シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

インターネットにはリラックスが欠乏している

 
 インターネットが普及し、色んなものに簡単にアクセスできるようになった。しかし、インターネットでは入手困難なものもある。その最たるものが、リラックスだと思う。
 
 そもそもインターネット云々以前の問題として、明滅するディスプレイを眺めなければならない。これが曲者だ。小さなスマホのディスプレイであれ、PC向けの大型ディスプレイであれ、この光り輝くインターフェースは、ただそれだけで人間の視神経を刺激し、人間の眼精疲労を生む。そういえば、テクノストレス症候群という言葉もあった。実際、ディスプレイを眺めるという行為は、ストレスだ。光学ディスプレイを使った営為そのものがリラックスというより疲労に近いことを、まず認めなければならない。
 
 そこをさっ引いたとしても、はたしてネットコミュニケーションに、リラックスは、ひいては“癒やし”はあるものか?
 
 ときに人は「笑顔を貰って元気が出た」とか「シンパシーで癒やされた」など表現する。けれども私は、それは間違っていると思う。
 
 笑顔を笑顔として感じるにしても、誰かからアテンションやシンパシーを感じるにしても、これらは全て、神経をつかう。笑顔はリラックスだという人がいるし、そのように体感されること自体は事実かもしれない。しかし、本当に神経を病んでみればわかるが、笑顔を受け取ることも、笑顔をつくることも、中枢神経系が織りなす動作のひとつであり、そのひとつひとつの所作は、案外、神経には負荷になる。例えばうつ病が重症化した人達にとっては、自分が笑うことも、笑顔を受け取ることも、もはや福音というよりも苦役に近い――彼らにとっては、静謐や沈黙のほうが、ずっと神経にやさしく、辛くない。ある程度元気になってきてはじめて、彼/彼女らは表情を取り戻し、笑顔の贈り物を受け取ることが可能になる。言い換えれば、自分の笑顔や他人の笑顔に、負担をいちいち体感しなくなる。
 
 それでもなお、「笑顔で癒やされる」という言説が出てくるのはなぜか。
 笑顔は神経を興奮させる以上に、疲れを忘れさせてくれるところがあるからだろう。
 
 「疲れをなくす」ではなく「疲れを忘れさせる」ところがポイントだ。笑顔やシンパシー、不特定多数からのアテンションといったコミュニケーションの成果は、私達の脳内を、アッパーな神経伝達物質で充満させる。ドーパミンとか、アドレナリンとか、βエンドルフィンとか、ああいう連中である。その、お祭り騒ぎな連中がドバドバ放出されると、私達は疲れを「忘れる」ことができる。脳内麻薬という言葉を発明した人はたいしたもので、実際、そういう時には、本当の本当に追い詰められているのでない限り、私達は「疲れを忘れた」と感じる。良い気分になる。だからこそ「お客さんの笑顔で疲れが吹き飛ぶ」などという恐ろしげな言説が一人歩きするのだろう。
 
 笑顔や感謝やシンパシーが自分の手許に集まってくれば、その瞬間に疲れを忘却できるぐらいには脳汁が垂れるだろう。けれども、それは中枢神経系に安息を与えたわけではない。それらしい神経伝達物質を大量放出し、その場をハイテンションに凌いでいるに過ぎない。よほど親しい人による笑顔やシンパシーとなれば、また話は変わってくるかもしれないが、ネットのように不特定多数を相手取りがちな場面や、それほど親しいわけでもない緊張を含んだ場面のコミュニケーションには、リラックスという言葉は似合わない。どれだけ褒められようが、どれだけハイテンションになろうが、それはストレスである。疲弊のもとである。
 
 

ただでさえストレスフルな現代人が、SNSでますますストレスに身を曝している

 
 にも関わらず、今日のネットコミュニケーションにおいて、こうしたストレス蓄積への警戒感は乏しい。本当は中枢神経系を使い込んでいるのに、「いいね!」だの「リツイート」だのアクセスカウンタだのに釣られてハイテンションになって、すっかりご機嫌になっている。ただでさえストレスフルな現代人が、笑顔とドーパミンに欺され、ますます中枢神経系をこき使っているのだ。
 
 自己愛や承認欲求といった、心理的なディメンジョンで見るなら、そうしたリアクションやアテンションの濁流は心地良いと感じられるに違いないし、それらに飢えている人にとっては死活問題かもしれない。だが、そういったリアクションやアテンションの濁流は、心理的には栄養価に富んでいても、身体的な次元では消耗をもたらし得る。現に、自己愛や承認欲求をネットで充たそうと頑張っている人が、実は心療内科に通っている……なんて話はあちこちで耳にする。
 
 ところが、みんなこころの栄養に飢えているのか、そういった身体的なストレスや疲弊はあまり顧みられることがない。ネットユース、ネットコミュニケーションがあまりにも当たり前になって、あまりにも「疲れを忘れさせてくれる」から、つい、いつまでもSNSを、インターネットをやってしまうのだろう。やるなとは言わない。しかし、ネットライフにリラックスという言葉があまり存在しないという事実、本当にリラックスしたい時は「回線切って寝る」こそがベストである事実は、折に触れて振り返ってもらいたい。インターネットなんて四六時中やっていたら、そりゃメンタルヘルスを損ねやすくなるだろう。ネット時代の人間には、もっとリラックスしたオフラインの時間が必要だ。
 

「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?― エレファントブックス新書

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 以前私は、電子書籍のなかで「人間の進化がネットの進化についていっていない」と書いた。それは情報の取捨選択や炎上対策という意味だけではない。こうした「ストレス」や「中枢神経系の疲弊」という意味でも、ホモ・サピエンスの理想とネットライフの現実はひどく乖離していると思う――考えてみて欲しい、SNSへのリアクションや電子メールの着信を四六時中気にするようなネットライフのどこが、ストレスの少ない、理想的な生活と言えるのか?どれだけ褒められようが、どれだけ注目されようが、そんなものは、針のむしろに等しいのではないか?