シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

子どものYouTuberを見ていると不安になる

 
 blogos.com
 
 リンク先は、行動をエスカレートさせるYouTuberを「仕事」をキーワードに考察したものだ。
 
 私はYouTuberの行動原理は、金銭と承認欲求の両方に由来している場合が多いとみているので、「仕事」だけに注目するのは片手落ち、と感じる。それと、リンク先の文章は、「仕事」に対する捉え方がやけにネガティブだ。
 

 そして世の中には仕事のためなら、何をしても平気だという人が、数多く存在するのである。
 それは決して良いとか悪いとかではなく、仕事というものはそういうものである。
 例えば、軍隊で働く兵士。彼らはともすれば他人を殺すことすらある。ときには非人間性が糾弾されることもあるが、しかし彼らは誇りを持って仕事をしている。
(中略)
 例えば、会社員。例え妻や子供を愛していても、楽しみにしていた遊園地の日に、取引先から呼び出されれば出勤せざるを得ない。

 もう一度言うが、これらは決して良いとか悪いとかいうことではない。
 仕事というものは、そもそも個人的良心の外にあり、個人では制御できない悪や嘘といった領域をどうしても含むものなのである。だからこそ善悪の基準というものが極めて曖昧になる。

 そうだろうか。
 
 この考え方は、「仕事なら、何をしても平気」という感覚と、「仕事なら、ときには嫌なことでも引き受けざるを得ない」という感覚の区別がついていないように、私にはみえる。
 
 YouTuberのなかには、金銭や承認欲求が欲しいあまり、良心が麻痺している極端な人がいるのは事実だろう。けれども一般に、仕事とは個人的良心を持ちながらやっていくものではないだろうか。
 
 ときには顧客や家族のニーズに応えきれないことがあるし、個人では制御できない悪や嘘に直面することもあるだろう。だが、そういった時に善悪の基準が曖昧になってしまうのではなく、良心の呵責を感じながらも働き、できるだけそのような事が起こらないよう努めているのが社会人だと私は思っていた。
 
 こんな風に考える私は、ひょっとして“おめでたい世間知らず”だろうか。
 
 

幼い頃からYouTubeに出ている子どもは、どんな風に成長するのか

 
 それはともかく、子どものYouTuberである。
 
 少し前から、子どもがパフォーマンスをやる動画投稿を多くみかけるようになった。出てくる子どもは、中学生や高校生とおぼしき年齢だけでなく、幼児が出てくるものもある。PV数も、閑古鳥が鳴いているものから“大手”まで色々だ。
 
 ああいうのを見ていると、私は、不安になってしまう。
 
 子どもが楽しそうに登場しているものでも、この子どもの将来はYouTubeに曝され続けてどんな風になってしまうんだろう……と思うと、なにか恐ろしい出来事の現場を目撃しているような気持ちになってしまうのだ。
 
 リンク先では、親に利用されてYouTubeに出演している子どもがいると述べている。実際、そうかもしれない雰囲気の漂う動画を目にすることはある。子どもを金銭収入の手段として使役するのは、あまり褒められたことではないように私は思う。
 
 それ以上に気になるのは、子ども時代から、不特定多数に観られて評価されることで金銭的・心理的報酬を得る経験を繰り返す生活が、その子どもの人格形成や処世術にどんな影響を与えるのか、だ*1
 
 ネットで不特定多数に観られて得られる金銭的・心理的報酬は、安定した人間関係から恒常的な承認を得るのとは全くタイプが違っている。
 
 PVは理不尽な神様のように気まぐれで、集まる時には集まるが、集まらない時には集まらない。間欠的に注目が集まる感覚は、射幸心をあおり、不特定多数の関心を得るために言動をエスカレートさせるよう誘惑する。そういう体験を幼いうちから繰り返していて、はたして、人格形成や処世術が歪まないものだろうか。
 
