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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「夫婦に満点を求める社会」の無理ゲー感

男女

 
 全国のお母さん、どうか息子の「性」について正しい知識を持って下さい。 : 人類応援ブログ
  
 リンク先には、「全国のお母さん、どうか息子の「性」について正しい知識を持って下さい。」と書いてある。つまり息子の性と適切に向き合えるようになってください、ということだろう*1
 
 そうは言うけれども、母親が息子の性を適切に取り扱うのは簡単だろうか。
 
 母親が父親(夫)と良好な関係を保ち、男性性も毛嫌いしていないなら、ある程度は可能だろう。そのような母親は、息子の第二次性徴に直面しても不安がったりしない。まあ、実妹の下着を盗んでいるのを見ればさすがに動揺するだろうが……。
 
 しかし仮面夫婦をやっている場合・男性性を嫌悪している場合・成人男性全般と適切な距離感で付き合えない場合は、そうはいかない。母親が息子の性と向き合う行為は、自分自身が取り扱えなかった弱点と向き合う行為に限りなく近い。不安がらずに取り扱うのは、ものすごく難しいのではないか?
 
 リンク先の逸話は、息子が取った行動も母親が取った行動も度が過ぎている。しかし、もっと穏当な水準の母親-息子間の悲劇や軋轢は、あっちこっちで目にする。だから、この問題を軽んじて良いとは私は思わない。
 
 でも、お母さんだって人間で、母親だって女なのだ。月経の辛さは知っていても、男性性欲の全貌を知っているわけではない。夫も含めた男性遍歴の帰結として、男性性に苦手意識や不安を持っている人も少なくないだろう。そういうお母さんに「全国のお母さん、どうか息子の「性」について正しい知識を持って下さい。」とお願いするのは、私は、無理ゲーのような気がしてならない――人前に出ると赤面してしまう人に、「どうか、人前でも冷静にしていてください」と呼びかけるのと同じぐらい難易度が高いと感じる。
 
 

「母が駄目なら夫で。」「じゃあ、夫も駄目なら?」

 
 ここで思い出されるのが夫の存在だ。リンク先の筆者は、この家族の夫を以下のように糾弾している。
 

父親は同じ男性として、息子の性についての知識があったはずだ。
息子の性が同世代の男の子たちと比べて際立って異常でも何でもないことを知っていたはずだ。
彼は、それを知りながら妻にそれを伝えることを怠った。
感情的に興奮する妻と対決することを恐れ、息子の心を犠牲に自分の安寧を選んだ。
A子さんの夫よ、あなたがやっていることは「ネグレクト」と呼ばれる立派な虐待です。
あなたの無関心が息子さんを追い詰めたことを自覚して欲しい。

 いや、まあ、言いたいことはわかるけれど、「息子に性についてレクチャーしなかったらネグレクト」ってのも、なんだか極端な物言いですね。
 
 「母が駄目なら父が何とかすべき」というのは、筋道としては至極正しい。子育てが核家族の自由裁量に委ねられ、つまり自己責任とみなされる現代社会では特にそうだろう。しかし、「父が息子に男性性をレクチャーしなければならない」必要性は、どれぐらい“社会問題”としてクローズアップされていただろうか?
 
 社会問題云々は別にしても、夫婦関係は脆く難しいものだ。仮面夫婦や離婚に陥ることなく、お互いを敬愛しながら子育てを続けられるパーセンテージは果たしてどれぐらいのものなのか。
 
 「妻と対決するのを恐れて安寧を選んだ」と夫を非難するのはたやすい。
 
 しかし、そもそも夫婦の仲が良ければ、夫が「妻と対決するのを恐れて安寧を選ぶ」なんて事はないはずなのである。一般に、夫婦の溝は長年かけてつくられるもので、一朝一夕に解決できるものではない。対決を避けているのが夫ではなく、妻が息子を“味方”につけるために抱き込んでいるケースだってある。どちらにせよ、夫婦の協調関係が崩れてしまった家庭で夫が子育てに口出しできるか否かは難しい問題だ。離婚やシングルマザーの場合、そもそも男性がいない。
 
 日本の場合、高度経済成長以来の「父親が働き母親が子育てをする」的な役割分担が残っていて、父親が外で働き、母親が子育てに専念する“分業”をとりやすい。そうした“分業”にも有利な点はあるが、無思慮な“分業”は考え方の違いを大きくしてしまい、なにより夫婦間のコミュニケーションを減らし、結びつきを弱めてしまう*2
 
 夫が外で仕事に没頭し、妻が子どもに没頭する家庭が大量量産されていた一時代があった。そのプロセスを経て日本が“豊か”になったのだから文句も言いにくいが、こと、子育て環境に関する限り、家庭から父親がいなくなり、母親が息子の性の問題にまで立ち入らなければならなくなった主因は、昭和時代のワークスタイル(と、その名残を帯びた現代のワークスタイル)だと思う。
 
 もし、リンク先のような悲劇を「夫の介入で」どうにかしたいと願うなら、夫がもっと家庭に関わりやすい――もっと言えば、家庭で妻や子どもとコミュニケートしやすい――社会が立ち上がってこなければならないと私は思う。現制度のままでも、個々の夫・個々の妻は、夫婦間のコミュニケーションを大切にしようとするだろうし、息子や娘に手持ちのノウハウを与えようとはするだろう。しかし、そうした努力が実りやすく、夫婦それぞれのノウハウを伝授しやすくするためには、もっと夫婦と子どもが共に過ごす時間が必要だ。夫婦それぞれのスケジュールが仕事や家事で分断され*3、限られた時間しか接点を持ちえないとしたら……夫婦がギクシャクしないほうがおかしい。
 
 なかには分業化しまくった家庭なのに仲睦まじくやっている夫婦もいるだろう。でも、私はあれが当たり前の幸福だとは思わない。あれは一種の例外、達人芸の幸福だ。時間をかけなくても家庭は上手くいって当然、みたいに考えるのは、やめたほうがいい。
 
 

「良き夫婦」「良き家庭」のためには人間を超えなければならない

 
 そもそも、どうしてこんなに妻や夫がしっかりやらなければならないのか。
 
 子育て中の親は、あれこれ出来なければならない、と人は言う。その通りだが、何でもキチンとできる夫婦なんて一体どれだけいるのか?
 
