シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

泣きゲーのヒロインに障害が必要だった理由----か弱いヒロインのfunction

 
 何故エロゲヒロインに白痴が多いのか - Togetterまとめ
 
 リンク先は「なぜエロゲヒロインに白痴が多いのか」になっているが、さすがに対象範囲が広すぎる。どうせ検討するなら、「なぜ泣きゲーに弱い女性が必要だったのか」ぐらいが穏当だろう。
 
 この機会に【泣きゲーのなかで、頭の悪そうなヒロイン・障害を持っているようなヒロインがどのようなfunctionを担っていたか】を振り返っておくのも有意義と思い、以下にまとめてみることにした。
 
 

泣きゲーに、頭の悪そうなヒロインや障害を持ったヒロインが必要だった理由

 
 
 【キャラ立てしやすく物語にしやすい】
 
 まず、キャラを立てる・萌え属性をつけるにあたって、障害持ちや病気持ちであればそのまま「キャラが立つ」という便利さがあった。泣きゲーのキャラクターを顔だけで差別化するのは意外と簡単ではない----泣きゲー全盛期の頃、キャラクターに声優さんの声がつくケースは少なく、立ち絵のバリエーションも豊富とは言い難かった。表現の幅が乏しい状況下、ヒロイン達の違いをハッキリ浮き立たせるには相応にインパクトのあるキャラ属性が必要だったわけで、障害属性や病弱属性はそのなかでも有効な属性のひとつだった。
 
 障害関連のキャラ属性が消費者に強いインパクトを与えた事例としては、『同級生2』の杉本桜子、『加奈』の藤堂加奈、『One』の川名みさきなどが回想されるが、障害や病気といった属性を最大限に生かしたキャラクターと物語りは、実際、多くの消費者を釘付けにしていた。
 
 
 【美少女-所有願望に都合が良い】
 
 また、病弱にせよ非コミュにせよ、「一人では生きていけそうもないヒロインが相手であれば所有願望を膨らませるのに好都合」というメリットにも見逃せない。
 
 ここでいう「美少女の所有」というのは、ヒロインを性奴隷にしましょうとか、そういった暴力を介した形をとるものではない。「オタクだから女の子を守ります」的な良識派を気取りたい消費者は、もうすこし巧妙に所有願望を充たす。その場合、所有の形式は暴力ではなく、真綿のような優しさと保護という名のコントロール、という形をとる。
 
 この手の消費者にとって、何らかのハンディキャップを有しているヒロイン・一人では生きていけそうもないヒロインは格好の所有ターゲットとなる。なぜなら、放っておけば自滅しそうなヒロインが対象であれば、過剰なまでの優しさと保護でさえも、ごく自然に正当化しやすいからだ。*1。しかも、「女の子を守ってる良識派のボク」という体裁はヒロイズムという快楽まで与えてくれる。たいした発明だったと言わざるを得ない。
 
 「優しさや保護をごく自然に押し付けられるヒロイン」というキャラクター造型上のテクニックは、近年のライトノベルやアニメにも受け継がれ、まだまだ生き残っている。かつての泣きゲーヒロインのように露骨な造型はさすがに少なくなったが、所有願望を脳内補完したいときにはいつでも脳内補完できる程度のフレーバーを与えられたキャラクターなら、まだまだ多い。
 
 
 [補足1]:このあたりを逆に考えると、泣きゲーの主要消費者は「所有する-所有される」「制御する-される」という単純で太古的な異性関係しか想像できない、ということかもしれない。消費者がコンテンツに期待する対人関係の様式は、その消費者が想像可能・経験可能な対人関係のアーキタイプによって強く規定される。たとえば現実の人間関係のなかで所有や制御といった対人関係しか出来ない人が、コンテンツの世界でなら複雑でダイナミックな対人関係を見て楽しめるかと言ったら、たぶん無理だろう。それどころか、理解すら難しいかもしれない。
 
 [補足2]:個人的には、美少女キャラ所有願望は、優越感というアングルから眺めただけでは大した発見は無いと思う。むしろ、制御困難な他者としての異性に対する不安の防衛というアングルから眺めてこそ、理解が深まるのではないか。実際、泣きゲーを介して優越感にひたっていたオタクは見たことが無いが、異性に対する不安の強い消費者でも泣きゲーを介してなら美少女を消費できる、という構図なら、けっこう見かけたように記憶している。
 
 
 【「女の子に関わり続ける俺」を想像しやすい】
 
 それと、「女の子に関わり続ける俺」を想像するために障害者的なヒロインが必要だった、というのもありそうである。
 
 異性にコミットする経験と想像力を欠いている消費者*2にとって、「女の子に関わり続ける俺」を想像するのは「女の子との出会い」を想像するのと同じぐらい難しい。少なくとも、異性との出会いの場面を「空から美少女が降ってきた」「前世の因縁」「セカイの危機」などに頼らざるを得ないような消費者にとっては、そうだろう。
 
 たとえば、

 普通の女の子と仲を深めるったって、普通の女の子に自分は何が出来るのか?普通の女の子に自分はどうコミットできるのか?

