通”のサラリーマンにはなりたくない」
 
 いやいや!
 若々しい、潤いに満ちた表現ですね!
 
 最近の若い人には少なくなりましたが、90年代の、まだバブルの残り香が残っていた頃には、あなたのような事を言ってわけのわからない人生選択をする人がたくさんいたんですよ。「私が私であるために」「他の連中とは違った自分であるために」みたいな気分が、社会全体にフワーンと漂っていたのでした。
 
 でも、歳月が流れて、みんな生活に余裕がなくなって、“普通”のサラリーマンがつまらない職種から理想の職種になっちゃって、「決まりきったレールには乗りたくない」なんて言う人は少なくなってしまいました。
 
 それはさておき。
 
 あなたのブログ記事を通読して、「これは本当に自分で選択した人生なんだろうか?」と首を傾げました。
 
 ブログの文中、あなたはこのように書いておられます。
 

ぼくは、中3まで趣味もなく、人生についてもなにも考えず、人の目をすごく気にして生きていて周りと同じことで安心するような人でした。
高校も勉強が嫌いで偏差値の低いところに推薦で入り、
楽に生きたく自分の好きなことしかやりたくない人間だったんですよね。
友達と遊んでばっか、ずっとヘラヘラしてるような人間でした。

 
 楽に生きたくて好きなことしかやりたくない人間だった、と。
 別にそれは罪ではありません。さしあたりそういう性質だったのでしょう。
 
 しかし、その後の吹奏楽部のくだりを読んでも、結局「遊ぶ友達がいなくなる」という消極的な理由でスタートしたのであって、楽器がやりたくて始めたわけではないのですよね。吹奏楽部に入る前も、他にやりたいことがあって帰宅部を選ぼうとしていたわけでもなさそうです。
 
 で、ブログで月商100万を稼ぐとかなんとか、そういう外部情報を見て「これなら自分にもできそうだ」と思ってブログを始めたそうですが、これだって、自分の意思でやったっていうより、ブログで仰山儲かるぜって喧伝している人達にそそのかされてスタートしたように私にはみえます。
 
 もしこれが、ブログで収入を稼いでいる人がほとんどいない、未踏の状態で「ブログで金儲けしてやるぜ!」みたいな事をあなたが言っているとしたら、それは凄いパイオニアだと思いますし、ああ、この人はそういう冒険的なことがやりたくてやったんだな、と理解することができます。この点において、プロブロガーとかブログ飯とかをスタートした人達ってのはやはり大したもんですよ。
  
 でも、今はそうじゃないですよね? インターネットのあちこちに「ブログでお金儲け」「ブログで○万稼ぎました!」みたいな売り文句がペタペタ貼られているじゃないですか。そして「ブログでお金儲けをする方法」自体が有料コンテンツとして販売されてもいます。手垢のついた、ベタな方法ってわけですよ。
 
 これって、「ブログでお金儲けをする方法」を喧伝している人が敷いたレールの上を、あなたはいいように走らされているってことじゃないですか。
 
 

「レールの上を走る」にも良し悪しがある

 
 私は、あなたほどには「レールの上を走る人生」が悪いものだとは思っていません。長らく“普通”のサラリーマンをやっていた人が重要部署をまとめるリーダーとして活躍していくこともあれば、サラリーマン時代に培ったノウハウや人脈を生かして中途から独立していくこともあります。彼らのキャリアは、まさに在来線のようなスタートだったかもしれない。けれどもそのレールの行く先ははじめから決まりきっていたわけではないし、中途で何度も人生の選択はあったはずです。
 
 「レールの上を走るような人生」を目の敵にする人がいるけれども、レールって、終着駅まで一本道ってわけじゃないんですよね。いろんな場所に繋がっているレールもあるし、ものすごい速さで遠くまでいけるレールだってあります。乗り換えポイントが滅茶苦茶いっぱいあるレールだってある。
 
