シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

恋愛適性と結婚適性を勘違いしている人がいる

 
 まず、以下をご覧いただきたい。
 
 
 
 東京タラレバ娘(5) (Kissコミックス)に出てくる婚活居酒屋の場面である。
 
 これに納得や共感を感じただろうか?
 
 もし感じたなら、結婚適性“スカウター”*1は故障しているも同然だ。
 
 

恋愛適性≠結婚適性

 
 恋愛に最適な相手と結婚に最適なパートナーはイコールではない
 
 太宰治は、恋愛を「色欲のwarming-upした状態」と喩えたが、それに最適なパートナーは、見た目が好ましく、劇的で、今をときめくためならリソースを惜しまないような異性だ。ここで言うリソースとは、金銭的なものも、時間的なものも、身体的なものも含む。恋愛は、熱しやすく醒めやすい性質を持っている一時的な状態だから、その一時的な状態にふさわしい、今を盛り上げるために物惜しみしない異性が好都合ということになる。ついでにミステリアスな雰囲気もあったほうが良いかもしれない。
 
 結婚は、それとは対照的だ。
 
 結婚生活は劇的である必要は無い。ドラマチックな毎日よりも、平穏な毎日が望ましい。刹那のときめきにリソースを惜しまないような、計画性の欠如した異性は結婚相手として難しい。見た目は好ましいほうが良いかもしれないが、あくまで好ましい程度のものでしかない。ミステリアスな雰囲気も、恋の鞘当てテクニックも要らない。肝心なのは、協同して生きていける能力である。
 
 である以上、結婚したい(そして結婚生活を穏便に進めたい)と思っている人は、恋愛に適したパートナーと結婚に適したパートナーとの違いを心得て、区別したうえで結婚を考えなければならないはずである。
 
 ところが、この区別ができていない人がいまだ多いようなのだ、男性にも女性にも。
 
 「顔が良くて」「どこか劇的・ミステリアスで」「羽振りも良い相手」を、自動的に結婚に最適のパートナーと錯覚する人がいる。
 
 昔から、ろくでなしのアーティストのたぐいはモテまくっていたわけで、そういった属性を持った異性に「色欲がwarming-up」するのは致し方のないところではある。少なからぬ人間は、たぶん、本能的にそういう異性に惚れやすくできている。
 
 だが、仕事も私生活も合理主義的に生きているであろう現代人――「コスパ」を気にするような――が、本能的に惚れやすい属性を結婚の判断材料にするのはナンセンスではないか。恋愛適性としてポイントの高い「劇的」「ミステリアス」「ファッションやグルメや遊びに詳しい」といった特徴は、しばしば結婚適性とは相反している。恋愛適性のいちばん高い異性は、結婚適性のいちばん低い異性である可能性も高い
 
 で、冒頭のシーンである。
 
 倫子*2は、サラリーマン三人組の結婚適性力を2、3、2と測定し、他方で、居酒屋の若い店員のソレを186と測定している。それも瞬間的にである。
 
 だがこれは、恋愛適性を結婚適性と勘違いしているだけではないか。
 
 第一印象が「色欲のwarming-up」しやすい相手に偏るのは致し方がない。だが、アラサーぐらいの年齢になれば、そういったわかりやすい、いかにも恋愛向きの異性が結婚向きとは限らないことなど、経験と悟性によって理解していそうなものである。
 
 結婚適性は、合コンのような華々しい場所でいきなり見抜けるものではない。少なくとも、恋愛適性の高さほどには華々しく現れない。だから、出会ってすぐに結婚適性を見抜いたと早合点している人は、恋愛適性と結婚適性を混同している可能性が高い。
 
 彼女がすべきだったのは、すぐにわかったような顔をするのでなく、出会ったサラリーマン達が結婚生活に適した性質を持っているかどうか丹念に調べることだった。ましてや、相手は“場馴れしていない”“有名商社に勤める男性”である、精査のうえ、見込みがありそうなら僅かでも縁をつくっておくべきだった。しかし、いきなり低評価のレッテルを貼りつけてしまえば、進むコミュニケーションも進まないし、見抜きにくい結婚適性を見抜くなど夢のまた夢である。
 
 きっと彼女は、そうやって「色欲のwarming-up」という色眼鏡に騙されるまま、ひとつひとつの小さな機会をみずから潰してまわっているのだろう。そして結婚適性が低く、恋愛適性が高い異性に引っかかってしまう。倫子にはひとを見る目が無い
 
 

