シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「オタク差別」の過去と現在

 
 先月~今月にかけて、にわかにネット上で「オタク差別」というフレーズを見かけて、昔のことを思い出したりした。
 
山本弘のSF秘密基地BLOG:オタク差別は消滅しつつある
「オタク差別など今も昔も存在しない」といういつもの話 - Togetter
オタクのキモさと差別について - novtanの日常
あのころ、僕達には「好きなものは好き」と言う自由すら存在せず、『隠れオタク』を余儀なくされていた。これが差別でなくてなんなん? - 自意識高い系男子
 
 
 上記のようなディスカッションが続いた後に、
 
具体例も根拠もなしにいきなり「オタクアニメ演出多かった。生理的にムリ」と言い放つのはアリ?/「今、世界中が、これだけmetooとか女性社会進出とかで盛り上がってるのに、技術界隈だけ歪んだ欲望に応じたデフォルメつづく不思議」 - Togetter
 
 「オタクアニメ演出は生理的に受け付けない」という発言から始まり、議論が散らかっていくtogetterが現れた。発言者のわきが甘く、議論をどこまでも拡散させて反感を買っているあたり、稚拙としか言いようがないが、そんな彼に遮二無二噛みついているオタク擁護者もピラニアのように容赦がなく、さながら地獄絵図である。
 
 「オタク差別」はあったのか無かったのか? 「オタクアニメは生理的に受け付けない」と言った人がいたら「オタク差別」を理由に、徹底的にたたいて構わないのか? このあたり、色々な要素が混在していて難しい問題ではあるけれども、自分なりの意見をブログに書き残す。
 
 

1.「オタク差別」という言葉は妥当か

 
 まず、オタクと言われる趣味集団、または特定のサブカルチャー領域を見下し、頭ごなしに下に見ることを「差別」と呼ぶべきか否かについて。
 
 差別というと、人種や性別といった先天的要素を指すものと思う人もいるようだが、ブリタニカ国際大百科事典によれば、

特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば,社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが,いずれにせよ恣意的な分割によって行われる。現代フランスの社会学者 R.ジラールはスケープゴート (贖罪の山羊) 化の理論によって差別現象のメカニズムを解明した。それによると社会の危機状況にみられる相互暴力のカオスを回避するために,無際限な暴力の拡散を恣意的に選択された特定の個人あるいは集団に集中させる犠牲の論理 (第三項排除) が差別現象の根底にあるとされる。たとえばドイツの社会不安に乗じてナチス政権が利用した反ユダヤ主義,関東大震災直後の朝鮮人虐殺などがスケープゴート化の現象として考えられる。

https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AE%E5%88%A5-169844

 とある。
 
 この引用文からオタク差別について考えると、趣味集団としてのオタクも、サブカルチャー領域としてのオタクも、ひとつの社会的カテゴリーに該当し、恣意的な分割が行われてきたわけだから、差別という言葉が該当してもさほどおかしくない。また、引用後半のスケープゴート化の理論に関しても、社会の危機状況という文言にはあたらないものの、20世紀のサブカルチャーのメインストリーム側によって、オタクが文化的ヒエラルキーの最底辺に位置付けられたという意味ではスケープゴートにされたという見方もできるわけで、一部のいう「オタクに差別という言葉は似合わない」という主張に、私はあまり納得できていない。
 
 社会不安をもよおすような事件が起こった時に、被疑者のオタク的な要素をマスメディアが好んで報道する現象も、オタクという社会的カテゴリーをスケープゴートにしている象徴的出来事にみえる。「オタクだからやった」ということにすればオタク以外は安心できる。社会不安をもよおす被疑者をオタクというカテゴリーに突っ込み、切断操作する潜在的需要が世間にあればこそ、マスメディアは「犯人はオタク的な人物」という体裁を好んで報道するのではないか。
 
 そもそも、オタクという言葉には明白なスティグマがあった。誰かのことを気持ち悪がる時に「いやだわ、あの人オタクっぽい」といった言い回しを、私は1980年代~00年代にかけて、それこそあちこちで見かけてきた。私が「脱オタ」と称してオタクと気付かれにくい擬態を行いながら、アニメやゲームとは無縁な人々が集まっている場所で耳を澄ませている時、他人のことを馬鹿にする言葉としてオタクという言葉が使われている場面を嫌と言うほど目撃してきた。
 
 オタクという言葉がマイルドになり、アニメやゲームの意匠が広く世間に流通した2010年代においてさえ、このような用法でオタクという言葉を用いる人は残存している。
 
 つまり、今日においてさえ、オタクという言葉にはスティグマが残っているわけだ。オタクとはネガティブなもの、オタクとは理解不能なもの、オタクというからには蔑視して構わないもの、といった不文律の残滓が世間にたゆたっている。もちろん、昔に比べれば大幅にマシにはなったが。
 