 それに、それこそ“普通”のサラリーマンのような人生のレールを走り続けたからといって、見える人生の風景まで“普通”だなんて限らないのです。まだ働いていない人が満員電車に見出す、同じ格好をしたサラリーマン達は、一見、同じような、それこそ“普通”の生活をしているようにみえるかもしれないけれども、その内実はさまざまです。なんていうんですか、“同じような恰好のサラリーマン”はたくさんいるけれども“同じような中身のサラリーマン”って、実はそんなにいないんじゃないでしょうか
 
 もちろんサラリーマンというからには、ホワイトカラー的なワークスタイルは共通していると言えますが、公私ともに彼らのやっている事には相当なバリエーションがあって、到底、“普通”って言葉では切り捨てられません。
 
 他方で、「このレールに乗ったら危ないよね」ってレールもあるように思われます。
 
 世の中には、甘い儲け話で他人をそそのかして、時間やお金や人生を吸い取って栄養にする、食虫植物のような輩がたくさんいます。そういう輩が差し出した、いかにも甘美で特別そうにみえるレールは、たいてい、可能性と発展性に満ちているように飾り立てられていて、しかも自分の足で歩いているかのような錯覚を伴うものです。本当は、陳腐で、もう何人も先人が通った後の、痛みきったレールだったとしても、です。
 
 そういう「カモを転がすためのレール」「甘美な夢で乗せるだけ乗せて後は知らんレール」のほとんどは、可能性と発展性に乏しく、いざ、レールから降りたり隣のレールに乗り換えたりする時につぶしのきくようなスキルも与えてもくれません。
 
 どんなレールに乗ったって構いやしません。が、そんなレールで大丈夫なんですか?
 
 

やりたい事がない人こそ、“普通”のレールに乗るべきでは

 
 そもそも、あなたには、やりたい事なんてあるんでしょうか。
 
 あなたは学生をやめて起業されるとおっしゃいます。
 
 しかし、起業するとは書いていても「なんのために起業するのか」「どう起業するのか」がちっとも書いてありません。
 
 まるで「俺は有名小説家になりたい!」みたいですね。
 
 小説家としてヒットするためには、自分が書きたいこと、あるいは自分がトライしたいことがあって然るべきです。ただ有名になりたい、ただ成功したいと望んでいるだけでは、絶対に小説家として成功しません。
 
 それと同じで、起業して成功するからには、起業をとおしてやりたいこと・成功できる見込みがある狙いがあって然るべきではないでしょうか。ところが、あなたの文章からはそういう匂いがちっとも漂って来ません。本当に起業したいんですか?「これで成功する」って計算や見込みはあるんですか?
 
 しかも、大学を辞めて起業を選ぶとか書いてあります*1。大学が思ったほどキラキラしていないとか、そういう理由で、大学をやめるための口実として起業なんて口にしておられるのではないでしょうか?
 
 私には、あなたが本当に「やりたいこと」として起業を口にしているというより、大学でキラキラできないところに甘言にたぶらかされた結果として、清水の舞台から飛び降りるような選択を、ビジョンもないまま選ぼうとされているようにみえます。
  
 あなたは、
 

迷うこともありませんでした。
不安もありません。
もちろん、成功する保証はないし、むしろ失敗の確率の方が高い。
いや、99%失敗するくらいの確率だろう。
でも、自分で選択した道で失敗するならぼくはそれでもいいって思うんです。
どうしても挑戦したい。
そんなのやめろという人は、ぼくが失敗したら思いっきり笑ってバカにしてくれればいいと思います。

 と書いておられます。
 
 よろしい、ならば私は、あなたが失敗したら思いっきり笑ってさしあげましょうぞ。
 
 ビジョンも構想もなく「カッコイイ社長になりたい!」なんてドラマのイメージばかりが先行して、それで起業をぼんやり夢想しているだけだとしたら、起業に成功するとは思えません。くわえて、あなたは「楽に生きたく自分の好きなことしかやりたくない人間」を自称しておられるわけですから、そんな人間が、起業という、自律した精神と忍耐力を必要とする生業に向いているとは考えられないのです。
 