 実際には、成人ですら金銭的・心理的報酬のために表現をエスカレートさせて、種々の揉め事を起こしている。そしてYouTubeというメディアは、動画であるがゆえに、過激なものを配信しようと思えばいくらでもできてしまう。そんな、成人でもコントロールが難しいメディアを子どもにいじらせて良いものなのか。
 
 こうやって考えると、YouTubeやニコニコ生放送のたぐいは、年齢制限があって然るべきだと私は思う。13歳などとぬるいことは言わず、18歳未満は一律禁止にしても良いぐらいではないだろうか。親が承諾して動画を撮る場合も、あくまでプライベートな・ローカルな配信に限定したほうが望ましかろうと思う。
 
 と同時に、インターネットで注目を集めること・顔を曝して金銭や注目を集めることに相応以上のリスクがあることを教えるのも、親に期待されるネットリテラシー(のひとつ)だろう。
 
 

子どもYouTuberは「虐待」か

 
 ところで、ここまで書いておいてなんだが、私は子どもがYouTuberをやっていることだけをもって「虐待」と呼べるとは思っていない。
 
 なぜなら、あれを「虐待」とみなしてしまうと、世の中のいろいろなものが「虐待」に当てはまってしまいそうだからだ。
 
 もし、子どもが自分のやりたい意志で*2YouTuberをやっているのを許していたら「虐待」相当だとしたら、子どもにテレビゲームをさせるにまかせている親も「虐待」ということになりそうだし、子どもに炭水化物や脂質の多いおやつを食べさせ、果糖たっぷりの清涼飲料水を与えている親も「虐待」ということになりかねない。
 
 また、親が子どもにYouTuberを“やらせている”場合でさえ、もし親が「これは子どもの将来のためなんです」「子どもの教育のため、キャリア形成のためなんです」と主張していたら、「虐待」と呼びづらいように思う。
 
 子どもの将来のために親が子どもにYouTubeをやらせるのが「虐待」だとするなら、子どもの将来のためと称してタレントスクールに通わせる親や、スポーツのスパルタ教育を強いる親もまた、「虐待」と呼べるのではないだろうか。ピアノ教室だって、お受験のための塾通いにだって、強いればそれほど大きくは違わないのではないか。
 
 子どもの将来という見通しのきかないものに対して、親は、子どものためと称してあれやこれやを学ばせようとする。もし、それらを「虐待」認定してしまったらきりがない。
 
 だから、親が子どもに性的な動画配信を強制しているとか、そういった明白な問題があるならともかく、親が子どもにYouTuberをさせることを許容している・推奨していること自体は「虐待」とは呼べない。控えめに言っても、呼びにくい。
 
 だから私には、「子どもがYouTubeをやっているのはいけない」とか「子どもにYouTubeをやらせている親は「虐待」している」などとは到底言えそうになくて、ただ、「子どもYouTuberをみていると不安になる」と感想を述べるのが精一杯である。
 
 それでも、インターネットの承認欲求の渦中に住まうブロガーの一人として、また、多くのアカウントが心身を持ち崩した顛末を知っている身としては、子どもがYouTubeで一生懸命にパフォーマンスをやっているのを観ていると、心がざわつかずにいられないのだ――この子ども達は無事に育ってくれるのだろうか。こんなかたちで金銭的・心理的報酬を受け取ることに慣れてしまっても、それなり健やかに成長できるものだろうか、と。
 
 インターネットを通じて私達は、世の中の最も素晴らしいものから最もおぞましいものまで眺めることができる。あのちいさなYouTuber達の、いじましいパフォーマンスは、どちらの部類に入るのだろうか。どうあれ、YouTubeで動画を配信している子ども達には、なるべく元気に無難に育って欲しい。
 

*1:YouTubeに限らずネット配信全体に言えることだ。たとえば小学生のうちからtwitterで不特定多数のアテンションを集めているような子ども、など。

*2:子どもの「やりたい」という意志の有無をどのように判断するのか?その判断のややこしさについては、ここでは踏み入って議論しない

2017年の、シロクマのブログ大戦略

 
 
