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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

大人は「なる」ものじゃない。大人は「やる」もの。「引き受ける」もの。

汎適

 
 あの頃の僕らが嘲笑って軽蔑した 空っぽの大人に気づけばなっていた件について:駄目人間速報(^ν^)<クズ集まれ-2chまとめ
 
 「大人になる。」
 
 あなたは「私は大人になった!」と自信をもって言えますか?
 
 成人式をやっただけで大人になったと胸を張れる人は、あまりいないでしょう。最近では「大人の歳になったけど、子どもとあんまり変わらない」という声を聞くこともあります。「大人になったかどうか」を自問自答しても、いまひとつピンと来ない人が多いのではないでしょうか。
 
 

誰でも最初は“大人一年生”

 
 ところで、大人って「なる」ものじゃなくて「やる」ものだと思うんですよ。
 「大人という役割を引き受ける」と言い換えてもいいかもしれません。
 
 子どもから大人への変化は、芋虫がサナギを経て蝶になるほど明瞭ではありません。そして実際には、“小学生や中学生が想像するような理想の大人”に100%なりきっている大人なんて、多分いないんじゃないかと思うんです――そんな大人は、子どもだけが抱ける幻想でしょう――。しかし、ほとんど幻想かもしれない「大人という役割」を、完璧にこなせなくても引き受ける;これこそが、大人というフェーズの始まりではないでしょうか。つまり、その人は「大人になった」のではなく「大人をやりはじめた」のほうが現実に即しているような気がします。
 
 逆に言えば、誰でも最初は大人一年生だったとも言えます。どう見ても立派な大人のように振る舞っている人も、必ず大人一年生だった時期がある筈です。大人という役割が自然体になるまでには、背伸びや強がりが必要だった時期や、うまく大人をこなせなかった時期もあったことでしょう。そういえば、ガンダムに出てくるブライト艦長なども、大人を「やる」には若すぎる歳で大人をやらざるを得ない立場になって、とても不器用そうに艦長の役割を背負っていました。たぶん、あんな感じだと思うんですよ、大人一年生ってのは*1
 
 だから「自分はまだ大人じゃない。だから大人として振る舞わない」っていう考え方は、ちょっと違うと思うんです。大人は「なる」ものじゃなくて「やる」ものなんですから、最初は全然うまく出来なくて当たり前。なのに「俺は上手に大人ができないから大人はやりません」って言っていたら、いつまで経っても大人0年生です。子どもしかやれない人のままでしょう。
 
 

大人を「やる」機会を与えられない→大人になりようがない

 
 ところで、大人を「やる」からには、何らかの形で大人を「やる」機会が与えられなければなりません。大人の役割を引き受けるというと、子育てや部下の育成などが連想されるかもしれませんが、大人として相応しい振る舞いのすべてが、大人を「やる」ことに含まれるでしょう。その逆に、いくら親になっても、子どもの前でも大人としての振る舞いをとれず、子どもに対して子どもっぽい振る舞いに終始している人は、大人をやっているとは言い難いものがあります。*2
 
 近年、こうした大人という役割を引き受ける機会が減っているように思えます。その理由を、以下に挙げてみます。
 
 まず第一に、非婚化・少子化の影響で、親にならないまま歳をとる人が増えました。親にならなければ、大人を「やる」必要性はかなり減ります。ずっと子どもとして振舞っていても、たいして困りません。
 
 第二に、雇用情勢の変化により、「部下を育てる上司」という状況が少なくなりました。年上が年下を時間をかけて育てるという、親子関係的・職人師弟的なシチュエーションが減少し、若い世代――と言っても、30代も含みますが――は、マニュアルだけの即席教育の仕事・不定期就労・契約社員的立場を引き受けるようになりました。しかしそれでは、育てる側としての機会は回ってきません。
 
 「部下のうちは上司に育てられ、上司になったら部下を育てる」というワークライフの衰退は、若者の金銭収入や安定雇用の問題だけでなく、仕事場における、大人を「やる」機会の喪失にも関係しているということは、もう少し認知されてもいいような気がします。日中の大半を過ごす、仕事というフィールドで、大人を「やる」機会の多い人とそうでない人では、自ずと大人熟練度も違ってくるのではないでしょうか。
 
 第三に、外出時に大人をやらなくても構わなくなった、ということがあります。
 地方のコンビニなどに行くと、パジャマ姿の男女の姿をよく見かけますが、そのことが端的に表しているように、現代の国道沿いの空間は、ほぼプライベートな、イエの延長線上だったりします。部屋着でショッピングモールに出かけても、それで誰かに注意されたり、ペナルティを受けたりする心配もありませんし、軽自動車やワンボックスカーは「移動するイエの一部」というきわめてプライベートなアイテムです*3。大人として振舞わなければならない圧力も、公共意識も、国道沿いにはあまりありませんから、大人を「やる」必要が全然なくなってしまっています。*4
 
 
 このように、大人という役割を引き受ける必要性が、社会全体で目減りしているように見受けられます。
 
 ときどき「今時の若者は大人をやっていない。子どもっぽい」という批判を見かけることがありますし、あながち間違っていないとも思いますが、大人を「やる」ための機会がこんなに減っているんじゃ、仕方ないのではないでしょうか。機会がなかったら、大人経験値なんて溜まりようがありません。
 
 否応なく大人の役割を引き受けざるを得ない状況は、それはそれで悲壮です。しかし、いつまでも大人を「やる」機会が与えられないというのも、あまり良いものではないような気がします。そして、次世代をまともに世話して育てられるのは、子どものままの人間ではなく、大人という役割を引き受ける人間だけなのです。
 
 

*1:ちなみにこの視点で見ると、シャア・アズナブルは対照的です。シャアは、ハンサムな青年将校として颯爽と登場しますが、ブライトとは異なり、作品世界を通してほとんど成長していません。シャアは、自分よりも身の丈の大きな存在に対するレジスタンスの青年のまま歳をとり、あっちこっちをフラフラと彷徨います。そして最後には地球そのものに対して拳を振り上げたのです。

*2:いわゆる「友達親子」などというのも、子どもを前にして大人を引き受けるよりは、子どもと子どもの関係のままでいたいという願望が潜んでいるのかもしれません。

*3:まただからこそ、ロードサイドの人達は、各種インテリアやエクステリアに手間隙を惜しまないのでしょう。あの手の車は、ファンシールームと同類です。

*4:ちなみに、これはあくまでロードサイドの話で、主な移動手段が電車になるエリアでは、話が少し変わってきます。電車の車内はワンボックスカーの車内よりもずっと他人のことを気にせざるを得ない空間ですから、そこでの振る舞いは、もうちょっと公共性に傾きやすいものです。大都市圏で鉄道に乗ってデパートに買い物に行くのと、地方都市でマイカーに乗ってショッピングモールに買い物に行くのでは、プライベート/パブリックの感覚は必ずしもイコールではありません。