真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20111123/1321976634
上記リンク先の文章は読みにくく、「カネ」や「人気」を集めるには不適な、情念が過剰な、読む人を選んでしまう文章だと思う。しかし読む人が読めば、その人の精神にグッサリ刺さって血を滴らせる名文だとも思う。少なくとも、俺には何かがグッサリ突き刺さった。
数年前のインターネット上では、こうした“小さな昆虫だけを捕らえて離さない食虫植物のような文章”に遭遇することが多かった。90年代〜2007年ぐらいのウェブサイトやblogのあちこちに、過剰な情念の籠もった、ヤバい文章が転がっていた。いや、今でも時々そういう文章を見かけないことは無い。けれども遭遇確率は少なくなってしまったし、「ここのblogに行けば必ず奇っ怪なテキストが読める!」みたいな書き手をあまり見かけなくなった。
もちろん、インターネットのすべての風景が「カネ」や「人気」に染まりきってしまったわけではない。けれども「カネ」や「人気」を意識した場所にトラフィックが集中していくなかで、ウツボカズラやモウセンゴケのような文章の咲く場所は、相対的に目立たなくなった、とは思う。何のためにそんなアウトプットが必要になるのか、本人にしか分からない(または本人にすら分からない)ような、ネット多様性の象徴として咲き誇る怪文章は、トラフィックの都大路から遠く離れた場所にひっそり咲くだけになってしまった*1。
ミーム論的な喩えをするなら、“「カネ」や「人気」をエサにする外来種が、インターネットという熱帯雨林に入り込んできて、土着固有種を脇に追いやって瞬く間に増殖した” “インターネットの熱帯雨林が日向化し、土着固有種の多くが日向への適応を余儀なくされた” と表現できるかもしれない。幸い、インターネットでは現実世界のような「土地の奪い合い」が起こらないので、土着固有種が絶滅することは無いし、ネットの多様性が失われる心配も無い。けれどもインターネットの風景は変わってしまった、と言って構わないように思う。この風景の変化は、Amazonや楽天が使われ始めた頃から少しずつ進行していたように思われ、有名人がblogを使い始め、TwitterやFacebookが爆発的に普及したあたりから、はっきり変わったように思う。日陰にはびこる草や虫が希少種となり、「カネ」や「人気」を浴びてスクスク成長するような、日向を好む草や虫の割合が高くなった、と思う。
* * *
ここまで人事のように書いてきたが、この“シロクマの屑籠”なるblogも、ある程度まで日向に適応してしまった、と思う。昔は「嘔吐」などと称し、情念丸出しの文章を、見境無く連投していたように思うが、最近はそういうことをあまりしない*2。
しかし、俺は本当にこれで良かったんだろうか?これは本当に俺がやりたかったインターネットだったのか?何か、違うと思う。もし、10年前の俺が現在の“シロクマの屑籠”を見たら、「昔よりくどくない文章を書いているが、角が取れすぎている」「こんな、誰でも書けそうな事を書いてどうするの?」と不満に思うに違いない。ネットの日陰に生まれ、ネットの日陰で育ったp_shirokumaという名のネットミームが、日向のミームとしての適応を身につけていったことを、素直に喜べないのではないか。
そのへんのギャップをTwitterで漏らしていたところを、先日、加野瀬さんに補足されて纏めあげられてしまったのが、以下の文章だ*3。
一個人がブログを書くことの意義 - Togetterまとめ
一個人がインターネットで何かをアウトプットする動機は何か?
とりわけ、俺自身がblogでアウトプットする動機は何なのか?
「カネ」のために?
いや、それは無理だと思う。
なら「人気」のために?
これは、ある。「人気」には、いわゆる「発言力」を手に入れるというニュアンスと、「承認欲求を充たす」というニュアンスがあるが、前者はともかく、後者は大いにあるだろう。ところが現在の私は、承認欲求ならtwitterで十分間に合っている――twitterって便利なツールですね!ただ承認欲求を充たしたいだけなら、blogやwebsiteなんてかなぐり捨てて、twitterのタイムラインの内側でキャッキャウフフしていれば良い。
…ところが、どうしたわけか、俺はblogを手放さない。手放せない。ブツブツ言いながら「俺のためにあるべきblog」とやらを今も模索している。どうしてこんな事に手間暇をかけているのか、自分でもよく分からない*4が、そうせずにいられない切迫感が高まってくると、自然と文章がわき出してくるのは確かで、引っ張られるようにPCの前に座らされる。もしこれが「義務」だったら、とうの昔に投げ出していたに違いない。
今、blogをやっている人達――とりわけ、冒頭で紹介したお二方のような、食虫植物のごときアウトプットをやってのけている人達――もまた、「カネ」「人気」「承認欲求」といった単純なエッセンスでは説明のつかない“何か”を多かれ少なかれ抱え、それに衝き動かされているからこそ、ああいう“そのひとらしさ”の滲んだ文章を吐き出しているのだろう、と思う。あれは高度な“芸”であると同時に、“芸”では説明できない何かだ。
俺のこのblogは、日向の明るさにかなり修飾されてしまったが、それでも、そういう得体の知れない欲求(あるいは衝動)に引っ張られて“吐き出してしまう”傾向を完全には失っていないと思う*5。そうした嘔吐性の名残について、一時期、邪魔だと思っていた時期もあった。が、今はこれでいいんじゃないかとも思う。それを全部捨ててしまったら、もうちょっと読みやすい文章になるのと引き替えに、「俺でなくても構わない文章」が出来上がってしまうだろうとも思う。
たぶん、「カネ」や「人気」に適応し過ぎると、この“シロクマの屑籠”は過剰適応に陥って死んでしまう(=更新が止まってしまう)と思う。そして俺という名のドクダミがどれほど日向に適応してみせたところで、あくまで日向に適応したドクダミであって、向日葵にはなれそうにない。ならばいっそ、俺は、ドクダミの名残を残した、そういうネットミームとして生きざるを得ないし、その積み重ねによって、このblogは――そして俺自身は――こんな有様なんだろうと思う。きっちり向日葵然としたアウトプットは、生まれながらに向日葵な星の下に生まれた人が、俺よりずっと上手にやってくれるだろうし。
[関連]:インターネットは、他の何かの代わりじゃない。 - 烏蛇ノート
*1:そのような怪文章の花がたまさかトラフィックの都大路に触れてしまうと、間もなく変質してしまうか、枯れてしまうことが多いように見受けられる
*2:全く「嘔吐」しないわけではない。この文章のように。
*3:「纏め上げられてしまった」と俺は書いた。なぜなら俺はTogetterというサービス自体が好きではないからである。Twitterの本来的性質を歪めてしまい、発言者の意向を離れた独り歩きを加速しやすいTogetterなど、なくなってしまえ、と思う。いや、なくならないことは分かっている。けれども俺は「Togetter爆発しろ」と、これからも呪い続けてやろうと思う
*4:「お前の職業なら分かるだろ」と言う人もいるかもしれないが、わかりません。「お前、わかりたくないだけだろ」と言われたら、「そうかもしれませんけど、実際わかった気がしないんですよ」と答えるほかない。
*5:ときにオブラートに包み過ぎたり、自分が言いたかった勘所を引っ込めてしまったりして、結果として残骸だけを公開してしまう事もあるけれども