シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

せっかちな社会で、熟成に時間のかかるワインとどう向き合うか

 
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上掲は、今朝、寄稿させていただいたbooks&appsさんの記事だ。ワインを趣味にして良いことも悪いこともあったので、それらをまとめたつもりだ。健康至上主義な人はワインなんて近づかないほうが良く、もっと健康に貢献する趣味を探したほうがいいと思う。それからワインを貯蔵できる空間が足りない人にもおすすめしづらい。ワイン趣味でボトルネックになるのはお金や健康、その次が空間だ。たとえば狭いワンルームマンションに住んでいると、ワインを熟成させて待つためのスペースが限られてしまう。
 
「ワインは待つことも趣味のうち」について、もう少し書き足したい。
 
上掲リンク先で、私は以下のようなことを書いた。

特に中年になって思うのだけど、ワインならではの面白さは、待つということ、そして歳月に思いをはせることにあると思う。子どもが生まれた年にまとめて買ったワインを、子どもが10歳の時、15歳の時に飲んでみて、子どもが成人した暁には祝杯をあげるようなプレジャーにはワインはぴったりである。そうでなくても、長く寝かせたワインを抜栓した時、ワインが円熟の域に達していた時の喜びはなかなか替えがきかない。

将来有望と思われる若いワインを買って寝かせておくのは楽しく、コスパの良いことだ。長熟可能性の高いワインは10年程度でも値上がりするから、リリースされてすぐに買っておくと飲み頃の時期に買うより安くつく。そのうえ「ワインをやっている感」を長く楽しめるのも良いところだと思う。10年、20年と熟成を待っている間、ずっと付き合っている感じがするのは独特だ。極論を言えば、長熟するワインを数十本買って寝かしておくだけでも「おれはワインが熟成するのを待っているんだぜ」感が楽しめる。
 
しかし、ここまで書き終わってふと思った。そういうワインとの向き合い方はコスパは良い。でもタイパで考えたら、これってタイパの悪いワインとの向き合い方じゃないか?
 
さきほど私は「ワイン趣味は空間がボトルネックになる」と書いた。ワインを貯蔵する空間があまりないのに長熟するワインを寝かせておくと、その空間はずっと同じワインボトルに占拠され、いわばデッドスペースになる。ワインセラー内の貯蔵スペースの回転率と考えれば、そういうワインをたくさん抱えていると回転率が悪くなる。
 
そして現代の住まい、特に日本や東アジア諸国の大都市にありがちな手狭な住まいに住んでいる人にとって、貯蔵スペースはそれほど余裕がなく、貯蔵スペースに余裕がない人にとって長熟させなければ飲めないワインはタイパ的には性質が悪い。
 
世の中には、数十年かけて熟成するワインもある。ボルドーの有名どころがその最たるものだし、イタリアのブルネッロやバローロ、ポルトガルのポートワインなどもハイクラス品はだいたいそうだ。せっかちな人は絶対に待っていられない。中年からワインを始めた場合、ワインが飲める身体のうちに飲み頃を迎えられるか、甚だ怪しい場合もある。
 
じゃあ、そうした長熟ワインをコスパもタイパも良いかたちで愉しむにはどうすればいいだろうか? 言うは易く行うは難し、だ。答えはたぶんこうだ:地下に巨大なワインカーブの洞窟を備えた住まいを持つこと、若いうちからきっちり長熟ワインを買いそろえ続けておくこと、そして親からそうしたワインコレクションを継承し、子々孫々にまで継承し続けることだ。そうすれば、長熟ワインをいつでも・割安に楽しむことができる。

が、こんなのは通常は不可能なので、待っていられない人は「そもそも長熟ワインなんて買ってられない&待ってられないよね」ってことになる。
 
 

ワインのタイパが変わり始めている(気がする)

  
ところで最近、ワインのつくりが少しずつ変わってきていると耳にする。その変化のひとつに「昔に比べて早飲みしやすいワインが増えてきた」ってのがある。
 
たとえばボルドー左岸のカベルネ・ソーヴィニョン主体でつくられたワインは、まともに飲めるようになるのに十年単位の歳月が必要と言われたものだし、私も待ちきれずにボトルを開け、がっかりしがちだった。ボルドーの場合、それほど高く評価されていないワインでさえ、10年以上経っていたほうが打ち解けて華のある姿をしていることが多い、とも感じる。ところが最近、若い品を抜栓しても心地良い体験が待っていたりする。作柄の出来不出来もあるかもしれないけど、なんか飲みやすくなっていませんか?
 