 もし、夫婦仲が円満で、何でも話し合って、何でも解決出来て、子どもにはあらゆる領域で良き模範となり、叱る際にも一切トラウマを生じさせない夫婦でなければ、世間様から「あの親は毒親だ」「あの夫婦は失格だ」と後ろ指を指されるとしたら……いったい何%の親が合格点を貰えるというのだろうか?
 
 しかし現代の子育ては、そうした問いが、世間からも、子どもからも、峻厳に問われてしまうのだ。親のひとつひとつの欠点、親のひとつひとつの失敗が、そのまま子どもにも跳ね返ってくる社会。そんな社会で“模範的な子育て”をやりおおせる親などほとんどいないだろうし、架空の“模範的な子育て”と我が身を比較し、不安や罪悪感に陥らない親も稀だろう。求められている水準が、無茶なのだ。
 
 念のため断っておくと、だからといって個々の親が理想を追求しなくて良いとか、デタラメに子育てして良いと主張したいわけではない。個々の親は、出来る限り良い親たろうと努めるべきだろう。それでも人間のやることだから、どこかにボロは出るだろうし、子どもにとって害悪になる要素を一つや二つ(ときにはもっと)抱えているのが普通の親なんじゃないか、と私は主張したいのだ。そして、親の一つや二つの悪い要素が躱しきれずに子どもに響きやすい現在の子育てシステムは、欠陥品なんじゃないか、とも言いたいわけだ。
 
 性についてもそうだけど、現代社会は、子育てに関する裁量と責任をあまりにも核家族に委ね過ぎていると思う。地域社会の時代には近隣の年長者や血縁者とシェアされていたはずの教育や模範が、小さな器に集中してしまった。そのおかげで夫婦は子育てを自由に行う権利を獲得し、諸々のしがらみからも解放されたわけだけれど、自分達では手に余るもの・自分達が一番苦手としているものも、核家族の内部で解決しなければならなくなってしまった。解決できなければ、それはそのまま“病理”となって子どもにフィードバックされてしまうだろう*4
 
 核家族というユニットで完結しても困らないような夫婦――きっとお金に余裕があって、情緒的にも豊かで、文化資本にも恵まれ、家族で過ごす時間も多いのだろう――にとって、今日の子育て環境とて素晴らしいに違いない。しかし、経済的・心理的にゆとりが無い夫婦や、家族でコミュニケートするための時間や余裕の乏しい夫婦にとって、こんな、オールAでなければ問題が生じてしまう状況は喜ばしいものではあるまい。そして性格の偏りやコンプレックスはどんな人にだってあるし、あったって良いはずなのだ。
 
 いい加減、こんな子育てシステム、やめてしまえないものだろうか。
 やめられないというのはわかる。
 個人主義と契約社会の道理に基づいているからだ。
 だがせめて、現在の子育てシステムが「夫婦双方に満点を求めてやまない」ってことは、もっと周知され、もっと問題視されていいんじゃないだろうか。
 
 核家族それぞれのレベルでみれば、親の問題はやはり重要で、それをカヴァーするために最善が尽くされるべきだろう。だけどマクロな社会全体の目でみれば、個々の親の問題点が子どもの“病理”に直結しやすく親以外の年長者による埋め合わせが利かない社会のほうが、変わらなければならないはずだ。
 
 子どももそうだが、親だって人間だ。不完全で、コンプレックスや逆鱗を抱えた、あるていど不安定な人間が親という立場を引き受け子育てが進行していく。だとしたら、そうした個々の親の不出来な部分やナーバスな部分が、少しでもカヴァーされやすく“病理”に結実しにくいような、そういう環境を未来に望むべきだ、と私は思う。その際、個々の核家族の裁量がどこまで制限され、どれぐらいしがらみが許容されるのかが議論になるだろうけども、現状、高層マンションや郊外の核家族があまりに個別化・アトム化し過ぎている事を踏まえるなら、若干の揺り戻しがあってもいいのでは、と個人的には思う。
 
 ごちゃごちゃした話になってしまったが、この状況をほったらかしたままで、それでも少子化問題が解決するとは私には思えない。夫婦双方に満点を求める社会より、多少の欠点を持った夫婦でも子育てが成立する社会のほうが、目指すべき理想に近いと思う。
 
 

*1:他にも色々な話題が散りばめられているが、この文章では「母親に息子の性は取り扱えるのか」「核家族の内部で解決するのが当然なのか」にフォーカスをあてる

*2:ちなみに、共働きならこの問題を解決できるかといったらそうでもない。共働きでも、一方の親に子育てが集中すれば殆ど同じ結果になる

*3:子どもも学校や塾でスケジュールが分断されている

*4:ちなみに私が子ども時代を過ごした田舎では、親以外にもロールモデルになるような年長者は沢山いた。性にまつわる諸々も、同性の親からではなく、地域のお兄さんやおじさんから教わるのが一般的で、父親が直々に性について伝授しなければならない必要性は全く無かった