 スティグマが貼り付けられてきた社会的カテゴリーが、スティグマに基づいて軽んじられたり馬鹿にされたり、スケープゴートと切断操作の対象とされたりする現象を、差別と呼ばずにどう呼べばいいのか、私の貧困な語彙力ではちょっと思いつかない。だから私は、「オタク差別」という言葉を受け入れるし、さしあたり、以後の文中では「オタク差別」という言葉を使用することとする。
 
 

2.オタク差別は「あった」のか

 
 続いて、オタク差別は「あった」のか「なかった」のかについて。
 
 これは、オタクという言葉にスティグマが貼り付けられてきたことがオタク差別が存在したことを雄弁に物語っている。
 
 オタク差別のはじまりを定義づけるのは難しいが、しかし、言語化され、影響力があり、文献的にもしばしば引用されている初期の重要な記録は以下のものだろう。
 

おたくの本 (別冊宝島 104)

おたくの本 (別冊宝島 104)

 

 コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十二歳にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガアニメのためのお祭りみたいなもんで、早い話、マンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さがね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じこもって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊ちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った九八〇円一九八〇円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前流行ったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチ眼鏡のつるを額に喰い込ませて笑う白豚かてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさあ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らがどこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!
 ここぞとばかりに大ハシャギ、アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたい十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。
 (中略)
 それでこういった人たちを、まぁ普通、マニアだとか熱狂的なファンだとか、せーぜーがネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。
 
 『漫画ブリッコ』83年6月号 中森明夫「『おたく』の研究1 街には『おたく』がいっぱい より。これは、別冊宝島『おたくの本』からの孫引き

 
 「おたく*1」について明文化された最初期の文章は、このようなものだった。その後、宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件がオタクという言葉と強引に関連づけられ、さらに宅八郎のようなオタクのステロタイプを演じる人物も登場した結果として、オタクのステロタイプ、あるいはオタクのスティグマの原型がかたちづくられ、人口に膾炙していった。
 
 のみならず、オタクと呼ばれる側、つまり世間から身を隠すようにアニメやゲームや同人誌を愛好していた人々にも、「オタクは気持ち悪いもの」「オタクは日当たりの良いところで堂々としていてはいけないもの」といった意識が内面化されていった。この内面化されていったという事実もまた、オタク差別が、実際に差別と呼べるものだった証拠だろうと私は思う。「新人類」*2がおたくをヒエラルキーの底辺におとしめた構図が世間的に正統とみなされ、底辺に押しやられた側もそのことを自覚し、内面化してしまったわけだから、まさにスティグマというほかない。
 
 90年代~00年代前半の、そうしたオタクスティグマを思い出すキーワードは幾つもある。
 
 ひとつは「隠れオタク」。
 
 オタクは隠れて行うもの・オタクはバレたら困るものをあらわす言葉として、「隠れオタク」「擬態」といった言葉がオタクの間では頻繁に用いられた。オタクではない人を指す言葉として「一般人」「カタギ」といった言葉もよく用いられ、自分たちは一般人ではないという意識が、あちこちのオタクの集まりで共有されていた。自分達が愛しているコンテンツは世間に見せびらかして構わないものではない、という意識も共有されていたし、当然ながら、「一般人」の側もそのようなものとしてオタク達を眺めていた。
 
 [関連]:一般人/ 逸般人/ 同人用語の基礎知識
 [関連]:あるオタク精神科医の歴史 - シロクマの屑籠
 
 もうひとつは「オタク自虐芸」。さきに述べたように、オタクは隠れてやるもの・バレたら公然と馬鹿にされるものという意識は、90~00年代前半のインターネット上のカルチャーに「オタク自虐芸」を成立させていった。
 
 テキストサイトでも、匿名掲示板でも、個人ウェブサイトでもそうだが、オタクが文章を書き綴る際に、「自分はオタクなんだけどね」「こんなオタクですいませんが」といった自虐スタイルをとった文章がとても多かった。現在ですら、それらの名残を見かけることはある。オタク自虐芸が多かったということは、「オタクと名指しされる人やカルチャーはネガティブに受け取られるもの」という前提が共有されていたわけである。
 
 当時のインターネットはそれこそ「一般人」の少ない、研究者とオタクの新天地だったにもかかわらず、コミュニケーションの用法として「オタク自虐芸」がしばしば見られたわけだから、インターネットに集っていた人々の間に「オタクとは自虐し、エクスキューズしたうえで語るもの」という意識はそれなり広くあったのだろう。
 
