シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

アニメ版シュタインズ・ゲートはCLANNADの二の舞を避けられるか

 
 

STEINS;GATE Vol.2【初回限定版】 [Blu-ray]

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 毎週、アニメ版『シュタインズ・ゲート』を楽しみにしている。ゲーム版より磨きのかかった声優さんの演技・アニメならではのキャラの表情・秋葉原の風景といったものを見ていると、頬が緩んでしまう。
 
 ただストーリーの流れを見ているとちょっと心配になる。
 
 「アニメ版、こんなに一本道でも大丈夫なの?
 
 
 アニメ版では、岡部倫太郎(オカリン)が鈴羽と一緒にタイムマシンに乗るシーンがカットされていた。この時点では「まあアニメ版だし」という気分で見ていたけれど、第17話になって紅莉栖が「まゆりを助けるまでの解法」について解説し、第18話でルカ子ルートの核心部が削除されていたのを見るに至って、まっすぐひたすら一本道なんじゃないかという気がしてきた。
 
 

ゲーム版/アニメ版『シュタインズ・ゲート』の違い

 
 ゲーム版『シュタインズ・ゲート』は、ヴィジュアルノベルにありがちな、複数のヒロインごとにストーリーが分岐するシステムになっている。このため、ストーリーは最終シナリオまでの一本道ではなく、ヒロインごとに大きく違った結末が用意されていて、どれも味わい深かった。
 
 対してアニメ版『シュタインズ・ゲート』にはストーリー分岐が存在しない。アニメに分岐があったら視聴者としては見づらくてしようがないだろうから*1、そういう造りになるのは分からなくはない。仮に、16話で鈴羽とオカリンが過去に旅立ち、17話でオカリンとフェイリスの未来が示され、18話でルカ子が妊娠していたら、さぞ滅裂なストーリーになってしまっていただろうから(ゲーム版をプレイ済みの人間としては、それはそれで見てみたい気もするが)。
 
 このあたりは、選択肢に基づいて分岐していくビジュアルノベルのゲームシステムと、時間の流れに沿って一方向的に進行していくアニメ番組とのメディアの性質の差をストレートに反映しているように見える。
 
 

「『CLANNAD』の二の舞だけは勘弁」

 
 とはいえ、ビジュアルノベルの分岐構造とアニメの一本道の構造の違いを目の当たりにすると、その違いが祟って微妙にニュアンスが変わってしまった過去の作品のことを思い出してしまう。
 
 『CLANNAD』は、京都アニメーション(いわゆる京アニ)がアニメ化したヴィジュアルノベルのひとつで、DVDのセールスもまずまずだった。『Kanon』『Air』をうまくアニメ化した京アニの仕事は、『CLANNAD』においても盤石のように見えた。少なくとも終盤までは。
 
 ところが最後の最後になって、『CLANNAD』は妙なことになってしまった。原作ではルート分岐して別々のエンディングを迎えるところを、アニメ版では一本道として表現しようと頑張った挙げ句、(原作をプレイしていない限り)とうてい不可解なストーリー展開になってしまっていた。途中までが見事な出来映えだっただけに、いかにも残念だった。
 
 この『CLANNAD』が失敗に至った要因はたぶん色々だろうけれども、根本的には【ストーリーが分岐するゲーム】と【ストーリーが一本道のアニメ】という違いが災いの種になっていたように見えた。とはいえ、まだ『CLANNAD』は恵まれていたほうだったかもしれない。なぜなら、ストーリー分岐をメタレベルでつなぎ合わせる幻想世界という設定・メインヒロインの渚ルートにサブキャラクターのルートが上手く合流するような演出があったから。それでもなお、『CLANNAD』のアニメ版はゲーム版のテイストを伝えきるのに失敗していた。
 
 で、アニメ版『シュタインズ・ゲート』はというと。
 
 『シュタインズ・ゲート』の場合も【ストーリーが分岐するゲーム】と【ストーリーが一本道のアニメ】という違いを抱えている。しかも、渚ルートにいったんストーリーが収斂する『CLANNAD』と違って、ゲーム版『シュタインズゲート』の分岐ルートは収斂せず、別れたルートそれぞれが重い結果のエンディングを迎えるようになっていた。このためゲーム版『シュタインズ・ゲート』を【ストーリーが一本道のアニメ】にそのまま翻訳するのはたぶん相当に難しく、実際、現時点でもアニメ版は鈴羽ルート・フェイリスルート・ルカ子ルートの核心部分を省くことで、視聴者の混乱を回避している。
 
 この“分岐ルートに深入りしすぎない”というやり方は、アニメ化に際して必要な措置だったのかもしれないし、今のところ上手くいっているように見える。ただし、もし、このまま分岐ルートに深入りしない方針のまま話が進行していった場合、(原作でいう)まゆりルート・紅莉栖ルートの旨味成分を十分拾いきれないんじゃないか。ゲーム版『シュタインズ・ゲート』は、ルート分岐というゲームシステムを生かして「運命」「自己選択」「責任」について考えさせる物語に仕上がっていた。その分岐ルートをアニメ化に際して“剪定”しすぎてしまえば、おそらく終盤のストーリーの解釈とニュアンスはゲーム版とは違ったものになってしまう筈。いや、それもそれで一つの選択ではある――原作にひたすら忠実でなければならない理由はどこにも無いのだから。だとしたら、どうまとめてくるんだろう?
 
 ともあれ、まだアニメ版シュタインズゲートは終わっていない。もしかすると、『CLANNAD』と同じような失敗を繰り返すのかもしれないけれど、もしかすれば乗り越えるかもしれない。こういう視点で眺めるにつけても、アニメ版『シュタインズ・ゲート』の行く末が気になる。できればうまくやってほしい。
 
 ※2011年9月追記:見事に完走してくれた!原作とは違った面白さと演出を提示しながら、ハイクオリティで、まとまりのあるエンディングを迎えてくれた。本当に良かったと思うし、創ってくれた人達に感謝したいと思う。CLANNADの二の舞は回避された!
 

*1:『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のようなやり方が無いわけではないけれど、あれは特殊な放送条件を準備できたから可能になったように見える。