シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

あるおたくの結婚について

 
 ※この文章は、このblogを4年以上前から知っている人以外にはお勧めできません。
 
 
 2011-08-08 - matakimika@d.hatena
 
 id:matakimikaさんが結婚した。
 結婚おめでとうございます、とは思いつつも、心中複雑でもある。「あの男が結婚しちゃうなんて!キキー!」とでも言おうか。ショックでもあった。
 
 以下に、matakimikaさんという、一個人のライフスタイルに関心を持っている一ファンの個人的心情を書き殴ってみる。
 

  • 私は、matakimikaさんは幾つかの点で古いタイプの「おたく」だと認識している。カタカナではなく平仮名で「おたく」と表記するほうが一般的だった頃のような。その理由の第一は、気に入ったひとつのゲームなりアニメなりを、繰り返しゆっくりじっくり愛好するタイプであること。その有様は、録画したビデオテープを擦り切れるほど再生し、購入したゲームを隅々までしゃぶり尽くす小僧のようでもあった。もちろんこの表記が示すように、「おたく」は「おたく」でも、首都圏に居を構え、万巻のコミックとLDをコレクションできるような「おたくエリート」のソレではなく、地方出身の、リソースもコンテンツも限定された環境下でメディアにのめり込んでいったような「おたく」を指す。
  • であれば、matakimikaさんにおいては、増えすぎたコンテンツに追い回される「積みゲー」的な愚行からも、コミュニケーションのためにアニメを追いかけるような疲労からも距離を置いているように見えた。それでいて、いわゆる求道系のオタクともまた違う。「人生より快楽より、オタクとして功徳を積んでやまない僕」という気負いよりは「comfortable なゲーム愛好/漫画愛好を目指す」というか。ただ、その佇まいを「だりぃ」の一言で片付けてはいけないような気がした。オフ会では、ある種のオタク的な凛々しさのようなものを漂わせていたからだ。
  • そのくせ、matakimikaさんは滅法メタな人でもあり、それはリンク先の結婚についての自己言及に限らず、常の発言の端々にも現れていた。メタレベルで格好をつけている、と言っても構わないかもしれない。もしも、「メタレベルで格好つけていればオタク、ベタレベルで格好をつけていればヤンキー」という分類法を用いるとしたら、matakimikaさんはオタクのなかのオタクである。matakimikaさんにおいては、メタ認知は朝飯前というより前提で、彼がメタると、メタにメタが重なってメタメタになる。文中、嫁さんとのキャッキャウフフ的な文章が熱病的おかしさを帯びているのも、あれはヤンキー的にベタな惚気というより、メタにメタが重なった惚気の結果としてベタもどきになったと解釈するほうが、スムーズだろう。今回の結婚をもってしても、そのメタな自意識はすぐさま変化するまい。matakimikaさんの屈折と屈託を愛する一ファンとしては、変化しないでいただきたいと願う。

