シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「十年後に懐かしいと思える今を、今のお前が創るんだ!」

 
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 リンク先の文章は、ケータイからインターネットを使い始めた世代の人が書いたものという。“昔は良かった”と懐古する中年ネットユーザーなら幾らでも見かけるが、若い世代が、過去のインターネット風俗を“手の届かない黄金時代”のようにまなざすケースがあるのかと、ちょっと驚いた。
 
 リンク先のid:opitziuさんは、十年以上インターネットで文章を書き続けている人々と自分自身を比べたうえで、「自分は、彼らのようにはなれない」「文才の無い凡人なんだ」的に結論づけているように見えた。しかも“古き良きインターネットに憧れている”という。これらが勿体ない考え方のように思えたので、言及することにした。
 
 

「ネットで長文を書く」には本当に才能が必要なのか

 
 id:opitziuさんは、以下のように自己規定している。
 

 ぼくは、「普通」の基準が上がっていくインターネットでも、「「死んだ」と言われるインターネット」でも、やはり「何者にもなれない」凡人だ。凡庸だ、あまりにも凡庸で、背伸びするのさえくだらない努力など言われるような有様だ。

http://opitziu.hatenablog.jp/entry/2011/11/26/220210

 
 なるほど、物事には才能が必要なこともある。プロサッカー選手や人気俳優になるためには、努力だけではカヴァーできない、天賦の才も必要だろう。
 
 しかし、ここでの比較の対象になっているのは、そのようなプロの人々ではない。ただ長いことインターネットで文章を垂れ流して、自己満足という名の銅貨を稼ぎ続けてきた、中年ネットユーザー達でしかない。プロの世界にありがちな厳しい淘汰・締め切り・体調管理・プライベートの浸食といった問題に患わされることもなく、ただ自分の欲求のままにキーボードを叩いている人間に、特別な才能が必要だろうか?
 
 はっきり言って、“長文を連投するネットユーザーになるための才能”なんて、たいしたものではないと思う。少なくとも、なにがしかの賞を取るような文才なんてものは必要無い。野暮臭い文章しか書けなくても、変光星のように不安定な自意識の持ち主であっても、ネットで長文を書き続けることは可能である。そうこうしながら五年、十年続けているうちに、ある程度は書くということに慣れることが出来る。キーボードのブラインドタッチみたいなものだ。
 
 十年という歳月はそれなりのものだ。
 十年前の私は、脱-オタクファッションのサイトでこんな文章を書いていた。我ながら、読みにくい文章だと思う。それでも十年書き続けているうちに、当時よりは読みやすい文章を書けるようになったと思う。私よりも文章の素養のある人であれば、もっと上達していたに違いない。
 
 これに対し、id:opitziuさんは、インターネットを本格的に初めてから3年しか経っていない。はてなblogの履歴を信頼するなら、長文に関しては僅か5日間しか書いていないことになる。
 
 その、5日しか長文を書いていない人間が、10年以上文章を書いている人間を見て、「自分は彼らのようにはなれない」と書いているのである。冗談じゃない!そういう事は、せめて5年程度は長文を書き続けてから自己判定すべきではないのか?
 
 繰り返すが、十年という歳月はそれなりのものだ。“継続は力なり”というのは、少なくとも一部分は真実である。「インターネットで長文を垂れ流す」なんてのは、天賦の才にあまり左右されない、継続*1の影響を受けやすい……というより継続が全てのような hobby なのだから、5日書いた程度で「自分はダメだ」などと言ってしまうのは、おかしなことだと私は思う*2
 
 

「五年」「十年」という歳月の力を信じる人が少ない

 
 いつの時代も、若い人の大半は、歳月の積み重ねによる効果を侮っている、と私は思う。継続は力であり、1年では達成できない事の多くは5年費やせば達成できる。10年もやれば相当な力になる。けれども、この事を意識できる10代〜20代はそれほど多くは無い。いや、それなりに歳を取っていてさえ、こういう事を知らない人がいる。
 
 そのことを、いけないと私は言いたいわけではない;自分の適性を知るために試行錯誤しなければならないのが思春期だし、中学→高校→大学と、短いスパンで次々に居場所や進路を決めなければならないのだから、5年〜10年という時間の射程距離で考えにくくなるのも無理は無い。
 