 さらにもう一つ、「脱オタ」の存在である。
  
 [関連]:「あの時代」のオタク差別の風景と「脱オタ」について - シロクマの屑籠
 
 詳しいことは上掲リンク先を読んでもらうとして、90年代~00年代にかけて「脱オタ」という語彙が存在していた。脱オタという言葉は「オタク趣味をやめて差別されるのを避けよう」という意味で使っている人と、「オタク趣味は続けても差別されるのは避けたいから、オタクっぽくなくなろう」という意味で使っている人、両方の意味が混じっている人もいた。ワンフレーズにまとめると、「『脱オタ』とは、オタクのスティグマから逃れるためのムーブメントだった」と言えるだろうか。
 
 私自身もこの「脱オタ」に深くかかわっており、wikipediaの「脱オタク」の外部リンクには私のウェブサイトの名前が載っている。「脱オタ」は『電車男』がブームになった直後の2006年頃にピークを迎え、『脱オタクファッションガイド』は相当数を売上げ、二匹目のドジョウを狙った出版企画が相次いでいた。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

 
 
 「隠れオタク」「オタク自虐芸」「脱オタ」は2006年頃から急激に下火になっていき、見かける頻度が激減した。「オタク自虐芸」はまだしも、「隠れオタク」「オタクと一般人」といったフレーズはネットで見かけなくなり、「脱オタ」は死語になった。
 

 
 

3.メジャーに、ポップになったオタク

 
 『電車男』がブームになり、アニメ系・ゲーム系の動画コンテンツが脚光を浴びるようになった頃から、サブカルチャー全体におけるオタクとオタク的コンテンツの位置づけが急激に変わり始めた。その理由の一端は、人気タレントが「実は自分もオタクで……」とカミングアウトしたことにもよるだろうし、パチンコやパチスロへのオタク的コンテンツの進出もあっただろう。また、ある時期からは「聖地巡礼」「萌えおこし」といった、地域振興とオタク系コンテンツのタイアップ、もっと言えば「オタク(系コンテンツ)はカネになる」という認識が広がったことも追い風になったのかもしれない。
 
 いずれにせよ、昔は社会の片隅でひっそりと、周囲からの蔑視を避けながら楽しむものだったオタクと、オタク的コンテンツの後継が、大手を振って世間に溢れるようになった。
 
 今日、かつてならオタクしか愛好しなかったであろうコンテンツや表現を見かける範囲は相当広い。
 
 インターネットの広告欄に、肌も露わなアニメ絵のキャラクターが登場していることは稀ではない。いや、テレビに映るソーシャルゲームのCMにしてもそうだ。オタクのために作られた深夜アニメからそのまま飛び出してきたかのような、そういうキャラクターや表現が白昼堂々と放映されるようになっている。
 
 地方自治体のキャラクターやマスコットにも、遠い昔のロリコン漫画の末裔、あるいは90年代~00年代のエロゲ―やギャルゲーを彷彿とさせるような、それかライトノベル風の表現が当たり前のように用いられるようになった。「聖地巡礼」をあてこんだ地方都市が、街じゅうに深夜アニメのポスターを貼り、のぼりを並べているのを見ると、隔世の感がある。
 
 そういったコンテンツに抵抗の無い、一人のオタクとしての私からみれば、こうした変化は概ね望ましいことであり、変化をもたらす要因となったすべての人に感謝したい。オタクやオタク的なコンテンツが"市民権"を得たことによってオタク差別が絶無になったわけではないとしても、オタクとして生きること、オタク的なコンテンツを楽しむことが大幅にラクになったのは否めない。
 
 ただ、カルチュアルな位置づけが変わってオタク的なものが白昼堂々とまかり通っている現状に辟易している人がいるであろうことも、容易に想像される。
 
 これまでオタクを差別し、オタク的なコンテンツを理解しがたいものと見做していた人達にとって、今日のサブカルチャーの状況は不快きわまりないものであろう。そこまでいかなくても、内心、面白くないと思っている人は少なくないはずだ。オタクとオタク的なものが広く受け入れられるようになったからといって、すべての人がオタクになったわけではない。
 
 また、これまで日陰でこっそり楽しまれていたから議論の俎上にのぼることの少なかったコンテンツや表現が、無遠慮に世間にばら撒かれ、様々な領域に進出していることを問題視する人は、オタクではない人はもとより、オタクのなかにもいよう。深夜アニメやコミケの会場で許容されるコンテンツや表現が、どこまで街中や公共の媒体で許容されるものなのか、リテラシーを考え直す余地はあって然るべきだろう。オタク的なコンテンツや表現がメジャーになったからこそ、表現規制の問題とはまた別に、デリカシーやリテラシーを問う声があがってくるのはわかる話ではある。
 
 オタクにとって違和感のない表現も、オタクではない人々、あるいはオタク的コンテンツとは縁の乏しい人々には、目障りだったり、不安をもよおすようなものだったりする可能性を、2018年のオタクのいったい何割程度が自覚し、配慮しているだろうか? 実のところ、オタクを自認している人の相当部分は、そういったことを多かれ少なかれ気にしているのではないかと思う。しかし、すべてのオタクが自覚しているわけでもなく、ただただ世間への進出を当然とみなしている人がいるのも、また事実だ。
 
