シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

ゲームの想像や妄想に溺れながら生きるのは(中年には)難しい

 
 
「昔のゲームの方が想像力を刺激されて良かった」は本当か|てっけん|note
俺たちは、ゲームを遊ぶ時に何を「想像」していたのか: 不倒城
 
ゲームをよく知っている人たちが、ゲームを遊ぶ時の想像・想像力について文章を書いてらっしゃった。
 
ここで私がゲームを遊んでいる最中のことを書いても二番煎じ、いや三番煎じになってしまうので、どちらかといえば私は、ゲームをプレイしていない時に想像していたこと、その想像を膨らませる際に役立ったものについて書いてみようと思う。
 
 

1.ドラゴンクエスト3,4の場合

 
ドラゴンクエスト4を初めてプレイした時、私の想像はドット絵のなかで完結していたと思う。アリーナ、クリフト、トルネコ、ミネア、マーニャたちが冒険していれば、もうそれだけで良かった。戦闘があり、メインストーリーがあり、カジノがあれば満ち足りていられた。ドラゴンクエスト3を初めて遊んだ時も、あの粗いドット絵の物語世界がすべてだった。何かを足す必要も、何かを引く必要もなかった。
 
ところがドラゴンクエスト3,4の場合、プレイした後に公式ガイドブックや「ドラクエ4コマ」に触れることによって想像の質と量が大きく変わった。
 

 
公式ガイドブックや4コマの"漫画絵"を眺めているうちに、ドラゴンクエスト3と4の世界はだんだん変わっていった。はじめに、ファミコンから離れている時にドラクエ世界をぼんやり想像するとき、キャラクターの図像が"漫画絵"で浮かぶようになった。その後、ドット絵の向こう側に"漫画絵"を思い浮かべるようにもなり、ドット絵の見え方が変わった。ちなみに、こうした変化の一部は漫画『ダイの大冒険』によっても促された、と思う。
  
いちばん大きく変わったのは、ドラゴンクエスト3の女賢者だ。ドット絵で完結していた頃、ドラゴンクエスト3の女賢者のグラフィックは正直よくわからない感じだった。ところが公式ガイドブックの女賢者の"漫画絵"に馴らされていくうちに、ドット絵が"漫画絵"に引き寄せられるようになってきた。正直よくわからない感じだった女賢者のグラフィックが、かわいくなってしまった。
 
ドラゴンクエスト3の"漫画絵"には熱心なファンが結構いたはずで、たとえば、女僧侶の二次創作絵は今でもときどき見かける。これは、ゲームそのものが刺激した想像力というより、ゲームの場外で育まれた想像というべきかもしれないが、とにかく、ゲームの外で想像力や妄想力が拡張されて、ゲームプレイに逆流した人は私以外にもいると思う。
 
 

2.ザナドゥの場合

 
 
パソコンゲームの大傑作、ザナドゥは小中学生の私にはあまりにも難しく、ただ生き残ること、少しでも前進することに無我夢中だった。プレイの真っ最中に想像力がどうこう言っていられるゆとりなんて無かった。
 
そのかわり、ザナドゥをやっていない時間に私はザナドゥについて書かれた書籍(取り扱い説明書も含む)を繰り返し読んでいた。ザナドゥは高価なパソコンゲームだったので、長らく、友達の家でしか遊べなかった。そのせいで私はゲームそのものをプレイする時間より関連書籍を眺めている時間のほうがずっと長かった。
  

 
自分のプレイを思い出しながら関連書籍を眺めると、モンスターの恐ろしさも、マジックアイテムの素晴らしさも特別なものとして感じられた。レッドポーションは必要不可欠な回復アイテムで、アワーグラスはすさまじい効果のアイテムなのだ! ザナドゥの取り扱い説明書には、モンスターの知性の程度や所持品について、かなり細かな解説がつけられていて、想像力に彩りを添えてくれた──「そうか、今日は腹の減り具合ぐらいしかわからないモンスターに食われて死んだのか!」
 
ゲームプレイと関連書籍と取り扱い説明書の相乗効果で、私はザナドゥというゲームを「本格的なファンタジーロールプレイングゲーム」として体験した。そして次の冒険こそ、もっと迷宮の奥深くにたどり着きたいと毎日のように夢想した。そうした夢想のひとときは、プレイしている時間と同じぐらいか、ひょっとしたらそれ以上に豊かだったかもしれない。
 
 

3.アドバンスド大戦略の場合

 

 
「あれは私のドイツ電撃作戦だった」。これに尽きる。このゲームを始めた頃、私は第二次世界大戦の戦闘機や戦車にまったく興味を持っていなかったが、ゲームのキャンペーンモードを始めてしばらくの頃──だいたいポーランドを撃破し、フランス戦が始まるぐらいの頃──に取り扱い説明書の兵器解説を読んでしまい、虜になってしまった。つい先日までただのゲームの駒に過ぎなかったユニットが、にわかに精強なドイツ機甲部隊のような気持ちになって、びっくりするほど入れ込んでしまった。
 