 しかし人生は長いし、その長い人生のなかには長いスパンで眺めなければ気付かないこと・達成しにくいことも沢山あると思う。長い時間を味方につけることの出来ない人間は、短時間のうちに達成できることにしか手が届かない。「タイミング」や「スピード」でチャンスを掴めるような事物には、そのような性質は有利だと思うけど、世の中の全てのachievementが「タイミング」と「スピード」で成立しているわけでもあるまい。三日坊主な人々・流行に流されるしか能のない人々は、この点で、人生にハンディを背負っていると私は思う。
 
 しかも、歳月は、若い人間をえこひいきする。
 十年間でより多くの事を身につけ達成できるのは、より若い人間だ。30歳の人間が40歳になるまでに達成できることは沢山あるにせよ、20歳の人間が30歳になるまでに出来ることはもっと沢山ある。研鑽も、変化も、驚きも、若い人にこそ強く作用する。その過程で起こるであろう恥や傷つきも、若いうちなら(ある程度)怖くない。このため、十年という歳月は、「20歳の人間と30歳の人間のギャップ」を大きく埋めることがある。
 
 なので、若いid:opitziuさんが、歳取ったネットユーザーに敵わない、と現時点で言ってしまうのは、早合点もいいところ、と私は考える。それなりの熱意をもってやれば、先達に追いつき追い越す可能性は十分にあるだろう。
 
 

「十年後に懐かしいと思える今を、今のお前が創るんだ」

 
 それと、id:opitziuさんは“昔のインターネット”を懐かしんで残念がっているが、これは勿体ない……というより、考えようによっては怠慢のような感じ方だと思う。
 
 過去のプロダクツを参考にするのは、もちろん悪くない。けれども、あなたという若い人が、過去という手の届かない場所を懐かむのは時間と感性の無駄遣いだとは思う。そんな事をしている暇があるなら、あなたは十年後のあなた自身が懐かしいと思えるような今を、きちんと創るべきではないか。
 
 私は、十年前のインターネットの風景について“十年前のインターネットは楽しかった”と思っている。五年前のインターネットについても同様だ。今だって結構悪くない。
 
 で、それぞれの時代のインターネットに熱意を投下して、自分なりに楽しんできたからこそ、それぞれの時代のインターネットが懐かしく思い出されるのだと思う。私は現在もインターネット上に熱意を投下し続けている、いわば“現役”なので、十年後の私は、2011年の私のネットライフを懐かしく思い出すだろう。ホームページ時代やテキストサイト時代を懐かしく思い出すのと同じように、未来の私はtwitterやblogのことを思い出して「あの頃は楽しかったね」と言っているに違いない。
 
 そして十年後に懐かしく思い出されるインターネットをやるための選択肢は、いくらだってある。あなたはtwitterに夢中になっても構わないし、年寄りネットユーザーが気に入ったなら、それに倣って情念の籠もった長文を投下したって構わない。本当は、ライフハックブログでも、2chまとめサイト運営でも、書評サイトでも、なんだっていいのだ。自分が熱意をもって打ち込める何かが見つかって、そこで自分の心を燃やし続ければ、きっと「十年後に懐かしく思い出される今」が手に入る。それも、他人によって創られた贋作ではなく、自分自身によって創られた本物が。
 
 だから、id:opitziuさんは、何でも構わないから、心からやりたいことを持続的にやればいいんじゃないかと思う。インターネットが嫌なら、インターネットの外でだって構いやしない。十年前の他人の過去を懐かしむよりも、十年後の未来に懐かしく思い出されるであろう現在のほうが、私は価値があると思うので、そういうやりかたをお勧めしたいと思う。
 
 未来の自分が懐かしく思えるような現在を、精一杯耕していくしかない。
 さあ、今すぐキーボードを手にとって、やりたいことを精一杯やるんだ!
 
 [関連]:あなたは10年後のあなたに何を届けますか - シロクマの屑籠
 

*1:「努力」などと言うのもおこがましい!

*2:それでも敢えて“才能らしきもの”を挙げるとするなら、それは“書くのが好きでしようがない”ことかもしれない。お金が貰えるわけでも、誰かに感謝されるわけでもない、インターネットで長文を垂れ流すという行為は、書くことが好きでなければ続かない。長文を書くということに、なにがしかの執着がなければ続かないだろうと思う。それと、他人の評価にある程度鈍感であること。本当の意味で文才を持った人なのに、他人の評価に敏感すぎるがためにインターネットを去っていった、という事例がたくさんあるので。