深夜のシマネコBlog:30秒の決着
リンク先のテキストでは、赤木智弘さんが「大人になれない現代モラトリアム」について自説を展開している。なかでも以下のフレーズが強烈で、脳裏に残るものがあった。
若者に親を支える役目が課される、家族をもつ役目が課される、会社で働く役目が課される。そうして社会に役割を与えられ、“徴用”される事は、今の若者から見れば「とてつもない幸福」なのである。
http://blog.livedoor.jp/shimanekoblog/archives/1463501.html
このような視点は、若い世代に対しては説得力を持つだろうな、と思う。一方で、年配世代からすれば、ふざけんなと言いたくなるフレーズかもしれない。私個人は、このフレーズから「不幸な若者像」を想像するよりも、「世代間の想像力の断裂」に想いを馳せずにいられなかった。
『現代の若者が大人になれない・先行世代が大人にさせてくれない問題』(または、させてくれないかのようにみえる問題)は、多くの社会問題がそうであるように、いくつものファクターが複合した結果としての現象として考えるべきだろう。少なくとも、ひとつの世代だけが悪の元凶、といったビジョンでは解きほぐせるものではないとも思う。
【大人の世界に“徴用”されることはそんなに幸福なことか?】
まず確認しておきたいのは、「大人の世界に“徴用”されることがそんなに幸福なことだったのか」という疑問である。現代の日本社会の礎を築いた世代の人達のなかには、労働者として・食い扶持を稼がなければならない者として、望むと望まざるとにかかわらず大人の世界に放り込まれた人達がいる。だが、そんな彼らが本当に幸福だったのかを確かめてみる必要はあるだろう。
例えば、戦後〜高度成長期において「大人の世界に半ば強制的に放り込まれる」形態のひとつとして、地方農村から大都市圏への集団就職という仕組みがあった。
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しかし、この集団就職の当事者達が幸福だったようにはどうにも思えない。少なくとも、幸福になりやすい生き方を与えられていたようにはみえない。厳しい就労環境、慣れぬ地域での人間関係、低賃金etc…。定時制高校への通学すら不自由だった彼ら・明日に夢を見失いがちだった彼らが、現代の若者に比べて恵まれていたとは、私には想像困難である。今だったら“ブラック企業”と呼ぶであろう環境下で生きざるを得なかった*1、そんな先行世代の苦労と抑圧に思いを馳せると、“徴用”→幸福 というレトリックにはいささか尻込みしたくなるところがある。
【現代の若い世代は、本当に大人になりたがっているのか?】
ところで、現代の若い世代は、本当に大人になりたがっているだろうか?
思春期の次のステージを引き受けたいと思っているのだろうか?
少なくとも「大人にしてくれない先行世代」というフレーズに違和感を覚えないような人達に関しては、必ずしもそうではないと思う。
少し昔の思春期においても、「早く大人になって自分で食い扶持を稼ぎたい」とか、先行世代とは異なる価値体系へと飛び出したい、という思いはあったかもしれないし、それがカウンターカルチャーといった形をとることもあった。しかし、自由になる・独立する、というのは単に「俺の好き勝手にやりたい」ではなく、“自由に伴う責任を引き受けること”・“子どもとしての情状酌量は手放すこと”とも表裏一体であった筈である。自分のケツは自分で拭く・親世代の庇護や保護を期待しない・自由を他人に依存しない、といった意識が芽生えなければ、思春期を迎えることは出来ても出口には辿り着けない。なにより、「上の世代の顔色を窺うことなしに、俺の考える大人になってみせる」とがむしゃらに疾走するのが過去の思春期ではなかっただろうか。
では、今の若年世代に、自分のケツを自分で拭こうと努め、親世代の庇護や保護に逆らってでも自立を維持したい*2と願うメンタリティが果たしてどれぐらい残っているだろうか?あるところにはあるかもしれないが、数十年前に比べれば少なかろう。「俺の好きにやりたいんだ」という身振りは過去と同じでも、責任や自立や独立に関する心理的次元においてすら無意識のうちに先行世代に依存している or 先行世代に責任を押し付けたがっている人が増えているのではないだろうか。
例えば、さきほどの『若者に親を支える役目が課される、家族をもつ役目が課される、会社で働く役目が課される。そうして社会に役割を与えられ、“徴用”される事は、今の若者から見れば「とてつもない幸福」なのである。』というフレーズを振り返ってみよう。このフレーズが全て受動態で構成されていることに、私は少なからぬ衝撃を受けた。「俺たちが社会の役割をつくる」でも「俺たちが社会の役割を乗っ取る」でもなく、先行世代に与えられるという受動態が繰り返されるレトリックは、無意識の次元においては、自立よりも依存のメンタリティが先行していることを示唆しているのではないだろうか*3。
そもそも、先行世代への依存から脱却し能動的な自立を選ぶことが「大人になること」にも関わらず、その「大人になること」までも先行世代のほうで面倒みてやってくれと表明するのは、先行世代に対するダブルバインドな態度というほかない。
【足踏みしているのは思春期だけなのか?】
しかし、だからと言って、イマドキの思春期だけが幼いとか、若者だけが未成熟だとみなすのは事実に即していないだろう。先行世代においても、心理-社会的な足踏みがみられる点ではそれほど変わらない。
