シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「どうして知らない女の人と、寝なければならないのでしょうか」

 

マージナル・ソルジャー

マージナル・ソルジャー

 
 インターネットで轡を並べて文字を書いていた人が、書籍を出版するのも、今ではそれほど珍しいと感じなくなった。それでも、自分がむさぼるように読んだブロガーの文章をタブレット越しに読み返すと、自分がまだ思春期だった頃を思い出して、胸がいっぱいになる。
 
 ブログ『セックスなんてくそくらえ』のid:noon75さんこと、根本正午さんの文章を久しぶりにまとめて読み、以下のようなお手紙を頂いたので、それにかこつけて、自分が書きたいことを以下にだらだら書く。
 
Marginal Soldier: K氏への手紙
 
 
・根本さん、『Marginal Soldier』献本ありがとうございました。久しぶりにセックスについて考えました。「あんたはセックスについて考えてなかったのか?」と仰るかもしれませんが、事実、私はセックスなるものを長らく忘れていました。


 性。性が一人歩きして構わないのは、動物だけです。動物は性行動が遺伝的にかなりのところまでfixされていますから、性はさほど大きく逸脱しません。満月の夜に産卵する珊瑚、繁殖期に唸り声をあげる猫、それらの性は、単純です。また動物に倫理はありません。あるのは「繁殖か、淘汰か!」ただそれだけです。しかし人間は違っていて、性は、柔軟といえば聞こえはいいけれども動揺しやすく、文化、個人の適応形式、そのほかの心理学的欲求とも密接に関わっています。そして「繁殖か、淘汰か!」は二義的な問題と一般的にはみなされています*1
 
 2013年の私が「Marginal Soldier」で描かれている男女の性を眺めると、そうした性の一人歩きに戦慄します。ただし戦慄するのは男の側で、正午さんの描く女性がどこまで性を一人歩きさせているかはよくわかりません。男性は概念や文章で自分を騙そうとする生き物ですが、女性は情緒や気分で自分を騙すことに長けた生き物だと私は思っているので、そのあたりの詮索を男坂の側から女坂を覗いて推測するのは難しいと思っています*2。だから作中の女性を、よくわかんないなぁと思いながら眺めていました。
 
 しかし少なくとも登場男性の性が一人歩きしているようにはみえます。契約社会のなかで、わけもわからないまま勃起し、わけもわからないまま異性を求める男達。あるいは、性が、ただそれだけで幸せを与えてくれるかのように幻想する男達。私もそうでした。
 
 性は、人と人との繋がりや、幸せな時間を与えてはくれません。受精はするかもしれない。瞬間的に快楽は得られるかもしれない。でも、セックスは幸せを与えてはくれない。もし、幸せなセックスなるものがあるとしたら、それはセックスが幸せなのではなく、幸せを構成する他の要素群がじゅうぶん幸せだから、そのセックスが幸せに感じられるのでしょう。幸福を性に期待してはいけない。男と女の繋がりを幸福なものにしようと思ったら、身体的な交わりだけでどうにかなるだろうなどと高をくくってはいけない。そう思います。 
 
 性は快楽を司るとともに、子孫繁栄をも司るものです。前者と、前者の不随物――それは虚栄心の充当だったり、アイデンティティの1ピースだったり、まあとにかく、個人の欲望の域を出ない何かです――だけを追いかける時、その性は歪になるのだろうと当て推量で思い込んでいました。最近は思い込むのではなく、そう確信してしまっています。私は性の手綱を、ある程度までですが、世界宗教の説く規範意識に委ねることにしました。私のような凡俗がフリーハンドに性を取り扱っても、うまくいくとは思えませんから。怠惰ではあっても、道を誤らず、家族になるべくマシな思いをしてもらおうと思ったら、性を一人歩きさせるべきではないと思っています。性は危険です。
 
 尤も、宗教規範でガチガチに性を規範で縛るのもろくなもんじゃない、とは断っておきます。以前、とある仏教書のなかで、エクリチュールとしては禁欲的なことが書いてあるのに、筆致が淫靡というか、行間からグロテスクなものが滲み出てくるような文章に遭遇したことがありました。こいつ、性欲を檻にぶち込んで怪物に育て上げているか、実際に超ナマグサなのか、なんにしても、スケベなやつが書いているぞ、と。“臭いものに蓋”式の性的禁欲なんて、ろくなもんじゃないんでしょうね。
 