 
 前置きが長くなった。そろそろ本題に入っていこうと思う。

  • 私は社会適応と折り合いをつけながらアニメやゲームを楽しむ処世術を選んだ人間であり、対してmatakimikaさんはそういうしがらみを認知したら回避する処世術に慣れた人間のように見えた。「オタクという生き方」という点に関して、氏は私よりも優先度が高かったと言えるかもしれないし、「オタクという生き方」に関して氏のほうがロマンチストであった、とも言えるかもしれない。「結婚したらオタクではなくヤンキーになった」という氏の表現も、それだけオタクという言葉に純度を要請していた証左であろう。
  • 上記のように、matakimikaさんと私とは、オタクとしての適応ドクトリンは大きく異なっていたが、一点、共通するモノの見方があった。それは「時間の流れによって、今のあり方は変化していく」というモノの見方だ。10年先、20年先に現在のライフスタイルが維持可能かどうかへの疑いのまなざし……この、時間経過に対する見方に関する限り、私はmatakimikaさんに強い親近感を感じていた。近頃は、オタクであれヤンキーであれ、オンラインであれオフラインであれ、こうした時間感覚と理を身に着けている人は少ない。時の流れをごまかすためのコンテンツが百花繚乱の21世紀において、彼の娑婆watch眼と、それを踏まえた諦念を身に着け繰り返し言及している有様が、私には嬉しかった。“インターネットの都大路”では、この手のビジョンはなかなかお目にかかれない。
  • そのようなmatakimikaさんが、「現在のオタクライフがいつまで続くわけがない」と言いながらも、独りで死んでいくだろうと語ってみせるのだから、私には、それがとても無茶な、あるいは尊いことのように見えていた。ああ、この人は儚い無常を引き受けながら、それでも一人で生きていくのか。スッタニパータにある<犀の角>のようなオタクライフの実践。かねてから俗世にまみれて生きようと思っている私には絶対無理な生き方のように見えたし、羨ましくもあった。だからこそ天晴れにやってのけて欲しいともどこかで思っていた。
  • それなのに!キー!この男、結婚しおった!曰く、馴れ初めはエロゲか少女漫画かと疑うよーな展開だという。「時の流れを凝視しながら、独りで生きていくオタクの末路は如何様なのか」という社会実験が、意外とあっさりと「事情に絡め取られていった」ことに、私はがっかりした。なにせ、まだ私が飽きもしないうちに、ストイックな処世術を手放したのだから。もちろんこれは私の勝手な願望に基づいたビジョンであり、matakimikaさん自身はそんなもの意に介する必要は無い(もちろん、氏は他人の感傷を意に介するような人物でもあるまい)。一知己が伴侶を得たこと自体は、とても素敵なことだと思うし、こうなったからにはできるだけ長い時間を善く共有して欲しいとは願う。
    • 余談だが、「確実に責任を取れるものだけ引き受けて、責任を取れるか分からないものには首を縦に振らない」という潔癖性は、一時代のセカイ系オタクにありがちなロマンチシズムに関連するところであり、この点においてもmatakimikaさんの様式はオタク的だった。その「約束、だよ*1」的な人生の貞操観念を、ヤンキーはヘタレと呼び、往年の鍵厨はピュアと呼ぶのではないか。ヤンキーなら、他人の人生に対する貞操観念なしにセックスも結婚もやってしまう。一般に、他人の人生に対する貞操観念は、オタクには過剰だが、ヤンキーには過少だ。
  • ともあれ、「独りでオタクとして生きていく」ロールモデルとしてmatakimikaさんをリスペクトしていた人達にとって、ここにひとつのロールモデルが終了した、ということではあるだろう。「あのmatakimikaさんでも、結婚したんだぞ」。オタクの一生の最期が白色矮星なのかブラックホールなのかを占う試金石としてmatakimikaさんを眺めていた諸氏に、一石を投じる出来事だったかもしれない。いや諸氏などと責任転嫁的に書くべきではないか。私にとって、ひとつのオタクロールモデルが終わってしまった。この夏休みにも、終わりがあったのである。ゲーモクさんの訃報を聞いた時に一つ終わって、今また一つ終わった。とはいえ、慶賀すべき結末だったのは幸いだった。

 
 まとまりなく書き垂らしたが、最後に、もう一度書いておく。
「結婚おめでとう、matakimikaさん。お幸せに」。

  • これは、シンプルな祝福であるとともに、「あなたは幸せになるべきだ」という呪詛でもあり、ストイックからの変節に対する微かな苛立ちでもある。そういった混合物だ。新たな門出への祝福にそうした不純物が混じるのは、ひとえに、私がmatakimikaさんのこれまでのライフスタイルに、一種の理想を仮託していたからだろうと思う。それは氏の側の問題ではなく、私自身の問題だ。

 
 メタメタ言わずに幸せになりやがれ!コノヤロー!
 

*1:『Kanon』を連想するような