世界には奇跡が溢れている。
いっそ「社会には」と言い換えても構わないかもしれない。なぜなら狭義の自然の産物を除外し、人間とその社会が作り上げた被造物だけを挙げても奇跡は溢れているからだ。
その最たるものとして、東京を思い出す。東京の景色のひとつひとつが、私には奇跡にみえる。よくもこんなことが成立しているものだ。東京という街ができあがり、行き交う人々が全員違った意志をもって動いているにもかかわらず秩序が成立し、ほとんどの人が曲がりなりに食べ、寝て、互いを害するでもなく共存していることを、私は奇跡とみる。
文化的にもそうだ。読み書きに音楽、映像、そしてインターネットをはじめとする通信技術。書記や活版印刷や無線通信はインフラをつくるだけでなく、文化の産物を遠く広く届けている。衛星通信技術のおかげで今では離島でもインターネットに接続できる。
人間にそれらを成し遂げるポテンシャルがあったこと自体も奇跡的だが、実際にそれが遂げられていること、今、私の目の前にあるということが一層奇跡的に感じられる。この景色を奇跡とみず、所与の環境などと思っていられること自体、有り難いこと、あり得ないことだった。人間として生を享けること自体が大きな奇跡で、それに輪をかけて2020年代の日本を生きていることも奇跡的だ。今の自分が生きている状況を、私は途方もない状況と感じる。
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義
このえりすぐりの奇跡をどう利用する?
私たちは、この一回切りの人間としての生を、自分の好きなように生きることができる……ことになっている。過去の社会ではそうとも限らなかったことには注意が必要だ。中世の社会では地縁共同体や血縁共同体のために生きなければならない度合いが大きかった。身分に基づいて生きなければならない度合いも大きかっただろう。それらからの解放、という文脈に基づくなら現代人はより自由といえる。しかし誰もが知っているように、現代の社会では別の規範、別の要請、別の制約によって私たちの生は絡めとられている。自由、自由と言ってみたところで、私たちが社会や他人の顔色を窺いながら生きなければならない点は昔も今も変わりない。
それでも私たちが一生のあいだに選べること、選べるかもしれない可能性は小さくなかったはずだ。他の動物種や他の時代の人間に比べれば、現代の日本人として選べる行動、生きられる可能性はずっと豊かであるはずだ。そういう時間を私たちは生きているし、私は、ここまで半世紀にわたって生きてしまった。気が付けばそのような奇跡の物語も後半にさしかかり、陰りがみえはじめ、終わりが見え始めている。
奇跡を生きているのだ、という確認のために宿から少し歩いてみる。繁華街の明かりも、公園の整序も、行き交う人々や車の流れも、やはり、奇跡というほかない。私たちにとってなじみ深く、当たり前であるそれがいとおしく思える。やがてそれを永久に眺められなくなり、思い出せなくなる日のことを思う。塵芥にかえるのは平穏なことではあろう、が、それは奇跡ではない。
だけどこの奇跡はずっと続くわけではなく、振り返ればあっという間に終わってしまう夢のような出来事なんでしょうね。
花火みたいだな、これって。でも、その花火みたいな時間のなかで、この世を生き、この国この時代を生き、同じ奇跡を共有する人々の一部と知遇を得て時間を共有しているのは、ともあれ有り難いこと、そのはずなのだった。もうしばらくは生きていられると信じながら、明日の予定を確認する。ごくありふれた仕事、ごくありふれたスケジュール、ごくありふれた奇跡。だけど、朝食のシリアルやコーヒーすら、これは奇跡のたぐいだったのだ。せめて明日は、そういうことを思い出しながら生きてみたい。
(※現世についての本文はここまでです)
この奇跡は一度しか生きられない(私はせいぜい四半世紀ほどだ)
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