シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「きっと何者にもなれない時代」の平凡と「あらかじめ何者かが強制された時代」の平凡

 
 以前、深夜アニメで「きっと何者にもなれないお前達に告げる」という台詞が出てきて、ちょっとした人気を博していた。「きっと何者にもなれないお前達」という台詞がインパクトをもって受け止められたということは、多くの視聴者が「何者かになりたい」自意識を抱えていたのだろう。それとも「何者かにならなければならない」けれども「何者にもなれそうにない」と思っていたか。
 
 「きっと何者にもなれない」という台詞には、「お前はまだ何者でもない」という含意がある。何者かになろうと思っているうちは、何者でもないのだ。自分というものにカタチがない。心理学っぽい表現を心がけるなら「アイデンティティ拡散」「アイデンティティの確立途上」といった表現になるかもしれない。
 
 今日、「何者かになりたい/なれない」と問う人は、しばしば、気宇壮大な何者かをイメージしている。「何者かになる/ならない」問題に拘っている人のうち、一般的な仕事、例えば一般事務職や建設作業員をイメージしている人は稀だ。しかし、どうして一般的な仕事では駄目なのか?よくよく考えてみれば不思議なことではある。このあたりについて、まとまりのない話を書き記してみる。
 
 

「あらかじめ何者かである」社会と「何者かにならなければならない社会」

 
 かつて、E.エリクソンがアイデンティティという概念を広め始めた頃、「私はこういう人間である」=アイデンティティは、仕事に就く、友達をつくる、結婚をする……といった具合に人生の構成素子が決まっていくうちに固まるものだった。この頃、殆どの人にとって「何者かになる」ことはそんなにハードルの高いものではなかった。アイデンティティを構成する素子は、決まりやすく、壊れにくかった。
 
 さらに遡ると、「何者かになる」というテーマは大抵の人にとって意味の乏しいものだった。農家の子どもは農家の子ども、酒屋の息子は酒屋の息子、そして鍛冶町の○○さんちの倅は○○さんちの倅であって、それ以上でもそれ以下でもない。イエ、身分、職業――そういったものによって個人の人生が規定されていた時代には、「自分が何者になるのか」はほとんど運命のようなもので、むしろ「あらかじめ何者なのかが運命付けられていること」こそが物語のテーマたりえた。
 
 アイデンティティという単語の生みの親であるエリクソンも、こうした違いについて、「制度化・構造化された社会では、アイデンティティを巡る問題は前景に出にくい」という風なことを語っている*1。『ロミオとジュリエット』や『曽根崎心中』の時代には「何者かになる」テーマは表沙汰になりにくく、社会が自由になり、個人が自由に生きられるようになってはじめて、アイデンティティを巡る問題が顕れてくる、というわけだ。
 
 だから「きっと何者にもなれないお前達」というフレーズが刺さり、物語として流通する現代という時代は、なかなかに個人の自由が実現しているか、少なくとも実現しているようにみえる時代なのだろう。
 
 

「平凡」であることは罪なりや

 
 しかし、私達がいま目にしている社会は、過去の社会のきれいな対偶を為しているだろうか?
 
 ある程度はそうといえる。今日でも、仕事、友人、配偶といったものが決まるうちに“落ち着いていく”人は案外たくさんいる。納得ずくのプロセスによって決まるのか、それとも挫折や運命によって決まるのかはさておいて、ともかくも思春期の出口までに個人の構成素子が固まり、落ち着く人が存在することは認めていいと思う。
 
 ところが、オンラインでもオフラインでも、そうでない個人をたくさん見かける。ネット上には「ワナビー」という俗語が飛び交っている。小説家になろう、声優になろう、起業家になろうetc……。気宇壮大といえば聞こえが良いが、とりわけワナビーと揶揄されるような人達の場合、実際にそれらになろうとトライアンドエラーを繰り返すでもなく、ただなんとなく「なりたい夢」を抱えたままふきだまっている……。
 
 オフラインでも、そういう「何者かにならなければならない」を抱え続ける人は多い。手堅いとされる職業――医師、銀行員、電力会社の社員――に就き、結婚し家庭を持っていてさえ、自分が何者なのか自問自答を繰り返す人達は案外いる。そうした人々の生きざまは、仕事や友人関係や結婚を経てさえ、アイデンティティ周辺問題が解決するとは限らず、問題が問題として残り得ることを教えてくれる。
 
 では、こうした人達は一体どうなれば「何者かになった」と実感するのか?
 
