シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私にとって読書とはゲームだった!──『本とは何か』感想文2

 
 
昨日書いた難波優輝『本とは何か』の読書感想文の続き……というより、こちらが本体にあたります。
 
 
1995年頃、のちに有名になっていく『エースコンバット』シリーズの前身にあたる『エアーコンバット22』という大型筐体の空戦ゲームを毎日遊んでいた時期があった。戦闘機でイライラ棒や火の輪くぐりをさせられる『エースコンバット』とは違って、この『エアーコンバット22』では自由に大空を飛び回って好きなプレイをやって構わない。
 
そこはそれ、アーケードゲームだから難易度は高く、はじめは戦闘機を真っ直ぐ飛ばすのも難しい。けれども慣れてきて、ゲーム内のノルマを楽々とこなせる頃には大空が自由だったと気づく。医学部の勉強が一番きつかった時期だったから、この、『エアーコンバット22』をプレイする一日30分がかけがえのない自由時間だった。
 
『本とは何か』を読んでいて私がたびたび思い出したのは、こういう自由で気ままなゲーム体験だ。
 
 

アトラクション性の高い/低い本、アトラクション性の高い/低いゲーム

 
著者である難波さんは『本とは何か』のなかで、狭義の本"らしさ"を規定する要素として「アトラクション性の高い本/低い本」を紹介している。「アトラクション性の低い本」とは著者によるナビゲートやコントロールが甘いとも言えるし、読書体験の内実や読者が受け取るものが厳密に定まっていない本とも言える。「読者サイドの受け取り方の自由度が高い本」、とも言えるかもしれない。
 
アトラクション性の高低にまつわる同書の議論を読んでいて私の脳裏をたびたびよぎったのは、「そういえばゲームの世界にもアトラクション性の高低がある」ということ、そして「私はアトラクション性の低いゲームがずっと好きだったな」ということだった。冒頭で触れた『エアーコンバット22』も、アトラクション性が高いように見えて本当はアトラクション性が低いゲームの一例といえる。
 
 
私は子ども時代から、『本とは何か』風にいえばアトラクション性の低いゲーム、あるいはゲーム制作陣によるナビゲートやコントロールが甘かったり、ゲームの盤上でプレイヤーをほったらかしにしてくれるゲームが好きだった。
 
そういう気持ちのスタート地点はたぶんゲームウォッチに由来している。ファミコンこと『ファミリーコンピュータ』が登場する前、1980年頃にはゲームウォッチが流行していたが、ゲームウォッチのゲームはプレイヤーキャラクターの動きもリアクションも数パターンしかないことが多く、その数パターンという枠組みのなかでしかプレイヤーは動けなかった。たとえばゲームウォッチ版『ドンキーコング』では、ドンキーが落としてくる樽をジャンプして回避できる場所が4か所しかない。対してファミコン版の『ドンキーコング』*1では、どこでもジャンプして樽を躱して構わない。
 
ゲームウォッチ版とファミコン版の『ドンキーコング』の違いはハードウェアの制約によるもので、前者に対してゲーム制作陣がナビゲートやコントロールを厳しくしようと画策した結果ではない。けれどもゲーム小僧の私には、ファミコン版の『ドンキーコング』がずっと自由度の高いゲームとして体感された。これは『マリオブラザーズ』や『アイスクライマー』といったファミコン初期のゲームにもおおむね当てはまる。この時期のハドソンのファミコンゲーム、『ロードランナー』や『ナッツ&ミルク』にはエディタ機能もついていて、それもゲームの自由度に貢献していた。
 
『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』が流行してきた頃も、私は自由度の高いゲームを高く評価しがちだった。私にとって理想のドラクエはもちろんファミコン版『ドラゴンクエスト3』だ。船を手に入れてからの自由度が高く、職業選択やパーティー編成も好きなようにやらせてくれる。そのうえで、ファミコン版には素晴らしいバグがあった:そのバグを利用すれば、ゲーム制作陣が想定していないさまざまな遊びが可能になり、めちゃくちゃなゲームプレイへの道が拓ける。『ファイナルファンタジー2』も忘れられない。熟練度システムは不評な人には不評だったが、これも破天荒なキャラクターメイキングを可能にしてくれる。また、『ファイナルファンタジー2』はゲーム開始直後から割とどこまででも歩いていけるので、とてつもなく強いアイテムを売っている街やとてつもなく強い敵にアクセスできてしまうめちゃくちゃさがあった。
 