夢や恋より、ひとを見よう

 
 私は、結婚したいと思う人に肝心なのは、異性の結婚適性を見抜く目と、見抜こうとする意識だと思う。見た目が良くても、お金があっても、ひとを見る目がなければ幸福な結婚は成立しづらい。いやいや、婚活に限らず、つまるところ人間関係とは情報戦なのだから、今の自分が必要としている情報をきちんと集めるための意識や能力を養っていかなければならない。
 
 結婚適性を見抜く意識や能力を養うために必要なのは何だろうか。
 
 第一に必要なのは、恋愛適性と結婚適性の混同をやめること、「色欲のwarming-up」でしかない恋心にすべてを委ねないことである。結婚に先立って恋愛が起こること自体は悪いことではないが、恋愛と結婚がイコールではないこと、恋愛に求められる資質と結婚に求められる資質が全く異なっていることは、何度も自分に言い聞かせておく必要がある。
 
 私は、恋愛と結婚が重なり合ったって別に構いやしないと思うし、それで上手くやっている人もたくさん知っている。だが、恋愛に目を曇らされて結婚相手を見損ねてしまう人で上手くやっている人は知らない。「恋は盲目」とは言い得て妙だが、だからこそ、その盲目をカヴァーするような意識や態度が必要だ。
 

*1:スカウター:『ドラゴンボール』に登場する、相手の戦闘力を数値化して教えてくれる装置。ここでは結婚適性を数値化しているつもりと思われる

*2:スカウターをつけている女性。タラレバ娘の主人公

「自由=都会で働いて自立して生きる」じゃない

 
 少し前、ネット上で「高学歴の女性が専業主婦になるのはもったいないか否か」「本当にもったいない生き方とは何なのか」が話題になっていて、たくさんのネットユーザーがコメントしていて面白かった。ネットの話題はいつもそうだが、こういう時に、学力・女性の生き方・専業主婦といったものに対するいろんな価値観が浮かび上がってきて、世間の温度を類推するちょっとした手がかりにはなる。
 
 それはさておき。
 
 現代社会のテンプレート的な価値観として、「自立した女性は素晴らしい」がある。
 これそのものは、なんら問題の無い、良い価値観だろう。男性においても同様だ。
 
 しかし、「自立した女性は素晴らしいが、自立していない女性は駄目である」「金銭収入を異性に委ねた人生は悪い人生」になると、一つの生き方を認めても別の生き方は認めないことになるし、「自立できる能力を持った女性が自立した人生を過ごさないのはもったいない」まで行くと、甚だ不自由な価値観と言わざるを得ない。
 
 これは男性にも当てはまる話で、むしろ、男性のほうがこの手の「素晴らしい/素晴らしくない」「もったいない/もったいなくない」を言われやすいのかもしれない。
 
 「高学歴を手に入れて高収入・高ステータスの仕事に就くのは素晴らしい」で終わるぶんには、はい、そうですね、そういう価値観もいいですね、で終わるところだが、実際には「高学歴を手に入れているのに、それに見合った仕事をしないのはもったいない」「どうして高学歴を活かさないんですかぁ?(=生かしていないお前はどうかしてるだろ!)」と考える人はたくさんいる。
 
 そして、そういった生き方を巡る「もったいない」云々は、周囲の無理解や押し付けだけでなく、ときには自分自身の内面に由来することもある。
 
東大文学部卒おばさんが、何がもったいないのか解説するよ
 
 フィクションか否かは別にして、興味深い文章だった。
 彼女は自分が東大卒であることに戸惑いをぬぐえなかったらしい。でも、文中にはいい台詞がある。
 

そうして特に好きでもない会社に毎日通う私はとにかく焦っていた。
大学院に進学した友達にも、留学を決めた友達にも、さっさと結婚して専業主婦になった友達にも負けたくない。
そのどの道も選べなかった私は、「これでよかったのだ」と思える何かをとにかく見つけたかった。
でもあるとき、私は私の目指しているものの空虚さにいきなり気づいた。
なんで私はキラキラしなくちゃいけないのだ、そのキラキラはいったい誰のためのものなのだ?と、本当にいきなり、気づいた。
それに気づくまでの20代の10年間は、本当に無駄にしたと思う。
自分の気持ちを無視して、他人の評価に合わせた人生を送ること、それほどもったいないことは、ない。

