シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

Googleが精神疾患を診断・治療する未来

 
 http://www.eng.fau.edu/news_twitterresearch
 
 インターネット上の書き込みから精神疾患を診断する――荒唐無稽のように見えて、そろそろ現実味を帯びてきたかな、と思った。リンク先(英語)はtwitterの発言から人格傾向を抽出する試みだが、この延長線上として、オンラインで精神疾患を診断する技術が生まれてきても不思議ではない。カネをかけて本気でやれば、現行技術でもスクリーニングぐらいはできるだろう。
 
 というのも、「オンライン上に記録された言動を観測し、それを根拠に診断する」という発想が、現代精神医学の診断体系と相性が良さそうに見えるからだ。
 
 現代の精神医学は、診断と治療に際して「無意識」「内面」といった、第三者には観測できない、いわゆる“こころ”を忖度する必要があまり無い。
 
 一昔前の精神医学、とりわけ精神分析的なアプローチでは、「無意識」「内面」といった、第三者が直接観測できない・その人の頭のなかで起こっているであろう要素がそれなり重視され、その直接観測できない“こころ”の傾向を類推するためのモデルづくり&運用が重視されていた*1。しかし、こうした精神分析的な手法は、精神科医自身やカウンセラー自身の素養・コンディションによって大きく左右されるもので、誰でも・確実に使いこなせるようなものではなかった。
 
 その反省もあって、現代の精神医学は、たいしてトレーニングを積んでいない精神科医やコンプレックスまみれの精神科医でも適切な診断と治療が可能な方向へと進化してきた(参照→:ガンダムよりジムを選んだ精神医学)。必然的に、「無意識」「内面」などという、診断する側自身のメンタルやセンスに左右されやすい概念は極力除外し、第三者に観測可能な行動や発言だけを積み上げて診断を行う方向で進化してきたのが現代の精神医学*2ということになる。技術として、適切な進化の方向性だったに違いない。
 
 しかし極論を言えば、精巧に作られた観測装置さえあれば、人間の精神科医がクライアントと“こころ”を通わせる必要はもはや無くなった、とも言える。世間の人は今でも、精神科は“こころ”に最も近い領域だと思っているかもしれないが、現代の精神科診断学において、その“こころ”なるものが重要視されているとは、あまり思えない。エビデンスに基づいた診断・治療・助言を行うにあたって必要とされるのは、患者さんの“なかのひと”について詳しく知ることでも“こころを通わせる”ことでもなく、第三者なら誰でも観測できる発言や行動を積み上げて、そこから診断根拠をきちんと拾い上げることである。そして、患者さんの“こころ”がどうであるかはさておき、第三者に観測できる言動や振る舞いの改善を目指すことである。
 
 そのような診断と治療の状況下で、“こころ”と“こころ”を通わせるなどという、測定不能で予測不能なブラックボックスを意識するのは、かなり勇気の要ることなのだけど、一般向けには、いまだ精神科医達は“自分達はこころを診ている”というような表現を用いている。実際には、“こころ”なるブラックボックスをいよいよ排除しつつあるにも関わらず、である*3
 
 

ネットを介して精神疾患を見つける上での「現在の」問題点

 
 ネットを介して精神疾患を診断する話を戻そう。
 
 精神科の診断技法をそのままインターネット上で行うには、現時点では問題点が幾つか残っている。
 
 第一のネックは、現在の診断基準は、精神医療の専門家が観察することを前提につくられており、それなり妥当性の担保された診療面接を必要としている、という点だ。アメリカ精神医学会の診断基準・DSMは素人にも簡単に暗記できるが、だからといって素人が使うと、「あの病気にも該当、この病気にも該当」となってしまうのがオチである。実際、インターネットを眺めていると、そういう“素人診断ごっこ”に夢中になって、ある時はうつ病を自称し、またある時はAD/HDや自己愛パーソナリティ障害を自称するような、混乱した人の姿を見かけることがある。コンピュータに自動診断をさせても、たぶん似たようなことになるだろう。
 