『ファミ通』のかわりに『ゲーメスト』を読む年齢になり、主な遊び場がゲーセンに移っても私のこういう感覚は変わらなかった。この頃の私はアーケードゲーム至上主義者だったので、映画のような演出をダラダラとみせ、プレイヤーに一本道を歩かせるような、そういう日本産のロールプレイングゲームを「エンターテインメント」と呼んで敬遠していた。*2『バトルガレッガ』や『怒首領蜂』といったシューティングゲームに夢中だった頃の私にとって良いシューティングゲームとは、解法や体験が複数存在して構わないシューティングゲーム、ラスボスを倒すまでの間にプレイヤーがどんな風景を見ても構わず、プレイヤーの技量や得手不得手によって違った風景が見えるシューティングゲームだった。あるいは上達するにつれて見える風景が変わっていくシューティングゲームでもあった。
 
 

 
たとえば『斑鳩』。
『斑鳩』では敵の出現パターンが事前に・完全に決まっている。一見、ものすごく不自由で窮屈なゲームに見えるが、その楽譜のごとき進行のなかでプレイヤーがどのように行動し、どのように攻略するかはプレイヤー自身に委ねられていて、自由度が無いようにみえて実はかなり高い。ために、『斑鳩』がゲーセンで稼働していた頃は、いろいろな攻略パターンでプレイするさまざまなプレイヤーを見かけることができた。正解をガチガチになぞらなければならないゲームのように見えて実はそうではないから、『斑鳩』は私にとって特別なシューティングゲームであり続けているし、(私にとって)よくできたシューティングゲームとは多かれ少なかれそのようなものだ。
 
 
仕事を始め、PCゲームを遊ぶ割合が増え始めた21世紀以降は、私のゲームプレイの中心は『シヴィライゼーション』シリーズのような海外産ゲームへ移っていく。ゲームの盤面と力任せなゲームエンジンが与えられているだけで、ゲーム制作陣によるナビゲートやコントロールが少なめに抑えらえているような*3、自由度がバカ高いゲームが私の新しい遊び場になった。
 
 

 
 
上掲スクショは宇宙金儲け?ゲーム『エリートデンジャラス』で地球まで遊びに行った時のものだ。このゲームには倒すべきラスボスも、目指すべきエンディングも、プレイヤーなら必ずみておくべき見所も存在しない。物理エンジンがあり、とてつもなく広い銀河が舞台として用意されている。プレイヤーはそこで宇宙商人をやっても観光業者をやっても採掘業者をやっても深宇宙探索者をやっても構わない。それから以前も書いたが、『エリートデンジャラス』というゲームは自分自身の宇宙ごっこ遊びに入っていくための触媒みたいなものなので、ゲームプレイの自由度が高いだけでなく、ゲームプレイの想像の自由度も高い。というより想像力や妄想力が足りない人にはそんなに楽しくないゲームですらある。
 
『本とは何か』に登場するメディアとの比較でいえば、『エリートデンジャラス』はマンガのちょうど正反対をいっているし、実は人文書にかなり近いと思う。悪く言えばプレイヤーに何を遊ばせたいのかがよくわからないゲームだし、良く言えばプレイヤーが何を遊んで何を受け取ったって構わないゲームだ。
 
それから『skyrim』『Fallout4』といったベセスダのゲームがある。これらはまだいくらか、プレイヤーに何を遊ばせたいのかが示されているほうだ。が、広大な世界で自由気ままに遊べること、何をしたって構わないことが私にとってかけがえのないポイントだった。『oblivion』をはじめ、こういう趣向の作品はそれ以前にもあったけれども、ゲームコンセプトがプレイラビリティやグラフィックの美しさ等にきっちりと支えられ、「大ヒットするほどの完成度」にまで昇華されたのは、やっぱりこれらの作品あたりからだと思う。switchのゲームでは『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド』がコンセプトとしてはこれらに近い。
 
