シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ああもう、イライラするな、どうして国道沿いは2000年で時が止まったような書き方するんだ

 
 地方論の反応に対する反応みたいなもの - ボンダイ
 
 わかってないな、というかこちらの書き方が悪いのかもしれないので補足する。
 
 どうして国道文化愛好家にして田舎者の俺がイライラしているかっていったら、あなたの記事が国道沿いを「ゼロ年代、それもだいたい前半ぐらいの時間のスナップショットで止まっている」って書くからですよ。地方は東京にいつも遅れている、それは事実。けれども地方文化がガラケー時代で時を止めている主旨にはどうにも納得できないし、風景の変化や、(私が接している)それほどインターネットに深くのめり込んでいるわけでもない地方ネットユーザー達の動向変化とも合致していないと感じる。
 
 地方は地方で時計の針は動いていて、タイムラグは東京に比べておおむね2〜3年程度のものだ。その2〜3年を大きいとみるか、小さいとみるかはお任せする。しかしとにかくも地方の時計の歩みが2000年で止まっているという主旨には納得できない。
 
 そして地方と都会の文化が別れているというくだりも、これも実際には、地方において情報ディバイドの遅れている人達と進んでいる人達の乖離が進んでいる、という表現のほうが似合う。繰り返すが、地方でもインターネットを根性入れてやっている人や、ネットにヘロヘロに依存している人はいる。相当手広く、上手くやっている人もいる。その一方で、若い人のなかにもレイトマジョリティという表現のよく似合うガラケー使いはまだ残存している。そのあたりは今、地方のほうが首都圏よりもディバイドが可視化されやすくもなっているだろう。首都圏には遅れている人が相対的に少ないので。だけど、地方でネットを使いこなす若い人の割合は着実に増えていて、ガラケー的ユースで止まっているなんて主張をさも地方の実情のように書かれることには、私は異を唱えておきたい。
 
 予防線的に書いておくと、もし、氏のおっしゃる地方の停滞ってやつが、「東京の劣化コピー」で「ロードサイドのいつもの面々が提供するコンテンツやファッションが数年遅れである傾向」そのものを指しているとしたら、それはイオンやしまむらやマクドナルドに端を発するというより、地方(の、特に若い衆)が東京のほうを拝み始め、東京発信の雑誌をありがたがって読むようになった頃に端を発する問題だと思う。もちろんとどめを刺したのはファスト風土の勃興であり、イオンであり、ポエミーなラーメン屋ではあるだろう……けれども地方都市在住の若者が地元独自のカルチャーを志向せず、東京の断片やお古をありがたるようになった頃から、地方は地元独自の文化を維持しづらくなり、東京の劣化コピー的な何かに変質していくよう運命づけられていたんだろうと思う。ロードサイド店舗群が地方文化を一掃する予備段階として、まず地方の若者が「おらこんな村いやだ」的に中央の文化を求め始め、地元独自のカルチャーを志向するよりは東京の劣化コピーをありがたがった時点で、茨城なら茨城の、山梨なら山梨の……といった文化が、東京の劣化コピー、キッチュで埋め尽くされていくのは必定だった。
 
 ここからは個人的に旅した印象上の話だけど、相対的に東京から遠い西日本には、まだ地方独自のカルチャーの残滓が残っていると思う。しかし東京近郊はだめだ。山梨、長野、茨城、千葉。このへんは文化的に速やかに東京の植民地となった。ファスト風土の風景は全国共通でも、近畿以西と東京の半径400km圏内では、微妙に違うのではないか、とは思う。このあたりは、全国の国道沿いを渡り歩いている人に印象を訊いてみたいところだ。
 
 格差がどーたらこーたら以前に、私は、国道沿いの時間停止を言われるのは、非常にしゃくに障る。こんな虚構にみちた街でも、この街は生きていて、記号は移ろい、人も移ろっていく。末端から腐り始めているのは、まあ仕方ない、過疎だから運命だ。それでも、生き残っている領域では生き残りを賭けた内部運動が起こっているし、国道沿いで生きている人間も、大半の人が前を向いて生きている。私はそこのところを汲み取って欲しいと思うし、人間が暮らしている場所のダイナミズムみたいなものを、面白みの欠けているようにみえるロードサイドの町並みにも感じ取って欲しいな、と思うのです。
 
 そりゃ都会のほうばかり向いている人からみれば、いつ眺めても「地方は遅れている」「地方は遅れている」「地方は遅れている」一辺倒にみえるかもしれないけれど、あんな街でも、生きているんですよ。生きているから、変わっていくんです。私は国道沿いに愛憎いっぱいコンプレックスいっぱいな人間だけど、それでも、ここが人の暮らす場で、時計の針が絶えず動いているからこそ、たぶん嫌いになれずに拘れるんだろうと思うんです。もし、国道沿いの時計の針が止まっていたら、私はきっと国道沿いをこんなにも愛せない。そこのところをわかってやってください。腐海のほとりにも……じゃなくて国道沿いにも人が生きていて、前を向いて暮らしているんです。
 
 
 追伸:今回のやりとりで一番の収穫だったのは、私がこの交換可能な記号空間を予想以上に愛している、と気づいたことでした。軽侮や諦念、それでもロードサイドを嫌いになれきれない、そこに暮らす人間を嫌いになれきれない自分自身を見いだせたのは良かったです。私も、東京のほうばかり向いている向日葵みたいなネットユーザーの一人なんだと思うけれども、それでも国道沿いから離れて生きられなさそうです。なんとなく、私のなかでは整理というか得心がいきました。