シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ていねいな暮らしという規範」に従う以外に道はない

 
「おれら」って、なんだか雑に生きてきたんですよね。
 
anmin7.hatenadiary.jp
 
上記リンク先の文章を読んで、そういえば、「おれら」って雑に生きてきたなって思い出した。ちなみに上記リンク先は、「男は暮らしに興味がないのか」というはてな匿名ダイアリーの短文を受けてのものだったりする。
 
ここでいう「おれら」とは、だいたい昭和生まれぐらいの男性を意識している。「おれら」は女性の目線で見れば雑に生きてきた。たぶん、平成以後に生まれた世代の男性から見ても雑に生きてきたと思う。リンク先の筆者であるanmin7さんは、男性向けのていねいな暮らしの情報が少ないと述べたうえで、そういうものがあったらいいなと付け加える。それがリンク先の文章のメインテーマなのだと思う。
 
それより私は、もともと男性って粗雑に生きてきたし、粗雑であることが好ましいとされてきたよね、といったことを思い出したくなった。
 
今日の女性はもちろん、昭和時代の女性もていねいな暮らしであるよう求められ、訓練されてきた一面はあったように思う。昭和時代前半の花嫁修業とかあのあたりもたぶんそうだ。ていねいな暮らしに属する生活スキル群は、女性のジェンダー、女性の役割とされてきたものと相当関係が深かったよう記憶している。
 
ていねいな暮らしの生活スキル群が女性のジェンダーに関連しているってことは、それとは正反対の粗雑な暮らしの生活スキル群は男性のジェンダーに関連していたってことだ。
 
「男が汚し、女が洗う」。
 
今すぐ引用元を特定できないのだけど、確か、アナール学派の書籍には、そんな感じのことが書いてあったと思う。男性とは汗や精液でたいてい汚す生き物で、女性はそうじゃない、みたいな話である。そうでなくても男性は子ども時代から泥んこ遊びに興じるもの、チャンバラごっこや草野球で汚れやすいものだった。第二次性徴を過ぎればテストステロン濃度も高まり、統計的にみる限り、男性は喧嘩っ早くなる。「シュツルム・ウント・ドランク」なんて言葉もあったっけ? そういったものは男性の特権でもあり、男性らしさで、女性がそうであることは決してほめられたことではない、少なくとも規範的なこととはみなされなかった。
 
でもって、そういったことと関連して、今日でいうていねいな暮らしに相当する色々は昭和時代においては「女々しい」とされていたと記憶している。「女々しい」という語彙は死語であると同時に、いかにもジェンダー的にインコレクトな響きがあって昭和らしさが漂う。しかし、リンク先でanmin7さんがおっしゃっているように、
 

どういうんだろう、ごく微小なセルフネグレクトをずっと続けている状態に男性はいて、ともするとそれは「無頓着=男らしい」の文化によるものではあって、それこそ持っていくところにもっていけば「トキシックマスキュリニシティ」として唾棄してもらえる。

 
昭和時代に「女々しい」にあたらず、「男らしい」とされていた暮らしは、今日では、微小なセルフネグレクトやトキシックマスキュリニシティと呼ばれるだろう。たとえば「転んで擦りむいたぐらいで大騒ぎするのは男としてどうなんだ」と考えるのが昭和時代の男性として正しく、規範に沿っていただろうが、今日では女性はもちろん、男性もそう考えるほうがたぶん間違っていて、規範から逸脱している。
 
 

ジェンダー的に正しくニュートラルな暮らしとは、どうやら女性ジェンダー寄りらしい

 
そうした昭和時代が終わってから、もうじき40年になろうとしている。今日では老若男女を問わずていねいな暮らしが推奨され、かつての男性ジェンダー的な無頓着さ、汚れてダメージをほったらかしにする感覚は好ましくないもの、ひいては正しくないものになった。
 
逆に言うと、今日において好ましい暮らし、ひいては規範的な暮らしとは、旧来だったら女性ジェンダーと関連付けられていたような、そのような暮らしであるようだ。ジェンダー的束縛からの解放が謳われ、「女らしさ」「男らしさ」が親の仇のように忌み嫌われた行き先は、旧来だったら女性ジェンダーに近いとみなされるであろう暮らし、そして昭和時代の男性がやっていたら「女々しい」と言われていたと推定される暮らしだった。
 
これは面白い現象だと私は思う。男性ジェンダーと女性ジェンダーの打破が試みられた結果、少なくとも暮らしの次元においては女性がこれまで営んできた暮らしに近いものが推奨されているようなのだ。げんに今日の若い男性を眺めていると、少なくとも「おれら」に比べれば随分とていねいな暮らしを身に付けている人が多いようにみえる。スキンケアとかそういう次元でもね。
 

