シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

スカイリムで自由を与えられた俺は、自分自身の内面に束縛された

 

The Elder Scrolls V : Skyrim 【CEROレーティング「Z」】

The Elder Scrolls V : Skyrim 【CEROレーティング「Z」】

 
 スカイリムskyrimは、世界がボーンと与えられて、あとは何をするのも自由なロールプレイングゲームだ。
 
 その自由さ加減は、ある意味、心理テスト*1や箱庭療法の箱庭にも似ている。どう遊んでも構わない箱庭が与えられるからこそ、プレイヤーの性格やポリシーや願望がそのまま反映される。
 
 俺の場合、それが如実に出ていると思ったのは「名前の入ったNPCキャラクターを殺すのがとても苦手」という事だった。
 
 ゲームの特性と演出のお陰で、このゲームのNPCキャラクターからは、生活臭というか「その人がその世界で生きている感」を感じ取りやすい。その生活臭の漂うキャラクター達には、そのゲームプレイのなかで一度死んだらもう戻って来ないこともあって、かけがえのない人々という印象があった。それぞれの街の鍛冶屋や物乞いは、間違いなくその街の「顔」だった*2
 
 そんな、一度死んだら代わりがきかない名前付きキャラクターを殺すとなると、俺はかなり神経質にならずにいられなかった。“この人”に、猛毒を塗った矢を本当に撃ってしまって構わないのか?自分とは異なる人生を本人なりに積み上げてきたであろう、生きている人の人生に終止符を打って良いのか?その人の死によって、他の人物に与える波及効果はどのようなものか?;こういった諸々に思いを馳せてしまう。
 
 その延長線上として、スリや窃盗の類にしても、人々それぞれの生活や人生を、強大なプレイヤーキャラクターをもって気儘に破壊して良いのか、しばしば逡巡した――結局、必要に迫られてやることになるんだけれど。で、プレイヤーの窃盗なりなんなりが名入りキャラクターの生活に甚大な影響を与えるであろうことを想像する時、ジクジクとした後味の悪さを感じた。
 
 また、街にドラゴンが襲来すると、ご近所さんが死んでしまうかもしれないという不安に駆られて、俺はダッシュでドラゴン退治に向かった。クエストの種になるかもしれないキャラクターが死んだら困るという理由以上に、知り合いが死んでしまったら寂しくなってしまうという気持ちで緊急出動した。まあ実際には、衛兵も町の人々も案外丈夫にできているので、住人総出でドラゴンをボコる行為には村祭りのようなカタルシスがあった。
 
 本当は、こういう考え方をしていたらスカイリム世界では生き残れないんだろうな、とも思う。山賊や吸血鬼やデイドラ*3が跳梁跋扈し、自然環境も厳しすぎるスカイリムという土地において、そのようなサンチマンタリズムは、命が幾つあっても足りるものではない。プレイヤーキャラクターというチートが与えられてはじめて許される贅沢な悩みといえるだろう。それでも、そのようなサンチマンタリズムとドラゴンボーンという勇者設定が噛み合わさった結果として、「街の暮らしを守るために害獣退治*4を引き受ける」というモチベーションが立ち上がってくる感覚は、自分なりに納得がいくものだった。
 
 そんな俺にとって、オナーホール孤児院の「親切者のグレロッド」で始まる闇の一党クエストは、どうにも深入りできないものだった。プレイヤーキャラクターをもってすれば、あの婆さんを殺してしまうのは簡単だ。しかしその後、あの孤児院はどうなってしまうのか?法が機能している文明社会に住まう人間を、子どもに頼まれるまま殺めてしまって構わないものなのか?メインクエストが終わって大分経った後、一応グレロッド婆さんを暗殺してみたが、これはとても後味の悪いゲーム体験となった。結局、闇の一党には加わらないことにした。Xbox360の[実績]が取れなくても構うものか。俺の個人的感傷によって[実績]が取れないとしたら、それこそが俺の体験したスカイリムなのだ。
 
 似たような理由で、デイドラクエスト「ボエシアの呼び声」はやめておいた。知人を生贄に捧げると、グレロッド暗殺の件以上に後味が悪くなりそうに思えたからだ。
 
 このスカイリムという自由度の高いゲームをとおして、俺は、自分自身が内面化している規範意識や良心が思ったよりも頑固なことに気付いて、少し驚いた。こちらのプレイヤーの人は、スカイリムの世界でもキャラクターと自分とを区別して遊べたらしいけれど、俺にはそれができなかった。俺にとっての「かくあるべき」はプレイヤーキャラクターにとっての「かくあるべき」であり、俺の良心の呵責はそのままロールプレイの内容に投影された。我ながら不器用なことだと思う。けれども、それが自分にとってのロールプレイングゲーム体験であるからには、これこそが、俺にとってのスカイリムなんだと理解することにした。
 
 スカイリムは、世界がボーンと与えられて、何をするのも自由な世界。俺は、こういうスカイリムをつくりあげた。今は冒険家業をやめて個人商店を開き、のんびり暮らしている。
 

*1:特に投影法

*2:これが、名無しの山賊や衛兵の類だと、彼らは30日経てばリスポーンされるキャラクターなので、ドラゴンブレスの巻き添えを食って死のうが、流れ弾に当たって死のうがさほど気にならない:つまり人であって人ではない、綾波レイ風に言えば「お前が死んでも代わりはいるもの」的なモブ連中には、個人としてのアイデンティティは微弱にしか感じられなかった。一応、ダンジョン内の生活用品や山賊の書き残した日記を通して、そこに物語があった形跡を読み取れなくはない。けれどもその生活用品と日記自体がリスポーン品だから、たいしてありがたみを感じるものでもない

*3:あれは、日本で言えば天狗や「おやしろさま」みたいなものだと思う

*4:と書いてドラゴンスレイヤーと読む