note.com
秀逸なnote記事を見かけた。物語そのものが饒舌であるだけでなく、Xで大喜利状態が起こった、そのひとつひとつのコメントまでもが饒舌だった。はてなブックマークでも同様の傾向があった。たくさんの人の心をざわめかせ、動かす物語だと思う。
私も心をざわめかせ、動かされた。
私はこういう物語が好きだ。これは筆者の執着であると同時に、ある程度までは私たちの執着だ。そして学歴という本当はあったほうが幸福に近づけそうな要素がありながら幸福ではない人、カネや権力にアクセスしあぐねている人の物語でもある。『課長島耕作』もそうだが、人は、とりわけ男性は、権力や影響力の獲得が通奏低音になっている物語に惹かれる。それがうまくいく物語でも、うまくいかない物語でも構わない。物語には、ある種の整合性が期待される。この物語は、整合性があったと思う。これでは幸福になれないし、カネや権力にアクセスできそうにもないからだ。
このような、ごろりと人間の執着が横たわった物語が読めるのだとしたら、noteも悪くないかも、と思う。私はずっとはてなダイアリー(現・はてなブログ)で人の執着を見つめ続けてきたから、noteの良きファンとは言えない。けれどもこれからはnoteにも目を向け、ファンになれるようにみてまわりたい。
雑感
たくさんの人が惹かれた物語だから、Xで行われていた大喜利の全容は掴めない。さしあたり、以下を貼り付けるにとどめる。
togetter.com
釣られて私も何か書いてみたくなった。それに乗ってみたい。
- 何を欲しがっているのか
著者は、他人の欲望を欲望することは知っていて、つまり、なんとなく高い地位に就きたい・なんとなく出世したい。なんとなく世間体が良くなりたいと願望しているようにはみえる。同期の出世を気にしているのも、そうした願望や羨望があればこそだろう。
逆に、他人の欲望を欲望する以上のことが彼の文章からは読み取れない(本当は何かがあるのかもしれないが)。東京カレンダー的な文章と同様、他人の欲望を欲望する以上のものが見えないから、それがこの文章にがらんどうな印象を与える一因になっている。
手許にあった哲学書のなかに、「他人が欲しいものを欲しがるのが近代人だ」的なフレーズが書かれている。それはそれで一理あると思う。東京のような街では、まさにその近代的な欲望や羨望に基づいてネオンがまたたき、人々は六本木や表参道を回遊するのかもしれない。しかし田舎で前ー近代人的な欲求に基づいて生きている私のような人間には、それはそれで一種の人間疎外のようにみえてならず、他人の欲望を欲望する以外の色彩を人生に添えなければ人間はおかしくなるじゃろ、と思えて寒気がする。
彼の文章は、その私の寒気が具現化したかのようだが、もし本当に、筆者が他人の欲望を欲望する以外に欲求のみあたらない境地を生きているとしたら、どうすればいいのか私にはよくわからない。いいや。それ以上の境地なのかもしれない。筆者の欲望の正体が、高い地位や出世やカネですらなく、本当は、受験偏差値とその栄光にいまだに紐付けられたものだとしたら? もしそうだとしたら、受験偏差値の高さと社会的評価の高さが一致した空想世界でなければ幸福は成就しないのかもしれない。
空想から現実に立ち返ろう。東京の全てがそうだとは思わないが、それでも東京には他人の欲望を欲望するように人間を仕向ける社会装置が地方都市に比べて強力だと思う。高学歴、社会的地位、高年収、そういったものは他人の欲望を欲望する標的として目印にしやすいが、それらが人間の幸福に直結しているかといったらそうとも限らず、そういった他人の欲望のまわりをぐるぐるしながら不幸なバターになっていく人は存外に多い。彼の文章の筆者は、そのようなバターになっているように読めた。
- 他人の姿がみえてこない
自分自身の悩みについての文章なのだから、他人の姿がみえない・におい立って来ないのは一定程度、仕方のないことかもしれない。しかし、ひとりの人間の幸福は他人を介在させてようやく成立するものだし、さきほど書いた「他人の欲望を欲望する」話とて、もともとは自他の人間関係が要件だったはずだ。
たとえば承認欲求をみたすとは、他人から褒められたい・認められたいといったかたちをとるのがもともとの姿だったはずで、その場合、承認欲求をみたすためには他人との協調姿勢や相互承認のプロセスが必要だったはずだった。高度な産業資本主義の段階では、そうした具体的な他人を介在させるプロセスなしで承認が獲得できる方法が思いつくかもしれない。たとえば証券取引などで大金を手に入れ、首都高速でフェラーリを乗り回せば、具体的な他人を介在させることなく承認を獲得できるかもしれない。