 

4.私個人の意見

 
 こうした情勢のなかで、ときに、オタクアニメ演出は気に入らないといった声をあげた人が叩かれたり、オタクバッシングが論難に晒されたりする。冒頭リンク先などは、そうした声に一般論を無理矢理に混ぜ込んだせいで絶好のバッシング対象となっており、自業自得の印象が否めず、私も弁護する気にはなれない。
 
 他方、こうしたバッシングに際して、オタクサイドから「表現規制反対」がドサクサにまぎれて語られることがある。そういった具合に、それぞれの立場から議論を拡散させる「めんどくさい人」が現れて、議論がグルグル回りながらバターのようになっていくのは、ネットにおける定番である。
 
 この件について、私自身はオタクバッシングが批判・非難されることに痛痒を感じない。長らく抑圧されてきたオタクとオタク的コンテンツが大手を振って世間に存在している現状を手放したくないからだ。また、表現規制の問題に関しても、常に警戒が必要だと思わざるを得ない。
 
 ただし、オタクとオタク的なコンテンツや表現は、社会のなかでの立ち位置が10~20年前とは大きく変わってきている。そのことを念頭に置いたうえで「表現規制反対」や「オタク差別反対」を現代風にプレゼントしていくのが筋であるように、私には思われる。
 
 かつてのオタクは、現在よりも高頻度に差別され、オタクへのスティグマも深刻だった。数的にも少なかったオタクは、サブカルチャー全体に占める社会的カテゴリーとして少数派だったとみて間違いないだろう。当時のオタクが、オタク差別に大声で反対せずにはいられなかったことは全くおかしくないし、声のトーンが高くなるのも無理もないことだった。
 
 しかして現在のオタクは、過去より低頻度にしか差別されず、スティグマは緩和された。少なくともサブカルチャー全体に占める社会的カテゴリーとしては多数派となり、コンテンツに関しては『君の名は。』や『けものフレンズ』のヒットが示しているように、あるいは地方自治体等とのコラボが顕著なことが示しているように、メジャーにもなっている。2018年のオタクを巡る状況は、1998年のそれとは明らかに違う。
 
 すでに権利を獲得し、勢力としても大きくなった社会的カテゴリーの成員が、なおも自分達はマイノリティだと主張し続け、さらなる権利の獲得を要求しつづけるのは、部外者からどう見えるのか。歳月を経て一大勢力となり、マイナーではなくなった社会的カテゴリーの尖兵が、今までどおりのトーンで大声を上げ続ければ、見苦しく、厚かましく、欲深くうつるのは、世間ではよく起こることではある。だとしたら、これからはもう少し鷹揚に、あるいは慎み深くなったほうが良いのではないだろうか。
 
 もちろん私は、オタク差別がなくなったと言いたいわけではない。世の中のあらゆる社会的カテゴリーが、それに属さない人々からしばしば見下されることがあるのと同じくらいには、なくなりはしないだろう。たとえばインターネット上において、体育会系や(マイルド)ヤンキーといった社会的カテゴリーに対するスティグマが無くならないのと同じように。それでも、オタク差別を巡る状況を20年前と同列に扱うのはナンセンス、というのが私の意見である。
 
 ただし、私は個人としての意見を言う以上のことはできない。人によって意見はさまざまだろうし、それをとやかく言える筋合いではない。「オタク差別」関連のこれからを決めていくのは、個々の意見の集大成、つまり世論ということになろうし、そのことについては特に意見は無い。
 
 

*1:当時はまだひらがなで表記することが多かった

*2:注:「おたく」を定義づけて若者文化のヒエラルキーの底辺に追いやったのは「新人類」であり、中森明夫氏はその旗手と目されていた

高齢者のネット承認欲求のこれから

 
 ネットを回遊していたら、ちょっと気になる記事を見かけて手が止まった。
 
インターネットによって誘発される山岳遭難の事例 No.1 - 遭難.net
インターネットによって誘発される山岳遭難の事例 No.2 - 遭難.net
 
 上記リンク先の記事では、還暦前後の登山ファンが、SNSサイトで承認欲求を充たすうちに行動がエスカレートし、危険な登山や迷惑行為、身勝手な標識設定などを行うようになった事例が紹介されている。
 
 SNSで「拍手」を集め、ファンとの交流を経るうちに行動が過激化していくそのさまを、リンク先の筆者は「膨らみ続ける他者承認欲求」「すでにSNS依存症」と書いていて、なかなか手厳しい。内容を実際に読んでみると、くだんの登山ファンを衝き動かしていたモチベーション源は承認欲求で、その暴走に一役買っていたのがSNS上のコミュニケーションだったという類推が、さほど的外れとは思えない。
 