 
こういった、『父と息子のスキンケア』みたいな着想は、それこそ昭和時代の男性のあいだでは異端視されるものだったし、これは女性のよくするものだった。けれどもこのハヤカワ新書の書籍が象徴しているように、いまどきは男性でもスキンケアするほうが多数派になってきているように思う。紫外線対策、にきび対策などもそうだ。今日の若年男性は、そのあたりがかなり念入りに行われているとみえるし、できていなさすぎるなら──たとえばにきびをひどい状態で放置していたら──それこそセルフネグレクト、または保護者のネグレクトの所産とみなされるのではないだろうか。
 
そうして若年男性たちがこぞって(昭和時代の基準でいえば)女性ジェンダー側の暮らしへ、いや、令和的にニュートラルで規範的な暮らしへ移動したことによって、「おれら」は取り残された。私やanmin7さんよりいくらか年上の男性たちのほうが、状況は深刻だったかもしれない。たとえば団塊世代男性なども、彼らなりに「新しい暮らしの正しさ」への適応を迫られ、頑張ってきたと私は記憶している。適応できなかった者は、熟年離婚ほか、たいてい不幸な転帰を辿ったんじゃないかと思う。暮らしにおける正しさを理解できず、履行できない人間は排除されるべきだと、大勢の人が考えているんじゃないだろうか。「ていねいに暮らせない人間が不利益をこうむるなら、それは自己責任である。」──令和の皆さんなら、そう考えるでしょう?
 
そんなことはわかりきっているから、「おれら」とてそうした女性ジェンダー的な暮らしへの矯正を、いや、令和的にニュートラルで規範的な暮らしへの矯正を果たしている、つもりでいる。しかし暮らしの振舞いやハビトゥスはそんなに簡単に矯正できない──ハビトゥスとはそういうものだ。へどもどしながら規範的な暮らしに適応しようとしても、ぼろが出るし、うまくいかないし、ときには「それでていねいに暮らしているつもりか!」なんて声が聞こえてくる気がする。
 

追記:単純に女性に頭を下げて教えを乞え、それはそうの話。細かい生活のtipsはいつもそうしろと配偶者に怒られてる。着替えるのとか。

 
まさにこれだ。
時代遅れの「おれら」がいくらていねいな暮らしを心がけても、劣等生の位置を免れることができない。ちょっとでも手抜かりすれば微小なセルフネグレクトとかトキシックマスキュリニシティとか呼ばれるかもしれず、それらは令和の暮らしとしてあってはならないものだろう。こうした正しさを、健康や清潔といった概念、ときには生産性や功利主義といった概念が後押ししている*1。ウェルビーイングという概念も、きっと正しさを後押しする側だろう。
 
「おれら」はどう暮らせばいいのか。冒頭リンク先のanmin7さんは正しくも、さらなるていねいな暮らしの追求を希求している。私は……ええと……さらなるていねいな暮らしを希求しています。雑に生きることが正しさだったはずの「おれら」が、そうではないどこかへ導かれていこうとしている。それができない男性の運命はどのようなものか? わかるだろう? 規範から逸脱した人間に対する世の風当たりは、いつも厳しい。
 
 

(旧来の)男性のように働き、女性のようにていねいであれ

 
ということは、現代人は私生活の次元では旧来の女性ジェンダーに近い振舞いが、仕事の次元では旧来の男性ジェンダーに近い振舞いが期待されていると言えるかもしれない。
  
それをジェンダーの否定とみるべきか、別の何かの否定とみるべきかはわからない。それとも肯定だろうか? なんにせよ、今日のあるべき暮らしの姿、働き方の姿、ひいては人間の姿は旧来の性役割でみればキメラのような何かで、ひょっとしたら生物学的な性別という観点からみてもキメラのような何かかもしれない──なぜならかつての男性のように喧嘩っ早くあってはいけないし、かつての女性のように妊娠や出産にかかずらわってはいけない……というのが(少子化がここまで進んでいてもなお)実質的な社会規範の正体、ひいては今日の思想が私たちに強いてやまない社会圧の正体であるよう思われるからだ。
 
そこで求められているのは、たぶん20世紀以前の性役割に沿った男性像や女性像ではなく、もちろん生物学的な男性の仕様や女性の仕様でもなく、今日の思想に沿って研磨された、そのような人間像だと思う。そのような人間の研磨の一環として、「おれら」にもていねいな暮らしが期待されている。規範から逸脱した人間に対する世の風当たりはいつも厳しいから、「おれら」はもっと努力しなければならないでしょう。
 
 

*1:こうしたことに功利主義概念を持ち出すのは、少なくともスチュアート・ミルやベンサムらがそれを言い出した頃にはなかった新機軸、または、行き過ぎであるような気が私にはするのだけど