シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

母親を恨んでなんになる

 
 “あんた、ママのお人形で終わるぜ?” - シロクマの屑籠
 
 リンク先の文章では、“ママのお人形”タイプの人について書いた。現代の20〜30代、特に男性には珍しくないメンタリティながらも、自信や自発性の範囲を制限しがちな、なかなか厄介な性分だと思っている。
 
 この手の“ママのお人形”タイプの人達のなかには、転じて、母親を恨みはじめる人も混じっているようにみえる。まぁ、気持ちは分からなくもない。けれども、親を恨むのはあまりお勧めは出来ない、というか、親を恨んで何になるんだろう…と思う。
 
 
 恨めば自発性が高まるのか?
 憎めばコンプレックスがとれるのか?
 怒れば幸せになれるのか?
 
 そんなわけがない。恨みは親と自分自身の双方を不幸にするだけでしかない。「怒りが発散できるじゃん」と反論する人もいるが、制御されない衝動性や怒りや妬みは、損失や喪失しか生まないし、幸せを運んでくることなどありはしない。単に総不幸量を増大させるばかりか、しばしば対象への執着もエスカレートさせて、渇愛とむなしさを増大させるのがおちだ。
 
 それに、「現在の自分のパーソナリティなり性分なりが、親のエゴや不安定性だけに由来する」と考えるのは色々な意味で適当ではなく、そういう意味でも“親を恨めばそれで良し”というアングルには同意することができない。
 
 仮に、親のエゴイズムが大きな要因だった場合でも、なぜそこまで親が子どもにエゴイズムを仮託せざるを得なかったのかには、もっと過去に遡った所以や因果がある筈で、相応にやむなき理由があったであろう点を忘れるわけにはいかない。子どもの自発性を引き出す意志と素養に恵まれた母親でさえも、家庭の事情や、急激で偶発的なトラブル*1に見舞われて、不安定な子育てを余儀なくされたり、子どもにエゴを仮託する割合が増えたりしてしまうなんてことは十分あり得る。親のエゴイズムや不安定さの由来を辿り辿って、それでもなお、親一人だけが悪いと断罪できる状況が果たしてどれだけあるだろうか?ひとりの親の、子どもの自発性を尊重できるキャパシティが、環境や出来事によって簡単に失われ得ること、しかも親一人の努力ではどうにもならない要素をしばしば含んでいることを、思い起こして欲しい。
 
 さらに、自分自身の生物学的特性やら、親以外の人達との偶然の出会いやら、多岐にわたる要因が重なってひとつのパーソナリティ・ひとつの処世術へと結実することを思うにつけても、原因を親だけに求めるのはお門違いというものだろう。“じゃあ他の何を恨めばいいんだ”と言う人もいるかもしれないが、敢えて言うなら“何を恨んでもしようがない”。
 
 

“完璧な親”にならざるを得ない生活環境のなかで

 
 個人的には、“娘や息子に対してつねに完璧な親”なんて世の中に存在しないと思う。誰にだって欠点のひとつやふたつはあるし、置かれた環境の困難さや、親子関係以外の人間関係によって影響を受けやすい人並みの脆さを持った存在が、一人一人の親なのだろう、とも思う。いついかなる時も“自分のエゴを子どもに仮託せず、共感的な接し方を必ず提供できる親”なんてものは、形而上の存在でしかない。親だって人間なんだから、時にはエゴを子どもに仮託したくなることもあるだろうし、子どもへの共感に失敗することだってある。
 
 だけど、親のリアクションが良くない場合でも、他の親族が代わりに共感を示してくれるだとか、子どもの自発性を親が摘み取りかけても近所の兄貴が密かに芽を守っているだとか、そういう可能性が生活のなかにあれば、自発性を丸刈りにされて“ママのお人形”状態になってしまうリスクはある程度低くなったんじゃないのか。親以外の大人との日常的な付き合いや、兄弟も含めた親族との付き合いがそれなりに機能している生活環境----つまり、ある程度地域コミュニティが死んでいない生活環境----であれば、“多少は完璧でない親”や“子どもにエゴを仮託しがちな親”であっても、少ない影響で済んだんじゃないだろうか?
 
