シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

キラキラしてなくても、いいじゃないか。

 
  

 
 老舗ニュースサイト『かとゆー家断絶』のかとゆーさんのtwitter上の発言。この発言を観た瞬間、まず私は「これはひどい釣りだ!」と思った。かとゆーさんといえば、「どこからどうやってこの記事を拾い上げて来るのか」と首をかしげたくなるような、面白いもの探しの達人だ。google検索にありきたりの単語を入力し、まとめサイトとwikipediaだけ眺めて「俺は情報強者だ」などとうそぶく連中の正反対に位置するネットユーザーが、こうであるわけがない。
 
 釣りではなく、かとゆーさんは「あまり人に知られていない面白いウェブサイトや記事を発掘する難しさ」を表明したかったのかもしれない。ニュースサイトを運営なさっていた時、毎日毎日、ネットの片隅から活きの良いネタを拾い上げてくるのは大変だったに違いなく、おいそれと真似できないからこそ、かとゆー家断絶はかとゆー家断絶だった。現在も更新を続けている各ニュースサイトにしてもそうだろう。ネットの深海の底からも美しい貝殻やグロテスクな軟体動物を掬い上げて来るノウハウと労力は、ほとんどのネットユーザーには手が届かないものだ。
 
かとゆーさんは、

いつもの暮らしから抜けだして地方とか海外行ってみたのに町並みにマクドとかユニクロとか溶け込んでてあれ結局いつもと同じじゃねみたいな。

https://twitter.com/katoyuu/status/360742544440696832

 と書いている。
 
 確かに、まとめ系サイトやWikipediaといった“情報の都大路”に留まり、グーグルを一単語検索して上位5つぐらいまでしか眺めないネットユーザーにとって、ネットの観測範囲とは、“メジャーどころ”ばかりかもしれない。検索ワードを少々変えたところで、出くわすプラットフォームはいつもの面々――wikipedia、各種まとめwiki、yahoo知恵袋、2ch系まとめサイト、ニコニコ大百科、等々――なんて事は実際にあり得ることだ。それらに飽きてないうちは、十分に面白いだろう。けれども2年もすれば新鮮味はなくなってくるし、4年もすれば飽きてくる――そうやって“情報の都大路”に飽きてしまった後、相当な労力や知恵をかけなければ目新しいものにアクセスできなくなっていて、それこそネットオタクでもない限り同じところをグルグルさせられるんじゃないか、という問題提起には真実味があると思う。
 
 

思いは醒めるし、年は取る

 
 ネットはオタクの遊び場で終わってしまうのか?|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
 
 で、上記リンク先である。「インターネットって、ネットオタクにならない限り、飽きちゃうんじゃないの?」「自分で面白いものを探せってだけじゃマッチョだよ」的な趣旨と解釈した。この文章を読んだ瞬間、私は
 
 「なんという怠惰!なんという受動性っ!!!あなたにだって、インターネットを一生懸命にやっていた時期はあるでしょうに、15年前は、悪戦苦闘しながらネットサーフィンして、ブラクラ踏んで憤慨したり、ときに肝を冷やしたり、そういう手間暇を惜しまないネット航海者だった筈だ、そのあなたが、陸に上がった船乗りみたいな事を書いてしまえるのか?!」
 
 と、ひとしきりディスプレイの前で憤慨したが、冷静になってみれば、要は私がネットオタクだという事に気がついた。そして、私がそうやってネットオタクをやっていられる時間はもうそんなに長くない――自分の観たくない未来をリンク先の文章に投影し、私は憤慨していたのかもしれない。
 
 リンク先のlylycoさんとて全く受動的なネットユーザーになったわけではなく、“情報の都大路”の一歩外、二歩外へのアクセシビリティの低下を嘆いているのであって、口を開けて待っていれば勝手に面白コンテンツが流れて来るようにしろと書いているわけではない。そして“情報の都大路”以外へのアクセシビリティの低さは、パーソナライゼーションとか、そっち方面の問題も絡んでいるだろうし、ある面では、スタンドアロンにネットを使う個々人のメンタリティの問題でもある。「面白いものが見当たらない」と嘆くうちは多分マシなほうで、拙著(「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?― エレファントブックス新書)でも書いたように、観たいものの外側・予定調和の外側に出られなくなってしまう人だっているだろう。
 