アドバンスド大戦略のユニットは、進化させにくく全滅しやすい。長い長い時間をかけて辛抱強く育てていかなければならない。アドバンスド大戦略の待ち時間が恐ろしく長いこともあって、私はユニットたちと寝食を共にするような気持ちになった。失いたくない将兵を率いて、ますます難しくなる戦争に向かっているという想像がいつも燃えたぎっていた。

「手ごわいシミュレーションゲーム」という言葉だけでアドバンスド大戦略を説明することは不可能だ。愛するユニットが全滅するたびに心が痛むぐらいには、私はアドバンスド大戦略に物語をみて、想像力を肥大化させていた。そして手塩にかけて育てたユニットたちがウラル山脈で全滅していくのを見て、すっかり打ちのめされた。
 
ゲームがある程度難しく長い時間を必要としたこと、取り扱い説明書の兵器解説がよくできていたこと、私がまだ若くすれていなかったこと、そういった色々な条件が重なったおかげで、私はアドバンスド大戦略をそのようなゲームとして受け取った。ウラル山脈でのあの出来事は、生涯忘れないだろう。
 
 

ここまでを振り返って思うこと

 
 
この文章を書き始めた段階では、この後、4.としてSkyrimを、5.としてStellarisを挙げて、「今も昔もゲームは想像や妄想を刺激してくれる」なんて間違いの少ないことを書こうと思っていた。
 
が、書いているうちに気が変わった。 
ここから私は、「だけどあの頃にはもう戻れない」ことについて書く。
 
あらかじめ断っておくが、新しいゲームが想像や妄想を膨らませる力を欠いている、と主張したいわけではない。たとえば私にとって、Skyrimで殺生がしづらかった思い出も、Stellarisで宇宙探索や宇宙艦隊の夢に溺れた思い出も、どちらも素晴らしく、プレイ中は想像と妄想が膨らみまくっていた。
 
けれどもドラゴンクエスト3,4やザナドゥやアドバンスド大戦略の頃にはあって、今は欠けているものがある。
 
それは、「ゲーム世界やゲームのキャラクターについて想像していられる時間、妄想していられる時間」だ。
ゲームの想像や妄想に溺れていられる時間が、圧倒的に足りない。
 
新しいゲームだからといって、グラフィックが立派だからといって、想像や妄想が膨らまないなんてことはない。小中学生の頃と同じぐらい想像や妄想を膨らませ続けるのは不可能だと、気が付いてしまった。
 
ドラゴンクエスト3,4やザナドゥやアドバンスド大戦略の頃は、ゲーム機から離れている時もゲームのことばかり考え、ゲームの想像や妄想に溺れながら生きていられた。学校でも勉強部屋でも上の空のまま、眠りにつくまでゲームの想像や妄想に溺れていられた。そうすることによって辛い現実から距離を置けるというメリットもあった。
 
今の私には、そんなことは絶対に不可能だ。授業中にゲームの想像や妄想に溺れるのは簡単だったが、仕事中にそんなことはできないし、すべきでもない。帰宅してからも、家族があり、付き合いがあり、手元にあるゲームたちは可処分時間を奪い合っている。
 
2020年になっても、まだ私はゲームプレイヤーとして現役のつもりでいるし、これからも新作ゲームを開拓していくだろう。けれども、新しいゲームをあれこれ遊ぼうと思えば思うほど、ひとつのゲームに立ち止まり、ひとつのゲームにかんする想像や妄想に浸っていられる時間は短くなってしまう。
 
 


 
新旧のゲームのどちらが想像力を刺激するのか、それを議論することにも意味はあろう。けれどもゲームが好きでしようがなかった少年少女もいつかは大人になり、"事情"を抱え、可処分時間を失っていく。体力や集中力にも余裕がなくなっていくだろう。そういう後退戦のなかで「昔のゲームのほうが想像力が刺激されて良かった」という思い出ができあがってしまうのは、いかにもありそうな成り行きではないだろうか。
 
小中学生の頃からゲームを愛してきた者の一人として、私は、あの一日じゅうゲームのことばかり考えていられた、想像して妄想して上の空に過ごしていた日々を懐かしく思う。この先、どんなに素晴らしいゲームに巡り合ったとしても、あの頃と同じような、想像と妄想に耽溺した日々を取り戻すことは、できないんじゃないだろうか。
 
新旧のゲームを比べるよりも、中年の"事情"のほうが私には差し迫った問題と思えたので、予定を変え、帰らぬ日々のことを詠嘆することにした。そして少し寂しい気持ちになった。