 今日、「何者かでなければならない」という時、そこには「人とは違った何者かでなければならない」という含意や「平凡であってはならない」という含意が含まれがちだ。少なくとも、ワナビーと呼ばれる人達や、いつまでも自分探しスピリットを弄んでいる人達に関しては、そのようにみえる。本来なら、医師や銀行員や電力会社社員といった職は、「何者かになった」と実感するには便利なアイコンになる。少なくとも部外者にはそうみえる可能性が高そうだ。しかし実際には、そうした“堅い”仕事に就き、家庭をもっていてさえ、自分探しが止まらない人がいる。
 
 アイデンティティがさほど問われなかった頃、平凡であることは罪ではなかった筈だ。生まれや身分を呪うことはあっただろうし、当時も上昇志向はあるていど存在していた。しかし、普通の農民であること、普通の職人であること、普通の武士であることが「何者にもなれない」苦悩の源になることは少なかった。むしろ「かたぎ」という言葉が指し示すような、肯定的ニュアンスさえあった筈。
 
 ところが今日では、普通の職業、普通の友人関係、普通の結婚では「何者にもなっていない」と自分自身を貶めるような事態が起こり得る。こちらでも触れたように、本当は、普通を幾つも掛け持ちした人生なんて案外普通ではない。けれども主観レベルの問題として、普通のサラリーマンをやって普通に友達づきあいをやって普通に結婚するだけでは「何者にもなってない」と体感されるケースが珍しくないのだ。
 
 いつの間にか、「かたぎ」に該当しても肯定的なニュアンスが体感されにくくなってしまった。
 
 過去の「あらかじめ何者なのかが決まっていた社会」と今日の「何者かにならなければならない社会」とが綺麗な対を為していないと私が感じるのは、このあたりのせいだ。個人と社会の自由度が高まった時、ごく単純にアイデンティティの問題が個人化したわけではなかった。いつの間にか、「何者かにならなければならない」というテーマには、欲望のインフレーション、際限のない上昇志向のようなものが忍び込んでいた。
 
 欲望のインフレーション、際限のない上昇志向にも良い部分はある。ワナビーはさておき、きりきり働く人はきりきり働くだろうし、伸びしろが大きくなる人も出てくるだろう。欲望のインフレーションは、資本主義ともいかにも相性がよさそうでもある*2
 
 それらを差し引いて考えても、あらかじめ何者かが決まっていた社会ならではの、運命的な葛藤や苦悩が少なくなったのはいいことには違いない。
 
 けれども、どれだけ良い職業に就いても隣の芝が青く見え、何歳になっても自分探しが止まりにくい社会ってのは、やっぱりどこかしんどい。「最近の若者は、小さな幸せを手にして満足している」という言説があり、実際、そのような若者もいる一方で、「何者かにならなければならない」問題は老若男女を問わず未だ現役で、インターネットの片隅には、ワナビー達のウットリ感がふきだまっている。
 
 さきに引用したエリクソンの言葉を信じるなら、これから先、日本社会の階級の再-制度化・構造化が進行してくれば、アイデンティティを巡る問題は希薄になりはじめ、「何者かになった」と実感するためのハードルは下がるかもしれない。しかし今はまだ「平凡ならざる何者かにならなければならない」的な思念がオンライン/オフラインのあちこちに幽霊のように出没していて、当事者達の主観的幸福度を低め安定にしてしまっている。
 
 

欲望のインフレーションとどう向き合うか

 
 アイデンティティの確立過程や「自分探し」は、主観的幸福度を低くするのとひきかえに切磋琢磨や努力を促してくれるから、必ずしも悪いとは限らない。むしろ、自分自身のことに夢中になれない思春期というのも、それはそれで深刻なわけで、自分自身に夢中になるべき時期に気宇壮大になるのは、そんなに悪いものじゃあない。
 
 けれども非凡な自分になりたい欲望を膨らませすぎた挙句、自意識の風呂敷を折りたためなくなってしまって、「何者かにならなければならない」テーマにいつまでも振り回され続けること・振り回され続けやすいことは、やはり不幸だと思う。いつまでも自分探しを続けるってのは、着陸したくても着陸できる空港が見つからなくて空中をウロウロしている飛行機みたいなもので、落ち着かないものだ。そんな主観的境地を生み出しやすい社会が持続する限り、しんどく、焦って、落ち着かない個人もまた大量生産され続けるに違いない。
 
 昔は良かった、とは私は言わない。けれどもこの方面に関する限り、今が良い、と言っていいのかは、わかりかねる。欲望がインフレーションし、「平凡ではない何者かでなければならない」という命題が蔓延する限り、いくら国民一人当たりのGDPが上がろうが、素晴らしいデジタルガジェットが普及しようが、やはり個人は苦悩し、渇き続けるだろうからだ。
 
 個人の自由と“「平凡なかたぎ」を肯定的に受け取るセンス”は共存可能だろうか?そういう個人が一定割合で存在する以上、不可能ではないのだろう。しかし、欲望のインフレーションを伴った自由人にとって、両者の共存はかなり難しそうだ。自分自身の「非凡」欲望に対して、適切な節制なり、現実的な展望なり、欲望のサイズにふさわしい具体的技能なりをもたない人間には、「きっと何者にもなれない時代の平凡」はいかにも受け取りにくそうだ。本当は、平凡-非凡、「かたぎ」-「やくざ」のどちらにも、幸福感を伴った生き筋があるはずなのに……。
 

*1:エヴァンズ『エリクソンとの対話』より。

*2:たとえ社会を構成する個人個人が不幸を感じていたとしても、皆が欲望に引きずり回され、その欲望を喚起するシステムに忠実でありさえすれば、資本主義社会は健全に機能するだろう。個々の人間の健全さがどうなるのかはさておき