 むしろあなたのようなタイプは、自律した起業家を目指すのでなく、規則正しい就労規則や社則を与えてもらえる“普通”のサラリーマンになったほうが、堕落せずに生き延びやすいのではないでしょうか。ルールや規則って、案外ありがたいものですよ? サラリーマン稼業の良いところのひとつは、ともかくも就労習慣を続けさせてくれることです。
 
 まあ、若いうちは一度きりの選択や挑戦で成功しなければならない道理なんてどこにも無いんですから、たとえこの件で笑われたとしても再起のチャンスはまだまだあるでしょうし、もっと良さそうなレールを見つけたら起業に固執せずに乗り換えたって良いと思います。
 
 でも、失敗してもただで転んではいけませんからね。選ぶと痛い目をみること・人間社会で生きるために必要なこと、そういったことをしっかり見定めて次のトライアルに繋げてください。何をやってもなにも学ばない人間には、改善した未来などありません。これは、起業家でも“普通”のサラリーマンでも同じはず。
 
 インターネット上で「起業宣言」しちゃって、大勢の人が見つめてしまった以上、ともあれ全身全霊を傾けて、私達を見返すくらいの心持ちで挑戦してください。あなたが失敗したら、私はあなたを嘲笑しなければならないので、そうならないように頑張って欲しいと願います。
 

*1:ということは、学生ブロガーって肩書きも失うってことですよね?

世界を守るためにインターネットに書き込んでいる人は沢山いる

執着

 
anond.hatelabo.jp
 
 「インターネットにでかい面して書き込んでいるお前らは、自分の快楽のために書き込んでいることを自覚しろ」とでも言いたげな文章を見かけました。
 
 “世の中のためじゃなく自分自身のためにtwitterやはてなブックマークに書き込んでいる”、という読みには異論ありませんが、「気持ちよくなるために」「快楽のために」という読みは片手落ちだなぁと私は思いました。
 
 世界を守るためにインターネットに書き込んでいる人ってのは沢山いると思うんですよ、私は。
 
 ただし、ここでいう「世界を守る」とは世の中全般を守るという意味ではなく、「自分自身の心象世界、主観世界を守るために」という意味ですが。
 
 人間は、「欲求」や「快楽」といったに相当するモチベーションだけでなく、「不安」や「緊張」といったに相当するモチベーションによって動機付けられて動いているものです。twitterなどを眺めていても、いわゆる承認欲求や自己顕示欲を充たすための書き込みと考えては理解しにくいものが沢山あります。
 
 たとえば東日本大震災の時、インターネットに書き込まれた数々の愚かしい書き込みを思い出してみてください。あるいは、スーパーマーケットで争うように安心を買い漁った人々のことを思い出してみてください。あの時の人々の言動は、「欲求」や「快楽」よりも「不安」や「緊張」で紐解いたほうが理解しやすかったのではないでしょうか。
  
 インターネット時代の私達は、いつも大量の情報に接しています。その大量の情報のなかには、もちろん「欲求」や「快楽」を呼び起こして人を動かすものもあるでしょう。しかしそれだけではなく、「不安」や「緊張」を呼び起こして人を動かしているものも多いように思えるのです。
 
 そして世の中には、モチベーション源として「欲求」や「快楽」が優勢な人だけでなく、「不安」や「緊張」のほうが優勢な人もいます。それも、案外たくさんいるように見受けられるんですよ。そういう、飴によってでなく鞭によって衝き動かされる人達にとって、twitterやはてなブックマークへの書き込みとは、「気持ちよくなるために」「承認欲求を充たすために」というよりは「不安を防衛するために」「緊張を和らげるために」なされるものではないでしょうか
 
