シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

むしろ「バカッター」が少ないことに驚く

 
俗に言う「バカッター」は学校教育の敗北でもある。気がする。 - パパ教員の戯れ言日記
 
 リンク先の記事は、学校の先生によって書かれた「社会問題になるようなSNSへの書き込み(いわゆるバカッター)は学校教育の敗北ではないか」という記事だった。とても真摯なご提言だと思う。
 
 しかし、私はいわゆるバカッター騒ぎには反対の印象を持っている。
 
 バカッター騒動があるたび、若者のネットリテラシーの不足を嘆く声が聞かれるし、それはわからない話でもない。後述するように、若者のネットリテラシーの啓発には私も賛成だ。
 
 だからといって、一握りのバカッターが若者のネットリテラシーの主要な問題をあらわしているとは思っていないし、いまどきの若者はそれなり頑張ってネットに食らいついているのではないかとも思う。
 
 

「バカッター」の水面下に存在するトラブル

 
 バカッターは、一夜にしてインターネットじゅうの噂になる。一件のバカッター案件がネットで何重にも波紋をつくり、そのたびに過去のバカッター案件までもが掘り起こされるから、やたらと目につく。
 
 だからといって、そのようなバカッター案件が毎晩のように発生するわけではない。
 
 
 総務省統計局によれば、平成28年現在、高校生の総数は330万人、大学生の総数は287万人であるという。現代ではほとんどの学生がなんらかのかたちでSNSを用いていると想定すれば、600万人弱の現役学生さんがSNSを用いていることになる。中学生や社会人も含めれば、若者のSNSユーザー数は1000万人をくだらないだろう。
 
 その一方で、実際にバカッター案件となるような炎上を起こしている学生は非常に少ない。たとえ年間10人やそこらの若者がバカッター案件をやらかしたとしても、それは1000万人のなかの10人程度のことである。交通事故のリスクに比べると、バカッター当事者になるリスクはずっと低い。
 
 炎上をはじめとするネットトラブルについて、少し統計を見てみよう。
 
 総務省の情報通信白書(平成27年)を参照すると、SNS上でトラブルを経験したことのある人の割合はけして低くない。とりわけ二十代以下のトラブル経験数が目を惹く(以下参照)。
 
 

 ※出典:総務省統計局のページ
 
 さらにトラブルの内訳を見てみる。
 
 
 
 ※出典:総務省統計局のページ
 
 経験したことのあるトラブルのうち、かなりの割合が喧嘩や誤解や行き違いといったディスコミュニケーションによって占められている。これらはオンラインに特有のトラブルではなく、オフラインでもほとんど避けられないものなので、特別視する必要はあまり感じない。
 
 では、そうしたトラブルのうち炎上はどれぐらいの割合なのか。
 
 グラフには「複数の人から批判的な書き込みをされた(炎上)」という項目があるが、その割合は1.6%と低値である。この1.6%のうち、一体どれぐらいの割合が社会的損失を伴うような炎上だったかはわからない。が、ベテランではないネットユーザーの反応をみている限り、数十人から批判的な書き込みをされた程度で多くの人は炎上したと感じてしまう様子なので、社会的損失を伴うほどの炎上の割合はそれほど多くはないのではないだろうか。
 
 それより、このグラフを見ていて目を惹くのは、プライバシーやアカウントにかかわるトラブルが意外に多いということだ。
 
 個人情報の暴露、アカウント乗っ取り、なりすまし等を合計すると10%を上回る。これらはまさにオンラインに固有の問題であり、社会的損失にも繋がりやすい。
 
 二十代以下の26%がトラブルを経験したことがあり、そのうち10%がプライバシーやアカウントにかかわる問題を経験しているとしたら、より重点的に啓発されるべきネットリテラシーとは、プライバシー保護やアカウント保護についてのもののように私には思われる。
 
 

1人のバカッターの後ろには、無数のちゃんとしたネットユーザーがいる

  
 
 「1人のバカッターの背景には10人のバカッター予備軍がいて、そのまた背景には100人の予備軍の予備軍がいる」という考え方は確かに可能である。事実でもあろう。 
 
 だが正反対の考え方も可能で、1人のバカッターの背景には1000万人の非バカッター者がいて、900万人ぐらいは炎上を経験したことがなく、700万人ぐらいはネットでトラブルを経験したことすらない、とも言える。
 
総体としてみた場合、社会経験の足りない若者たちもそれなり頑張ってネット炎上やネットトラブルを回避していて、まずまずSNS時代に適応している、とも言えるのではないだろうか。
 
 古くからのネットユーザー同士の会話に、よく「自分たちが若かった頃にSNSが無くて本当に良かった。」といったフレーズが出てくる。実際、ネット黎明期の感覚で現代のSNSをやるのは危険に違いない。逆に考えると、いまどきの若者は、ネット黎明期の若者よりも高いネットリテラシーを要求されるメディア空間でそれなりに立ち回って、それなりに生活しているともいえる。
 
 SNSはその性質上、ユーザーの承認欲求をかきたてる側面があり、そのスピードと拡散力はネット黎明期のウェブサイトとは比較にならない。社会的影響という意味でも、ネットがアングラだった頃とは意味合いが違う。
 
 そんな、取扱いに気を付けなければならない今日のSNSを、黎明期のインターネットよりもずっとたくさんの若者が日常の延長線上として使用しているのにこの程度しかバカッター騒ぎが起こっていないことに、私達はもっと感心してもいいのではないだろうか。
 
