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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ネットで有名になるリスク

コミュニケーション

 
 
フミコ、ブログやめるってよ - Everything you've ever Dreamed
 
 はてなブログ界では最も有名なブロガーであろうフミコフミオさんがブログの休止宣言をされていた。残念だ。
 
 字義どおりに読むなら、「ブログに対する情熱を失ったところにガラケーが壊れてしまったのでブログを休止なさる」とのこと。ブログ熱が高ければガラケーが壊れてもすぐブログを書き始めるに違いないが、情熱が醒めてしまっているなら仕方がないところだ。
 
 最近のフミコフミオさんの言動をずっと眺めていた私は、「フミコフミオさんは、有名ブロガーになってしまって疲れたんだろうな」と想像することにした。はてなブログ界で一番たくさん読者を獲得していた彼だから、そのぶん、きっとお疲れになっていたに違いない。
 
 

ネットで有名になった時に直面するリスク

 
 動画にせよ、ブログにせよ、twitterにせよ、インターネットで情報発信する人の多くは「有名になりたい」「知名度でお金を稼ぎたい」といった野心や願望を持っている。だから、有名になるためのチャンスを逃さず、有名になるための努力を惜しまないことが“重要な心構え”として語られていたりもする。
 
 なるほど、一直線に有名になりたいだけなら、それが良いのだろう。
 
 だが、有名になる――いや、有名とまではいかなくても、ネット上で知名度が高くなっていく――というのは、そんなに良いことづくめだろうか? 知名度がもたらすメリットに目を奪われるあまり、知名度がもたらすリスクやコストについて何も知らず、何も備えていないのだとしたら、それは浅慮というものではないか。
 
 有名になるためにアウトプットを繰り返すネットユーザーを眺めていると、知名度がもたらすリスクやコストに用心しながら知名度を獲得しようとしている人もいれば、まったく無防備な、「有名になれるなら悪魔のケツだって舐めます」といわんばかりの人もいる。
 
 知名度に対して注意深い態度を取り過ぎると、そのせいで知名度の獲得が遅れやすい。だが、知名度がもたらすリスクやコストに無防備のままトントン拍子で有名になっていった人達の挙動をみていると、無名の頃ほど幸せそうではない人・ついに耐え切れなくなる人も多い。
 
 冒頭リンク先のフミコフミオさんなどは、まだしも知名度のリスクやコストに警戒的なブロガーだと思う。そんな彼でさえ、「はてなブロガーでは最も読者数が多い」ぐらいの知名度に(たぶん)振り回され、ブログへの情熱に水が差されてしまったのだから、知名度がもたらすリスクやコストは手ごわい、と考えざるを得ない。
  
 以下に、ネットで知名度を稼いだ時に顕れてくるリスクやコストについて、主だったものを箇条書きにしてみる。
 
 
 ・批判や中傷やクソリプに晒される
 第一の知名度コストは、たくさんの非-好意的な反応に晒されることだ。
 
 薬になる批判はありがたいものだが、知名度が高くなると、的外れな批判や論旨をわきまえない重箱つつき*1も集まってくる。知名度が上がるにつれて押し寄せる批判の絶対数も増えるので、玉石混交のなかから薬になる批判を探し出すのはだんだん難しくなってくる。
 
 批判ならまだいい。知名度が上がるにつれて、いわれなき誹謗中傷や激しいハラスメントが必ずといって良いほどついてまわる。一万人のファンを持ったアカウントは一万人に一人の、十万人のファンを持ったアカウントは十万人に一人の、ハイレベルな誹謗中傷者がついてくると考えなければならない。twitterでも、いわゆる「クソリプ」は有名になるほど頻繁に届くようになる。
 
 これらへの対処として「ブロック」や「非表示」はあるていどの効果を期待できる。だがこれも、やり過ぎれば薬になる批判が読めなくなってしまい、視野が狭まって唯我独尊状態に陥るリスクが高くなってしまう。
 
 
 ・有名であること自体がしんどい
 知名度が高いことは、それ自体、大きなストレスの源になり得る。有名人やセレブがその典型だが、ネットで知名度を獲得していく人も例外ではなく、むしろ、知名度に対する備えがないぶん無防備で危険である。
 
 これについては、若者のソーシャルメディア使用に関する書籍『つながりっぱなしの日常を生きる』にわかりやすい文章があるので、ちょっと長いが引用しよう。
 

つながりっぱなしの日常を生きる: ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの

つながりっぱなしの日常を生きる: ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの

 

 人は有名になると、ただありのままに人としているだけでも、しばしば物としてみられ、議論され、深い考えなしに嘲笑される。ファンと批評家は、結果として注目の焦点にいる人々が負うことになる犠牲について考慮することなしに、あたかも自分たちがセレブリティがするあらゆる行動にコメントする権利を持っているかのように感じている。
(中略)
 高い地位と富を持つ公人にゴシップが与える類のストレスについて、同情する人はごく僅かだ。距離をおいて眺めると、有名な人々はまるで傷つくことがないように見える。

 ニッチな観衆の間で有名になったティーンは、大きな注目を集める側としてその利益と損失の両方を受けるが、彼らにはセレブリティが持っているような、注目の猛襲に対処するための世話人、マネージャー、経済的基盤などの構造的な支援はない。こうしてティーンには肯定的な反応を喜ぶのと同時に、それに伴ってやって来る残酷性とプレッシャーに深く影響を受け、くらくらするような状況が生み出されかねない。

 
 『つながりっぱなしの日常を生きる』はネットカルチャーを考えるうえで一読に値する本だ*2。引用文のようなリスクは知名度稼ぎに夢中になっているネットユーザーにも当てはまるが、たいていあまり意識されていないので、狙った以上の知名度を獲得してしまった後、注目の猛襲に包囲されていると気づいて愕然とする人も多い。有名になったブロガーやアカウントが不意に消えてしまう原因のひとつは、おそらくこれだろうと思われる。
 