 新年、あけましておめでとうございます。『シロクマの屑籠』のp_shirokumaです。
 常連の皆様も、そうでない皆様も、どうかよろしくお願いいたします。
 
 2016年は、きちんとブログと向き合えない一年でした。理由はいろいろあるでしょう。
 
 ・本業との兼ね合いで時間と体力が確保しづらかったこと。
 ・執筆関連の業務が意外と大きかったこと。
 ・もっと大きなサイズの文章へのトライアルにてこずったこと。
 ・世のトレンドに流され、自分のスタイルや書きたかったことを見失ってしまったこと。
 
 一応、一年間のベスト記事を自薦しましたが、残念ながら、2015年に比べると元気の無い一年だった、と言わざるを得ません。
 
 それらを振り返ったうえで、2017年に私がやりたいこと、特にブロガーとして気を付けたいことを書いてみます。
 
 
 ・既に引き受けているプロジェクトをきちんとやってのける
 幾つかのプロジェクトが、まだ終わっていません。最近始まったばかりのものもあれば、だいぶ前から続けているものもあります。また、books&appsさんのように、初めて「連載」に近いかたちに挑戦しているものもあります。
 
 ブログの文章に比べると、余所様におさめる文章は一定の責任を伴い、好き勝手には書ききれない部分を含みます。books&appsさんに関しては「ブロガーとして好きなように書いてほしい、私達が望んでいるのはライター然とした文章じゃなくてブロガー然とした文章なんだ」と仰っていただいて、猛烈に感謝はしています。が、それですら、まったく遠慮や配慮が無いってわけにもいきません。
 
 そのぶん、どこかしんどくなっている部分はあるでしょう。
 
 ですが、そういった活動を通してしか経験できないもの・磨かれないものがあるのも事実です。私はブロガーとして長寿の部類になってきましたが、書籍を書くようになってからは日が浅く、技量も経験も知識も足りません。私は、40代後半~50代前半に差し掛かった未来の私に、今よりもずっと文章が書ける技量と経験と知識を届けたい。そのためには、きちんと目の前のミッションをこなし、こなしたことから教訓や知識を得ておくのが肝心だろうな、と思っています。
 
 
 ・なんでもかんでも引き受けるのはやめる
 他方で、「なんでも引き受けていると身体が持たない」ということも身に染みて感じた一年だったので、去年にも増して、あれこれのお誘いをお断りせざるを得ないのだろうな、とも思っています。あちこちからお声がけ頂けるのは光栄の至りですし、本当はすべてのお誘いにイエスと答えたいですが、今の自分には限られた体力と時間しかないので、無理のない範囲で活動していこう、と思います。
 
 
 ・ゲームを減らして読書を増やす
 2016年は私にとって十数年ぶりの「ゲームの年」でした。『艦これ』『ダライアスバーストCS』『ステラリス』『ポケモンGO』等々、たくさんのゲームに恵まれた結果、三十代以降でいちばんゲームを遊んでしまいました。これはゲームオタク冥利に尽きる体験でしたが、41歳にもなってゲームオタクだけやっているわけにもいかないので、ゲームを減らして、そのぶん読書をしたいと思います。
 
 
 ・ブログ更新を減らす
 今年は、ブログの更新しすぎに気を付けるつもりです。はてなブログのインターフェースは、「思いついたことをすぐに文章化する」には向いていますが、ちょっと最近、思いつきを片っ端から文章化してしまうきらいがあって、これでは腱鞘炎になってしまいます。
 
 なにより、「思いついたから書いてみたいこと」と「書く機会を逃してもまだ書きたいこと」の区別がつきにくくなってしまいました。「今書かないと頭から蒸発してしまう思いつき」よりも「頭から蒸発してもじきに蘇ってまた書きたくなってしまう」もののほうが面白いような気がするので、「思いついたら書く」はできるだけ減らし、「思いついてもすぐ書くな」「何度も書きたくなるようなら書け」を目指したいと思います。
 