が、そうした具体的な他人を介在させない承認の獲得は今世紀でもなお、例外だと思う。会社のような組織、人と人が集まってプロジェクトをやっている組織では特にそうだ。「うまく仕事をやってのける」という現象のバックグラウンドにはいつも、人と人との協調、ひいては人と人との間で行われる承認の交換、が隠れているように思う。心の表層において、それはしばしば感謝や恩義、リスペクトや感心といったかたちで現れる。しかし彼の文章からはそれが感じられなかった。「うまく仕事をやってのける」という事態を裏側から支えているミクロかつ原始的な承認の構図に意識的ではないようにみえる。
会社のような組織では、仕事をうまくやること、成功すること、ひいては出世すること、それらのどれも、自分独りでやったってたかがしれている。JTCともなればとりわけそうだろう。仮にスタンドプレーで何かを達成する機会がめぐってきた場合でさえ、スタンドプレーでそれをなし、その成果を自分の承認のポケットにまるごと突っ込んでしまって良いかはわからない。会社において人は石垣で、その石垣の石と石とを結び付けているのは承認だ。人が昇進していくという事態も、この承認によって支えられている部分が少なからずある。だから立身出世について考える際には、自分自身の承認もさることながら、他人の承認という問題、いかに相互承認の構図を構築し、敵を増やさず味方を増やすのかという課題が立ち上がってきそうなものだが、彼の文章にはそれがない。「人間関係の構築が必須」というくだりは登場するが、その人間関係の構築に心を砕いていた様子はなく、代わりに、想像のなかで鉄槌を下すこととコンサルに転職することが記されている。
「君は優秀だが、人の付き合いというものを軽く見ているのがいかんな。」
(『新世紀エヴァンゲリオン』21話より)
すべてがスタンドアロンに完結する仕事なら、こうした問題は意識しなくて構わないかもしれない。しかし会社の仕事、ましてJTCの仕事において承認をめぐる諸問題に対して意識が低いのはなんか違くない? と私は思ったりする。仕事に限らず、人間社会で起こる出来事の多くは他人との関わりのなかで、自他の承認を巡る関係性をバックグラウンドとして起こってくるから、これからどこで活躍するとしても、このあたりはもっと意識されていいのでないでしょうか、と思った。
- 大切に育てられたのはわかる。しかし学歴が内面化され過ぎている
あと、いいことか悪いことかはわからないが、筆者の文章を読んでいてたびたび思ったのは、「筆者は大切に育てられたのだろうなぁ」ということだった。育てられる子どもの側からすれば、親が大事に育てる意識を持っていたか否かは本当は重要ではない。どう育てられたかが重要なのだけど、さしあたり、大切に育てられたのだろう、ということは伝わってきた。
そうして育てられたところの筆者が、受験偏差値に魂の大事なところを持っていかれ、ずさんな幸福追求をしているのは不幸なめぐり合わせだと思う。幸福を追究するための算術において、受験偏差値や学歴を過大評価しすぎ、具体的な自分自身と他人全般を評価する尺度が混乱しているようにも読めた。自他の学歴や受験偏差値を意識するのがいけないわけではない。しかし自他をまなざし評価する尺度の大きな部分を受験偏差値や学歴に占めさせ続けるのはいけない。やめかたを真剣に検討しなければならないところだと思う。
人間が幸福になるには、または、人間が不幸を回避するには、いろいろなことに心配りをしておかなければならない。現代社会において学歴は高いに越したことはない。カネや社会的地位も、あればあるほど有利だろう。少なくともそれらを軽視しすぎること、それらが皆無で構わないとうそぶくのも危険ではある。
だが、学歴やカネや社会的地位といった、資本主義社会のもとで交換可能で普遍的にみえる、まさに他人の欲望を欲望する代名詞のような要素だけが人間の幸福を構成しているわけではない。カネや社会的地位も、特に会社のような組織のなかでより多く集まるようにする際には、それらを集めるのに適した諸要素が揃っていなければ思うほど集まらない。カネなら、たまさか相場で儲けられれば集まるのかもしれないが、社会的地位、とりわけホワイトカラー世界における不特定多数からの承認やJTCにおける出世といったものは、もっとずっと多様な構成要素から成っているように私にはみえている。
いや、ホワイトカラー世界、JTC世界に限らずか。