 
 ・視聴者やファンに流されていく
 知名度を稼ぐために「視聴者を大切にする」「ファンを喜ばせるためのパフォーマンスを心がける」うちに、自分自身がやりたかったことを見失ってしまう人もいる。
 
 これは、ぜんぜん無名な状態でも意志が弱いと起こりやすい現象で、動画配信者やtwitterアカウントが道を誤る原因の最たるものだが、知名度が一定以上になってくると、強い意志を持っていても視聴者やファンからの影響が避けがたくなってくる。
 
 インターネットは双方向性のメディアなので、なんやかや言っても、発信者と受信者の心理的な距離は近い。近いからこそ、視聴者やファンのほうを向いたパフォーマンスを繰り返していると無意識のうちに取り込まれてしまいやすく、大勢の視聴者やファンに独りで対峙しなければならない発信者の側は“分が悪い”。
 
 
 ・書きたいように書くためのコストが高くなる
 意志をしっかり持っていても、視聴者の数が一定レベルを上回ると好きなことを書けなくなる。
 
 まったく無名のうちは、共通項の多い少数の“仲間内”だけを意識していればそれで良いし、何を書いてもひどい反応は返って来ない。滅多にやってこない“部外者”の、文脈の読めない反応はスルーしても構わない*3
 
 しかし、視聴者の数が増え、さまざまな思惑を持った不特定多数の目に曝されるにつれて、何気ない一言で誰かの怒りや恨みを買う可能性がジリジリと高まっていく。政治家のように言葉を慎重に選んでメンションするなら、そういった可能性は最小化できるが……。
 
 今までどおりに書き続けて、あちこちの怒りや恨みを買う覚悟を決めるのか? それともなるべく怒りや恨みを買わないように用心深く立ち振る舞うか? どちらにせよ、「書きたいことをストレートに書く」際の心理的な抵抗感は大きくならざるを得ないし、もし用心をしたいなら、それ相応の修辞術が必要になってくる。
 
 
 ・増長して隙が生じる
 トントン拍子に有名になっている時期には心に隙が生じやすい。「私はいけている」「俺には影響力がある」といった思い込みは、傲慢や油断、増長をもたらす。器の小さな人間ほど増長しやすく、器の大きな人間ほど増長しにくいが、いずれにせよ、右肩上がりに知名度が高まっている時には心の隙が生じやすくなる。
 
 知名度を高めているうちに増長や油断が生じてきた人間は、醜聞のターゲットになりやすい。嫉妬深い視聴者は、右肩上がりな人間のほんのわずかな心の隙も絶対に見逃さないし、そうした隙をバッシングできるチャンスが巡って来るのを虎視眈々と待っている。たとえ謙虚であり続けようとしていても、ほんの一瞬、気を緩めれば、緑色の目をした嫉妬モンスターに付け込まれて、痛手を負いかねない。
 
 
 ・褒められても叩かれても無感覚になる
 こうした日々を過ごしているうちに、好意を集めてもブーイングを浴びても歓びや悲しみを感じない、アパシーに近い感覚が現れてくる。いつもより高く評価される日もあるだろうし、いつもより叩かれる日もあるだろう。だが、知名度がある水準を超えると、賞賛とバッシングは必ずセットで押し寄せてくるようになり、(情緒的に)マトモに取り合っていられなくなる。
 
 そのうえ、知名度という、自分自身に帰属するようにみえて視聴者やファンに帰属してもいる媒介物が賞賛やバッシングをもたらしていると考え始めると、そうやって他人に振り回されながらアウトプットし続けるのがバカバカしく感じられるようにもなる。
 
 

知名度は悪魔にも似て

 
 このように、知名度が高くなるにつれて、色々なリスクやコストが押し寄せてくる。
 
 知名度は、ある時点まではアウトプットを続けるための有力なモチベーション源になる――「私も有名になりたい!」 だが、それだけではない。知名度が自分自身の器の限界に近づいてくると、モチベーションを削いだり、自分自身の行動や方向性を見失わせたりする“別の顔”をも顕わにしはじめる。
 
 身の丈をわきまえず、虚栄心のままに知名度を稼ぎ続ける者は、コントロールできない悪魔に魅入られてしまった低級魔術師のように、知名度自身に喰われて自滅していく。今日日のインターネット-メディア世界では、そのような迂闊な人物が次々に現れて次々に自滅していくので、虚栄心を司る悪魔が存在するとしたら、さぞやお喜びのことだろう。
 
 いや、さほど有名になりたいと願っていない人でさえ、たくさんの人に知られてしまったがゆえに身動きが取れなくなってしまうこともある。芸風と知名度が一人歩きして抜け殻のようになってしまう例、自分の魂を守るためにインターネットからおかくれになってしまう例、etc……。
 
 知名度は、あればあるほど良いというものではない。力量に釣り合うだけの知名度を持つのが最も望ましいのであって、それ以上の知名度は、世話人やマネージャーが介在するのでない限りは求めないほうが良いのだと思う。もちろん、世話人やマネージャーを介在させれば得るものも失うものもあるわけで、それとて絶対の正解とは思えない。
 

*1:「そんな事はわかっている!いちいち断り書きしていたら読みづらくなるでしょ!」と言いたくなるようなやつ

*2:賛否の別れるであろうオピニオンも記されているが、それもまた良し。

*3:ただし、インターネットで正義を示したい人達が猛威を振るうようになった昨今は、たとえ無名でも乱暴なことを書くと異端審問にかけられるおそれはある