シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

自意識チャリンカー(自意識自転車操業)

 
 自意識チャリンカー(自意識自転車操業)。
 
 俺をみてくれ俺を承認してくれ俺をスゴイと言ってくれ、という感覚は、多かれ少なかれ誰もが持っているものだろう。自己承認なり、自意識の備給なりといったものは、架空の聖人君子でもない限りは多分幾らかはあるに違いないものなわけで、追い求めること自体はさしていけないことでもあるまい。
 
 しかし、こうした自己承認や自意識の備給を自転車操業せずにはいられない自意識チャリンカー達においてはどうだろうか。自己承認や自意識を備給しなければならない需要が強いから自転車操業なのか、自己承認や自意識を入手する方法・経路が極度に不足しているから自転車操業なのかは人それぞれだろうが、自意識チャリンカーと化し、無理が多く今後の展開を狭めるような自意識蟻地獄に落ちている人があるように思われる。自己承認と自意識の備給を自転車操業した挙句、当人の適応の幅を一層狭くし将来性をも食いつぶす、といった状況は実に恐ろしい。
 
 例えば、自意識なり自己承認なりを満たす為に、人間関係を食いつぶすような人達がある。次第に過大な要求を相手に追い求めることで、飢えた自意識を満たすけれども、結局相手が参ってしまって長期的な人間関係には発展しない。で、イナゴのように人間関係を食いつぶしては移動し、他の人間と人間関係を締結しては同じことを繰り返すという適応がある。これを永遠に続けていれば問題ないようにみえて、その実、長期的な人間関係を持てないという事自体が加齢とともに様々なハンディキャップになってしまう。とりわけ、歳を経るごとに短期的な人間関係を構築することが難しくなってしまうような社会適応の形式をとっている人の場合、やがては同じ真似が出来なくなってしまうわけで、先行きは非常に怪しいことになる。
 
 また逆に、実際の人間関係から出来る限り退却しつつ、ブログや2ちゃんねるやニコニコ動画に書き込みをし続けることで、数少ない承認と自意識の備給を行う、という手段もある。またはネットゲームの世界に住み込み、永遠の承認と自意識を追いかけるゲームを続けるというのもあるかもしれない。これらは自意識を満たす良い手段であり、俺をみてくれ俺を承認してくれ、な人達にとってうってつけのメディアとなるわけだが、日常の適応に寄与しないメディアに時間と労力と才能を投入し続ける営為は(とりわけそれが極端になればなるほど)日常生活の土台を蔑ろにしてしまうリスクを負うことを忘れるわけにはいかない。勿論、実生活の適応やら自意識やらに余裕のある人にとって、これらのメディアを楽しむことにさしたる問題は無いだろうけれど、他に自意識を何とかする手段が無く、ひたすらそれに噛り付いていなければメンタリティの均衡が保てないという人になると、ネットゲームやブログや2ちゃんねるは、まさに自意識の自転車操業の場と化す。「いつかは終わりの時が来る。だけど今は自意識を自転車操業するしかない。しなければ俺のハートは灰になってしまう」といった状態が続くうちに、他の自意識備給の手段と人脈がどんどん枯れてしまい、やがてネット依存・ネトゲ依存・ブログ依存・ニコニコ依存の傾向は深まっていくというわけだ。とりわけ、自意識と自己承認をそのうち一ヶ所だけで貪っているような人の場合、その一ヶ所無しではやっていけないけれどもいつまで頼って良いものなのか不安に怯える日々が続くということになる。一ヶ所で自意識自転車操業を続ける人のなかには、この依存への深まりに対して自覚を持っているけれどもやめられないという人がいて、そのような人達は、日々深まる自分自身の依存傾向と緩やかな下り坂に対してある種の明晰さを保ったまま、下り坂の自転車操業モードを直視しながらキコキコとやっている。とても恐ろしいことだ。
 
 自転車操業という言葉は、何も経営の世界だけではない。およそ、ホメオスタシスというものの維持が保たれなければならない世界ではありがちなことで、人間のメンタリティにおいてもしばしば見受けられるのだろう。自意識や自己承認やらを満たすために、自分の足を喰う蛸のように、穴の開いたバケツに水を注ぎ込むように、日常生活の自転車操業を繰り返す、大変な状況の人達。今日もネット界隈には、自意識や自己承認の自転車操業を行う音が、キコキコと響き渡ります。貴方の自転車を漕ぐ足が、いつまでも壮健だと良いのですが。