以前、「歳の取り方」が分からなくなった社会でも少し書いたが、年齢や世代が上がっても過去のメンタリティにしがみついたまま、という傾向は、思春期モラトリアムな人達だけに限った問題ではない。現在の思春期世代が壮年世代の役割にギアチェンジしないのと同じかそれ以上に、歳取った世代が壮年世代から老年世代へのギアチェンジに失敗しているかもしれない、と思える兆候がある。
例えば戦中〜戦後に生まれた世代は、日本の高度成長を担いつつも子どもを養う立場を引き受け、今、リタイアの季節を迎えつつある。ところがどっこい、「さあ老人をやろう」……とはなっていない実情をここで振り返ってみる必要がある。では“老人ルーキー”達は今、何をやっているか?オシャレに着飾り、若者のような身なりを楽しみながら、(おそらく若年者が自立していくために占める必要があるであろう)職務を引き受け続けている。そして、良くも悪くも、自立よりも依存の色合いを強めた思春期モラトリアム世代を養い続けているわけである。
おそらく、団塊世代に代表されるようなリタイア世代の少なからぬ割合は、従来であればリタイアと看做された年齢になっても、今までの壮年世代のライフスタイルを捨てることができず、老人になりきれていないのではないか。こういうのは、思春期の延長ならぬ“壮年期の延長”とでも呼べば良いのだろうか?「働いて稼いでくる老人」は、若者が占めるべき雇用のポジションに影響を与えるだけでなく、「子どもを養い続ける老人」は、養われる側に自立を促すよりも依存的な処世術を促すことにもなろう。雇用という観点から見ても、心理という観点からみても、“ダラダラと続く老年世代の壮年期”は、思春期以前の世代が壮年期に突入するうえで、大きなハードルになっているのではないだろうか。
還暦を越えてもなお、壮年世代のライフスタイルを維持できるようになった背景には、保健衛生上の発達・平均余命の延長・定年を迎えた人を安く雇う社会システムの整備・年金不安、などなど、これまた複数のファクターが関与しているには違いない。それはともかく、「上の世代がいつまでも心理-社会的に加齢していかなければ、下の世代の心理-社会的な加齢を圧迫する可能性が高い」という視点で眺めるとき、赤木さんの主張のなかでも「若者が役割を得られない構図」というのは確かにそのとおりだなぁという風に見える。
老年世代が歳をとりあぐねて「働く者・養う者」という従来のポジションを占め続けていることと、思春期モラトリアムの延長・若者の自立、ひいては若者の幸福には、私は大きな関連があると思うし、それは老年世代自身にとっても不幸な出来事ではないかと疑う。
【おわりに】
そんなこんなで、若年世代〜老年世代までいずれにおいても、次のライフステージへの移行・次の役割へのギアチェンジが難しい時代になってしまった。若者が社会のなかで役割を獲得できない社会は言うまでもなく不幸だが、老人が役割からリタイアしきれずにズルズル働き続ける・養い続ける社会というのも同じく不幸ではないかと私は思う。
自立までも依存的に口にする若年者と、リタイアを引き受けることが出来ずに扶養者をズルズルと続ける老年者の、共依存的な関係は、いつまで続くのだろう?
残念ながら、“一人前”や“隠居”を指し示すようなかつての人生の道標は、いまや存在しないも同然である。そのようななかで、思春期→壮年期、壮年期→老年期といった心理-社会的な自意識の変化を引き受けていくことは、個々人にとってそれほど簡単なことではなかろう。若さを称揚し、老いをひたすら遠ざけようとする世情も、こうしたギアチェンジの妨げになっていそうである。
さりとて、昔の人生のガイドラインをただそのまま復活させれば良いというものでもあるまい。かつての少年団や青年団や念仏会のようなシステムは、現代の都市空間にはおそらく馴染まなさそうだし、現代風のアレンジメントなり工夫なりが求められる筈である。また、そういったシステムに伴いがちな抑圧をどうするのか、という問題もある。心理-社会的な役割変化を、システムの側が用意しすぎる社会というのも、それはそれで一つのディストピアには違いないのだから。
ただ、以下のことは多分言えるんじゃないかと思う。
どの世代であれ、若さを保つだけでなく歳を取っていくということにも意識を向け、歳を取っていくことの意味をもっと積極的に模索してもいいんじゃないだろうか。また、自分の世代と他の世代との関係や、世代交代に対してもっとセンシティブになっていかなければならないのではないだろうか。「いつまでも思春期」「いつまでも壮年期」というのは個人の心理としては容易いし、肉体的にもかなり延長可能になった。しかし、そうやって若い心理-社会的ポジションに固執していることが自分以外の世代にどのような影響を与えているのか・他の世代とどのように関連しあっているのかについて、もうすこし想像力を膨らませても良い時期を迎えているように私にはみえる。
そのためには、自分の世代のポジショントークをするだけでなく、自分の世代と他の世代との連関について考えたり、自分以外の世代が置かれている(置かれていた)状況に対して想像力を働かせたり、そのために他の世代が歩んできた歴史を勉強したりすることが大切ではないかとも思う。世代間でいがみ合いながら一種の共依存を繰り返しているだけでは、どうにもなるまい。
そして、こうした世代と世代を橋渡しする作業に適しているのは、年上も年下も見渡せるぐらいの、分別盛りを迎えている人達ではないか、とも思う。1975年生の赤木智弘さんなどは、そういう意味ではまさにぴったりの年頃のはず。是非、幅広い議論を牽引していただければと思う。