 第二に、現時点では、精神疾患に罹患する人のうち、SNSのようなリアルタイムの書き込みを大量に残すようなインターネットの使い方をしている人が、まだ少数派でしかない、ということがある。ふだんインターネットを使っていない人の診断には、やはりface to face な診察が必須だ。あるいはネットユーザーにしたところで、SNSに頻繁に書き込みをしているような人は、まだ社会の多数派を占めるには至っていない。だから現時点では、リファレンスするに値するほどネット上に言動のアーカイブを残している人はそれほど多くは無い筈だし、そうである限りは、この分野の研究はさほど本格化しないだろう。
 
 第三に、責任や個人情報の問題がある。既にFacebook、Google、twitterなどは個人の言動や検索情報などに関する莫大なアーカイブを保有しているが、まさか勝手に“疾患診断ツール”をでっちあげて、勝手に動かし始めるなんてことは出来まい。そういう事は、仮に技術的には可能でも、色んな方面ときちんとお話をつけてからでなければ、実現という方向にはいかない。
 
 

社会生活に占めるネットの割合が高まれば、ネット上での言動の観測価値も高くなる

 
 しかしこうした問題も、社会生活に占めるインターネットとSNSの割合が大きくなれば、話は変わってくるのではないか
 
 現時点では、twitterやFacebookが社会生活や人間関係の過半を占めているような人はきわめて少数かもしれないが、こうしたツールが普及し尽くした二十年後〜三十年後には、そうでもあるまい。今、SNSに親しんでいる若者達も、三十年後の2042年にはいい歳になっているのだ。
 
 三十年後も、インターネットが仕事や人間関係の過半を占めているような人は、さすがに少なめかもしれない。しかし社会全体の平均としては、社会生活や人間関係に占めるネットの割合は確実に大きくなっているだろうし、人間が表出する言動に占めるオンラインの割合も高くなっているだろう。そして、個々人の言動の履歴がアーカイブとなってインターネット上にたっぷり蓄積されているに違いない――現在とは比較にならないほどのレベルで。
 
 そういう未来になれば、俄然、インターネット上に蓄積した個人の言動を精神疾患の診断材料として活用しようという機運も高まってくるに違いない。
 
 なにせ、インターネットには言動が蓄積するのである。何年も前の言動をリファレンス可能だし、夜中に投稿しているのか否かや攻撃的・衝動的な書き込みを繰り返している人なのか否かなども読み取ることができる。例えば双極性障害と診断するか否かを判断するにあたって、それらは有益な情報源となるだろう。現在の精神科の診療システムでは、実際は一晩じゅうハイテンションなネットライフに興じているような人でも精神科医に嘘をついて隠すことは不可能ではない*4。しかし、FacebookやGoogle+の履歴で嘘をつこうと思ったら、実際に夜中の書き込みを慎んだり、パーティー会場の写真投稿を控えたりしなければならないのだ!そういった繕いは、(例えば)躁状態や軽躁状態の人や、衝動コントロールに問題のある人には難しいに違いない。その人の社会生活や精神生活にSNSが密着すればするほど、あるレベルの確証度でSNSはその人の社会生活や精神生活の実相を反映する筈であり、それは誤魔化しにくい履歴としてリファレンスされるだろう。
 
 もちろん、こうした諸々を「ネット上での社会的な取り繕いに過ぎない」と反論する人もいるだろう。しかし考えてみて欲しい。ネットもまた社会の一部であるなら、そうした取り繕いや体裁を守れることこそが精神機能であり、社会機能ではないだろうか。SNSとはSocial Networking Serviceの略称なのだから、そこで繰り広げられる言動もまた、社会的なものと呼んで差し支えあるまいし、SNSもまた社会空間である。
 
 さきに述べたように、現代精神医学の診断体系においては、第三者に観測可能な言動こそが何より重要である。ならばネットユーザー個々人の“本心”などどうでもいいことで、誰にでも観測可能なかたちで表出された言動のアーカイブを辿りさえすれば、十分参考になるだろう。その際には、アーカイブが残るというインターネットの性質は、猛威を振るうに違いない。
 
 しかも、特にGoogleのような企業の場合、SNSに残した書き込みだけでなく、検索ワードや動画の閲覧記録といったものまで保有している。さらに、Amazonや楽天といった複数のサービスに跨るようなアーカイブ検証まで行えるとしたら、個々人の気分の波・性格傾向・行動傾向・衝動コントロールの巧拙といったものは相当な水準で読み取れるに違いない。
 