 
 ・もっと個人的でポエミーなブログにしたい
 せっかく自分専用の、いわばプライベートなブログを書いているわけだから、もっとポエミーな“文章”を――記事とかエントリとかいうのがおこがましくなるような“文章”!――を書き綴りたいです。ポエムと書くとネット上では悪い意味にとられるでしょうし、それは甘んじて引き受けましょう。それでも私は、もっと詩的な文章を抒情的に書き綴ってみたいのです。
 
 インターネットのトレンドも、PVとかいう得体のしれない数字も、この際できるだけ意識しない。
 
 もっと自分の思いのたけに忠実な文章、その時の私の気持ちをしっかり反映した文章を遠慮なく書いていきたい。2016年の『シロクマの屑籠』にはそういうポエミーな成分が足らず、そのせいで、バサバサに炊いた米のような文章をたくさんつくってしまったように思います。このブログは、もともと「あいつ、またポエミーな文章書いてやがるぜ!」と指をさされるようなブログではなかったでしょうか? そこのところを思い出したいと思います。
 
 
 ・何はともあれ、ブログと自分自身を大切にする
 結局、上に挙げたすべての箇条書きは「ブログと自分自身を大切にしたい」の言い換えなのかもしれません。
 
 ブログをすり減らしてはいけない。自分自身もすり減らしてはいけない。どちらも自分自身だけのもので、他の誰かが世話してくれるようなものではない。だから、このブログと自分自身が凍えて死んでしまうことがないよう、細心の注意を払っていく所存です。
 
 

未来の自分に、なんとしてでもブログを届けたい

 
 正月からこんな事を書く気になったのは、私以上にブログを長く続けておられるid:fujiponさんが、こちらで以下のようなことを書いてらっしゃったからです。
 

 たぶん、継続することにも、意味はそれなりにはあるのでしょう。そう信じたい。
 しかしながら、これを10年とか15年とか続けてきて、これからも同じくらい続けていくのだろうか?

 

 もちろん、すぐに止めてしまう、というわけではありませんが(そんなことをしたら、僕自身がもたないので)、なんだか今は、そんな漠然とした不安、みたいなものを抱えているのです。
 終わりが避けられないのなら、自分でしかるべき時期に幕を引くべきではないか、とも思います。
 まだ、そういう判断力が残されているうちに。

 
 こういう心配は、私にもあります。書くことに疲れることはあるし、自分が書かなければならないことなんて本当はなんにも無いんじゃないか、だって、こんなに沢山の人がブログを書いているし、本だって世の中にたくさん存在しているんだから……といった悲観にとらわれることもあります。それに、ネット上で私がやっていること・興味を持っていることなんて、正統な学術的蓄積からは程遠い、“魔術”に近いものですからね*1
 
 でも、私は諦めが悪いので、自分自身にしか見えないこと・自分自身が見ていることを、やっぱり書いて誰かに伝えたい。どうやら気付いていない、それか気付いていても言語化できていない人に届けたい。でも、そのためには残り10年程度の時間はどうしても必要で、そこまではブロガーとして、あるいは素人モノカキとして、生存し続けたいのです。今の自分にはまとめきれないものを、未来の自分にまとめてもらいたい。あるいは引き継いでもらいたい。まあ、未来の私は2017年の願いを叶えられる立場には無いかもしれないけれども、それでも、可能性という名のパンドラの箱を未来の私に届けるためにあがきたいのです。
 
 滑稽にうつるかもしれませんが、私は、中年期を迎えたこの期に及んでもなお、未来の自分に可能性という贈り物を届けたいと思っているようです。ブログで、いや、ブログじゃなくてもいいから、書き続けるという行為によって。
 