 インターネット上の炎上騒動みたいなものも、「炎上を楽しみたい」「誰かをボコボコにしたい」みたいな快楽原理だけで理解しては多分片手落ちです。炎上に加担している人々のなかには「炎上対象を燃やさなければ不安でたまらない」「炎上対象を叩いて緊張や葛藤を緩和したい」みたいな動機をもった人が、少なからず混じっているように見受けられるのです。
 
 twtiterでもブログでもはてなブックマークでもそうですが、「不安」や「緊張」のほうがモチベーションとして強い人のなかには、不安や緊張を解消するべく、キツい表現を頻繁に繰り返す人がいます。彼らがキツい表現を頻繁に必要とするのは、それだけ、自分自身の心象世界を守らなければならない心理的要請が強いからではないでしょうか。むろん、「欲求」や「快楽」を求め過ぎてキツい表現を頻繁に繰り返している“炎上芸人”のような人々もなかにはいますが、「不安」や「緊張」が強すぎてネットで騒がしい人と、「欲求」や「快楽」が強すぎてネットで騒がしい人は、定点観測していればおおよそ区別がつくのではないかと思います。
 
 ですので、インターネットは快楽主義者の巣窟というわけではなく、案外、世界を守るために戦う守護者の巣窟かもしれないのです。自分自身が安心できる心象世界を守るために、それを脅かす情報に激しい敵意と否定を差し向けずにはいられない人達――こういう心理的布置は、一部の極端な人々にはもちろん、私達それぞれにも多かれ少なかれ潜んでいるものです。
 


 まさにこのとおりで、ネット上の「議論」の少なからぬ割合は、自分自身の不安や緊張を和らげるために現れ出ているものだと私も思います。誰かを説得するためじゃなく、自分自身を説得するため、そして自分自身の小さな世界を守るために、言葉が発せられ、「議論」が必要とされているとしたら、相互理解なんて夢のまた夢ですよね。でもインターネットに限らず、「議論」と称されるものの幾らかの割合は案外こういう内幕で、だから理解しあえなくても自分の世界が守られれば心理的にはメリットがあるのでしょう。
 
 インターネットはパブリックなメディアであると同時に、個人それぞれの端末とアカウントを介して世界を覗き込むプライベートなメディアです。ですから、インターネットには私達の「欲求」や「快楽」だけでなく「不安」や「緊張」もたっぷり反映されている、と想定すべきでしょう。そういう、主観的な情緒が渦巻くインターネットは、皆さんお好きですか? 私はインターネットのそういうところも結構好きですけどね、だって、すごく人間らしいじゃないですか。
 

子どもが惰性でゲームやるとか、ないわー

オタク趣味 汎適

 
 先日、Books&Appsさんに「惰性でゲームを遊ぶような姿は子どもにみせないし、子どもがダラダラ惰性でゲームやっていたら止める」みたいな記事を投稿しました
 
 そしたらtwitter側にたくさんのご批判が集まって、うわーマジかー、と思いました。
 
 「惰性でゲームを遊べないのは地獄」「カジュアルゲームをないがしろにしている」といったご批判が結構あったのです。
 
 私は、そこらのおじさんおばさんが通勤電車のなかで暇つぶしとしてゲームをやるのは否定しませんし、例えば、ソーシャルゲームのデイリーミッションに集中力を割いてもしようがあるまいと思っています。
 
 しかし、子どもが「暇つぶしとして、惰性で」ゲームを遊ぶことには、やはり不自然で不健康な印象を禁じ得ません。ゲームに限ったことではなく、子どもが遊びを「暇つぶしとして、惰性で」遊ぶこと自体が、望ましくないし、なんだか不自然なことのように思えるんですよ。
 
 これは私の観測範囲の問題かもしれませんが、子どもが遊びを楽しんでいる時って、夢中になって没頭しているところがあるように見受けられます。昆虫採集でも、ごっこ遊びでも、キャッチボールでも、縄跳びでも、なんでもそうです。傍にいると、遊びを楽しんでいる気配が全身にみなぎっているのが感じられるものです。
  