 こう質問された時に何も連想できず「やっぱりボクは要らない人間なんだ」と落胆してしまうような消費者にとって、「女の子に関わり続ける俺」を想像し、あまつさえ感情移入するというのは容易では無い。
 
 しかし、ヒロインに不可逆で深刻な障害があれば話は別だ。彼女達は、常に困っている。ずっと困っている。だからいつまでもコミットする口実を失わないし、いつか自分が要らない人間になってしまう不安にも怯えなくて済む。普通の女の子だったら、仮に一時的なトラブルに巻き込まれて困っていたとしても、そのトラブルを解決してしまったら縁がほどけてしまうが、不可逆で深刻な障害を持ったヒロインなら大丈夫、というわけだ。少なくとも、終幕まで「女の子に関わり続ける俺」を維持する口実にはなろう。「普通の女の子に関わり続ける俺」を想像できないような消費者にとって、こうした設定は非常に便利である。
 
 もちろん、こうした便利な設定は21世紀の萌えコンテンツ群でも随所に見受けられる。そのなかでも『涼宮ハルヒの憂鬱』のSOS団は特筆に値する存在だ。SOS団は、ハルヒといういつも困った女の子にいつまでもコミットする組織であり、また同時に「異性に関わり続ける俺」を否認してやまないキョンが、異性に関わる口実を獲得しつづける場としても機能している。よく練られた設定だと思う。
 
 
 【自己投影にも好都合】
 
 特に非コミュ系のキャラクターの場合、単に所有願望が充たせるだけでなく、キャラクターへの自己投影を通して自己愛を充たす----つまり、かわいい姿に変身した自分自身にうっとりする----にも好都合だったりする*3。『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門有希や『Angel Beats!』立華かなで などがその代表格といえるが、こうしたナルシシズム的なキャラクター消費は、泣きゲーの時代においてもたびたびみられるものだった。
 
 ただし、極端に頭が悪すぎる・病弱すぎるキャラクターは自己投影にはあまり向いていない。00'年代後半以降、美少女所有願望 → 自己投影しやすい美少女との一体感を介したナルシシズムへとトレンドが広がっていくなかで、典型的な泣きゲーが衰退し、自己投影に利用しやすそうなレベルの非コミュキャラクターが人気を博するようになっていったのは、当然の流れだったのかもしれない。所有願望に特化したキャラクターよりも、ある程度は所有願望に適しつつ、ある程度は自己投影にも適したハイブリッドな萌えキャラクターのほうが間口が広いのは確かなのだから。
 
 

おわりに

 
 以上、「なぜ泣きゲーに頭の悪そうなヒロイン・障害を持っているようなヒロインが必要とされたか」についてまとめてみた。
 
 所有願望や自己投影のニーズを充たしやすかっただけでなく、キャラ立ちの問題、「異性に関わり続ける俺」を想像しやすかった点など、さまざまなニーズに応える造りだったからこそ、当時の泣きゲーは一世を風靡したのだろう。そうしたニーズのなかには、(所有願望のように)現在は相対的に薄れてきているものもあれば、(自己投影のように)相対的に強まっているものもある。時代と消費者が変われば、ヒットコンテンツの傾向も少しずつ変わるわけで、そうしたなかで「泣きゲーの時代」というのは過去のものになっていった。
 
 それでも、泣きゲーで蓄積されたノウハウ自体は継承され、現代のキャラクター造型に生かされているし、泣きゲーが流行していた頃の消費者と現代の消費者には、共通する部分がまだまだ多い。対人関係のアーキタイプ・「異性に関わり続ける俺」に関する想像力の貧困・異性に対する不安の防衛、などに関しては、とりわけそうだと言える。このため、現代の萌えコンテンツやキャラクターを理解する一助として、泣きゲーの構造やキャラクター機能を振り返ってみることには、今でもそれなりの意義があるのではないかと思う*4
 
 
 [関連:]http://shirokumaice.sakura.ne.jp/moe_and_self.htm
 

*1:対して、自立した女性や意志を持った女性を、優しさや保護という形式でコントロール下に置くには相当な口実が必要となる。まして、そのような口実を継続させるなどというのは甚だ困難である

*2:そして少なくとも当時のエロゲー消費者の殆どはそのような消費者だった、と認識している

*3:参考:http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100414/p1

*4:尤も、「コンテンツがいくら洗練されようとも、泣きゲーの最盛期から、消費者のメンタリティの根幹の部分はたいして変わっちゃいない」という気付きに耐える必要はあるけれども。