 これまでに、たくさんの古参ブロガーや古参ウェブマスターが筆を折るのを見てきました。私は、それらが寂しくて仕方がないと同時に、怖いとも感じました。「いつか自分もブロガーとしての執着が薄まって、ああなってしまうかもしれない」と。いや、ブログに初めて触れた時のような、ハワイ島の活火山のようなエネルギーはとっくに失っているし、それでも温泉ぐらいの熱量は保ち続けているつもりだけど、いつかはこの熱量も冷えてしまうのかなと思うと寂しい……というより怖さを感じます。
 
 だから、fujiponさんの「ブログを10年とか15年とかこれからも同じぐらい続けていくの?」という問いかけを見た私は、言及せずにはいられなかったし、ブロガーとしてサバイブするために今年も頑張りたいな、と改めて思ったのでした。
 
 私はブログが大好きなp_shirokumaなので、ブログと自分自身が長く生存できるよう、これからも努めてみます。
 
 
 
※はてなブログ今週のお題「2017年にやりたいこと」 にあわせて投稿しました

*1:ちなみに、“魔術”は21世紀にもあまねく存在しています。その時一度限りの、その人にしかできない奇跡の御業なんて、そこらじゅうにあるじゃないですか。手続きさえ同じなら結果が必ず同じという“技術”の論法で片付けられることなんて、まだまだ多くはありません。

俺は女子高生や女子大生を見てもいけない。見られてもいけない。

 
inujin.hatenablog.com
 
 リンク先は、“ある程度年齢のいった男性が「自分が無害」であることを周囲にきちんと伝えるのは大変だ”という主旨だと私は受け取った。
 
 これは、同世代としての男としてすごくわかる。
 関連して、最近心がけていることを書きたくなった。
 
 

目指せ、「透明おじさん」

 
 
 最近私は、「透明おじさん」を目指している。
 
 人間には“他人からの視線をすぐに感じ取るセンサー”が備わっている*1。このセンサーの感度には個人差があって、男性よりも女性のほうが感度が強いようにみえる。また、中年や老人や子どもよりも、思春期の男女のほうが感度が強い。
 
 だから一般に、女子高生や女子大生は“他人からの視線を感じ取るセンサー”が敏感だ。少なくとも男性からの視線には、超反応と言って良いほど気が付く。ほんの一瞬でも彼女達を眺めようものなら、死角でない限り、あっと言う間に発見される。
 
 ということは、中年男性である私にとって、女子高生や女子大生を見つめるのはたぶん危険な行為だし、見つめられる当の女性からみれば迷惑なこと、ということになる。
 
 いや、中年に限らずとも、男性が女性に視線をおくるのはエチケットに反しやすい、きわめて微妙で難しい行為なのだと思う。
 
 ちなみに、長らく非モテ寄りなマインドの持ち主だった私は、同世代の女性に視線をおくるなんて大それたことはなかなかできなかった。「あの人たちにキモオタ扱いされたらかなわない」とびくびくしていた私は、無敵になったマリオのように輝いている、女子高生や女子大生といった人種に視線を向けるのを恐れていたのだった。
 
 それが、三十代を過ぎて非モテマインドがおさまり、思春期の自意識も丸くなって、知らない女性と目をあわせても挙動不審にならなくなった矢先に、今度は、若い女性に視線で迷惑をかけてしまうかもしれない意識が強くなってきて、またもや、女子高生や女子大生をまともに見れなくなってしまった。
 
 「公共交通機関のなかで、待ち合わせスポットで、見知らぬ中年の男が自分を一瞬でも見ていたら、若い女性はどんな風に思うだろうか。」
 
 「不快に感じたり、脅威や不安を感じたりする人もいるかもしれない。視線を向けるだけとはいっても、先方には迷惑なことではないか。」
 
 それなら、女子高生や女子大生を見つめないこと、そして彼女らにとって無視して構わない存在、風景未満の存在になってしまうことが、郊外や都市で暮らす中年男性のエチケットではないか、と思い至らざるを得なかったのである。
 