こういう話をする時にどうしても触れておかなければならない作品がある。『マインクラフト』だ。『マインクラフト』も、エンダードラゴンという一応のラスボスらしきものは存在するけど、たいていのプレイヤーはエンダードラゴンを倒すための地道な冒険物語としてではなく、もっと自分勝手に『マインクラフト』を遊んだと思う。そして『マインクラフト』にはたくさんのmodが存在し、数えきれないほどのプレイ動画も存在する。マインクラフトをプレイするだけでなく、マインクラフトをいじること、マインクラフトを二次創作すること、マインクラフトを動画視聴することにまでこの作品は広がっていて、「マインクラフトを楽しんでいます」という人それぞれの体験は全く違っている。
 
私自身はリアルタイムで知らないけれども、いわゆる教養主義の時代には、難しい人文書を読み書きする人とその実況番組・実況雑誌などが多くの人に楽しまれていたという。その風景は案外『マインクラフト』を巡る近年の状況に似ていたんじゃないのかな、と思ったりする。自分勝手に人文書を読む人がいて、人文書を二次創作する人がいて、人文書を実況する人がいて……という状況があったとしたら、それは『マインクラフト』を巡る状況の人文書バージョンみたいな感じだったのかもしれない。
 
 

自由度の高いゲームから自由度の高い読書へ

 
そろそろ『本とは何か』に帰ろう。
 
私は自分自身をゲーオタ(ゲームオタク)だと自認していて、「最近は本ばかり読んでいてゲーオタ功夫が萎えて良くない」みたいなことを考えていたが、案外、本をとおしてゲームに近いエッセンスを吸収していたらしい。私はゲームをプレイするのと変わらない姿勢で読書をし、『マインクラフト』などのmodを作るように本を書いているのだと私は気づいた。私は「私にとって読書とはゲームだった」と『本とは何か』に教えていただいた。
 
私はゲームが好きで、その次にアニメが好きで、実はマンガが苦手である。
もちろんマンガが読めないわけではない。読むことだってあるし、魅了されたり感動したりした回数は数えきれない。ただ、私はマンガを読むとたちまち疲れてしまうのでたくさんは読めないし、普段はなるべく読まずに済ませるようにしている。
 
その理由もわかった気がした。私はアトラクション性の高い娯楽、製作者によるナビゲートやコントロールの強い娯楽が全体的に苦手なのだ。同様の理由で、映画もあまり得意ではない。アニメは比較的ホットなメディア*4のためか、それとも制作陣によるナビゲートやコントロールがそこまでタイトでないためか、映画に比べればまだいけるほうだけど、かといってアニオタ諸氏ほど熱心にアニメを追いかけられる自信はまるでない。
 
その点、人文書の自由度は私が愛してきたゲームたちに似ている。
まあ、何かが書いてある。著者の論旨がしっかり記されていることもあるし、相対的にナビゲートやコントロールが旨い著者だっている。とはいえ、人文書は自分勝手に読むものだと私は思っているし、『本とは何か』のなかで難波さんがおっしゃるように読むたびに「ざっとわかる」を更新していくもの、自己都合によってその本から受け取る「わかったこと」が変わってくるものでもある。
 

 
私にとって人文書の入り口に相当する『消費社会の神話と構造』も、00年代に読んだ時と、10年代に読んだ時と、20年代に読んだ時では「ざっとわかる」「わかったこと」の内容がぜんぜん違う。00年代の時の「ざっとわかる」では読み取れなかった文脈が、後になるほど読み取れる感覚は、よくできた自由度の高いゲームを二回目、三回目と再プレイする時の感覚に似ている。優れた人文書は、こういう「何度でも『ざっとわかる』を積み重ね可能でいつまでも飽きない」感じだ*5。だから10年後に『消費社会の神話と構造』を私が再読したとしても、他所から仕入れた知識や経験に照らしたまったく新しい「ざっとわかる」が体験できると信じて疑わない。好きな人文書のあいだをぐるぐると回遊して、図書館や書店に出かけてときどき新しい仲間を本棚に加えている限り、無限に自由度の高いゲームがプレイし続けられるようなものだ。
 
