ここ十年ぐらいで「発達障害」という言葉はすっかり普及し、そのせいもあってか、外来で「自分が発達障害かどうか調べて欲しい」という相談を受けることも増えた。
精神医療のフォーマルな窓口で発達障害と診断される人の大多数は、社会で生きていくことに困難を感じているか、周囲との摩擦を感じている。そりゃそうだろう、なんらかの事情がない限り、人はわざわざ病院を受診したりはしない。
社会に溶け込んでいる「発達障害と診断され得る」人々
発達障害という名称が世間に広まると同時に、精神科医が発達障害と診断する頻度もだいぶ増えた。過去に他の病名をつけられていた人に正しい病名をつけられるようになったわけだから、これは「進歩」と言って良いのだろう。
そうやって、ちょっと前なら異なる病名をつけられていたであろう人々を発達障害と診断する状況になって、気づいたことがある。それは、「病院で発達障害と診断する基準に当てはまるような人が世間にはたくさん埋もれていて、そのなかには、うまくやっている人もかなり多い」ということだ。
たとえば、診察室で自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害や高機能自閉症を含む)として診断される人と同じ性質を持っていながら、まったく精神科とかかわりを持つことがないまま、うまく社会に適応している人は意外といる。
精神科を受診することなく社会適応しているASDな人の背景には、高学歴や職業適性の良さがあったり、理解ある環境があったり、趣味生活による人的ネットワークがあったりする。巷で耳にする「大学教授にはアスペルガーが多い」という噂がどこまで本当かはわからないが、高学歴な専門家集団のなかに、もしも不適応に至っていたら精神科でASDと診断されていたであろう性質を垣間見せる人が混じっているのは確かだ。
同じく、現代の診断基準では注意欠陥多動性障害(AD/HD)と診断されそうな人が、メディア関連の仕事で活躍していたり、多忙な職場を支えていたり、企業のかなり偉いポジションで働いていたりすることを、私は診察室の外で何度となく目にした。
わざわざ発達障害の相談のために病院を訪れない、社会に溶け込んでいるASDっぽい人やAD/HDっぽい人のなかには、それらの疾患の短所によって不適応を起こしているというより、それぞれの疾患の長所によって社会適応を成し遂げているとしか言いようのない人達が少なからず存在している。少なくとも私の目にはそううつる。彼/彼女らの社会適応のかたちは多種多様で、簡単に応用できるものでもないけれども、それだけに、個人それぞれの社会適応の個別性や可能性をあらわしているようにみえて、興味深い。
すべての人に応用できるわけではない、個人それぞれの社会適応にどれだけ注目したとしても、診察室という臨床世界にフィードバックできるエッセンスはけして多くないかもしれない。けれども私自身の関心は、ひとりひとりの社会適応のほうを向いているし、不適応の側面よりも適応の側面に興味を感じてしまうので、発達障害と診断されそうだけれど受診には至らない人々の生きざまを、もっと詳しく知りたいと願う。そして許されるなら、そういったひとりひとりの社会適応のかたちを書き残しておきたいなとも願う。
発達障害の診断基準や治療論は、大学や学界の先生がたがキチンとやっているので、それを習いながら、私自身は「よく発達した発達障害」のひとりひとりを追いかけてもいいんじゃないか、とも思う。
人生の分岐点で「たまたま精神科を受診し、発達障害と診断」される人達
そういう、発達障害と診断され得るけれども社会に適応している人達が、ふいに精神科を受診することがある。
受診のきっかけとして多いのは、大きなライフイベントによって今までの社会適応が維持できなくなり、「適応障害」や「うつ病」として来院されるケースだ。そういった表向きの病状の背景を調べているうちに、発達障害的な性質が発見される。最近はテレビやインターネットで発達障害の情報を見て、当てはまると自覚して来院される方、家族に「あなたは発達障害だと思うから診て貰いなさい」と言われて来院される方も珍しくない。
そういう人達のなかには、四十代~六十代で「発達障害ではないか」と疑って来院される方もいらっしゃる。見ようによっては、「発達障害と診断されるのが遅れた」と言えるかもしれないが、見ようによっては「発達障害的な性質があっても、長らく社会適応できていた」ともいえる。
もちろん、彼/彼女は環境が恵まれていたのかもしれないし、発達障害的な性質がマイルドだったのかもしれない。人一倍苦労していたのかもしれない。だが、とにかくも不惑や還暦まで世渡りをやってのけていたのだ!