 メリットは他にもある。そのようなGoogle的なシステムによって診断と治療を行うとしたら、「このような症例にはこのような薬剤と助言が適切である」といった論文上の根拠とクライアントに関する莫大なアーカイブとを自動的に照合し、今以上にオーダーメイドな治療が実現できるかもしれないのだ――勿論、論文のインパクトファクターの高低なども加味して、“総合的”に、である。こういう照合だの重み付けだのに関しては、それこそGoogleの得意分野であり、よほど博覧強記な精神科医でない限り太刀打ちできないだろう。
 
 こうしたアドバンテージの数々は、SNSのヘビーユーザーがまだ少なめな現在は注目に値しないかもしれない。しかし数十年後の未来、SNSが自動車以上に身近なツールとして普及した暁には、アメリカ精神医学会の偉い人達の関心を今以上に惹くのではないかと思う――なにせ効率化の大好きなお国柄だし、医療費の削減とメンタルヘルスを両立させるにあたって、自動化とそれに伴うコスト削減は魅力的に違いないだろうから。
 
 もし将来、精神医学会がなんらかの形でGoogleやFacebookのようなネットインフラ企業と提携関係を結び、社会保険制度や生命保険会社とも“適切な”提携関係を結ぶような状況が生まれれば、インターネットの履歴を生かした精神疾患の診断技術は目覚しく進歩するだろうと思う。少なくとも純-技術的には、ここには物凄い可能性が眠っている。“なかのひと”の“こころ”なんて気にしなくてもいい診断と治療の体系があればこそ、そういう未来も展望できようというものだ。
 
 

「2042年、国道沿いの自販機に抗うつ薬を受け取る人々の長い行列ができる」

 
 以上に基づいて、未来の精神医療をちょっと想像してみよう。
 
 ――2042年、精神疾患の診断と治療のほとんどの領域は、Googleとそれに連携した自動配薬システムにとって変わられている。社会が苦境に陥り、多くの人々が孤独な生活に打ちひしがれるなか、精神疾患は恐るべき有病率で推移していたが、診断と治療が自動化したことによって、精神医療に費やされる医療費はスリム化に成功した。
 
 精神疾患の治療に不可欠とされた「早期診断、早期治療」は2042年においてはほぼ完璧な水準で実行され、重症化する人は大幅に減少している。患者が来るのを精神科医がただオフィスで待っている時代は終わったのだ。Facebook、Google、楽天、Amazonといった複数の企業と提携関係にある“客観的”な自動診断システムは、精神疾患を示唆する兆候を呈したSNSユーザーをいち早く抽出し、地域の精神保健衛生センターへと通報する。そのようなユーザーのもとには「精神疾患のリスクと治療についてのお知らせ」が届けられ、保健衛生師(精神科医よりも安価に雇用できる)による面接が義務付けられる。近年は珍しくなったが、万が一「お知らせ」を三度以上無視したSNSユーザーがいた場合には、精神保健衛生センターから訪問チームが派遣され、自主的な治療が可能な状態か否かが検討される。
 
 平日の午前九時になると、各市町村に配置された自動配薬システムには向精神薬を必要とする人達の長蛇の列ができる。端末に健康保険証カードを挿入し、静脈認証を行うと、インターネットの利用履歴にもとづいて自動的に選ばれたキャラクターやタレントのアバターがディスプレイに登場し、症状の程度確認と投薬手続きが行われる。最新のエビデンスと研究成果、そして個々人のDNA情報にもとづいた薬剤が処方され、必要な患者にはキャラクターのアバターを用いた認知行動療法が施行される。治療が必要な人々の通院を encourage するべく、健康保険証には通院遵守ポイントが記録され、きちんと通院しているとポイントが蓄積してウェブマネーと交換できる。こうした一連の作業は全て自動で行われる。
 
 この時代、精神医療の大半が自動化したことにより、精神科医と臨床心理士は正規の職を失いつつある。彼らが生き残る道は、システムを研究・デザインする側に回るか、機械任せには出来ない特別な患者を治療する側に回るしかない。熾烈な生存競争が起こり、他の仕事に就かざるを得ない者が続出する。
 