 私は、そうやって子どもが何かに夢中になったり没頭したりしている時間を、かけがえないものだと思っています。単に楽しいなだけでなく、将来、子どもが自分自身のために夢中になったり没頭したりしなければならない時の貴重な原資となるでしょう。
 
 世の中には、他人に命令されたことにはおとなしく従うけれども、自分自身の望みのまま、夢中になったり没頭したりできない人っていうのが結構います。カサカサした人といいますか。先天的にそうだという部分もあるでしょうけど、夢中になったり没頭したりする体験が足りなかった、という後天的な要素もあるように見受けられます。
 
 子どもが大人になるためには、遊びと勉強や仕事を分けて捉える姿勢も身に付けなければならないでしょうし、夢中になりにくい事をこなす能力も必要です。ですが、そういった小難しい社会的課題をこなすだけではダメで、その前に、夢中になって遊ぶ体験をしっかり積み重ねておかなければ「自分自身のために夢中になれない人」「自分自身のことに没頭できない人」になりかねないのではないでしょうか。
 
 ですから、子ども時代の遊びは、将来の勤勉性やライフスタイルや人生哲学に影響する、とても大切なものだと私は思います。子ども時代、遊びに対してどのような態度を取っていたのかは、将来、自分自身のために何かをやろうと思った時の態度に反映されることでしょう。子ども時代の遊びってのは、まさにハビトゥスなんです。その人の人生に対する態度を左右する、文化資本なんです。
 
 

「ゲームに夢中になる時間」を大切にして欲しい

 
 だから私は、子どもにゲームを禁止したいとは思いませんが、「遊び」としての値打ちの乏しい、ただの暇つぶしとしてコントローラを握るような、ディスプレイを濁った目で見つめるようなゲームプレイは禁止したいと思っています。
 
 ゲームに夢中になっていたり没頭していたりするなら、それはいいんですよ。そういうゲーム体験はどれだけあっても良いと思うし、まさに貴重な時間だと思います。だけど、身の入らない雑なプレイで散漫に時間を潰すのは百害あって一利なしです。そういう姿勢を、ゲームに限らず、他の遊びでも仕事でも勉強でも実践し、休むべき時には休むような、メリハリのある生活態度を家族全員で営もうってのが我が家が目指すべきハビトゥスです。
 
 「遊び」はダラダラやるもんじゃなくて、夢中や没頭を伴った、どこか研ぎ澄まされたものであるべきなんですよ。体力も集中力も落ちている時に、暇つぶしなどと称してダラダラやるのは望ましいものじゃないし、そんな非効率な生活習慣がベッタリこびりついても良いことなんて無いんじゃないでしょうか。
 
 うっかり者が勘違いするかもしれないので断っておきますが、私は「ゲームをスパルタ式にやれ」「ゲームの達人になれ」と子どもに望むわけではありません。ゲームに夢中になっている時間・没頭している時間を大切にしてくれればそれで良いのです。そしてゲームから経験値や思い出をたくさん吸い上げてもらいたい。だから、『スーパーマリオブラザーズ』で一生懸命にクッパを倒そうと頑張る時間だけでなく、『ポケモンGO』のポケモン図鑑を眺めてウットリする時間や、『マインクラフト』で気ままな一日を過ごす時間も、それはそれで貴重だと思います。
 
 ただし、眠いのを我慢するために惰性でゲームやるとか、やることが無いから気抜けしたサイダーのようにゲームをやるとか、そういうのはやめましょうよ、というのをルールにしているのです。
 
 ゲームも勉強も、夢中になる時間や没頭する時間ってのが一番経験値効率が良いし、そのためにも、体力や精神力を無駄遣いしないような生活習慣を身に付ける必要があります。それを、親がやってみせて、子どもにも身に付けてもらうことが、せっかちな“早期教育”のたぐいよりもずっと大切で、後々に効いてくるんじゃないかと私は思っています。
 
