シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「強さ」や「用心」がなければ「自由なネット」は成立しない

 
 はてな村で、ようやく自由になれたと思ったら、周りには誰もいなくなっていた。 - いつか電池がきれるまで
 
 id:fujiponさんへ。
 
 リンク先、拝読しました。私は、fujiponさんは「はてな村」の古参とおぼしき複数のアカウントに嫌悪感を持っていらっしゃると推察しています。だから、リンク先の仰りようはある程度納得できますし、実際、fujiponさんのはてなダイアリーに否定的なブックマークコメントが大挙し、はてなスターが飛び交っていたことも記憶しています。
 
 私自身、fujiponさんのはてなダイアリー記事に「これはナイーブだ」「ネット娑婆世界に対する甘い識見だ」的なコメントをつけたことがあるので、ひょっとしたら、fujiponさんに「グルになったはてな村の連中のひとり」という印象を与えていたかもしれません。
 
 でも、実際に「グルになったはてな村の連中」はどれぐらいいたのでしょうか?
 
 
 私も、日常的に厳しいコメントを書く「はてな村」の古株達と似たようなコメントを書いていたかもしれないけれども、グルだったつもりはありません。当時、「はてな村」には私に近い価値観を持ったアカウントも多く、私のコメントはしばしば周囲と類似しましたが、別の局面では私が批判される側にまわり、また別の局面では彼らの幾人かを私が批判しました*1
 
 私は過去の「はてな村」にネガティブな思い出とポジティブな思い出を想起します。後者のひとつが、グルにならずに「批判しあえる空間」だったと思ってます。
 
 例えば、私はotsuneさんにこのような記事を書いています。いや、それ以上に、脱オタ-非モテ論争の時にはひどく面倒ながらも批判的な論戦を続けていました。これらが「疲れるインターネット」だったのは否定しません。それでも、ネット空間でお互いをアイデンティファイしあい、肯定も否定も応酬しあっていた往時を、そんなに悪いものだとは思っていません。問題だらけではあったけれども、肯定的に捉えられる要素もあったと思っています。
 
 往時のインターネットに「グル」や「同盟」に近いものを想起するとしたら、私は『ヨーロッパユニバーサリス3(EU3)』の外交を挙げます。
 

Europa universalis 3 chronicles (PC) (輸入版)

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 このゲームの友好関係や同盟は、かなり儚いです。友誼の糸は、それぞれの王家の都合でたやすく切れてしまいます。だからといって無視していれば badboyrate(悪い子レート)が上昇して総スカンを食らうリスクが高まるし、気が付いたら自分を包囲する同盟ができあがっていたりするので、無視するのもそれはそれで危険です。
 
 ブロガーライフも、どこかこれに似ていると思うんですよ。
 
 個々のブロガー・個々のブックマーカーはあくまで個別の利害や関心や信条に基づいて動き、一見群れているようにみえても次の瞬間にはバラバラになります。
 
 『EU3』もまさにそんな感じで、ある瞬間にはフランス王家がミラノ王家を集団リンチしているようにみえても、ちょっと後には、さっきまでミラノ王家をボコっていた国々がミラノ王家を応援してヴェネチアをボコっている。ヨーロッパじゅうが敵味方にわかれる大戦争が起こったかと思えば、十年以上にわたって平和な状態が続いたり。
 
 これがあまりにもブログ世界の動きに似ているので、『はてな村オンライン』の遊び方という記事が出てきたわけです。
 
 だから私は、ネットユーザーとは孤独なものだと思っています。しかしまあ、それでも儚いなりに同じ空間・同じ歴史を共有しながら歳を取っていけるところに、私はインターネットの悦びを見出しているつもりです。fujiponさんと私だって、ときには意見が対立しているし、この文章だって、もしかしたら気分を害するものになってしまうかもしれません(そこは、ごめんなさいと言っておきます)。それでも、十年以上にわたって互いに存在を認識し、こうやって文章を交換できること、表面的な敵対や利害関係とは別個に「ああ、お互い、インターネットで生きてきましたねぇ」的な感覚を共有できることに、私は悦びを感じずにいられません。
 
 

現在のインターネットは本当に過去より良いでしょうか?