 よって現在の私は、女子高生や女子大生を見ないように見ないようにしている。つい、視界の中に、ソーシャルゲームに出てきてもおかしくないような端正な若い女性が飛び込んできても、目で追いかけるのはNGだ。「あっ!今、なんか凄くきれいな女性がいた!」と思っても、なにせ相手は二次元美少女キャラクターではなく、魂の入った人間の女性だから、じろじろ眺めるなんてもってのほかだ。こちらの視線を先方が察知しただけでも、ちょっと申し訳ない気持ちになる。すみません。今、ちょっとだけあなたの姿が目に入ってしまいました。ごめんなさい。すぐに立ち去ります。怪しい者ではありませんから。
 
 
 冒頭リンク先の文章には

 おっさんというのはできるだけ実体を持たず、概念的な存在になっていくべきなのだろう。

 と書いてあるが、街を歩いている時に限って言えば至当な結論だと思う。
 
 私は、女子高生や女子大生からみて、透明なおじさん、いないものとして取り扱っても構わないおじさんでなければならないのだ。
 
 と同時に、私のほうもまた、女子高生や女子大生を透明な存在として扱わなければならない。視線を投げかけるだけで彼女達に迷惑をかけてしまうかもしれない以上、一番望ましいのは、私には女子高生や女子大生が見えなくなってしまうことだ。もちろん彼女達は光学迷彩を使って透明になったりはしてくれないから、こちらから積極的に視線を外していかなければならない。キャイキャイと姦しい声が聞こえてきたら要注意だ。彼女達を見てはいけない。「直視したら塩の柱になるぞ!」ぐらいの勢いで視線を外していかなければならない。それがお互いのためだから。
 
 郊外や都市とは、知らない者同士がお互いに関わりをもたず、しがらみもなく、安全に・快適に過ごすための空間だ。であれば、たとえ「ひとまなざしの視線」であっても、中年男性が若い女性に視線を向けて、それで気煩いをかけるような場面はできるだけ減らしたい。
 
 まあ、こういう「お互いにできるだけ関わるな、棲み分けろ」みたいなエチケットというか文化儀礼みたいなものが、孤独な母子家庭とか、少し前の援助交際問題みたいなものを深刻にしているような気もするが、それはともかくとして、個人としての私は無害な中年男性でいたい。
 
 思い返せば、女子高生や女子大生をマトモに眺めていられる期間の乏しい人生だった。世の中には、中年になっても女子大生に心を奪われる人もいるようだが、私には無理だ。インビジブルを目指そう。
 
 

*1:医学的なことをいうと、視細胞のなかでも桿体細胞がどうのこうの、という話になるがここでは省略。

「昔タケちゃん、今ヒカキン」

 
 
 
 
 「昔はドリフ、今はヒカキン」というタイトルのほうが良かったかもしれない。
 
 
 いつの時代にも、PTAや“意識の高い”お父さんお母さんがたを憤慨させてきたコンテンツというのはあって、たとえば先生のボインにタッチするようなアニメだったり、バカっぽい子どもがお茶の間に向かって尻を丸出しにするようなアニメだったりしたわけだ。
 
 アニメ以外の番組にもそれは言える。
 
 私が子どもの頃にも、(当時の水準で)意識の高い父兄から良くない風に言われている番組があった。それは『8時だヨ!全員集合!』であったり『オレたちひょうきん族!』であったりした。くだらない。通俗的。下品。子どもの教育にふさわしくない。そういった評価がこれらの番組には下されていて、それは、子どもだった私達にもしっかり伝わっていた。
 
 教育テレビの番組や科学をテーマにした番組に比べて、それらはあまりにも馬鹿っぽく、子供騙しで、下劣な番組とうつったことだろう。
 
 勉強や生活に役立つことなく、ぬるいソーダの泡のような笑いをもたらし、悪ガキ向けの馬鹿騒にぴったりの番組に夢中になっている我が子の姿を、意識の高い父兄が眉をしかめて眺めていたのは想像に難くないし、子どもが志村けんやタケちゃんマンの物まねをする姿は、彼らには憂鬱に感じられただろう。
 