子どもや孫がいてもおかしくない年齢で「発達障害ではないか」と相談にいらっしゃる人のなかには、その疑いに怯え、自尊心を喪失している人も多い。けれども、発達障害的な性質をもっていながら、厳しい社会を世渡りをしてきた人達は、たいしたものだと私は思う。うつ病や適応障害の合併状況を踏まえつつだが、私は、そういう患者さんに対して「あなたは発達障害に該当するし、今は人生が難しい局面になっているかもしれないけれども、それでもあなたは今まで世渡りをやってのけていたんですよ!生きてきたんですよ!」というニュアンスをなんらか伝えたいと思う。だってそうじゃないか、現代の診断基準では発達障害なのかもしれないが、とにかくも、自分自身と世間とに折り合いをつけながら生きてきた人々なのだから。
発達障害という診断名によって、これまで生き続けてきたという事実が棄損されることがあってはいけないと私は思うし、それは、発達障害という診断名に該当しないけれども種々の個人差を抱えながら生きているすべての人達にも当てはまることだと思う。その延長線上として、現代精神医学の診断病名に該当しないからといって、その人が「ラクな人生を歩んでいる」などと謗る論調にも私は与したくない。医学的な判断の根拠となる診断基準のさらに根っこの部分には、「ともかくも娑婆世界で生き続けている人は、みんな、たいしたものだ」という理解と、生きている人達への敬意があってしかるべきだと思う。そこのところを、発達障害と診断される人もされない人も見失ってはいけないし、発達障害と診断する側も見失ってはいけない、と私は思う。
たまたまライフイベントによって精神科を受診することになったような、「よく発達した発達障害」の人達の多くは、治療や環境の再調整によって元の生活を取り戻すか、次のライフステージに移行していく。長年、自分自身の性質とも世間とも折り合いをつけながら生きてきた人達だけに、クライシスを乗り越えてしまえば、前述の「受診するまでもなく社会に溶け込んでいるASDっぽい人やAD/HDっぽい人」と区別がつかない。というかそれそのものである。
「よく発達した発達障害」はいろんなところにいる
なお、こういう「よく発達した発達障害」と呼びたくなる人は、職業的/学業的なアドバンテージに恵まれた人だけには限らない。さまざまな職域に、わりと頻繁に見かけるものだ。
もちろん彼/彼女らは、空気が読めない性質や落ち着きのない性質を残しているか、その痕跡をときどき垣間見せる。だが、彼らは社会的な約束事や立ち位置をひととおり身に付けていて、そこが、まだ若い発達障害の人々より「立ち回りが巧い」と感じさせる。挨拶や礼儀作法をはじめとするソーシャルスキルによって、苦手な部分が補われるよう、きっちりトレーニングされている人も多い。
そうやって社会のなかでサバイブしている人達に、わざわざ診断病名をあてがう意味はない(それは精神医療のフォーマルな窓口を訪れた時にだけ考えるべき事柄だ)。もし、発達障害とカテゴライズする必要が生じたとしても、その際には「よく発達した発達障害かどうか」という意味合いを無視してはいけないと思う。どういう診断基準に当てはまるのかも大切だが、個人それぞれが自分自身の性質と社会との折り合いをどこまで・どんな風に社会的に成長させてきたのかも、同じぐらい大切だと思う。よくよく注目していきたい。