 
 さて、fujiponさんは

「つまらないブログばかり」だという人には、あえて問うてみたい。
あなたにとって、「面白いブログ」とは、どんなブログですか?

 と問うています。
 
 過去のコンテンツで現在より面白いコンテンツを挙げよ、と言われると、客観的には難しいですね。「現在のほうがコンテンツが豊富です」と答えるのが模範解答なんでしょうね。
 
 個人的には、noon75さん(根本正午さん)の文章や、はしごたんの文章や、過去の非モテブログなどを挙げてみましょうか。こうしたドクダミフレーバーを帯びたブログ群は、過去には目に留まりやすかったけれども、今では工夫しなければ見つからなくなりました。だいたい、ドクダミフレーバーをネットにアップロードすること自体、流行っていないし、自意識の形式も変化著しく、私好みな自意識があまり見つからなくなってしまいました。だから私は「自分好みな文章が今日のインターネットでは見つけにくい」と感じています。逆に、興味を感じないコンテンツや得手ではない自意識に遭遇しやすくなりました。お呼びじゃないのに目に飛び込んでくる。回避の方策はあれこれとっているつもりだけど、なかなか上手くいきません。
 
 以上は客観的記述ではなく、インターネット多数決をやったら「お前のような奴は少数派だ」と烙印を押される嗜好でしょう。ちょっと年老いた嗜好でもありますね。が、私の主観としては、そう思います。
 
 あと、「まとめサイト」的なものではなく、個人が個人の指向に基づいてまとめた通覧性の高いウェブサイト。これらが目立たなくなり、閉鎖が相次いだのも痛いところです。最適な生き残りとしては戦車研究室さんやあたっく系さんを挙げておきましょうか。
 
 私は、複数名の思念から成るwikiやまとめサイトより、個人の思念が濃厚に宿ったウェブサイト、それも通覧性の高いウェブサイトが好きです。これが減ったのは本当に寂しい。知識蓄積系だけでなく、自意識系・ポエム系でも、通覧性の高いウェブサイトは良いものでしたよ。「単体のブログ記事」以上に「そのひと」が匂い立つ点において、ウェブサイトはブログやSNSより優れたメディアだったと私は思っています。見る側が、書き手の自意識を通覧できるメディアだったわけですから。だから私は、今でも自分のウェブサイトの一角を使って、ブログ記事にも一定の通覧性を持たせようとあがいています(参照→こちら)。リンク集……あれも良かったですね。リンク集はそれ自体がメディアであり、サイト主の指向や嗜好を反映する一種の心理テストでもありました。
 
 まあ、これらは個人的嗜好、いや感傷の問題なので、当てはまらない人には当てはまらない話です。それより“現代のインターネットは過去のインターネットよりも本当によろしいか?”について異論を申してみます。
 
 私は現代のインターネットのほうが危険だと思っています。
 
 「はてな村」というローカルな圏域の、表層を流れる修辞をなぞるなら、現在の「はてな村」は10年前よりサツバツとしていなくて、安全そうにみえます。が、その実態はほとんど変わりなく、ローカルな圏域外での反応まで考えると、とてもじゃないけど「安全になった」と言えないのではないでしょうか。
 
 「はてな村」が変わった変わったといいますが、「サードブロガー騒動」「はてなブックマークオフ会」「ミニマリスト騒動」といった近年のイベントが示すように、ヤバい事はヤバいしコンフリクトは起こっているわけです。むしろ、「仲良くしましょう」というコードに則ったかたちで投げ槍が飛び交い、オフ会を触媒として処刑が行われる状況は、恐ろしいなーと思わずにいられませんでした。“人は変わっても、「はてな村」、結局ヤバいじゃん”みたいな。あれらのどこが「安全なはてな村」なんですか。結局、にこやかな舞台の裏側ではギスギスと脂汗をかきあい、『EU3』みたいなインターネット娑婆世界が展開しているじゃないですか。
 
