シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“ネットde真実”は遠くなりにけり

 
1.あらかじめ断っておくと、いつの時代にもインターネットには事実でも真実でも無い書き込みがたくさんあった。例えばパソコン通信上の文面や、ウェブサイト同士の友誼を掲げた文面で、本心とも事実とも一致しないような玉虫色の言葉が弄されることなど、そう珍しくもなかったと記憶している。
 
 それでもなお、インターネットでしか読めない真実・インターネットでしか語られない事実、といったものは掘ればザクザク出てきた。インターネットで内緒話や秘密の打ち明け話ができると勘違いしている人、インターネットがアンダーグラウンドだと信じている人――こういった無邪気なユーザーによって、インターネットには湖底から湧き出すメタンガスのごとき真実や事実が充満していた。
 
 2014年から眺めると、そうしたイノセントな書き込みは、インターネットに対する無知・誤解・錯覚によって生み出されていたと決めつけたくなるが、それだけでも無かったように思う。「王様の耳はロバの耳」をやっても問題にはなりにくい、インターネット=アンダーグラウンドな文脈があったからこそ、少なからぬネットユーザーが、化粧にもポーズにも無頓着な文物を垂れ流していたと考えるべきで*1
 
 翻って、現在のインターネット。
 
 そこには、化粧をした文章、ポーズを取った文章が溢れ返っている。
 
 「拍手」を欲しがっている文章。
 
 「共感」を作り出そうとしている文章。
 
 「金銭」目当てにつくられた文章。
 
 そして「政治」を意識した文章。
 
 政治がインターネットでも意識されるようになり、運動の一関数として組み込まれたのは、インターネットがアンダーグラウンドなメディアではなくパブリックなメディアになった兆候だ。そして「拍手」にせよ「共感」にせよ「金銭」にせよ、不特定多数を相手取ってベネフィットを獲得しようとしている行為である以上、不特定多数を意識した化粧やポーズに染まっていくのは必定だった。
 
 “今日、インターネットの半分は、化粧やポーズでできている”。
 
 グルメのレビューも。男女よもやま話も。人生の開陳も。書き手のベネフィットに適うように、読み手の欲望に沿うように、整形されていく。
 
 
2.なら、匿名掲示板や匿名ダイアリーならどうか。これがまた難しい。
 
 現在でも、匿名インターネットには湖底のメタンガスのような文章が残存している。けれども、匿名インターネットでも、「拍手」や「共感」を獲得するために露骨に繕われた文章、大なり小なりの「政治」を意識して書き込まれた文章が珍しくなくなった*2。目につきやすい匿名文章ほどそうで、久しぶりに湖底のメタンガスを見かけたかと思いきや、加工や創作を施され“商品化”された、露骨過ぎる文章に落胆することも多い。
 
 つまり、匿名の書き手といえども、最近は不特定多数のほうを意識し、自分の文章の効果を最大化するような工夫を施しているわけだ。彼らは穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んでいるわけではない。インターネットで秘密基地ごっこをやっているわけでもない。路地裏の居酒屋でくだを巻いているわけですらない。彼らがやっているのは、パフォーマンスだ。仮面をつけた男女が、駅前大通りで不特定多数に向かって、吐露の演し物を行っているのである。
 
 そして、そうしたパフォーマンスを視る側の視線も、(2ちゃんねるのまとめサイト周辺の騒動なども手伝って)擦れきっている。
 
 むろん、匿名芸のなかに真実や事実が練り込まれることだってあるだろう。あるいは今日のインターネットのことだから、わざと真贋のわからない文体に加工することで、真実を釣りっぽいネタのなかに織り交ぜる書き手だって存在しているに違いない。だが、いずれにせよ、そうした匿名の文章=(書き手にとって)純度の高い真実や事実として筆記されたと端から期待するのはきわめて難しい。今日日の擦れきったネット感覚に照らし合わせる限り、“ネットde真実”などという思い込みは生まれようもない。
 
 数年前、インターネットで真実を知った気になる愚者がバッシングされた時期があった。今でも、そのような愚者が槍玉に挙げられることが偶にあるが、一時期ほどではない。インターネットに、真実や事実が(書き手自身にとっての素のままの姿で)ゴロリと転がっていることなど、もはや殆ど無いということを、大勢の人が知ってしまったのだ。そして擦れてしまった。文章を読むにあたっては釣りや創作の類か否かを気にするようになり、文章を書くにあたっては不特定多数の読み手への“効果”を意識してやまなくなった――「それがインターネットというものじゃないか!」
 
 インターネットが【メディア】になるということ、インターネットが【言論空間】になるということは、こういうことだったわけだ。
 
 
3.このようなインターネットで、本物の「王様の耳はロバの耳」と偽物の「王様の耳はロバの耳の芸」を見分けるのは難しい。無数の芸や釣りのなかから、筆者の丸裸度の高い真実を抽出・鑑別しなければ、「ネットでしか読めない真実」と呼び得るものには辿り着けない*3
 
 真贋を気にしない人にとってはどうでも良いことだし、今日のインターネットにおいて真贋を気にするなんて愚行の極みかもしれないが。それでもなお、ネットにしか書かれないこと・ネットだからこそ出会える科白を読みたいと願うなら、相応の骨折りをしなければならなくなったのは確かだ。ネット全体が沼地とみなされていた時代とは異なり、今日のインターネットでダンゴムシを見つけようと思ったら、石をめくって裏側を確かめなければならない。そして、石の裏にまでビッシリへばりついたメディアの白粉を取り除きながら、比較的にせよ、純度の高い真実や事実を吐き出すアカウントやコミュニティを発見しなければならない。
 
 “ネットde真実”は遠くになりにけり。
 
 筆者の丸裸度の高い真実に出会いにくくなっただけでなく、「インターネットには真実が書き込まれている」「ネットユーザーの生の声が反映されている」と無邪気に信じ込むこと自体が難しい世の中になった。ここがメディアだと、周知徹底されてしまったから。
 
 
 【追記】
 ここまで文章を書き綴った後、再読して「これが俺のインターネットの真実だ、つまり俺のインターネット“が”こんなに薄汚れてしまったんだなぁ」と気づいて哀しくなった。
 
 

*1:かろうじて意識された化粧・ポーズが「フォントいじり」といういじましいサイトがごろごろしていた!

*2:00年代の中頃あたりからだと思う

*3:ちなみにテレビやゴシップ誌に載っていそうな真実には、ネットで幾らでも遭遇できるようになった。これもまた、ネットが相応にメディア然としてきた一兆候だと思う