 実際には、そうした番組のそうした知識も、学校に通う同世代同士でコミュニケーションする時に役に立つ、ちょっとした共有資産だったりしたのだが。
 
 

「くだらないもの」の流通媒体としてのネット動画

 
 そうした芸人を楽しむ媒体も変化して、かつてはテレビの独占だったものが、インターネットにもたくさんの芸人がみられるようになった。テレビで芸をうつ芸人達は、視聴者の加齢にあわせなければならないためか、子どもや若者にフォーカスを絞ったような芸はなりを潜めるようになった。他方、インターネットには、はっきりと子どもに焦点を合わせた芸人の芸が幅を利かせている。
 
 21世紀の意識の高い父兄に嫌われやすい、かつての『ドリフ』や『ひょうきん族』に近いコンテンツとは何だろうか?
 
 『重版出来!』と『トットてれび』から見える作り手の困難(成馬零一) - 個人 - Yahoo!ニュース
 
 上記リンク先を読んでいた時に、「そうだ!ユーチューバーだ!」と自分のなかで結論が出た。
 
 意識の高い父兄から嫌われているという点でも。
 「既存のメディアから下に見られていそう」という点でも。
 年上よりも年下の人達にフォーカスを絞っている点でも。
 
 だから、少子高齢化の今という時代に「ドリフ」や「タケちゃんマン」的なニッチを引き受けているのはユーチューバーとその眷族達なのだ。時代とメディアが変わってしまったから別物のようにみえるけれども、日本のサブカルチャー全体のなかで引き受けているニッチはだいたい同じではないだろうか。
 
 「ああ、キッズがユーチューブに夢中になっている時に感じるこの気持ちを、数十年前の親達も感じていたんだろうなぁ……『ドリフ』や『ひょうきん族』に夢中になって、真似をしてゲラゲラ笑う俺達を眺めながら。」……と最近は思うようになった。
 
 しかし、そこはそれ、ユーチューブの子供向け演し物は昭和時代のテレビに比べればどこか清潔で、かしこまっていて、21世紀のコンテンツ感はある。昭和時代~平成前半にあった途上国っぽさはそこからは感じられない。こういったコンテンツを介して、21世紀の子どもは21世紀を呼吸して、我が物としながら生きていくのだろう。
 

誕生日はおめでたい日だと、最近やっと気づいた

 
 今日は天皇陛下の誕生日だ。
 だからというわけではないが、誕生日についてちょっと書く。
 
 子どもの頃の誕生日にはちょっとしたお祝いがあったので単純に嬉しかったが、思春期を迎える頃には「年を取ってしまう日」として嫌悪していたし、20代後半は「三十路を迎えるまでの地獄のカウントダウン」だった。30代後半? 聞くまでもなかろうよ。
 
 それでも、誕生日はめでたいものだと最近になって気づいた。
 
 「こんな歳になってしまった」「こんな年齢まで人生を使ってしまった」と思うから誕生日が疎ましいのであって、「この歳までたどり着けた」「ここまで人生をやり込んだ」と考えるなら、誕生日はめでたい。とてもおめでたいのだ。
 
 

「おまえ、レベル40歳まで生きたのか?長く生きたな、たいしたもんだ」

 
 最近、生きていくことに辛さを感じる。
 
 もともと娑婆は忍土(にんど)と言って、辛いものと相場が決まっているが、三十代後半あたりからは、身体能力の衰えをひしひしと感じるようになった。表面的には今までどおりの生活をしているけれども、毎日を生きるためのコスト、つまり、健康や世渡りに費やさなければならないコストはジリジリ増えている。
 
 なるほど、人間というのは生物だから、老いるにつれて生きるための難易度が高くなっていくのか。
 
 そして舞い込む訃報。
 
 自分に近い場で活躍していた人が、不意に亡くなった報せに驚く。
 あるいは、まだ教えを請いたかった恩師が急逝した報せに悲しむ。
 
 そういった訃報を受け取るたび、今というこの世界が永遠に続くわけではないこと、人間が生き続けて年を取り続けるのは当たり前ではないことを思い知らされる。
 
 みんな無条件に生きているわけではないのだ。たとえそのようにみえたとしても、毎日好きなことをやったり、毎日義務を果たそうとしたり、毎日苦悩に耐えたり……とにかく、生き続けている人間だけが今を生きているのだ。
 
