シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「叱られ下手な人に会うと、たいていの人は叱り下手になってしまう」 という視点

 
 先日まとめた『叱られると自動的にごめんなさいしか言えなくなる人達』に、補足したくなるようなツイートを発見しました。
 
 

 
 上記ツイートのなかで @REVI さんは、「自分は普段は滅多に怒らない筈なのに、“ごめんなさい主義の人”との間では説教モードになった」と書いています。こういった「普段は滅多なことでは怒ったり叱ったりすることが無いのに、“ごめんなさい”を連呼するだけの相手の時にはそうではなくなった」という経験をしたことのある人は、たぶん結構いるんじゃないでしょうか。
 
 理由としてわかりやすい考え方は“「ごめんなさい」をリピートしている人の思考が停止してしまっているために、伝えなければならない肝心の内容が伝わっていない*1”、というものがあるでしょう。実際、叱られた・注意されたと感じた瞬間に思考が停止してしまうタイプの人にもわかりやすく注意点を伝え、なおかつ伝わったことを確認するのは簡単なことではありません。
 
 しかしそれとは別に、視点をひっくり返して「叱られ下手な人を前にすると、たいていの人が叱り下手になる」と考えてみると、どうでしょう。
 
 ひとつ、例を挙げてみます。
 
 世の中には、誰彼かまわず厳しく叱責するような困った人がいます。よく「ああ、あの人に叱責されたのか。じゃあ仕方ない。あの人なんだからね。いつもの事なんだよ。」と言われるようなタイプの人です。もし、こういう人に過剰な叱責のされかたをした時、その【叱る側・叱られる側という二者関係】という現象は、叱られた側より叱る側の個人的な性向によって起こっていると考えることができます。
 
 なら、その正反対の人――つまり、たいていの人が、度を超えた叱責に至らずにいられないような性向の人――もいるんじゃないの?ということです*2。冒頭で紹介した“普段は滅多に怒らない筈の人”ですらツボにはまって説教モードに陥ってしまうような、そういう、「たいていの人が拙い叱り方へと誘導されてしまうような性向の人」を、案外見かけないものでしょうか。
 
 似たような現象は、【叱る・叱られるという二者関係】より、【浮気する・浮気されるという二者関係】や、【支配する・支配されるという二者関係】のほうが知られているかもしれません。
 
 世の中には、どんな素晴らしい異性と交際しても必ず浮気する人物がいると同時に、どれだけ交際相手を変えようとも必ず異性が浮気を始めてしまうような人物も見かけます。そういった人々を見た時、しばしば「浮気する側が悪い人。浮気される側が気の毒な人。」とシンプルに考えがちですし、それもその通りなのですが、その一方で「異性を浮気せずにいられない心境へと導く人」も、あるのではないでしょうか――普通だったら浮気しないであろうパートナーさえ、浮気せずにいられなくするような人が。
 
 同じく、部下や交際相手に対してワンマンに振る舞って相手を支配してしまうような人物がいると同時に、殆どの人間関係で相手が支配的に傾いていくような人物も見かけます。この場合も、「支配する側が加害者。支配される側は意志を封じられた被害者。」というシンプルな見方が正しいように見えて、往々にして「相手を支配的にせずにいられない心境へと導く人」も、実際には存在するのではないでしょうか――普通なら対等のパートナーシップを構築しようとするであろう相手すら、支配的な独裁者に仕立て上げてしまうような人が。
 
 こうした因縁めいた考えを、精神分析の世界では“転移”transference などの概念でモデル化してきました。例えば『小さい頃の親子関係で積み重ねた経験が、大人になってからの人間関係において再現される』のような。確かに、叱られると自動的にごめんなさいしか言えなくなる人の多くには、“転移”というモデルがしっくり来そうです。
 
 もちろんこうした“転移”に当てはまる度合いには個人差があり、非常にピッタリ当てはまっている人もいれば、そうした兆候の希薄な人まで様々なのは言うまでもありません。また、なんでもかんでも“転移”と言ってしまうと、かえってわけがわからなくなってしまいそうです。しかし、こうした概念があまりにもしっくりしてしまうような、因縁じみた人物を見かけることがままあるのは事実ですし、少なくとも人と人とのコミュニケーションで起こる出来事は、能動的に何かをする立場の人間だけでなく、受動的に見える立場の人間をも含めた相互作用として起こってくる、という視点は、まじめにコミュニケーションを考える際には不可欠かと思います。
 
 ですから、この視点に立って【下手くそに叱っている人と、叱られている人】という現象について考える際には、[叱っている側の人がどこまで叱り下手なのか]と[叱られている側の人がどこまで叱られ下手なのか]を相対比較するのが適当、ということになりそうです。どちらの視点も欠くべきではありません。そうしなければ、叱っている側を不必要に叱り下手として誤解してしまったり、逆に叱られ下手として配慮したほうが良い人を見逃してしまったりする可能性が高まるでしょう。
 
 

「叱られ下手な人ほど、上手く叱れる人に出会いにくい」としたら…

 
 以上を踏まえると、『叱られると自動的にごめんなさいしか言えなくなる人』ほど、叱る側としては上手に叱るための難易度が高くなり、ともすれば下手くそな叱り方に陥ってしまいやすい、と推定されます。「ちょっとだけ叱られ下手な人」ぐらいなら、「ちょっとだけ叱り上手な人」でokかもしれません。しかし「ものすごく叱られ下手な人」の場合には「ちょっとだけ叱り上手な人」程度では対処不能で、「ものすごく叱り上手な人」でもない限り、泥沼の説教モードに陥ってしまいそうです。
 
 ここで、一つ前の記事で書いた文章を思い出してみてください(下記)。
 

 だから、叱られると思考停止してしまいやすい人は、叱る理由・注意する理由が自分にも理解できるタイプの人に出会ったら、その幸運な出遭いをなるべく手放さないことでしょう。叱られ下手な人にとって、「この人が叱る理由ならよく分かるし納得できる」という相手との出遭いは非常に貴重です。

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110505/p1

 
 “叱られるのが上手くない人であればあるほど、叱る側が叱り下手に陥ってしまう可能性が高い”ことを踏まえるなら、叱られ下手な人にとって、思考停止せずに納得のいく叱り方をしてくれる人との出会いが、なおのこと貴重で、レアなものだと再認識せずにいられません。叱られ下手だと自覚している人は、まともに叱ってくれるようにどうにか感じられる人との縁を、なるべく大切にするのが良いように思います。
 
 

*1:または伝わっていることを確かめられない

*2:もちろん、根本的な理解力の乏しさによって、似たような状態を呈する人もいるでしょう。ここで問うているのは、「理解力は本来十分であっても」という意味でです。