 
 自分の気持ちを無視して、「既存の価値観で素晴らしいと言われているもの」に合わせた人生を過ごすのは勿体ない、という意見には同感だ。
 
 ところが、他人の評価が自分自身に内面化され、意識もできぬまま束縛されている人もいる。「流行の服を買うのは素晴らしい」「良い大学に入って高収入の仕事に就くのは素晴らしい」「経済的に自立した生き方が素晴らしい」――そういった“正しい”価値観を小さな頃から押し付けられ、刷り込まれ、内面を束縛されている人は少なくない。そのような人は、自分自身が価値観に束縛された不自由人であることを意識することすらできず、意識のうえでは「私は他の人達よりも“進歩的で”“自由な”“正しい”生き方をしている」と思い込んでいる。
 
 その結果は、世間で“進歩的で”“自由な”“正しい”価値観どおりに生きることができる、のではなく、そうした価値観どおりに生きなければならないという価値観の奴隷のできあがりだ。
 
 精神的・経済的に自立した生き方も、高学歴を活かした仕事に就くのも、それ自体は、ベタな思想レベルでは自由な生き方と言えるだろう。だが、そうした生き方や働き方が義務感を帯びるようになるならば、それはそれで価値観の奴隷であり、メタレベルでは不自由な生き方と言わざるを得ない。自由なのは世間体上の振る舞いだけで、精神は、他人が敷いた価値観のレールの上を往復するしかない
 
 「それなら価値観の束縛、価値観のレールからはみ出て生きればいい」と言う人もいるかもしれないが、これがまた難しい。
 
 自分の周りにいる高学歴な女性・働く女性が皆が皆そうした価値観を持っていて、自分自身もそうした価値観を無意識の水準まで内面化していると、そこをはみ出してモノを考えるのは一種の飛躍になる。強く内面化した価値観からの脱却は、ときとしてアイデンティティを揺るがす事態にもなりかねず、相応のきっかけやロールモデルを掴まなければ成功しにくい。成功したとしても、一時的に自分自身の価値観が宙ぶらりんになってしまうので、ヘタを打てばメンタルヘルスを苛まれるリスクすらある。
 
 それともうひとつ、世間や他人の価値観を内面化するあまり、自分独自の価値観や考え方が皆無に近い人というのがいる。
 
 既存の価値観に束縛されながらも、そうではないエッセンスをどこかに隠し持っている人には価値観からの脱却のチャンスはある。そのような人は、いわば、心のなかに反乱分子を持っているようなものだから、ある日、“価値観の革命”が起こってもおかしくはない。ところが、そうした心のなかの反乱分子をほとんど持っていない人というのが、時々いたりするのだ。異なるエッセンスを持たず、ただ既存の価値観に愛憎を募らせるだけでは“価値観の革命”は成功しない。そのような人は結局、フイルムのネガとポジを逆転させたような既存の価値観の影絵のような存在になってしまう。
 
 その点では、リンク先で記されているような“気付き”はラッキーケースの部類に入るだろう。七転八倒してもなお、ひとつの価値観、ひとつの“かくあるべき”に縛られる人は後を絶たない。
 
 

数十年前の「自由」は、あなたにとっての「自由」とは限らない

 
 数十年前、女性の経済的自立やキャリア志向を真摯に目指した女性達がいた。思うに、彼女達は本当に自由だったのだと思う。当時主流だった価値観に束縛されず、彼女達自身が望む人生に突き進む程度には自由だった。
 
 だが、過去の自由人が自力で勝ち取ったライフスタイルや価値観が、現在の私達にとって同じ意味合いを持つのかといったら、そうとは限らない。
 
 「都会で働いて、自立して生きていく」ことを自ら選んだのではなく、既存の価値観として植えつけられた人にとって、それは束縛や呪いになり得るものだ。その手の自立志向・キャリア志向は、いまや新しい価値観なのでなく、既に親世代が持っている価値観なのだから、それに唯々諾々と従う生き方は、メタレベルにおいて自由とは限らない
 
 もちろん、みずから望んでそう選択する人や、ベタレベルの不自由を克服して自立志向・キャリア志向にたどり着く人にとって、そのような価値観とライフスタイルは真に自由と呼べるものだろう。だが、誰かから与えられ、周りの空気に流され、考えることも検討することもないままに親世代の価値観に嵌め込まれたままでは自由ではない。
 
 私は、本当の意味で自由に生きるとは、既存の価値観をただコピーアンドペーストするようなものではないと思う。たとえ、その既存の価値観が、経済的自立やキャリア志向を良いものとみなしているとしても、だ。専業主婦や専業主夫のなかにも、心理的に自由な人はたくさんいると思う。表面上、どのような生き方を選んでいるのかは関係ない。自分で考え、自分で決める余地のない生き方をしている人の内実は、不自由だ。