 過去の「はてな村」には、「ここは修羅のインターネット」的なコンセンサスがありました。少なくとも、ブックマークが集まる圏域にはそれがあった。でも、今の「自称はてな村」(私の目には「はてなシティ」にみえます)では「みんな仲良く」というコンセンサスにとって代わられています。しかし実態として、彼らは本当に仲が良いんですか?という疑念が私にはあります――社交パーティーみたいな表層の下に、どのような伏流水があるんでしょうね?それとも、新規にはてな村にやって来た人達は、インターネット老害な私達より清廉潔白にして、コミュニケーション能力に優れ、嫉妬も怨恨も持たない、素晴らしい人達なのでしょうか?もしそうだとしたら、私はシャッポを脱ぎたい。
 
 そしてひとたび「はてな村」という枠の外に目をやれば、炎上をはじめ、いろいろな問題が存在しています。
 
 ネットインフラが充実したことで、今日のインターネットは新規にブログやtwitterを始めた人でも短期間にお立ち台に立てるようになりました。それは福音であるとともに呪いでもあって、短期間に燃え上がるようになったという事でもあるし、不慣れなうちに大失敗をやらかしやすいという事でもあります。モバイル端末の普及により、本当の意味でリアルタイム接続が成立するようになったので、よりインターネットに“呑まれてしまいやすくなった”という別の問題もあります。総じて、インターネット発信を始めて間もない人でも、高レベルなリテラシーを求められる局面が増えた*2とは言えるでしょう。
 
 炎上に気を付けること。
 不特定多数に読まれること。
 否定的な見解が集まる事態に対処すること。
 
 これらは過去のネットユーザーにも求められたけれど、今ほど峻厳に・日常的に求められるものではありませんでした。周囲を見ながらゆっくり体得していけば間に合ったし、ネット全体の時計の針がゆっくり進んでいたので過ちを訂正するための時間もありました。でも、今はそうじゃない。
 
 だから、私は「現在の自分が2015年のインターネットをやること」には殊更に危険を感じなくても「10年前の自分が2015年のインターネットをやること」には脅威を感じます。炎上リスク云々もそうだけど、SNSやスマホも含めた一連のインターネットの構図に“呑まれて”しまうのは火を見るよりも明らかです。十年前のインターネットでは、十年前の私は(まだ、あるていど)コントローラブルにインターネットと付き合えたけど、果たして現在のインターネットだったらどうなっていた事か。はてなダイアリーではなく(2015年の)はてなブログで生き残れたでしょうか?どうも、それがわからないし自信が無い。
 
 fujiponさんにおかれても、それは同じではないのですか?
 
 fujiponさんは、

ブログを書くときはね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。

 と書いておられます。
 
 でも、fujiponさんが、誰にも邪魔されず、自由で、救われているのは、現代のネット環境が過去のソレよりも孤独に向いているからだとは思えません。むしろ十年前のfujiponさんが(2015年の)はてなブログをスタートしていたら、私と同じく、結構ヤバかったんじゃないでしょうかね?
 
 私は、fujiponさんのブログが自由で救われているのは、ネット環境や「はてな村」の空気の変化によってではなく、あなた自身の変化と練達によるものではないか、と疑っています。なぜなら、ずっとfujiponさんのブログを眺め続けている私には、ブログの安定度がずっと高くなっていると感じられるからです。
 
 テキストサイト時代でも、はてなダイアリー時代でも、はてなブログの時代でも、フワフワしている個人、キョロキョロと落ち着きのない個人は、結局落ち着きがないし、すぐに流され、不自由です。時代にかかわらず、インターネットを自由にやりたいなら、まずユーザー自身が自由人たらねばならないのではないでしょうか。そうでなければ、どこでブログをやろうが、いや動画配信やSNSでもそうだけど、“誰にも邪魔されず、自由で、救われた”インターネットなんてあり得ませんよ。大多数が「No」と言っている時にも「俺はYesだと思うよ」って言えるような気概。ネットの知己がBと言っていてもAと言いたい時にはAと言ってのける精神。そういったものが“誰にも邪魔されず、自由で、救われた”インターネットの第一の条件ではないでしょうか。
 
