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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

経済的豊かさと、思春期モラトリアムについて

 

 
 1.一連のtwitter発言には、ある程度賛同できる。経済的な余裕が無ければ個人の選択肢は限られてくるし、なにより、視点が刹那的になってしまって長期的な展望は利かなくなる恐れが高い。
 
 それでも、モラトリアムとその成立条件を考えると、ツッコミどころはある。
 
 2.第一に、思春期モラトリアムな心性は、それを終えるだけでなく、モラトリアムを維持するにも金銭を要する、という事だ。「自分探し」にしても、オタク趣味やサブカル趣味に夢中になってアイデンティティを仮構し続けるにしても、これらは原則として金銭や時間を消費し続ける。日常生活を直接豊かにしてくれるわけでもなく、生存や安全に寄与してくれるわけでもない趣味領域に、心理的な充足感・アイデンティティの拠り所を据え続け、リソースを消耗し続けることは、日常生活に直結した領域にアイデンティティの拠り所を据えるのに比べれば、基本的に高コスト体質だ。
 
 だから、経済事情をアイデンティティの問題と関連して語るなら、「モラトリアムが終わらない」と同じかそれ以上に深刻な問題として「モラトリアムが維持できない」ことが意識されて然るべきなのだ――ロスジェネ世代がこれから益々困窮していくとしたら、今後は、むしろ後者の視点が重要になってくるのではないか。
 
 「モラトリアムが維持できない」ことより「モラトリアムが終わらない」ことを心配しているうちは、まだまだ生存や安全の問題は前景に立っていないという点において、経済的・時間的な猶予が残っているのかもしれない。本当に窮まってくると、モラトリアムな悩みもサブカルチャーな自意識も吹っ飛んで、ただ生きることそのものが意識を占めることになる。そうなれば、モラトリアムな悩みを抱えていること自体が、羨望の対象となるだろう。
 
 3.それと、思春期モラトリアムな心性は、経済的な諸条件だけで確立するものではない。いや、確立というと語弊があるかもしれないから、アイデンティティの固定、と言い直すべきか。
 
 アイデンティティの固定に、経済的なアチーブメントや安定性が役立つのは言うまでも無い。だが、もしアイデンティティの存立条件がそのようなものだったとしたら、高度成長期の青少年の大半や、それ以前の青少年の大半は、モラトリアムな悩みを抜け出すことは出来なかっただろう。もちろん、そのような時代においては思春期の猶予期間がそもそも始まらず、定められた運命を生きるしかなかったわけだけど、少なくともアイデンティティの固定に際して経済的豊かさは必要条件では無かった。そしてアイデンティティの固定やモラトリアムの終了は、自分で選ぶものではなく、しばしば、本人を取り囲む運命的与件と、その運命的与件に対する納得の度合いによって大きく左右されていた――この視点は、“自己選択という病”を煩いながらモラトリアムを持て余している人には是非とも必要なものだと思う。
 
 逆に言うと、“自己選択という病”を煩いながら思春期モラトリアムを終了させるのは、経済的なアチーブメントをもってしても難しい。少なくとも、十分条件とは言い難い。結婚しても、高収入を得ても、全く思春期モラトリアムが終わらず、ソワソワし続ける現代人がいるが、個人の自己選択を強固に信奉し実行していればしているほど、自由であるがゆえに、思春期モラトリアムに自ら錨を下ろす難易度は高くなる。自由は、その人の強さに見合った程度にあれば幸いするが、身の丈を超えた自由、セルフコントロール力を超えた自由は、しばしば個人を破滅させる。
 
 4.そして、アイデンティティの構成素子として、宗教や、身の回りの人間関係が存外に大きいことも忘れてはならない。
 
 宗教、特に熱心に信奉する宗教は、アイデンティティの構成素子として非常に大きなウエイトを占め得る。アイデンティティの空白に苦しむ人に“救い”をもたらそうとする宗教家は後を絶たないし、それが最悪のかたちで実施されればジハードに動員される欧米人のようなかたちをとることもあるが、ともかくも、アイデンティティの拠り所としての宗教を侮るわけにはいかない。
 
 個人的な憶測を書くと、いずれロスジェネ世代の間では宗教がちょっとした流行になると思う。なまじ宗教慣れしていない人の場合は、そうした信仰は“耽溺”と言って差し支え無い危険なものになりかねないけれども、アイデンティティの宛先としての宗教、運命を受け入れるための方法論としての宗教のニーズは潜在的に高まっていると思う。
 
 そして宗教以上に重要なのは、身の回りの人間関係だ。貧乏でも、モノが足りなくても、強固な人間関係はアイデンティティを提供してくれる。古来、人間関係によってアイデンティティを見出した人は数知れず、それは家庭というかたちを取ったり、地域社会というかたちを取ったり、仲間集団というかたちを取ったりしていた。経済的にそれほど恵まれなくても、生存性と安全性が保たれていて、立ち位置や役割を与えてくれる人間関係が確立していれば、アイデンティティは固定化し、モラトリアムの悩みは消えていく――「自分探し願望」や「オンリーワン願望」に取り付かれていない大抵の市井の人々は、そのような形でモラトリアムを終え*1、アイデンティティを固定化していったことを忘れるわけにはいかない。
 
 5.そんなわけで、「モラトリアムを終わらせるためにはマクロ経済が必要」という結論は微妙なものだと思う。経済的好条件は、モラトリアムの維持にもアイデンティティの固定化にも有利な状況をもたらしてはくれるし、少なくとも生存や安全が脅かされない程度には必要だろう。
 
 しかし、そもそもモラトリアムを維持すること自体が経済的に潤沢な与件に支えられていて、非-経済的な要素によってもアイデンティティが固定化していくことを考慮するなら、それがモラトリアムにピリオドを打つ特効薬ではない事には気付くはずだ。むしろ、経済的な豊かさは、さらなるモラトリアムの延長の可能性すら孕んでいるかもしれない。もちろん、庶民の子息までもがモラトリアムを延長できる社会とは、とてつもなく豊かな社会だろうから、マクロ経済が豊かであること自体は、望ましいものと言える。だが、そういう時代はもう終わった。
 
 今後は、モラトリアム期間を持てること・維持できること自体が、ひとつのステータスとみなされる時代がやって来る可能性が高い。いや、そういう時代が既に到来しているような気がする。そのような近未来において、モラトリアムな思春期心性がどのような目で見られ、評価されるだろうか?少なくとも、90年代と同じ論調で思春期モラトリアムを語ることは、もはや困難になるだろう。
 

*1:あるいはモラトリアムを自覚しないうちに