 ネットで承認欲求の暴走といえば、真っ先に連想されるのは若者だ。だんだん表現が過激になっていく動画配信者や、SNSに「バカッター」的な書き込みをして大炎上してしまうユーザーは、たいてい年若く、分別も社会経験も足りない人が多かったからだ。
 
 しかし、この件の場合、還暦前後というから、分別はともかく、社会経験はあって然るべき年齢である。そのような人物がネットで承認欲求を暴走させるとは、一体どういうことなのか。
 
 

高齢者とて承認欲求とは無縁ではない

 
 一因として、SNSやネットコミュニケーションに慣れておらず、慣れない空気に呑まれてしまった、という点はあるのかもしれない。また、分別や社会経験のある人でも、批判が集まりにくく「拍手」が集まりやすいオンライン空間にいるうちに、常識感覚から乖離してしまったというのもあるかもしれない。ネットの甘い辛いを十二分に経験している人なら、これらの問題から距離をとれたかもしれないが、初めてSNSを経験するような人には、そこらへんは簡単ではない。
 
 それ以上に気がかりなのは、「高齢になっても、承認欲求は暴走し得る」という点だ。
 

認められたい

認められたい

 
 前著『認めらえたい』でも書いたように、承認欲求は社会経験の積み重ねとともに成長する余地があり、学生時代は承認欲求に飢えたオオカミのようだった人が、三十代ぐらいになれば落ち着いてくるケースは決して珍しくない。しかし言うまでもないことだが、人間すべてが承認欲求の積み重ねを経験できるわけではないし、詳しくは書籍を参照いただきたいが、ガムシャラに承認欲求を充たせば良いというものでもない。
 
 たとえばホストクラブに通い詰めたり、twitterのネタアカウントで「いいね」を沢山もらったりさえすれば承認欲求の社会的成長が起こるかといったら、そういうわけではない。むしろそういった行為は承認欲求のエスカレートを招いてしまうリスクのほうが高い。
 
 それともう一点、年を取って社会経験を積み重ね、承認欲求を適切に充たせるようになったからといって、承認欲求を「無くせる」わけではない、ということだ。
 
 社会的生物である人間は、ソーシャルな欲求を本能的に充たしたがる。承認欲求はソーシャルな欲求の典型のひとつで、ゆえに、生涯の付き合いになると考えても差し支えない。
 
 退職や子離れといった要素も重なって、高齢者がソーシャルな欲求を充たすための経路は少なくなりがちだ。地域社会や趣味のコミュニティに属していない高齢者の場合、とりわけそうだと言える。現在の高齢者は、比較的にせよ近所づきあいなどに慣れていることが多いが、そのかわりSNS等を習熟している割合が低い。また言うまでもないことだが、家庭内の不和やコミュニケーション能力の不足などにより、完全に孤立している高齢者もあまた存在している。
 
 私達の世代が高齢者になった頃には、twitterやFacebookやInstagramの後継が用いられているはずで、ソーシャルな欲求を充たす経路としてオンラインの占める割合は高くなっていることだろう。それでも、高齢になれば人間同士の結びつきは変わっていくし、さまざまなかたちで別離に直面することもある。一部の認知症のなりはじめのなかには、前頭葉機能が先んじて低下してしまうものもある。
 
 こうした変化を考慮すると、高齢者がオンライン上で承認欲求を暴走させてしまうリスクは無視できるものではなく、少子高齢化のみぎり、むしろこれからは高齢者の承認欲求の暴走を目にする頻度が高まっていくのではないか、と思ってしまう。
 
 今日のインターネットでは、承認欲求の暴走を見かけるだけでなく、悪者を集団でバッシングして所属欲求を充たすことでソーシャルな欲求を充当する風景もよく見かける。こうしたインターネット上でのソーシャルな欲求のドライブは、今後高齢化が進むにつれて、より見苦しく、より容赦のないものになっていくのではないか。「分別盛り」という言葉があるけれども、分別盛りなのは中年であり、その中年が減少し、高齢者が増えていくわけだから、近未来のインターネットは、少子高齢化にふさわしいかたちで阿鼻叫喚の風景を生じせしめるのだろう。むろん私も他人事ではなく、ある日、激しく暴走・炎上して、集団バッシングでソーシャルな欲求を充たしたくてしようがない人々のいけにえとなるのかもしれない。人間の欲は、恐ろしい。
 
 

『ひきこもりの国際比較 欧米と日本』を再公開しました

 
blog.tinect.jp
 
 先日、books&appsさんに寄稿した上記記事について、「フランスのひきこもりってどうなのか?」「日本のひきこもりと異なる概念ではないか?」といった質問がはてなブックマーク上にみられたので、2011年の精神神経学会のシンポジウム『ひきこもりの国際比較 欧米と日本』についてのhtmlファイルを再度公開することとしました。
 