 もちろん、インターネットアーキテクチャの問題や、ネット世論の問題も無視できません。でも、それらは二の次、三の次です。これからネットがどのように変化しようとも、不自由な人間はいつまでも不自由だし、自由な人間は自由です。で、自由なインターネットに近づくためには、どのような変化・どのような修練が必要なのかって言ったら、それは、自由なインターネットに手を伸ばしてきた人々――fujiponさんもその一人だと推察します――が実行してきた諸々が必要なんじゃないのかなと私は思います。逆に言うと、それが出来ないネットユーザーは、不自由の鎖に繋がれっぱなしですよ。どこでどんなインターネットをやるとしても。いや、オフラインでも。
 
 

実例として「主人公.com」さんを考える

 そうしたインターネットの現在的難しさと、自由と不自由を語ったうえで、ひとつ実例を挙げてみましょう。「主人公.com」の方です。
 
 私は、この人のネットユースと、この人に象徴されるネットユース全般が危うく感じられました。
 
“散財からはてなブログへ。PVが集まるようになった。お金が手に入るようになった。これらは承認欲求の力だ。承認欲求に導かれてブログを書こう!”――今日のはてなブログ界では、こういう発想は珍しくないでしょう。
 
 でも、これは利益と不特定多数からのPVを呼び込みやすいと同時に、危険や不特定多数からの非難も呼び込みやすいやり方です。イージーに大きな力が手に入る場所では、イージーに大きな反作用に直面するのも避けられません。はてなブログという優れた“お立ち台”にのぼるだけのぼって、PVと小遣いを稼ぎまくって、それで危険に今更気づいたとしたら、軽率な話じゃないですか。
 
 今も昔も、インターネットを長続きさせる秘訣(のひとつ)は、ベネフィットについてまわるリスクに意識を向けることだと思います。でも、ベネフィットやメリットに浮かれるあまり、リスクやデメリットを忘れてしまう新規ユーザーはあまりにも多い。今に始まったことではなく、それこそテキストサイト時代からそうですよね。で、そういう迂闊なサイト主やブロガーは、じきに消えていく……という構図も変わりません。だから、主人公.comの守形レイジさんも、インターネットの大海原に漕ぎ出るとはどういう事なのか、本件を通して洞察を深めて頂きたいと思います。
 
 それと承認欲求。
 
 記事が消えてしまっているので直接参照はできませんが、タイトルは“ブログを始めたら物欲が消えた件。満たされたかったらブログを始めればいいじゃない?”でした。
 
 そこに書かれている承認欲求に対する理解が、とてもイノセントでした。散財傾向のある人が、はてなブログで承認欲求を充たされて、ついでにお金も手に入って無我夢中……。これって、怖くないですか。
 
 古来、ネット承認欲求で身を持ち崩した人は枚挙にいとまがありません。まして、昨今のはてなブログの場合、ゆっくりとPVが上昇していくのでなく、爆発的にPVが上昇してしまう。そして小遣い銭がついてきてしまう。だからブログを書くモチベーションがアクセル全開ですよね。ブレーキがかかりません。少なくともかかりにくい。「インターネットでカネを手に入れる」のも「お立ち台に立つ」のも非常に難しかった過去のウェブサイトやブログと大きく異なるのは、このあたりです。
 
 総じて、現在のインターネット個人配信はモチベーションをブーストする力が非常に強い。それは、用心深い人にはプラスに働くかもしれないけれども、迂闊な人の足元をすくいます。既にすくわれている人の実例を、私達はいくつも知っているじゃないですか。
 
 ああいう、強いモチベーションブーストに無邪気な態度で臨めば、大抵の人は“15分間はときのひと”にもなれるし、有頂天な体験を得られるでしょう。でも、その後に待っているのは何でしょうか?私は、自分自身をモチベートする駆動力が大きい時ほど、長生きしたいインターネッターは用心深くあらねばならないと思っているんですけどね。
 
