シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

脱オタ五カ年計画(1)開戦

 
 脱オタ五ヵ年計画。
 2000年8月に計画され、2005年8月まで展開された、私にとって最後の脱オタプロジェクト。最大規模の、そしておそらく最後の脱オタプロジェクトを24歳にもなって遂行せざるをえないほど、当時の私は行き詰まっていた。レジデントとはいえ、医術を修める身とはなったものの、(親の甘い期待とは裏腹に)私はいっこうにうだつのあがらない、見下されがちな二十代男性のままであった。ナースやその他職員、そして患者さん達と会った時、私は自分自身が蔑ろにされているという劣等感で胸がいっぱいになっていた*1。うつむき加減、しどろもどろな言葉...当時の私が対人コミュニケーションに供することの出来るリソースやノウハウは、きわめてお粗末なものに過ぎなかった。男性に対して面と向かう勇気が無かった。男性を説得する政治力も立ち回りも無かった。女性には受動的であり続け、能動的であろうとした試みは全て失敗した。このような状況が、数年にわたって続く中、私は自分自身のふがいなさと根性の無さに激怒しながら酒を呷っていた。
 
 【あの頃の手持ちリソース】
 

  • 話題がふれるのはオタク話題だけ。「流行のギャルゲー」「アドバンスド大戦略」「シューティングゲームの弾の避け方」...これじゃあ、オタク以外と話が進まない。
  • そのうえ、オタク趣味を持たない人が摂取する趣味や番組については驚くほど無知。
  • カラオケ?「鳥の詩」でも歌うですか?それとも「筋肉少女帯」?
  • ファッションはnerd fassion。それも秋葉原を徘徊するオタクのファッションは変化しているか・2004年報告にあるような2004年版じゃなくて、2000年以前の技術水準のモノだった。よれたシャツ、イトーヨーカドー、寝癖しか治してない髪形、ケミカルウォッシュジーンズ。しかも、プライベートでよそ行きに使えそうな一張羅が無いときている。
  • そして圧倒的な劣等感と無力感、「ああ、このままじゃ自分は一生みんなに小馬鹿にされながら生きていくのか」という怒り。
  • ただし、ルサンチマンとだけは無縁だった。憧れの先輩はいた。追いつき追い越すべき同僚もいた。30歳になった頃、あの人たちの影ぐらいは踏みたいと思う偉大な年上の男性に心から憧れ、崇拝し、教えを乞うていた。そして彼らは、医学のみならず様々な分野のリソースを私にわけてくれた。
  • 良いにつけ悪しきにつけ、脱オタすれば簡単に差をつけられそうなオタクが周りにいた。

 
 このような状況下で、私の戦いは始まった。年齢が遅めという事を除けば、比較的有利な条件下での五ヵ年計画だったのだろう。五年という年月は長く、継続は力になる。私はそう信じて、五年間を脱オタに賭けることにした。その為なら、何だってしてやろうと思っていたことを私は覚えている。
 
【脱オタ五カ年計画の目標】
 五年間で、以下のような目標が少しでも達成できればと願っていた。出来るかどうかは当時全くわからなかったが。とにかく五年でワンユニットとして、長期作戦を遂行していこうと思ったわけである。一年や二年じゃ何も生まない事は、過去の脱オタ失敗でよく分かっている。勇気を節約しても駄目なのは分かっている。死に物狂いの必死さで全リソースを消費しなければ、目指すところに到達できないのは目に見えていた。だから私は戦った。はるか彼方に見えても、彼らは同じ人間だし、審美的・知能的に彼らに極端に劣っているとは決して思っていなかった。コンプレックスは「お前の顔は糞だ」と主張してやまなかったものの、そこは精神医学と心理学の知識でごまかせる見通しがたっていた。
 
1.男性からも女性からも見下されないようになりたい。能動的なコミュニケーションが出来るようになりたい。
2.見た目の事で、引け目を感じたり店に入れないような事が無いようにしたい
3.もっと色々な服を買ったり使ったりしてみたい。脱オタクファッションガイドの通りをやってみたい
4.医学をもっと究めたい。
5.尊敬する先輩医者達の影を踏みたい。少しでも彼らに技術・文化・教養などで追いつきたい。
 

*1:そしておそらく彼らはその事に気づいていた筈である、丁度今私がそういった人に気づくように

脱オタ五カ年計画(2)初年

 
 怖い思いをしながら、何でもやった。レジデントとしての少ない給与も使い果たすつもりだった。時間が惜しかった。オタク仲間と疎遠になってでも、やりたかった。
 
・本当に怖いと思いながらパルコに行った。怖いテナントを避けてたどり着いた、とあるテナントが唯一落ち着ける最初の購入拠点となった。そこで冷汗を流しながらシャツを買い、ズボンも買った。2004年には典型的脱オタ服になってしまっているような、“COMME CA DU MODEっぽい黒いシャツをさらに安そうにしたような奴”とか、真っ赤なだけのTシャツ(しかも色合いや生地は検討されてない)を買ったりしていた。だけど緊張しながら店を回ってアイテムを手に入れた時は、本当に嬉しかった。無印やユニクロにも行った。当時の私には、それらのアイテムは十分に見栄えのするものだった。よく、「脱オタすることは丸井の店員に馬鹿にされに行くこと」という人がいるが、私は馬鹿にされる屈辱よりも、馬鹿にされつつも自分が目指す商品をゲットして持ち帰った事に大きな喜びを感じていた。よし、またダンジョンから生きて帰ってきたぞ、ってな具合で。
 