 
『ひきもりの国際比較 欧米と日本』を見てきた――汎用適応技術研究

日本のひきこもり、ヨーロッパのひきこもり――フランスとイタリアの現状に触れて――汎用適応技術研究

アメリカから見た日本のひきこもり――汎用適応技術研究

フランスの「ひきこもり」の現状について&ドイツにひきこもりはいるのか――汎用適応技術研究

日本のひきこもりの公的支援の動向と課題をさぐる――汎用適応技術研究
 
 
 これらのファイルは2011年にウェブサイト上で公開していましたが、ワードプレスの取り扱いに失敗し、ウェブサイトを潰してしまって読めなくなっていました。最新ではない内容であり、一参加者が速記したものを書き起こしたものではありますが、「こんな議論が学会であったんだ」的にご参照いただければ幸いです。
 
 議論をみてのとおり、日本のひきこもりとラテン語圏のひきこもりには相違点があり、ドイツやアメリカでは、ひきこもりを自国の問題としてみるより、日本の現象としてみているふしがうかがわれました。今、読み直して改めて私が思ったのは、「ひきこもりには、文化症候群としての性質が濃厚にあり、文化や時代背景の影響を強くうける」ということです。
 
 これらのシンポジウムが行われた2011年から約7年の時が流れ、日本の社会・文化的状況や精神医療のトピックスも移ろっていきました。当時に比べても、日本では発達障害が注目される度合いが高まり、と同時に、90年代~00年代に比べると「学歴さえあればコミュニケーション能力に難があっても何とかなる」的な期待は親の側からも子の側からも無くなり、学歴に関してもAO入試等の占める割合は高くなりました。
 
 7年ぶりに読み返して、私は、当時のアメリカメディアが日本のひきこもりに対して抱いていたのに近い印象を現在の自分が持っていることに気付きました。日本社会が幾分にせよアメリカ社会に近付いたからこそ、そういう印象を持つようになったのかもしれません。また、昨今の高齢ひきこもりへの注目は、このシンポジウムの後の出来事として整合性のある流れであるなぁ、とも感じました。
 
 ともあれ、ご興味のある方は読んでみてください。
 
 ※精神神経学雑誌がpdfで読めるようになったので、シンポジウムについてのテキストがそのままネットで読めるようになりました。afcpさん、ご指摘ありがとうございます。
 
 
 

ゲームを眺める・ゲームを囲むのもまた楽し

 
 
anond.hatelabo.jp
mubou.seesaa.net
 
 はてな匿名ダイアリーに投げつけられた「他人がゲームしてるの見てそんなに楽しいか?」という釣りに対して、ブロガーのしんざきさんが「俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ」と応じているのを見て、強いシンパシーを感じると同時に逆張りをしてみたくなったので、逆張りディベートごっこをしてみる。
 
 いきなり脱線するが、私は「ブログで逆張り」が好きだ。
 
 大学受験の小論文の練習をしていた時、どこかの参考書で「逆張りできるテーマなら、みんながやりそうにない逆張りをやったほうがウケるよ(意訳)」というアドバイスを見かけた。当時の私はそれを真に受けて、受験勉強と称して逆張りの練習を繰り返していた。幸い、大学には受かったけれども、あれは危ないアドバイスだったかもしれない。
 
 たぶん、この逆張りの練習はブログを書く際にすごく役に立っているし、そういえば一昔前のアルファブロガーにも、逆張りの名人がいた。逆張り小論文の練習を繰り返すと、たぶんブログが楽しくなるよ!
 
 それはさておき。
 
 私は、しんざきさんが「俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ」と書いていて、社会全体はともかく、御本人自身は見るゲームの楽しみに否定的なのに驚いた。
 

ただ、それとは全く別問題、別会計として、私の中には「ゲーム実況」を楽しむというチャネルが存在しないのだ。これはむしろ、私がゲームを遊ぶ際のキャパシティがより偏狭であるということに他ならない。例えば私は、長男がゲームを遊ぶところを観察するのは好きだが、それは飽くまで「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないのだ。ゲーム観戦に限っていえば、私はただひたすら「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」と思うばかりなのだ。

 
 しんざきさんは、子どもがゲームを遊んでいるのを眺めているのは「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないと書いている。だが、私はそうではない。子どもがゲームを遊んでいるのを眺める時、私ははっきりと「ゲーム観戦」を楽しんでいる。たとえば我が家の『スプラトゥーン2』で射撃がいちばん正確なのは子どもで、バイトが一番巧いのは嫁さんだ。どちらのプレイも眺めていて楽しいし、「さっきのガチエリアは、ジェットパックからのトリプルキルが勝因だね」といった話がよく弾む。
 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)  - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 
 「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」という気持ちはもちろん私にもあるけれども、誰かがゲームの腕をふるっているのを眺めるのも、それはそれで楽しく、ゲーム観戦という意味合いは必ずある。
 