 「夢中になって取り組む時間」をできるだけ多くして「散漫な暇つぶし」をできるだけ少なくするのは、社会適応の基礎技術です。そういう基礎を、ゲームを介して親から子へと伝授したいものですね。こういうことは学校じゃあまり教えてくれませんから。
 

はてなブックマーカーがブログ記事の余白を補ってくれる。ありがたいありがたい。

コミュニケーション

 (※この記事は、はてなブックマーク・はてなブログ・はてなダイアリーに馴染みのある人向けです。ご注意ください)
 
 

嘉彦 洋裁鋏 240mm

嘉彦 洋裁鋏 240mm

 
 最近のはてなブロガーは*1、自分のブログ記事に批判やツッコミが入るのを物凄く嫌っているみたいだけど、はてなブックマーカーがあれこれツッコミを入れてくれるおかげでブロガーとして助かっている部分もあって、ブックマーカーとハサミは使いようですよねー、と私は思う。
 
 一番わかりやすいメリットは、自分では思いもつかなかった考えや視点を提供してくれる点だけど、はてなブックマークには100字しか入らないため、議論や補足としては食い足りない部分もある。ブログ記事を書いて、リンクを飛ばしてくれる他のブロガー様のほうが、ありがたみがある。
 
 それともうひとつ、はてなブックマーカーがブロガー自身が書きたくないことをキッチリ書いてくれることだ。
 
 二年ぐらいでやめてしまうブログならともかく、数年~十数年単位でブログを続けるために意識しなければならないのは、耐火性だったりキャラクターに堆積する手垢の問題だったりする。これは、ブロガーレベルが10ぐらいまでは全く意識しなくて済むものだけど、ブロガーレベルが20を超えたあたりから少しずつ窮屈になってきて、ブロガーレベルが30を超えると、「長くブログを書き続けてきたことによって、積もり積もってしまったもの」がブログの生存性を左右し、ブログの性格や自由度まで決めてしまう。だから、ブログを長く続ける人は、生存性や自由度を意識した振る舞いを心掛けておかないと、いずれ自由にブログが書けなくなる。あるいは、ひどく億劫に窮屈にブログを書く羽目になる。
 
 私が見知っている限り、5年以上ブロガーとして活躍している人は、どんなタイプのブロガーであっても、なにかしらの方法でこういう問題と向き合い続けている。例外はない。
 
 で、生存性や窮屈さの問題を考えると、書かずに済ませたいことはブログになるべく書かず、でも、常連さんには言外にメッセージを伝えたいって場面が頻発することになる。「メッセージは伝えたい。でもブログが窮屈になるようなことは書きたくない。じゃあ、どうするのか?」
 
 そんな時に、颯爽と現れて助けてくれるのが、はてなブックマーカーの皆様だ。ブログ記事からカルマの汚れそうな要素を削除し、余白にしておくと、誰かがツッコミを入れてくれて補足してくれる。一見さんはともかく、はてなブックマークとはてなブログが大好きな“はてな市民諸君”は、当然はてなブックマークを先に読むだろうから、埋められた余白に目を通さない者などいまい。はてなスターを付けて、宣伝すらしてくれる。ありがとう! おかげで私は手を汚さず、けれども伝えたいメッセージを伝達できましたよ!
 
 はてなブログ世界では、ブロガーとはてなブックマーカーは“持ちつ持たれつ”の関係にあって、いつも私は頼りにしている。私が思いつかなかった部分も、私が手を汚したくなかった部分も、はてなブックマーカーの皆様が埋めてくれて、未完成なブログ記事を完成させてくれるのだ。そして、はてなブックマーカーの皆様におかれても、「ハハハ、シロクマめ、間抜けなブログ記事を書いてやがるぜ! いっちょ、突っ込んでやるか~!」とドーパミンをまき散らしながら書き込んでのお楽しみ、はてなスターで連帯感も高まって、はてなでわっしょい、かくして、はてなブログ世界に秩序が生み出されるのである。
 

*1:主語がでかいって? フフフ、そういう気分なんですよ