シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

聖地巡礼と国道的感性――よく訓練されたオタは鷲宮神社で柊かがみに出会う

 
 なぜオタは聖地巡礼をするオタにムカつきますか? - きみにとどけてれぱしー
  
 聖地巡礼。
 アニメで登場したロケーションを訪れ、アニメの世界に没入する楽しみである。春日部市で『らき☆すた』が成功したあたりから目にするようになり、最近は“萌え興し”などというあざとい言葉を見かけるようにもなった。
 
 リンク先のWAFLさんは、聖地巡礼してもアニメの世界には没入できずに、アニメの儚さを悟ってしまうだろうと書いている。

ロケ地巡りをしたシネフィルは映画に近付くどころか、映画が虚構であることを嫌と言うほどに味わわされてしまうのだ。同じものを見ているはずなのに「違う」と思わせる映画と違うものを見ているはずなのに「同じだ」と思わせるアニメ。その差異に思いを馳せるのもよいかもしれないがそんなのはどうでもいい。

http://d.hatena.ne.jp/WAFL/20120501/p1

 上記では、《「違う」と思わせる映画と違うものを見ているはずなのに「同じだ」と思わせるアニメ》と括ってあるが、実際には、アニメを見ていても、聖地巡礼を楽しめる巡礼者と、そこに居心地の悪さを感じるWAFLさんのような人がいるわけで、作品ジャンルによる差異以前に、アニメファンのなかにも「これは違う」と感じる人と「これこそホンモノだ」と感じる人がいる、ということだろう。(おそらく旧来的な意味で)作品を真面目に鑑賞する人であれば、作品ジャンルが何であれ、聖地巡礼をやったところで「これは作品の世界とは違う」となるに違いない。そういう意味でWAFLさんのアングルは真面目だなとも思った。つくりごとの世界のディテールをきちんと愛する人でなければ、こういう言葉は出てこない。
 
 

聖地巡礼、テーマパーク、ラブホテル

 
 しかし、このような真面目さは国道沿いで暮らすオタクとしては、訓練が足りないと思う。いや“オタクとしては”という鉤括弧は外して良いかもしれない。国道沿いの民として訓練が足りないと言うべきか。
 
 WAFLさん的な視点から見れば、国道沿いには、本物は何も無い。豪奢を装ったラブホテルも、オルゴールのサザンオールスターズが流れるガラス工芸品店も、レクサスのロゴをつけて走るフル改造軽乗用車も、どれも紛い物としか言いようがない――ディテールが無いのである。本物でないものに本物っぽい意匠を施し、それをあたかも本物のように消費するのが、国道沿いという空間であり、国道沿いの民である。確か、ボードリヤールも昔そんな事を言っていた。
 
 しかしよく訓練された国道沿いの民から見れば、国道沿いにはすべてがあって満ち足りているとも言える。ラブホテルも、ガラス工芸店も、レクサスのロゴをつけた軽乗用車も、それに馴染んだ人々にとっては本物である。もちろん、このような訓練された人達にとっては、ディズニーランドとは本物の御伽の国であり、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに足を運んで「これは違う」と落胆することもあり得ない。国道の民にとって、テーマパークとは作品世界や異国情緒を模したものではなく、作品世界や異国そのものとして体験される。「これは違う」と白けることなどあり得ないのである*1
 
 で、聖地巡礼、である。
 
 国道沿いの民にとって、アニメで描かれた場所を訪れる行為とは、テーマパークを訪れる行為に限りなく近い。ディズニーランドやUSJに「本物」と感じられる感性を持った人間が、どうして聖地巡礼で訪れた鷲宮神社で「これは違う」などと感じようか。違いのわかる男のゴールドブレンドならそうでもないのかもしれないが、国道沿いのイルミネーションに容易くくるまれてしまう我ら国道の民が、どうして聖地巡礼に「本物」を感じ取れないことがあろうか。
 
 日頃から我ら国道の民は、ラブホテルの豪奢を本物と感じるように・レクサスのロゴをつけた軽乗用車を格好良いと感じるように訓練されている。訓練を強いられていると言ってもいい。そのような訓練を経た人々にとって、鷲宮神社で出会った柊かがみのコスプレ女性とは、柊かがみなのである。「一緒に写真撮ってください」で「かがみんといっしょ」なのである*2
 
 逆に言えば、聖地巡礼という行為が聖地巡礼として成立する背景には、このような、国道の民としての感性が普及している必要があった、と考えることも出来る。シティボーイが「どうしてこんなもので有頂天になれるのか」と首を傾げているのを余所に、「ああ、これがアニメの本物の舞台かー」と感心できるような感性がなければ、そもそも聖地巡礼がブームになることがなかったのではないか。
 
 おそらく同じことが“歴女”などにも言えるだろう。京都に行って新撰組のグッズを買ってくれば歴史を感じられるような感性・ひこにゃんのグッズに歴史を見いだせるような感性を持った者こそが、一番“歴女”を楽しめるのだろう。「青葉城址で伊達政宗公の声が聞こえてくる“歴女”こそが、ホンモノの“歴女”だ!」
 
 そんなわけで、よく訓練された国道沿いの民であれば、聖地巡礼で絶望することなどあり得ないのである。もし絶望してしまうというのなら、虚構に生きるための、国道沿いで生きるための訓練が足りない。さあ、感性を阻害しないための訓練に励むんだ!コクドウ!
 

*1:ついでに言うと、よく訓練された国道の民にとって、ヴィレッジヴァンガードとは「東京」であり、スターバックスとは「シアトル」である。

*2:さて、このような発想の延長線でいくなら、コスプレすれば本物のキャラクターになれるということでもあり、コスプレした異性とのセックスとはキャラクターとのセックスである。