 動画のゲーム実況に心惹かれる瞬間もある。ゲームの動画は、今でも「参考資料」的に視ることが多いけれども、実況者やプレイ内容によっては心が躍る瞬間がある。達人級のプレイヤーの動画よりも、自分の腕とどっこいどっこいなプレイヤーのほうが心が躍るかもしれない。
 
 

「ゲームを眺める」「ゲームを囲む」のルーツ

 
 私が他人のゲームを眺めて楽しいと感じるルーツを振り返ると、それは駄菓子屋とゲーセンにあったと思う。
 
 小学生の頃、駄菓子屋で夢中になって見つめていた、年上プレイヤーのゲームプレイ。小学校低学年では、ゲーセンのゲームに100円玉を入れるのはおいそれとできることではなく、たとえ入れたとしても長く遊べるものでもなかった。対して、年上のお兄さんは100円玉をたくさん持っていて、しかもゲームが上手くて先のステージまで進めていた。アーケード版の『ムーンクレスタ』や『ディグダグ』などは、自分でプレイするのと同じかそれ以上に年上のお兄さんがプレイしているのを楽しみにしていた。
 
 高校生時代や大学生時代のゲーセンでも、他人のプレイを結構楽しみにしていた。自分にはできない連続技が得意なプレイヤー、自分と同等以上のスコアを出せるプレイヤーのプレイを眺めながら、技能を盗もうとしたり、うっとりとしたりしていた。また、ゲームに疲れて一服している時に他のプレイヤーのプレイを眺めるのも好きだった。『戦国ブレード』『ライデンファイターズJET』のような、自分が絶対にやりがたらないゲームに打ち込んでいるプレイヤーを眺めるのも案外楽しかった。そういう「眺めるゲーム」もひっくるめて、ゲーセンでのゆったりとした時間が流れていたのだと思う。
 
 そんな私が、自分がゲームを遊ぶほどではないにせよ、ゲームを眺めたり、家族や知人とゲームを囲んで談笑したりするのは、とても自然なことではある。
 
 

そうなると、しんざきさんのゲーム哲学が気になってくる

 
 さて、そうなった時に気になるのがしんざきさんのゲームライフである。
 
 しんざきさんは、『ダライアス外伝』の全一を獲るほどのプレイヤーで、当然、ゲーセンには少なからぬ縁があり、そこにゲームライフの心臓部があると推定される。
 
 [関連]:「人生の息抜きにゲーム」ではなく、「ゲームの息抜きに人生」を送っていた時期の話。 | Books&Apps
 
 この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。
 
 それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間のプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?
 
 上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。
 
 それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?
 
 いや、自分が知っている全一プレイヤーのなかには、他者に見向きもしないわけではないプレイヤーも確かにいた。だから全一を獲ったことがあるか否かがことの分水嶺、というわけでもないように思う。
 
 ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。
 
 しんざきさんのゲームモチベーションの構成と成り立ちは一体どのようなものなのか? ゲーオタにおいて、ゲームの道、ゲーム哲学は全ての道に通じているので、おそらく、そこにしんざきさんの奥義がある。いつかお目にかかる日があったら、そこのところは是非うかがってみたい。
 
 

「小さなてのひら」

 
 とはいえ、大半のゲーム愛好家は、修行僧のように自分のプレイだけに没頭しているわけでも、「ゲームを見る専」でもない折衷的なゲームライフを楽しんでいるのだろう。
 
 私も、しんざきさんに比べて微温的ではあるけれども、「ゲームはプレイしてナンボ」「プロスポーツのような感覚でゲーム観戦する気にはなれない」という気持ちのほうが強い。シューティングゲームの二周目に挑む時や、『スプラトゥーン2』のガチバトルに挑む時の、あの真剣な時間がゲームの真骨頂という気持ちがなかなか捨てられない。
 
 けれどもこれから歳をとっていくなかで、自分自身がゲームをプレイするだけでなく、観戦する方向にシフトしていく予感もある。
 
 こないだ出版した「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?に、私はこんなことを書いた。
 

 自分が愛したジャンルを引き継いでいる人が間近に存在するというのは、なかなか気持ちの良いものです。たとえば私はゲーム専攻のオタクでしたが、よく知っている年下の人がゲームに夢中になり、コミュニティに参加していくのを視ていると、それだけでかなり満足できてしまいます。SNS上で、たくさんの若者がゲーム談義に花を咲かせているのを見ているのも好きです。「文化はこうやって引き継がれていくんだな……」という実感が湧きます。あなたがたにも、そういう境地がいつの日か訪れることでしょう。 