 まあでも、私は“不満足なソクラテスよりは満足な萌え豚のほうがいい”と思う性質なので、それもいいんじゃないの、と思う部分もある。世の中には、水戸黄門の再放送さえあればいい人、民放の長寿番組を楽しみにしている人、萌えアニメのお色気シーンを就寝前の楽しみにしている人だっているのだから、マンネリインターネットをそう悪く言うものでもないと思う。むしろ、手許にあるもの、アクセスしやすいもので満足できる性分は、この、虚飾に満ち、かわりばえのしない国道沿いの日常生活には必要な素養ですらある。
 
 リンク先には、大衆がイノベーションに触れる瞬間、うんぬんと書いているけれども、もし大衆として生きるとしたら、イノベーションに触れる瞬間を欲しすぎてはいけないと思う。そんなにイノベーションが欲しいなら、自分の力で手に入れるべきなのだ、もう一度インターネットの航海者になれ!――でも、そんなエネルギーは年を取ってくると衰えてくるから、イノベーションにアクセスしやすくなーれ、などとお祈りしたくなるのはわかる。
 
 けれども、実際にはそんな事はあり得ないというか、キラキラした情報、人気の無い夏場のプール、みたいなものはたちまち観光客の手垢にまみれてしまうわけで、ネットであれリアルであれ、イノベーションに触れる瞬間に依存した「面白さ」をありがたがり、頼りすぎると、幸せにはなれないんじゃないのかな、とも思う。実際、五十代、六十代の人達のうち、イノベーションを追いかけ続けている人なんてほとんどいないし、そういう熱気が醒めた状態でも、彼ら彼女らはうまくやっている。もちろん、佐々木俊尚さんのような、イノベーションが服を着て歩いているような年長者だっていないこともない。けれども、ああいうのはよほど適性がなければ真似できないし、そもそも真似しようと思うこと自体によって劣化コピー以下の何かになってしまうから、やめといたほうがいいと思う。佐々木俊尚さんにはなれない私達、「俺が、俺達がイノベーションだ!」と叫べない私達は、凡人道の知恵として、「面白さ」に占めるイノベーションなものの割合、キラキラしたものに依存する度合いを加齢の度合いに沿って下げていかなければならないのだろう、と思う。
 
 だって、どんなに面白いものでも、イノベーションに頼っている部分の大きいものって、醒めるじゃないですか。音楽だって、ゲームだって、インターネットだって、凝り性というか、細かく観察し新発見を腑分けしていくなら話は別だけど、その腑分けするエネルギーがめんどくさいなら、醒めてくるのは避けられない。メイド属性はどうなった?ツンデレ属性はどうなった?アーリーアダプターの間で持て囃されていた時期は、そりゃピカピカしてたかもしれないけれども。だけど手垢がつき普及し尽くした後にはどうなったか?大衆文化に溶けていったのは良かったのかもしれないが、とにかく新鮮な面白さは剥がれ落ちてしまった。それが運命ってやつだから、イノベーションや差異化を面白い必要条件とする人は、前を向いて、全速力で、マッチョに、走り続けるしかあるまい?
 
 そんな事の無理?
 そう、無理だ。
 だから個人のなかで「面白さ」の質を変えなければならない。
 
 老後の楽しみの全部とは言わないにしても一部は、そういうイノベーティブではない、陳腐化、マンネリ化しても面白く感じられるものを面白がって生きていくことだと私は思う。手垢にまみれても面白いもの、自分の手許に既にあるものを愛し続けていくこと。そうやって愛し続けるうちに、そのジャンルのオタクとなるならそれで良し。ミーハーなファンであり続けても、それも良し。キラキラしてなくても、いいじゃないか。
 
 私も、つい、シーンの最前線とかイノベーションとかに面白さを依存したくなって、新しい出会い、新しいアーティクルを求めたくなるので、手許にある大切なもの、飽きても面白いものに頼っていく感覚は、まだ足りない。そのあたり、いい意味で陳腐になっていきたいな、と思う。年を取った頃、「『やまもといちろうブログ』のおじいちゃん、またmixiの話を壊れたテープレコーダーみたいに繰り返してるよ」とはてな村の面々とコメントを交わす未来には、イノベーションの欠片も無いが、それはそれでちょっと憧れる。ロスジェネ世代だって、もうおじさんおばさんだ。最新鋭とかそういうのは若い人に任せたって別にいいじゃないか。
 
 [関連]:グローバル化された世界での観測範囲の変え方 - 狐の王国
 [関連]:「最近のネットはつまらなくなった」関連の話 | @raf00
 
 …最初は【情報を追うならもっと深く・そして情報より人間を追いかけたほうが面白い】って方法論をまとめるつもりだったけれど、いつの間にか「面白さと加齢」の話に化けていた。まあいいや、そういう気分なんだろう。
 飽きてきたので、このへんで。