ブルゴーニュワインでさえ、いわゆるクラシックな品は時間がかかると言われてきた。ピノ・ノワールやシャルドネといった新鮮さも魅力たり得る品種でも、一級や特級を急いで飲むなんて馬鹿げたことだ(今でもそう思っている)。それが、案外そうでもない品に遭遇することがあったりする。シャブリの一級なんかもそう。十年以上前のシャブリの一級は値段がそこまで高くなく、それでいてすぐに飲める様子でもなかったので貯蔵スペースが乏しい私のような人間には手が出しづらい印象だった。でも今は「いざとなったら飲んでしまえばいいじゃないか」って気持ちで買いにいける品になってきている。
 
名醸地のワインたちが早飲みしやすくなってきているとして、それが良いことなのか悪いことなのか、私にはちょっとわからない。たとえば2010年代後半~2020年代前半につくられたボルドーやブルゴーニュのワインがどれだけ永らえて、最終的にどこまで高い打点が出せるのかの答え合わせをするには最低でも10年、できれば20年は待たなければならないだろう。だとしても、せっかちな人でも楽しめる作風のワインが増え、タイパ的に付き合いやすいワインが増えていくとしたら、それ自体は良いこと、少なくともワインを売る側と買う側にとって好ましい一面があるのは間違いない。
 
 

タイパ良ければすべてよし? @ワイン趣味

 
ただ、そうやって若々しいワインを若々しいうちに飲んでおいしがっている時に、本当にこれで良かったんだろうか? と思うこともある。
赤ワインにしろ白ワインにしろ、買って間もないうちから楽しめるのはありがたいし、早飲みの、活き活きとしたさまを愛でるのもまた良い。でも、たとえば2019年につくられたワインを2025年に飲んでしまったら、2035年にそのワインがどんな姿をしているのかは確かめられなってしまう。早く飲めるようになったからと、早く飲まれてしまうワインが間違いなく失ってしまうものがひとつある。それは「可能性」だ。
 
ここでいう「可能性」を全部のワインを持っているわけではないし、ワインの熟成可能性はものによって大きく異なる。しかし大器晩成型のワインってやつは確実にあるわけで、世界じゅうのワインが早く飲める方向にシフトした時、若いうちは飲めたものじゃなくても数十年後に大輪の花を咲かせるワインが出てこなくなる、少なくともその「可能性」がだんだん顧慮されなくなっていくとしたら……それは喪失じゃないだろうか。
 
ワインという遊びには、「今、そのワインが持っている素晴らしさ」を楽しむだけでなく、「将来、そのワインが持ち得る素晴らしさの可能性」をドリームするところもある。それがワインという趣味に、時間的な奥行きを与えてもいる。せわしない現代社会において、それはタイパの悪い趣向かもしれない。すぐに味わえず、すぐにインスタグラムで見せびらかすこともできない巌のようなワインたち。しかも、待ちに待ったワインが結局期待外れ、なんてこともある。だけどワインってそういうものだったよね? という思いも、また捨てることはできない。
 
ワインに限らず、タイパを突き詰めるとあらゆるものが即効的・即時的・即戦力的でなければならなくなる。勉強はすぐに仕事に役立つものでなければならなくなるし、読書は実用書しか読まないようになってしまう。人間の評価だってたぶんそうだ。今、大器晩成型の人間を「可能性」と称して雇う余地、ひいてはそのような人間を探して評価して育てる余地はどこまであるだろうか? ないんじゃないか? 「可能性」という曖昧模糊としたものを抱えること、抱えるコストを支払うことにあなたならどこまでイエスと言えますか?
 
タイパが重視される社会とは、勉強も読書も人間も、できるだけ早く・できるだけ確実に成果を出せなければならない社会だと思う。ワインという気の長い趣味ですら、趨勢とは無縁ではない。そしてタイパを重視する人間は、勉強も読書もワインも、そういう風に向き合うようになってしまうだろう。少なくとも最近の私はそんな風になってしまっているので、なんだかワインに申し訳ない気持ちになります。