 それでも性は管理されるべきです。もちろん、国家が管理すべきとか、そういう事を言いたいわけではありません。近代的自我を信じる良識的なキリスト教徒のように、私は、性は個人の理性と良心によって手綱を握られるべきだと主張してみます。キーボードで打ってみると自嘲の念がこみあげてきて、笑い転げそうになりましたが、それが私のファイナルアンサーです。もちろん、正午さんが残虐にも描写したとおり、個人の理性と良心は性衝動の前に消し飛ぶ脆いものなのですが。それでもです。
 
 
 ・幸い私は、エロ画像漁りをしたいとか考える余裕の無さ、忙しさに恵まれています。よその奥さんのエロとか、チラ見している暇が私にはありません。ありがたいことです。確かにエロはいい。けれどもエロよりもっと大切なもの、自分の長期幸福戦略に寄与しそうな社会関数はたくさんあります。そちらを上手く回しておいたほうが、実はエロをより精錬純化できるんじゃないか――そうした精錬純化を経ないエロをどんなにあがき求めても、一人でやろうが、二人でやろうが、三人以上でやろうが、本質的にマスターベーションと大同小異だとしたら、個人生活にとって、幾ばくかのお気に入りのエロコンテンツととらのあなWebSiteがあればそれで十分ではないでしょうか?性の冒険家の人達には、険しい山に登って、恥丘の恐ろしさ・険しさについてルポして頂きたい。でも、恥丘の平野部に暮らす凡夫の処世術としては、性の冒険なんて費用対効果にあわないなにかです。
 
 性の記号化。私は、生身の性を面倒臭いと感じるようになりました。そもそも、どうして知らない女の人と、寝なければならないのでしょうか?確かにそこに、快楽が転がっている。けれども、そんな凍てつくコンテキストのなかでわざわざ快楽を拾い上げるのは、とんでもない苦行です。無神経であるか、よほど娑婆と向き合う神経の強さがなければおかしくなっちゃいそうです。私には嫁さんがいて、友達がいて、インターネットがある。とらのあなWebsiteまである。だから私は性の拾い食いなんてしたくありません。
 
 ここまで自分で書いてみて驚きました。私はこんなに性を面倒くさがるようになっていたのですね。この、性を面倒くさいと思う現在の心境もまた、裏側から眺めれば、臆病な私が性を無害化・腑抜け化させておくための一方便なのかもしれません。2ちゃんねる風に書くなら「賢く過たず生きよう(キリッ)……だっておwwwww」的な、笑いがこみ上げてきます。
 
 でも、私は全方位にビリビリしながら生きていくための活気と思春期心性を失って久しいので、これからは、凡人道を追求していく一環として、「白井黒子×御坂美琴」「鹿目まどか×暁美ほむら」的な、記号化された性だけを外部から取り込んでいきたいと思います。正午さん、正午さんは、性にセンシティブでいてください。私はもうだめです。でも、そうやって自分を不安定化させる性を鈍磨させたうえで、十数年かけて達成しなければならない中〜長期適応戦略に取り組んでいく所存です。
 
 
・インターネットに文字を書き続けているうちに、私も随分不自由になりました。お陰様でこのブログも息が長くなり、アルファブロガーにはならなくとも少なからぬ常連さんにご愛顧頂けるようになりました。のみならず、書籍のような形で、自分が娑婆について考えていることを外部デリバリーするチャンスすら頂きました。一匹のブロガーとして、こういうかたちも光栄だと思っています。
 
 その反面、私は6年前よりも多くの制約のなかでブログやSNSをやるようになってしまいました。“はてな村のシロクマ”であると同時に“熊代亨”にもなってしまった私は、昔に比べて言葉を選んでいるような気がします。ドカンとした事が言えなくなりました。それは私個人の問題であると同時に、インターネットが日向化したからでもあるのでしょう。なんにせよ、ここは娑婆の一部です。
 