 一方で、“こころ”を求めてやまない人々の渇望は、元精神科医や元臨床心理士による自由診療の領域に新しい活躍の場を提供するようになる。正規の精神医療が無料同然になったが、裕福な一部の人々は“スピリチュアルな癒し”“こころが通じ合う体験”を求めてカウンセラーに高い報酬を支払うようになる。精神分析も含めた各種カウンセリングはエステサロンのような装いで復活し、高価なソファにゆったり腰掛け、カウンセリングの後にドリンクやシャンパンが振舞われるようなサービスが人気を博する。しかし、医療という枠の外側に追い出されたがゆえに、有象無象が参入することとなり、カルトなカウンセラーによるマインドコントロールや詐欺などが社会問題化していく――。
 
 
 勿論、これは極端な未来予想であり、まさか、こんな出来の悪いSFのような風景がやってくるとは私も思っていない。実際には、たいていの精神科医はエビデンスに基づいた客観的治療と“こころ”の問題の両立に心を砕いているに違いないし、アメリカや日本の厚生省も、それほど簡単にはGoogleやFacebookと手を繋げるわけでもあるまい。なにより、こうした自動診断システムと自動治療システムは、倫理上・法曹上の様々な問題を抱えてもいる。そして精神医学界も、自分達のナワバリをIT企業に持って行かれるような事態には、抵抗を示すだろう。
 
 しかし、第三者に観測可能な言動を重視する現代の精神医学の診断体系と、個人の言動のアーカイブを蓄積し続けるインターネット上の各種サービスとの間には、間違いなくある種の親和性があると思うし、個人の社会生活に占めるインターネットの割合が高くなってくれば、それを精神医学サイドが無視できなくなる日はいつか必ずやって来ると私は思う。控えめに言っても、精神疾患のスクリーニングや症状の管理といった次元で、なんらかの役割を担う日は来ると思う。
 
 のみならず、インターネットが十分以上に社会化すれば、当然、そこでの振舞いも社会的なものとみなされるだろうから、(オフラインでは普通に振舞えても)オンラインでは突飛な行動をとってしまうような人は、「インターネット行動障害」とでも言うべき、新しいカテゴリの精神疾患として取り扱われる日が来るかもしれない。
 
 精神医学の歴史の一面として*5、暮らしや生活の変化に応じて新しい疾患に着眼し、必要ならば疾患カテゴリを新設してでも対応してきたという歴史がある。そうした歴史を振り返るにつけても、暮らしの場としてのインターネットの割合が拡大すれば、そこに精神医学が乗り込んでくるという読みは当たるんじゃないかと私は思うし、その新しい暮らしの場において、どのような言動が障害とみなされ、その障害をどのように発見・治療するのかについて、かなりの議論が起こるだろうとも思う。
 
 

あなたは“こころ”を捨てる準備が出来ていますか?

 
 ところで、そのような未来を迎えた時、“こころ”はどうなるんだろうか?
 
 あなたは、表出され、観測される言動だけが人間の全てだと割り切る“こころの準備”はできているだろうか?第三者には観測されないものは存在しないという前提でメンタルヘルスが、ひいてはコミュニケーションが値踏みされる社会で暮らす準備は出来ているだろうか。「苦しい」と表明しないところに苦しみは無く、「死にたい」とSNSに書き込めばそこに必ず希死念慮がある社会にYesという覚悟は出来ているだろうか。
 
 昔、人気アニメのキャラクターは「日本人の美徳は“察しと思いやり”」と言ったけれど、世の中を構成するシステムは、それとは対極的な、可視化の地平へと動いているように私には思える。たぶん私は、“こころ”を捨てる“こころの準備”がまだできていないので、その気持ちが、こういうエントリになったんだと“思う”。
 
 

*1:古典神経症やヒステリーといった領域などが最たるもの

*2:とりわけDSM-IV

*3:見方を変えるなら、診断と治療から“こころ”の狭義の部分が抜け落ちつつある「からこそ」、精神科医達は一般向けには“こころ”というレトリックを用いたいのかもしれない。また、こうした“こころ”を度外視した治療体系に頼りすぎることを心配している精神科医や、“こころ”を診ることとエビデンス的治療との両立を模索している精神科医がたくさんいることは、断っておく。

*4:ただし長期的にはぼろが出やすく、難しい

*5:とりわけアメリカ精神医学の歴史の一面として