・美容院に行ってみた。髪も染めてみた。まるで自分じゃなくなった。「よし、これで生まれ変わった気持ちでいこう!」実際そんなに格好良くなったわけじゃないにしても、気分転換として重要な役割を担ってくれた。感謝してもし足りない。
 
・オタク文化へのリソースを激減させて、聞きたくなかった音楽を聴きまくった。浜崎あゆみ、ミスターチルドレン、スピッツ...。しかしたちまちそれらに夢中になる。なんだ、ZUNTATAもいいけどこういうのも素敵じゃないかと思ってびっくりしたことを覚えている。と同時に、いかに自分がオタクの井のなかの蛙だったのかを思い知らされた。ただし、それらの音楽を差異化のゲームとして用いようとは思わなかった(今思えば幸いな事に)。せいぜい、オタクじゃない人と話を合わせる際の一般教養としてそれらを摂取した。
 
・非オタク系統の文化吸収のため、地元の雑誌を買いまくって飲み屋や食い物屋を巡る。恥をかいても構わないから巡り歩いた。結果、今でも贔屓のバーに出会う事が出来た。初めての頃は本当に無様なことをした。知らない客から失笑を浴びることもあった。でも、様々な店を発掘し様々な店員と会話をした。店員さん達の多くは、(私のコンプレックスを知ってか知らずか)とても優しく、少なくともそういうサービスの店舗だけが私の脳内ブックマークに登録された。時に屈辱的な思いをしたこともあったが、「いつか連中を超えてやる!」と呪詛のように繰り返して明日の力にした。負けて、馬鹿にされて、見下されて、だけどいつか連中を超えるパワーをつけてやる!と日夜猛り狂っていた。臨床も重要だった。臨床はコミュニケーションスキルを練磨する最高の機会と理論を与えてくれた。毎日仕事と研究と学習に打ち込んだ。それが自分の野心にも寄与すると信じて。
 

脱オタ五ヵ年計画(3)二年目

 
 大学を離れ、人口5万人ほどの地方都市に移動する。まだそれほどインターネット慣れしていないなか、細々と田舎のオタク生活を続けていた。カプコンの機動戦士ガンダム連邦VSジオンがリリースされ、ゲーセンにもそれなりに通っていたが、地方のゲーセン事情の悪さからジョイスティックを握るのはなかなか困難だった。一方、田舎のアーケードゲーム界隈のファッション事情は、都会よりもかなり遅れているので、私はその環境で去年の服装改善を確かめることが出来た。これは性質の悪いメタゲームだったわけだが、そこで私は「去年までの自分とは違う」事を発見した。地方レベルにおいては、他の対戦ゲームプレイヤーに劣るほどの格好ではない自分を発見していたと思う。「ああ、やっとキモオタではなく普通オタになったかな」。
 
・地元のネットコミュニティに所属しようとした試みは見事失敗した。私の当時の能力とモチベーションでは、非オタクな他者とのコミュニケーションについていけなかったのだ。話術、ファッション、自意識過剰…全てにおいて私はうちのめされた。適応できなかったのだ。私はすごすごフェードアウトするしかなかった。悔しかった。一年しか頑張ってないにも関わらず、あまりの悔しさに涙を流したかもしれない。
 
・地元のネットコミュニティの経験から、自分のファッション戦力不足を再認識。必死に地元のパルコに通う。少しづつ敷居の高そうなテナントにうつっていく。この頃はJUN MENとCOMME CA DU MODEとメンズメルローズを発見し、大変喜んでいたと思う。一方、無印良品からも依然として使えそうな品物を多数取り揃えた。雑誌も毎月立ち読みした。計3年ほど、まるで馬鹿のように立ち読みして、それらの雑誌の相違と相似を比較検討しまくった。脱オタサイトも足繁く通い、自分がやっていることがどれぐらいマニュアルに合致しているのかを調査した。マニュアルに合致している事は不快ではなかった。マニュアルに書いてあっても、実際に商品を手にとって買うのは自分だったし、それによってコンプレックスを緩和してもらえるのも自分だったから。マニュアルを考慮しながら予算と自分自身とどう折り合いをつけるのかを考えるのが楽しかった。地方都市レベルではあれば、上記ラインナップでおそらく十分と推定された。
 
・オタク趣味はそれでも生き残った。KANOSOや2chにハマる。時期の後半に斑鳩が発売されたけれど、これも死ぬ気になってプレイしていた記憶がある。同時押しボタンすらない環境でも、楽しいゲームがあれば大切にするんだと実感した。
・ミスチル全盛期。その他にも、いかにも無難そうなものを手当たり次第聞いていた。今思えば一見遠回りにみえても、当時の私には必要だったのだろう。当時から私は、「文化の吸収は、その文化を消費している人との架け橋だ」と思っていたらしく、「彼らの仲間入りを容易にするため」と信じて、非オタク趣味への接近を繰り返していた。
 
・職業柄、攻撃的な目線や怒鳴り声に遭遇する事が増えたが、度胸をつけるうえで格好の課題となった。ここぞという場面で、ナースの影に隠れてコソコソしているようでは、年少の私についてくる人間などいなくなるに違いない。そう思って、一番肝心な場面では先陣を務めることを習慣にした。言葉が通じない状況下で、いかに非言語コミュニケーションがモノをいうのかを思い知ったのもこの時期だったし、人間間の力動を学んだのもこの時期だった。幸い、勤め先は偉大な先達と優れた蔵書に恵まれていた。勉強する時間はどれだけあっても足らなかった。
 

あーあ

 
 一晩経って、自分がやらかした書き込みに愕然。こんなの書いてしまっていいのかよ。まぁ日記だからいいのか、書き上げたら自分史にまわせばいいんだし。折角だから、書き続けるとしますか。