人が生きるにあたってアチーブしたほうが好ましいこと、有利を取るうえで意識できたほうが良いことは多様だ。ゆえに、それらに心配りするための体験の蓄積、それらを感得するための視野の広さや感覚器官のトレーニングが必要になるはずなのだが、これほど大切に育てられた人でさえ、過度の受験偏向がそれらの発達を妨げてしまうとしたら、不幸な行き違いと言わざるを得ない。
- 生育環境が学歴至上主義なら、子どもは学歴にとらわれる
最近は知らないが、ある時期、やたらと出演者の学歴を掲示するクイズ番組などあった(今でもあるのかもしれない)。それだけ高学歴化が進み、学歴信仰の裾野が広がったのだろう。それはいい*1。しかし、学歴が幸福を約束してくれるわけではなく、それどころかカネや社会的地位を約束してくれるわけですらない。学歴は幸福を模索するための一要素でしかない。それも、就職に前後する時期に最も効果を発揮し、人生が後半になっていくにつれて霞んでいくタイプの要素だ。幸福や社会適応に資する手札の一枚ではあっても、幸福を保障してくれるわけでも、末永い承認を約束してくれるわけでもない。
ところが幼児期~思春期にかけて学歴の向上を至上命題とする環境が延々と持続すると、学歴が幸福の要件であるかのように、さらには学歴が超自我の核であるかのような価値観や世界観が内面化されてしまう。精神分析だけでなく進化心理学の分野でも、子ども時代は周囲環境の価値基準を内面化していく時期といわれている。なので、生育環境における価値観や世界観が学歴至上主義的であればあるほど、そこで育つ子どもの超自我に占める学歴なる要素の割合は大きくなってしまう。
学歴が価値判断や超自我の基準として大きくなればなるほど、学歴へのこだわりは重たくなり、学歴を手に入れても手に入れられなくても基準やこだわりとなってまとわりつく。そして自分自身の評価や他人全般の評価する際の時代遅れのモノサシとして君臨し続ける。私からみて、そういった状態は学歴神経症とでも比喩したくなるものだが、それをどうにかするためには、学歴、ひいては東京的な他人の欲望を欲望する堂々巡りの外側に、そうでない価値や値打ちや喜びを見つけなければならないのだと思う。
これから子育てを行う人は、学歴やカネや社会的地位を子どもに与えたいと望むのは構わないとしても、それら以外の価値や値打ちや喜び、それら以外の幸福の構成要素をいかにちゃんと子どもの生育環境のなかで提供するのかが、課題になるはずだ。そこを疎かにし過ぎると、学歴に支払った金額や時間は、バランスを欠いたかたちで子どもに長くついてまわり、重荷になる。多くの場合、それは願いから始まった呪いとでもいうべきかたちに帰着する。
もし、今日の東京のある圏域においてそうした願いから始まった呪いが発生しやすくなっているなら──ソウルやシンガポールや上海でも同様の事態を迎えているなら──それは個人の精神分析的現象や家庭の問題であるだけでなく、社会の問題、あるいは時代の病理でもあるように思う。このような状況を個人や家庭に迫ってやまない社会や時代を、安閑と肯定すべきではない。たとえすぐに是正できなくても、おかしなことが起こっていると承知し、ことあるごとにその是正について議論と政治を重ねていくべきだと思う。
そのうえで、個々の若い人、個々の家庭においては、学歴をはじめ、他者の欲望を欲望するような向きを絶対視しすぎないこと、それらだけでは人間の幸福を構成しきれないことに自覚的であるよう、つとめなければならないと思う。既にそうなってしまった人においては、学歴という呪い、学歴という憑き物を祓わなければならないが、その方法は私にははっきりわからない。学歴にとらわれない人付き合いや価値判断が生じれば治ったも同然だと思うが、神経症的状況や神経症的葛藤はそれ自体が色眼鏡となってついてまわるものだから、その色眼鏡を随意に着脱できるなら、そもそも苦労しないだろうからだ。
追記:ああ、昭和時代だったら「グレる」のもひとつの筋道だった。家庭で内面化された規範や尺度を、家庭外の規範や尺度をもって破砕する「グレる」という筋道は、ある時代までは有効だった。しかし、それは生還できるかわからない道であり、且つ令和の日本社会、とりわけ子どもに学歴を与えたいと欲する親たちの願いにかなったものではないのでローラー作戦的に漂白され、現在に至っている。そもそも、「グレて」「不良になる」とて学歴や大人社会から自由になれるというより、学歴や大人社会の影法師を踏むだけのパターンが多く、危険を冒してまで獲得できるものが見合っているかといったら、よくわからなかった。学生時代に思想にかぶれる、というのも案外良かったのかもしれない。だがこれも、今となっては危うい道程に思える。全共闘の時代とはわけが違うからだ。
*1:いいのか?