 
 長らく私は、ゲームプレイ至上主義者でいつづけてきた。けれども、たとえば子どもがスプラマニューバで次々に敵を撃ち抜いていくのを眺めていると、いつか自分を追い越していく子どもの可能性を直感せずにはいられない。いわば、『CLANNAD』の「小さなてのひら」の心境だ。こうしたことが、ゲームでも、ゲーム以外でも起こっていくのだろう。ゲームは、いつだって人生の大事なことを教えてくれる。
 

CLANNAD-クラナド- ORIGINAL SOUNDTRACK

CLANNAD-クラナド- ORIGINAL SOUNDTRACK


小さなてのひら
 
 それでも。
 それでも私は、ゲーオタで、ゲーム愛好家であり続けたい、と願う。
 
 「ゲームはプレイしてナンボ」という気持ちが磨り減っていくとしても、ゲームを眺めて、ゲームを囲んで、そうやって楽しむ道筋を膨らませて、ゲームライフ自体は趣味生活として守っていきたい。それは、しんざきさんの現在のゲーム哲学とは異なる何かかもしれないけれども、そういうのもいいんじゃないか、と思うのだ。
 
 以上、本当は「ゲームはプレイしてナンボ」という気持ちがまだまだ強い40代ゲーオタからの逆張りでした。ザトウマーケットで会いましょう。
 

ヤン・ウェンリーが「なろう小説」の主人公に思えて仕方がない

 

 
 新アニメ版の銀河英雄伝説、『銀河英雄伝説 Die Neue These』を楽しみにしているけれども、タイトルに書いたように、最近、ヤン・ウェンリーが「なろう小説」の主人公みたいに思える病気にかかってしまった。
 
 原作を読んだのも旧アニメ版を観たのも二十五年以上前で、当時は「小説家になろう」なんて存在していなかった。web小説どころかライトノベルというジャンル名すら存在していなくて、ノベルスと呼ばれていたように記憶している。
 
 それはともかく、新アニメ版のヤン・ウェンリーが、今は「なろう小説」の主人公みたいに見えてしまう。
 
 アスターテ会戦でもエル・ファシルでも、ヤンは奇跡のような活躍をみせていたが、その背景として戦史や歴史についての膨大な知識があることが仄めかされていた。そのうえ、新アニメ版では図書館で読書に耽るヤンの姿がしっかり描かれてもいた。このあたり、原作のヤン・ウェンリーと矛盾していない。
 
 ところが、2018年に私がこのヤンを眺めると、彼が歴史読書の知識で無双しているようにみえてしまう。もちろん、ヤンは異世界にオーバーテクノロジーを持ち込んで無双しているわけではないけれども、「みんなが軽んじている歴史知識を使って無双」しているようにはみえる。そうやって無双を繰り返すうちに「魔術師ヤン」なんて呼び名がつくのも、どこか「なろう」じみている。
 
 それと、これも気のせいだとは思うのだけれど、新アニメ版のヤンが勝利のカラクリを語ったり歴史的知識に則った発言をしたりしている時に、ドヤ顔っぽいというか、「さすがお兄様」的な語りというか、そういう兆しを私は感じてしまう。ぐうたらで、読書家で、世間擦れしていないヤンが活躍し、周囲の人物から珍重されているあたりも、どこか「なろう」の主人公っぽい。そんな風にヤンのことを観てしまっている自分がいる。
  
 今にして思うと、『銀河英雄伝説』の各陣営では自由惑星同盟が一番「なろう」っぽかった。
 
 帝国側は、美貌の天才的主人公・ラインハルトの配下に一癖二癖ある将官が集まり、倒すべき敵としての皇帝や門閥貴族が幅を利かせていた。ラインハルトには悲劇の英雄としての趣もあって、このあたりは「なろう」で無双する主人公のテンプレどおりではない。
 
 対して自由惑星同盟のヤンの周辺人物は、だいたいヤンの無双を際立たせるか、ヤンの無双をサポートするために配役されている感じが否めない。「さすがヤン提督!」と言わんばかりのユリアンやフレデリカは言うまでもなく、第十三艦隊の幕僚たちも含めて、ヤンのための配役感があって、なんとなく「なろう」を思い起こさせるものがある。ラインハルトのような万能型の美貌天才ではなく、特化型でぎりぎり美青年というあたりも「なろう」じみている。
  
 断るまでもないことだが、『銀河英雄伝説』というビッグタイトルの新作アニメが「なろう小説」に寄せてつくられているとは思えない。こういう感想をヤンに抱いてしまうのは、ひとえに、2018年に新アニメ版を視聴している私自身が、勝手に「なろう」小説のテンプレートを連想して、勝手に「なろう」の色眼鏡でヤンのことを見ているに過ぎないのだろう。
 
 『銀河英雄伝説』やヤンが変わった以上に、私自身が変わってしまったのだろう。まあでもヤンの活躍を視るのは楽しい。こればかりは今も昔も変わらない。
 
銀河英雄伝説 Blu-ray BOX スタンダードエディション 3

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