 だから私は、一握りのバカッターの背景に、多少危なっかしくはあってもネット黎明期の頃の我々よりもずっとタフにSNSと向き合っているたくさんの若者を想起せずにはいられないし、トラブルも起こさずにSNSに向き合えているいまどきの若者は、とても良く訓練されているとも思う。
 
 

ネットリテラシーをたえず訓練される若者、私達

 
 いまどきの若者は、ネットリテラシーを叩き込まれる機会がとても多い。
 
 親や教師がネットリテラシーに注意を呼び掛けるのに加え、テレビや書籍といったメディアもネットリテラシーを啓発している。友達同士でネットトラブルについて話し合う機会も多かろう。加えて、バカッターのような騒動を横目で見ながら育っていくわけだから、SNSやネット全般のリスクに注意を向ける機会は無数にある。
 
 なにより、SNSを用いる者はほぼ全員、お互いがお互いの一挙一動を観察しあっているわけで、いわば、相互監視の環境下に晒され続けてもいる。
 
 これほどまでにネットリテラシーに注意を払い、そのうえ相互監視環境に晒され続けていれば、いまどきのネットユーザーにはそれにふさわしい姿勢なり使い方なりがインストールされずにはいられない。先日私は、街のインフラが習慣や規律をインストールしていくという話を書いたが、その論法で考えるなら、今日のSNSユーザーは、教師や親や友達からたえず耳にする情報と、SNSの相互監視環境下でのコミュニケーションによって、SNSに適応できるよう訓練づけられ、習慣や規律をインストールされている、と言えるのではないだろうか。
 
 たとえばの話、1980年頃の若者をタイムマシンで連れてきて、友達と喋る感覚でSNSを使ってみてくださいと促しても上手くいかないだろう。2000年頃の黎明期のネットユーザーにしてもそうで、炎上するような書き込みをして退場してしまいそうである。いまどきの若者と違って、20年前や40年前の若者はSNSに適応できるような習慣・規律を身に付けていない――もし、彼らがSNSを使い始めるとしたら、それこそネット古語にあるように「半年ROMって」状況を見極める必要があるだろう。
 
 逆にいうと、いまどきの若者の大半は、そのようなSNS時代にふさわしい習慣や規律を毎日の生活のなかで無意識のうちに身に付けている、ということでもある。バカッターのような案件に発展するのは、いわば、そうした現代のSNS環境に求められる習慣や規律を十分に身に付けられなかった落伍者か、相互監視を行っているローカルな環境全体がバグってしまったか、どちらかである。そして現代の若者の大半は落伍者とはなっていないし、ローカルな環境の大半もバグってはいない。
 
 SNS社会についていけない若者への対処は確かに必要であろうし、そのような落伍者に親や教師、ときには精神科医が対処するというのはそれほどおかしな話ではない。冒頭リンク先の先生のように、問題意識をもって取り組んでくださる指導者が存在することを心強くも思う。
 
 ただそれはそれとして、現代の若者は全体としてはよく訓練されていて、ネットの実情にみあった習慣や規律をそれなりに身に付けていることに、私は驚いておきたいのだ。
 
 と同時に、それだけしっかりと習慣や規律を身に付けなければならない現代のコミュニケーション事情に、しんどさを感じずにはいられない。
 
 「気を付けてSNSをやりなさい」「うまくSNSをやりなさい」という親や教師からの教え、あるいは相互監視による訓練づけは、つまり「ネットでは、注意深く、きちんとコミュニケーションしなさい(=それができない奴は黙っていろ)」という要請に限りなく近い。オフラインでのコミュニケーションが苦手な人でさえ、「ネットでは、注意深く、きちんとコミュニケーションしなさい(それができない奴は黙ってろ)」と主張して憚らないことが多いようにも見受けられる。
 
 つまり、ほとんど誰もがこの不文律のごとき要請を当然のものとみなし、きちんとできるのが当然のことだと思いながら相互監視をしている、ということだ。
 
 そういった「ネットでは、注意深く、きちんとコミュニケーションしなさい(=それができない奴は黙っていろ)」という不文律のもとで私達は毎日SNSを用いていて、そのことに疑いの目を向けたり反抗心を持ったりすることはほとんど無い。誰もが疑わず、誰もが当然だと思い込んでいる環境でこそ、習慣や規律は無意識のうちに・強固にインストールされる。そのような社会のなかで発生するバカッターとは、大変な逸脱者であり、驚くべき例外であり、どうしようもない落伍者である。だから気にする必要は無い……とまでは言わないが、現代の社会病理を考える際には、そのようなどうしようもない落伍者について深堀りするよりも、残りの大多数、つまり粛々と今日のSNS社会に馴らされ、そつなくネットコミュニケーションをやってのけている私達の日常をこそ、深堀りすべきではないかと、私は思う。
 
 ネットリテラシーにまつわる啓発活動は、これからも必要とされ、学校もまたSNS時代にふさわしい習慣や規律をインストールしていく社会装置の一部として機能し続けるだろう。だから良い悪いという話ではない。ただ、そうやってネットリテラシーがみんなにとって当たり前のものになり、誰もがSNSのある生活に適応しているという事実を一歩下がって眺めてみると、人間の適応力の高さと社会の柔軟さに私はびっくりせずにはいられない。
  
 「みんながSNSを用いるようになって十年かそこらのうちに、それにふさわしい習慣や規律がみんなにインストールされるぐらいには、社会は人間集団に対して変化をもたらし得る」ということを、この機会に覚えておこうと思う。