 残念ながら、“地域コミュニティの希薄化”“核家族化”などによって、親のリアクションを代償してくれるようなコミュニケーションの可能性は、生活の場から遠ざかってしまった。親が不調の際、代わりに自発性の芽を育んでくれるような近所の大人や、代わりに共感的な反応を示してくれるような親族に、マンション育ちやニュータウン育ちの子どもが恵まれるとは思えない。特に、塾通いや稽古事で生活が塗りつぶされるとなれば尚更である。そして偶然か必然か、“ママのお人形”世代の出生時期と、“地域コミュニティの希薄化”“核家族化”の時期は、ほぼ時期が重なっているようにみえてならないのである*2
 
 私は、“ママのお人形”達を生み出した世代の母親達が、飛びぬけてエゴイスティックな世代だったとか、情緒的な出来損ないばかりだったとは考えない。そうではなく、この世代の母親達が子育てを行った生活環境----“地域コミュニティ”も“親族のネットワーク”も希薄な土地で、娘や息子を殆ど一人で育てざるを得ないような環境----のなかでは、母親のちょっとした共感不全やエゴイズムのような、昔なら問題にならなかったような要素までが、子どもに影響を与えやすくなっていたのではないか、と疑っている。古い世代が“地域コミュニティ”“親族のネットワーク”というセーフティネットに包まれながら子育てをしていたのに対し、最近の世代はセーフティネットなしの綱渡りのような状況のなかで、子育てしていたんじゃないのか。
 
 

せめて、“完璧な母親”という幻想をどうにかしたい

 
 
 母親といえど、母である前に一人の人間であって、余裕が無くて共感できないこともあれば、子どもに執着を寄せることもあるだろう。ときには過ちだっておかす筈だ。そういう親に対して、“完璧な母親”でなかったからお前を恨んでやると胸倉を掴むのは、無茶無体というものではないか。そもそも、核家族化したニュータウンのような困難な環境のなかで、母親が一手に子育てを担わざるを得なかった*3、そんな環境のなかでも、大きくなるまで子どもを育ててきたという一点を思うにつけても、この世代を逆恨みしてもしようがないような気がしてならない。“感謝すべきだ”とは言わないけれども、どうにかして折り合いをつけるぐらいのことが出来ればいいな、と思う。
 
 似たようなことは、いま子育てをしている世代や、これから子育てに取り組む世代にも当てはまる。21世紀の子育て世代ぐらいになれば、情緒・共感・自発性を損ねるような子育てが、種々の問題を惹き起こしやすいことぐらいは知っている*4。だからこそ“完璧な母親”でなければならないというプレッシャーもさぞかし強かろう。“完璧な母親であらねばならない”というプレッシャーが、かえって行動を制約している場合さえあるかもしれない。そうやってプレッシャーを感じながら奮闘している現代〜未来の母親が、孤独な戦いに陥らないよう、何か巧いつながりができて欲しい。
 
 現実には、生活環境が変化するには長い年月が必要だろうし、“ママのお人形”になってしまった人達の苦労はこれからも続くのだろう。けれども、せめて“完璧な母親”幻想が母親を雁字搦めにしてしまうような空気や、子育てに恨みや怒りをもって報いるような悪循環だけは、できるだけ解消できればいいなと思うし、せめて悪循環に加担しないよう努めたいとは思う。
 
 どうか、過去の母とは和解を、未来の母には寛容を。
 
 
 [関連]:『とらドラ!』で描かれた、母性のエゴイズムへの“処方箋” - シロクマの屑籠
 [関連]:

*1:重い病気など

*2:ちなみに、厳密には核家族化そのものというよりは、「近くに親族のいない核家族化」。近くに親族のいる核家族化は歴史が古い。対して、ニュータウンやマンションといった都市空間の孤島の核家族化は、高度成長期以後の産物である。

*3:そして父親は猛烈に遅くまで働かざるを得なかった

*4:時には全く知らないという親がいて、そういう家ではプレッシャーに関係なく、経済的バックボーンをオーバーするほど子どもが生まれる…なんてこともあるかもしれないが。