シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「最近の若い者は~」は反面教師か。私達の行く道か。

 
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 リンク先は、必要なスキルは時代によって違うから、時代の変化を考えもせずに無自覚にあざ笑ったりするのは避けたいよね、という文章だ。長年ブログを書いているしんざきさんの文章だけあって、主旨には「まったくそのとおり」と言うほかない。
 
 それはそうとして、お年寄りがちょっと嬉しそうな顔をしながら「最近の若い者は~」という姿をみていて最近感じていることを書きたくなったので、書く。
 
 

「最近の若い者は~」現象の必然性について考える

 
 「最近の若い者は~」という文句は古代ローマの遺跡からも見つかるという。現代の高齢者でも、この言葉を使う人は珍しくない。ということは、これは、年上が年下に対して抱きがちな感情なのだろうと推定したくなる。
 
 現在の私には、「最近の若い者は~」という台詞を自覚的に回避したい、という気持ちがどこかにある。たぶん、しんざきさんも同じだろう。意識的か無意識的かはわからないけれども、心中に「最近の若い者は~」に対するブレーキが存在していると思う。
 
 私やしんざきさんのような、世間的に「分別盛り」とみなされる年頃の人間が「最近の若い者は~」を回避するのは、美徳の点から言っても、コミュニケーションの実益の点から言っても、望ましいことだろう。
 
 にも関わらず、高齢者が、いや、ときには中年が、「最近の若い者は~」と言うからには、それ相応の背景や事情があるはずだ。ブレーキがかけられないか、それとも、ブレーキを敢えてかけていないか。
 
 この、「最近の若い者は~」に限らず、年下からみて年上を忌避したくなる振る舞いや仕草というのは色々あって、これもこれで「最近の高齢者は~」的なテンプレートになっている。年上の繰り言が時代錯誤だったり、美徳や実益に反していたりするのを観た時、年下は高確率でそういうことを考えるのだろう。私はそれを不自然だとは思わないし、私が高齢者になった時、そのような年下のまなざしに曝されるのは仕方がないとも思う。いや、現在の私も、十歳ぐらい年下の人達からは、美徳や実益に反した振る舞いをしていると既にみられているかもしれない。
 
 これらのことに、一種の必然性はないものだろうか。
 
 年上、とりわけ高齢者が「最近の若い者は~」と言う背景には、自分達が年下世代の進む時代から取り残されている感覚があるかもしれないし、スキルの移り変わりについていけない不安や劣等感があるかもしれない。もっと単純に、前頭葉の機能が衰え、分別が利かなくなっている可能性もあるだろう。
 
 高齢者と呼ばれる年齢になってもなお、分別を利かせて、美徳や実益に即した振る舞いができる人も一応いる。しかし、そのような高齢者が普通なのではなく、そのような高齢者は「凄い人」なのではないだろうか。高齢者になったら「最近の若い者は~」と言いたくなるほうが自然で、そうではない高齢者が相当に「頑張っている」のではないだろうか。
 
 と同時に、そもそも、コミュニケーションに際して何が美徳で、何が実益にかなっているのか、そういった評価尺度自体が時代を追うごとに変化している可能性もある。年下世代には、常に年上世代のコミュニケーションのどこかが「おかしい」「美徳と実益にかなっていない」と感じられるギャップがあったりしないものだろうか。
 
 インターネット上の仕草などが典型的だが、少しずつとはいえ、コミュニケーションの美徳や実益は時代とともに変わっていく。それ以上に、美徳や実益をやってのける心理的/肉体的な事情が加齢とともに変わっていく。そうした変化を踏まえながら、年上の「最近の若い者は~」や年下の「最近の高齢者は~」を眺めると、これらは起こるべくして起こっているもののようにも思える。
 
 

反面教師とみるべきか、我々の行く道とみるべきか

 
 「最近の若い者は~」をはじめ、高齢者の振る舞いに反面教師とみたくなるものを見かけた時、とにかくも反面教師とみて、自分はそうならないようにしよう・努めようとするのは基本的に良いことだと思う。どうせなら、より良く年を取っていきたいと願うのが悪いこととは思えない。
 
 その一方で、単なる反面教師とみるのでなく、自分達も彼らのようになるのではないか・彼らの振る舞いにも一種の必然性や道理があり、それは彼らの年齢になってみなければわからないものではないか、と推測したくもなる。
 
 年を取れば取るほど分別がしっかりして、コミュニケーションの美徳や実益が上手になっていけば理想的だが、現実の高齢者をみるに、話はそんなに単純ではないのだろう。いつかは「最近の若い者は~」という言葉にブレーキがかからないような境遇に自分が置かれるかもしれない。たとえ自分がそうならずに踏みとどまったとしても、自分と同世代の人々がそうなっていく未来があるかもしれない。
 
 そもそも、「分別盛り」という言葉が存在していること自体、「分別盛り」を過ぎると分別が衰えていくことを暗に示しているように思う。
 
 うまく言えないのだが、分別のある高齢者になりたいと願う心と、それでも分別は磨り減っていくだろうという予測の両方が、私のなかにある。両方が混じり合った結果として、自分に対しても他人に対しても、そういうのを許容したい気持ちが芽生えつつある。これ自体、私の分別が衰え始めている兆候だと言う人もいるだろう。そうかもしれない。
 
 今までは、「年上の悪いところは反面教師にしよう」という気持ちには随分と助けられてきた。これからもそうなのだろうか。それがちょっとわからなくなってきたから、私はこれを書いている。
 
 彼らは反面教師なのだろうか。私達の行く道なのだろうか。