残されたのは不自由な場ばかりですが、その中で、あるいはその外で、あるいはそのどちらでもないマージナルな周辺で、書いたり考えたりする契機は残されていると思います。

http://marginalsoldier.blogspot.jp/2013/06/k.html

 でも、仰る通りですね。言いたいことは言いにくくなってしまったかもしれないし、奇声をあげれば炎上するかもしれない。それでも、モノを書いてやれること、やれる可能性のようなものは、まだ残っていると私は信じていますし、そうでなければネットに文章を書くことも、本をつくろうとも思いません。私は、プロブロガーではないので、“印税生活”や“講演会”には魅力は感じませんが、誰かに何かを伝えるためのボトルメールはまき散らし続けたいし、まき散らし続けざるを得ません。私は【現在】に関しては剣はペンより強いと信じていますが、【過去】と【未来】に関してはペンは剣より強いと信じています。だから過去を振り返りながら未来に臨む人間の一人として、書き続けることに拘っていきたいと思います。
 
 馬鹿みたいですが、私には、文字を書くこと・声をあげることで達成したい野心があるんですよ。もちろん、その野心は私一人では達成できないものですし、私の思い通りのかたちで達成されるものでもないし、仮に野心が達成されたからといって、私が億万長者になれるような類でもありません。けれども『ロスジェネ心理学』の出版のお誘いを頂いた時、それが奇跡のようなタイミングだったので、私は自分が娑婆の大海に一滴のオピニオンを垂らす可能性を少しだけ信じてみることにしました。もし天命がそのように命じ、私をドラフトされるというのなら、私はその天命を(謹んで)引き受けなければなりません。素人ブロガーはカネに頭を垂れなくても構わず、天命に頭を垂れても構わないのですから、尚更です。
 
 以前、ある人に「シロクマさんは、損をしている。精神科医という職業をバラしたのも上手くなかった。もし、本当に自由なインターネットをやりたいなら、やってはいけないことをやっている」と指摘されたことがあります。そのとおりだと思いました。特にこの一年間は、ただでさえ不自由なインターネットを、一層不自由にするために全力投球してきたようなものです。お陰様でというか、私はふてくされたくなるほど不自由になりました。シロクマの蝋人形みたいですよ。
 
 しかし、そうしなければ表現できないこと、不自由を忍び、蝋人形にならなければ放てない矢というものもあると私は信じているから、この愚行かもしれないトライアルに挑戦します。自由なインターネットでなければできないこともある。けれども不自由なインターネットでなければできないこともある。私は後者を選んだ(または、迂闊にも選んでしまった)ので、後者として最善を尽くすのみです。
 
 
・私は凡人のなかの凡人を究めたいとかねがね思っていたので、こうした「蝋人形にならなければ放てない矢」なるものにエネルギーを使うのは大いなる自己矛盾だとは思っています。そんな事より、凡人道を究めるための兵法書、エビデンスにとらわれず、自分にそっくりの人間だけが使いこなせるような魔術書を完成させたいのでした。そしてKindleストアに一冊5万円で陳列して「これは選ばれし者だけが使いこなせる邪書である」と大人中二病ごっこをやりたいものです。
 
 けれども今はその時ではないらしいので、私は私の道を小走りしてみようと思います。正午さんもまた、そのようであろうと推察します。何のために書くのか、私も所期の目標こそ忘れてしまいましたが、未来を変えうるのは剣の力以上にペンの力だということは、一度も忘れたことはありません。お互い、できること、やるべきことをやっていきましょう。
 
 
 【追記】
 6年前に正午さんに書いた文章を思い出して読み返しました。↓
 
 これから式場の下見に行ってきますが - シロクマの屑籠
 
 私、6年前とほとんど同じことを書いていますね。想像力のやすりがけ。しかしその甲斐あってか、今のところ、私は幸福という虚構をdreams come true しているようです。幻であれ、現実であれ、幸福とは、それを維持する当事者の努力なしには霧消してしまう【現象】だと思うので、その現象を維持するためにこれからも私はあがき続けるのでしょう。「不満足なソクラテスであるより満足な萌え豚でありたい。」という私の適応ドクトリンそれ自体は、これからも貫いていきたいと思います。
 
 平成25年6月20日 p_shirokuma(熊代 亨) 拝
 

*1:少なくともみなされていなければならないらしいので、ここでは私は秩序に従います

*2:私が女性の心理的問題にあまりアプローチしたがらないのは、考えても精度が出ないと思っているからです。私が推測したってわかるわけないじゃないですか。その意味において、とにかく女性の身振りを精緻に描き、男と女の「出来事」を精緻に描く、そういう正午さんの手法がここでは羨ましいと感じます