私の場合は、ゲーム体験そのものがそういう人文書の無限回遊を助けてくれている一面もある。
 

 
『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』シリーズは、私が人文書を読むきっかけになると同時に、人文書を読む際に知っておくと便利な知識をたくさん授けてくれた。それらのゲームはルイス・マンフォードの『技術と文明』やノルベルト・エリアス『文明化の過程』を読む解説書に似た効果を授けてくれたし、特に『ヨーロッパユニバーサリス』はヨーロッパのこまごまとした地域名や都市名、15~19世紀にヨーロッパで起こった出来事や交易路の概要、等々を暗記させてくれ、通常の読書では得難い形態の知識を与えてくれた。そういったことも含め、気が付けば、ゲームで楽しんでいた自由で気ままな散策が、そのまま読書に、ひいては書店めぐりや図書館めぐりに接続していったのだと私は知った。
 
 

modや二次創作を作る気持ちで本を書く

 
でもって、そうした無限に自由度の高いゲームをプレイし続けるような読書の帰結が「本を書くこと」なんだと思う。
 
誰にもナビゲートされず、誰にもコントロールされない読書を続けていると、誰にもコントロールされない本を書きたくなる。ある意味、ブログだってそうした楽しみの一部だ。たとえば今回のこの「私にとって読書とはゲームだった!」なんてこれっぽっちも商業的ではないけれど、こういう自分勝手な文章を書きたくなるじゃないですかあ。
 

 
そうした自由な読書の結果として自由な思考が生まれ、本と本、 report と report をまるで『マインクラフト』の二次創作modのように綴じて繋ぎあわせた結果、拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』や『人間はどこまで家畜か』ができあがった。もちろん商業出版だから、そこはそれ、編集者の方のお力添えで売り物になるようまとめていただいたけれども、これらには私の自由きままな読書の、ひいてはゲーム的読書体験の色彩がものすごく残っている。
 
せっかくだからエッセイ『ないものとされた世代のわたしたち』も。この本は誰が想定読者なのかが不明瞭だけど、それだけに、私が読者をナビゲートしたりコントロールしたりする度合いは低いと思う。私のことをよく知っている人に言わせれば、「p_shirokumaのいちばんいい本」なんだそうだ。
 
商業出版という制度のなかで、どこまでナビゲートやコントロールを意識し、読者に提供するアトラクション性を優先させるべきかは議論の対象になるところだろう。もちろん、ジャンルや媒体やレーベルによってもそれは違ってくる。でも、そういうことは編集者にある程度委ねておけばいいし、ジャンルやレーベルといった制度のなかで何かできるのかを考え、競うのもそれはそれでゲーム的だよねと私などは思う。
 
私の記憶違いでなければ、難波さんはどこかで「なんでもかんでもゲーミフィケーションするのは良くないんじゃないか」みたいなことを書いていた記憶もある。でも、私は難波さんよりゲーム寄りの人生を歩んできたし、寝言でもゲームゲームって言っているような人間なので、『本とは何か』を読んでかたちづくられる読書パフォーマンスがゲームの色彩を帯びるのは仕方のないことだと思う。それってゲームがルーツじゃない人には意外に思えるかもしれないし、人文書を読むという出来事がもたらす作用の一例として難波さんにも知らせてみたくなったので、これを書いてみました。
 
 
 
どうやら私にとって、本、特に人文書のたぐいは自由度の高いゲームと地続きの何かみたいで、そうですね……「ゲーム感覚で」付き合ってニコニコするものみたいです。
 
 
追記:「自分勝手に読む」という言葉を連呼しているけれども、ちょうどシューティングゲームやシミュレーションゲームに定石があるのと同じように、各分野の本を読むにも定石があり、あくまでそれを意識しながら読む(意識できない場合、意識できない度合いに応じて読み落としや誤解が生じるリスクが高いことを承知のうえで読む)ってことを含みます。ゲームもそうですが、書籍も、まずは書かれていることが土台で、ジャンルやレーベルなどに応じて読解の筋や構えがあることも踏まえたうえでの「自分勝手に読む」だと思ってやってください。
 ※難波さんの新著『本とは何か』はこちらになります!
 
 

*1:ステージ1

*2:ロールプレイングゲームならせめてマルチエンディングにしてくれよ、とも思った。

*3:無用なプレイ時間を短縮可能な"ダンジョンの帰り道"を案内するようなものを除いて

*4:注:マクルーハンのいうホットなメディア

*5:ちなみに私は優れた小説もそのようなものだと思っている