 とりわけ、くだんのブログの人は「散財を繰り返していた」とあるように、モチベーションに抗い、心にブレーキをかける技能が弱いようにみえました。過去ログを読み返しても、テンションと勢いを重視した記事が多いですね。こういう人こそ、承認欲求や副収入といったモチベーションの牽引力に警戒的でなければならないと思うんです。シンプルなモチベーションに身を任せるのは、インターネットのような圏域では危険です。や、もちろん承認欲求を駆動力として技能を磨くのは基本的には良いことだと思いますよ?でも、ネットde承認欲求がこれまで大量の破滅者を出してきたことを思い出し、我が身と照らし合わせるぐらいの用心深さは、彼がインターネットの人として長生きするにはやはり必要だと思うんです。
 
 

それでもアカウントとアカウントが共生していく嬉しさ

 
 話が少し逸れましたが、ともあれ、インターネットは危険で野蛮な場所だと私は思っています。その危険・その野蛮に昨今の違いはありますが、インターネットが人間の営みである以上、つねに獰猛で、油断ならないものと思ってかからなければなりません。
 
 でも、そんな場所でも、こうやって思ったことを言い合えそうなアカウントと巡り合い、同じ時間を過ごせるのは、やっぱりインターネットの醍醐味ではないかと私は思います。ブログの文章を応酬できる人がいること、意見や主義に異なる部分があっても言葉を交わして構わないんだと思える長寿アカウントがいてくれることを、貴重に思います。
 
 たぶん、私はfujiponさんの文章を読まなかったら、人間力.comの守形レイジさんの承認欲求について、もっとアグレッシブな言及をしていたと思います。でも、fujiponさんの記事を読んで内容が修正されました。こういう、影響-被影響を素直に受けられるような関係がインターネット上でも成立するんですよ!これは、PVよりずっと大切な、私のインターネット財産です。似たような関係は、他のブロガーや他のブックマーカーとの間にも(程度の差はありますが)あります。同じ場所・同じ時間を共有した者同士が、ときには否定的な言及も含めて言葉を交わし合ったからこそ成立した何かによって、私は他のアカウントとを得ていると感じます*3。それは勘違いに近い、祈りのようなコネクションかもしれないけれども、インターネット越しのコミュニケーションで精神と精神が繋がるとしたら、これを信じずに一体何を信じろと?――それぐらい、私はこの縁を貴重に思います。
 
 前半でも触れたように、そうした縁は、あくまでアカウントとアカウントの間で生じるか生じないかみたいなもので、徒党的に把握できるようなものではありません。インターネット上で徒党のようにみえるものは、所詮、入道雲やつむじ風みたいなものでしかない。でも、人と人、アカウントとアカウントの祈りのような関係性はこの限りではありません。
 
 見知ったアカウントと長く時間や歴史を共有できるってのは嬉しいことですよ。発言に一目置けるってのもありがたいことです。どうか、fujiponさん、それと、私と縁を取り結んだインターネットな皆さん、お互いに用心しあい、どうにか生き残って、自由なインターネットを呼吸していきましょう。インターネットは昔も今も危険に満ちているけれど、アカウント同士で縁を紡ぐ余地がある限り、そんなに悪いモンじゃないと私は思っています。
 
 

追記

 
 いま、僕が「インターネット」について語っておきたいこと - いつか電池がきれるまで
 
 fujiponさんから、お返事を頂きました。ここまでお読みになって何か思うところがあった方は、是非、そちらもご覧になってみてください。とても良いことが書いてあり、また、過去の「はてな村」についてのfujiponさん側の見聞にも目を通して頂きたいと思います。
 

*1:ちなみに、グルになっていると思い込んでいる人がいたこと自体は否定しません。でも、徒党を組んで強くなったと思い込むようなアカウントって、たいてい小者じゃないですか。小者が何を言おうが、ブロガーには関係ない。

*2:あるいは、mixi的な感覚で運営している小さなアカウントが突如として高度なメディアリテラシーを要求される局面が生じやすくなった

*3:自己心理学の用語を借りるなら「変容性内在化を伴った自己対象関係」だと思います。