シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

不自由が執着を生み、執着が言及を生む

 
 
 「不自由が執着を生み、執着が言及を生む」という構図について、忘れないうちにメモ。
 
 
 
 身体的に健康な人は、一般に、空気を吸うことに執着しない。“もっともっと空気が吸いたい”と嘆き悲しむこともない。そりゃそうだろう。空気なんて、生まれた時から無尽蔵に与えられているのだから。そして空気の無い状況に置かれてはじめて、空気の有り難さに気付く。
 
 同じように、コミュニケーションに不自由したことの無い人は、一般に、コミュニケーションにそれほど執着しない。“もっともっとコミュニケーションに恵まれたい”と願望することもない。生まれた時からコミュニケーションに不自由していない人は、それが絶たれてしまうまでは問題意識を持つことすらない。ましてや、執拗に言及しようなどとは思わない。
 
 男女交際に関しても、多分、似たような構図があるのだろうと思う。男女交際に不自由したり悩んだりした経験がなければ、そこに問題意識を持とうと思っても持ちようがない。ところが幸か不幸か、男女交際に苦労したことのない人生を歩んだ人というのは皆無に近いので、この話題にはいつも注目が集まることになる。
 
 
 ある個人が、なにかの事象にわざわざ着眼し意義を見出す際には、たいてい、そこには当人自身の“不自由”“不足”が隠れている。そして、“不自由”“不足”に由来するようなコンプレックス、問題意識、執着といったものが見え隠れしている。殆どの場合、過去に克服したかのようにみえて拭い去ることの出来ないこれらの痕跡が、形を変えて露出していることに、当人自身は気付いていない。
 
 じゃあ、その事を恥じるべきか?
 
 僕は、恥じる必要は無いと思うし、そういった“不自由”“不足”に由来した爪痕がひとつもない人間なんていないとも思っている。それに、コンプレックスや執着に駆動されなければ生み出されないプロダクツというものも、いっぱいあるんだろうなとも考える。一方、そういった我が身のコンプレックスや執着を恥ずかしく思い、赦しきれずにいる人も沢山いるだろうし、一個人が背負える爪痕の許容量には、著しい個人差があるのだろう。自分自身のコンプレックスや執着と和解することなく、自分自身を鞭打たずにはいられない心況は、想像するのも困難だけど、たぶん、たぶんなんだけど、哀しいものなのだろう。
 
 

意志だけではコミュニケーションは成立しない

 

「コミュニケーション能力に欠けている」などという考えは、即刻捨てた方が良い。そして今から、「自分はコミュニケーションする意志が少ないのだ」と思うと良い。
 
そうすれば、問題点がクリアになる。そして全ての問題がそうであるように、問題点をクリアにすることが、問題解決への第一歩だ。
 
 http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081221/1229832078

 海外旅行で、英語も通じないような街で意思疎通を図る場合などは、コミュニケートしようとする意志の強さが確かにモノを言う。だから意志の強弱がコミュニケーションの重要なファクターだ、というのは同意できる。
 
 しかし、意志さえたっぷりあればコミュニケーションが成立するかと言ったら、それは違うと思う。
 
 

コミュニケーションの意志だけは豊富で、技能が拙劣な人

 
 行動学上のコミュニケーションの定義を参照するなら*1コミュニケーションとは、“相手に自分の意志や意図を伝えて、それによって相手の言動を望ましい方向に変化させる為のプロセス”と言い換えることが出来る。逆に言えば、自分の意図を相手に伝えて、それでもって自分が意図した方向で影響を与えうるものでなければ“コミュニケーションが巧くいった”とは言えないわけだ。
 
 この観点からみて、自己主張をがなりたてるだけの人物や、自分を認めて貰う為に自慢話を延々と続けるような人物は、“コミュニケーション下手”と言わざるを得ない。なるほど、彼らは自己主張や自慢話を聞いてもらいたいという強い意志を持ってはいる。だが、そのような働きかけでは、自分の主張に耳を傾けて貰うことも、褒めてもらうことも、到底かなわないだろう。まさに、“拙劣なコミュニケーション”である。
 
 「自己主張をがなりたてる人物」「延々と自慢話を続ける人物」のような、意志は溢れんばかりなのに、相手に伝える的確な技能・技法を欠いているがために独りよがりになってしまっている人というのは、世の中で結構みかけるものだ。*2また、そんな我が身を省みてコミュニケーション全般に対して臆病になってしまっている人も少なくない。“自分の意志を伝えたい”と強く望んでいるのに、巧く伝えられない不器用さに苦しんでいる人というのは、確かに存在している。こうした人達の場合、コミュニケーションの問題を意志薄弱だけのせいにするというのは、無理がある。
 
 やはり、意志の強弱以外のファクターにも、目を向ける必要があるのではないか。
 
 

馬力(意志)だけ沢山あっても、ちゃんと伝わらなければ空回り

 
 例えば自動車の場合、エンジンの馬力が幾ら高出力でも、動力系を通して的確に推進力に変換されなければ前に進みはしないし、運転手がきちんと安全運転していなければ事故は免れない。
 
 人間のコミュニケーションだってそれと同じだ。どれだけ意志が大出力でも、その意志を相手に伝達する技法・技能がダメダメであれば、相手にはまともに伝わらない。よしんば何かが伝わるとしても、意志の制御が不安定なら、どこにすっ飛んでいくのかわかったものではない。断言してもいいが、いくら馬力(=意志)が高出力でも、それを適切に伝達する能力なり、馬力を制御する能力なりが伴っていなければ、その人は決して“コミュニケーション巧者”にはなり得ない。それどころか、馬力だけは大出力で、技能も制御も欠いているというのなら、むしろ危なっかしいのではないか。
 
 車の喩えを続けるなら、“いわゆるコミュニケーション能力”に相当するのは、動力系や操作系のような、出力を効率的にアウトプットする為の仕組みや運転のしやすさといったものだと思う。あるいは、燃費の良さや居住性などに相当するようなファクターも含まれるかもしれない。コミュニケーションしたいという意志を、それなりに安定した(そして自分自身への負荷も少ない)アウトプットに変換する為の効率性や安定性を視野に入れなければ、個人のコミュニケーションの可否を論じることは困難だ。
 
 

コミュニケーションの可否を、一元論的に取り扱うのは無理

 
 このように、コミュニケーションの可否は、意志という単一のファクターに還元できるほど単純なものではない。「意志だけに着眼して問題をクリアにする」というのは、自動車の性能をエンジン出力だけで推し量ったり、子育ての可否を校内偏差値だけに還元してみせるのと同じで、およそ巧い方法とは思えない。ライフハック的な一元論では、コミュニケーションという精巧で複雑な営みを解きほぐすことはできないだろう。
 
 ここはひとつ、遠回りのように思えても、多元論的な複雑さを怖れることなく、コミュニケーション関連の多様なファクターをつぶさに検討してみたり、各ファクター間の連合について思いを馳せていくのが順番なんじゃないかな、と思う。
 

 
 
 

*1:引用元は、ジャレド・ダイアモンド博士による“行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである”という言葉から。博士のプロフィールについては、http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b8%a5%e3%a5%ec%a5%c9%a1%a6%a5%c0%a5%a4%a5%a2%a5%e2%a5%f3%a5%c9を参照。

*2:もっと言うなら、特定の領域でだけ、このような振る舞いをみせる人も結構みかけるものだ。