十数年昔のインターネットに、私は「真実」を期待していたと思う。
その「真実」は、今、どこに行ったのだろう?
「ここには人間の生の声が転がっている!」
私がネットサーフィンにも大分慣れてきた頃、インターネットには「真実」が書き込まれていた。ここでいう真実とは、公式採用されるようなアナウンスではなく、人間の生の声のことである。テレビや新聞には現れて来ない、パブリックな会話のなかでも聞かれることのない、しかし人間の本音のある部分を構成しているのが明白な、そういう呻きや嘆きや怒りといったものだ。
00年代前半までのインターネットには、そうした人間の生の声・編集の入らない声が無造作に転がっていた。例えばある医師のホームページには、当直時間中の嘆きやボヤキが赤裸々に綴られていたが、それは誰にも咎められることもなく、炎上することも削除されることもなく、数年にわたって公開されていた。今日のセキュリティ感覚では信じられないことに、勤め先の病院がどの地域で、どんな業態なのかも読み取ることができた。
そうした“王様の耳はロバの耳”として利用されていた「ホームページ」を私は愛していた。あるいは2ちゃんねるの場末スレッドを。そこには編集の精神が乏しく、最も尊い書き込みから最も下劣な書き込みまで……ともあれ人間の清濁が無造作に転がっていた。もちろんこの時期にも、作為的な誇張を含んだ――つまり編集の入ったインターネットは存在していたけれども、そのような芸人もどきなインターネットを好き好んで読む必要などなかったし、芋臭いホームページがいくらでも転がっていたから問題なかったのである。
あの頃私は、インターネットの浜辺で珍しい貝殻を拾うような気持ちで「真実」を拾い集めていた、と思う。真実度の高いホームページを発掘しては、ひとつひとつurlを登録し、更新を心待ちにしていた。せっかくインターネットをやっている以上、テレビにも新聞にも登場しない、生の金切り声や呻きに触れたかった。そして、それらはそこにあったのだと思う。
潮目はどこだったのか
ところが気がつけば、インターネットはテレビや新聞になっていた。テレビや新聞の性質を帯び始めた、と言うべきだろうか。
00年代後半にはその前兆がはっきりとみられていた。梅田望夫さんが『ウェブ進化論』をぶちあげたのも、YouTubeが始まったのもこの時期だった。2ちゃんねるではニュー速vipが目立ち、2chまとめサイトが早熟な最盛期を迎えていた。2ちゃんねるのまとめサイトとは、2ちゃんねるを素のまま観るのではなく、2ちゃんねるの投稿を編集したものである。読みやすく咀嚼された(そしてまとめサイト主の選好を反映した)文字どおり編集の入ったコンテンツだった。いや、私もそのようなコンテンツに慣れていったのだけれど。
それでもこの時期にはまだ、インターネットに真実が潜んでいると思い込める素地は残っていたように思う。まだ始まったばかりのtwitterには生の声が充満し、流れ行くタイムラインをtogetterで堰き止めて編集するような無粋も行われていなかった。
しかし。それが決定的に変わったのは。
私は津田大介さんが「twitter社会論」を著した、あのあたりだと思う。
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「twitter社会論」がどれぐらいの先見性を持ち、インターネットを推し測る材料として適切だったのかはここでは於こう。間違いない事実は、「twitter社会論」なる書籍をものした津田大介さんという人物が、メディアアクティビストなる肩書きを名乗ってテレビに盛んに登場するようになったということだ。そしてtwitterが、いや、インターネットが、ますますお茶の間に直結し、ますます普及していったということだ。
そこからは早かった。NHKの番組でも、主婦向きワイドショーでも、twitterの書き込み(もちろん放送局によって選好・編集されたものであろう)が表示されるようになった。インターネットはますますテレビのようになり、テレビはますますインターネットのようになっていった。どちらがどちらを喰ったのかは、ここでは問題にしない。問題は、インターネットがメディアと化してしまったということだ。
インターネットは、”王様の耳はロバの耳”的な生の声を書いておける場所ではなくなった。今日のネットはテレビと地続きの空間である。「インターネットに書く」行為は、テレビカメラに向かって喋りかけるに似た行為になりつつある。こうした一連の変化と時を同じくして、インターネットでは素人の炎上が騒がれるようになっていった。かつて、炎上といえばメディアで名の通った人物や企業が燃えるものだったが、ネットがメディアと化した10年代以降においては、どこの誰でもよく燃える。ホームページ時代なら三年は無事に生存したであろう書き込みも、twitterやYoutubeでは三日と生存を許されない。そのような書き込みを、「世間様が許さない」のである。
このように私は、インターネットで素人が燃えるようになっていった経緯と、インターネットがテレビや新聞とシームレスになっていった経緯は、原因と結果がかなりダブった現象だと思っている。ブロガーの文章やニコ生主の生放送が、ある種の芸人めいた雰囲気を強めていったのも同様だろう。インターネットにおいて生の人間の声が期待されず、また許されなくなっていった以上、編集を経た言葉やつくられたキャラが跋扈していくのは必然というほかない。
インターネットの都大路は、歓楽街のネオンサインのような表象と、スーツを着たアナウンサーのような言葉と、ワイドショーのコメンテーターのようなキャラクターに埋め尽くされていった。政治を執り行う人々によって糸が張り巡らせるようにもなった。ネット上の倣うべき手本達がそのような指向性を帯びていったのだから、インターネットのあるべき使い方のテンプレートもまた、しっかりとキャラクタライズされたアカウントが編集された言葉を連ねるようなものへと変わっていった。
インターネットはメディアとして十分に優れていたから、そのように使われるようになっていった。
「こちらシロクマの屑籠、生きている人、いますか?」
それでも私は、インターネット上で生の人間の声を収集し続けている。今、そのような生の声をWWWで集めるのは至難の業だ。生々しいものの多くは、検索の手の届きにくい場所に沈潜していった。検索の手が届きやすい場所に溢れているものは、キャラクタライズされたもの、編集されたもの、なにより、他人の評価のまなざしに触れると意識されたメッセージである*1。そうしたメッセージをデコードし、背後に潜む生の声を類推するのも一手だが、「ここには何も入っていませんよ」としか感じられないことも多い。
今日のインターネットには、芸が溢れている。コンテンツも。政治的主張も。
だが、生の人間の、あの声はどうだろうか?
アメブロに行けば、FC2ブログに行けば、それらはある程度見つかるものではある。はてなダイアリーにも。しかしそのような場所でさえ、人の目に触れるという意識が拭い難く感じられ、ここが(テレビまで地続きの)インターネットであり、メディアであることを意識させられることも多い。
いや、そもそも観測者としての私がメディアに喰われてしまったからなのかもしれないが……いや違うか。私自身がメディアに喰われてしまっているからこそ、生の人間の面影をインターネットに求めなければ精神の均衡がとれないのだ。
私のこの飢え、この渇きを充たしてくれるようなインターネット上の領域は、ますます遠く、狭くなりつつある。この2015年、「インターネットde真実」と言ったら失笑を買ってしまうだろうし、事実インターネットに溢れるメッセージの95%には真実など宿っていない。右をみても、左をみても、芸と、コンテンツと、メッセージ。それでも、私はここで生きていかざるを得ない。生きている人、いますか?
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*1:怒りや嘆きにしてもそうである。それらは、野薔薇のように人しれずインターネットに咲き誇るのでなく、「誰かに対するメッセージ」としてネオンサインのごとく明滅するようになった。そう、メッセージ、なのである。