 レベル0歳からレベル12歳までの子ども時代を生ききった人は、たいしたものだ。
 右も左も知らない、力の乏しい時期を生き抜いたのだ。親の助けがあるとはいえ、よく頑張った。
 
 レベル13歳からレベル24歳までの思春期を生ききった人も、たいしたものだ。
 嵐のような自意識と闘いながら、親の手が届かないところで懸命に立ち回った。激しく生きたことだろう。
 
 レベル25歳を超えて、レベル30歳、レベル40歳と年齢を重ねた人もそうだ。
 社会に巧みに適応できていたか、今一つピリッとしないかはともかく、何十年も自分という名の「人生」のアカウントを操縦し続けてきたのだ。たいしたものじゃないか。
 
 年を経るにつれて実感するようになったのは、身体がボロくなろうが苦境に直面しようが、それでも「人生」の盤面を投げ出さずに生き続けるというのは、ただそれだけでもたいしたものだ、ということだった。
 
 この視点で年上の人達を眺めると、なるほど、お年寄りというのは敬意に値する。
 
 あのおじさんは、六十代になってもあんなに元気にしているんだぞ。
 
 あのおばさんは、ガンの転移と闘いながら、それでも娑婆から振り落とされずに生き続けて、最後まで生きようとしている。次の誕生日を迎えられる保証はまったく無い。が、ともかくも生きているのだ。
 
 生き続けること自体の難易度が高くなっていても、人生を投げ出さず、どうにか生き続けている人々は、荘厳だと思う。
 
 人生の難易度の上昇スピードは人によって異なるが、原理原則としては、年を取るにつれて加齢にともなうペナルティが大きくなり、自分の社会的な立場も変わっていくため、長く生き続けるのは苦難の連続となる。にも関わらず長く生き続けている「人生」のプレイヤーは、それぞれに苦難を乗り越えてきているわけだし、そうやって、ライフログの歴史を積み上げているわけだ。
 
 で、そういうライフログの歴史を持ったひとりひとりの人間同士が繋がりあって、この娑婆世界がかたちづくられているのは確かなのだ。それって、すごいことではないだろうか。
 
 

誕生日は「実績解除」のトロフィーだ

 
 こうやって考えると、誕生日は、一年また一年と生き続けたことを証明する「人生」というゲームのトロフィーのようにみえる。マイクロソフト社のゲームで言えば「実績解除」だし、『ポケモンGO』風に言えば「メダル獲得」みたいなものだろう。誕生日というのは一番基本的なトロフィーだけど、じゃあ、誰もがこのトロフィーを積み上げられるかといったらそんなことはないし、このトロフィーには必ず一年分の時間的な重みが詰まっている。
 

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・みんな、こんな風に「人生」のトロフィーを積み上げている*1

 
 こうやって私達は、一年分の時間的な重みの詰まったトロフィーを不可避的に積み上げて、それらを背負いながら毎日を生きているのだ。
 
 ほら、あの78歳のご老体をごらんなさい! あんなにたくさんの誕生日トロフィーを抱えて、その重みに耐えながら、まだ自分の足で「人生」を歩き続けている。「人生」の大ベテランプレイヤーと言わざるを得ない。彼らは「人生」の“やり込み勢”だ。
 
 誕生日を迎えるのは、当たり前のようで意外と当たり前ではない。だから誕生日を迎えた人には、おめでとうと言いたいし、自分の誕生日にも、これからはおめでとうと言いたい。
 
 生きて誕生日を積み重ねていこう。死がゲームオーバーを告げに来るその日までは。
 

*1:画像は『ポケモンGO』のメダル獲得のコラージュです