シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「母親の自己実現のために」育てられた子どもが背負う呪縛

 
 
 どんどん不幸になっていく米国の女性たち | JBpress(日本ビジネスプレス)
 
 女性の自己実現と自立をよいものとしてきた国、アメリカ。そのアメリカで、当の女性達がどんどん不幸になってきているという。リンク先の記事は、「自己実現しなければならない雰囲気」「自己実現を尊ばなければならない雰囲気」のもとでスーパーウーマンに向かっていく女性達の、表沙汰になりにくいしんどさについて紹介している。
 
 
 ところで、何もかもを自己実現してしまえる女性、スーパーウーマンとして仕事も子育ても趣味も強烈にこなせている女性のもとに生まれた子どもは、果たして幸せになりやすいだろうか?私は、ちょっとヤバいんじゃないのかな、と思う。とりわけ、そういったスーパーウーマンな女性が「自己実現」「なんでもできる私」志向が強すぎる場合などは、育てられる子どもはかなり苦労するんじゃないだろうか。
 
 

「子どものために必要とされる母親」より「母親の自己実現のために必要とされる子ども」

 
 一人の女性が、自己実現のために仕事も家事も結婚もすべて手に入れていく、それ自体は、そんなに悪いことではないと思うし、やりたい女性はガンガンやればいいと思う。では、出産や子育ても同じノリで考えて良いだろうか?自己実現のために出産し、自己実現のために子育てして良いものだろうか?
 
 子どもの立場に立って考えると、「母親の自己実現のために」育てられるというのはなんだかとても窮屈そうだ。なぜなら、母親の自己実現の基本方針に添った形で育てられることこそあれ、そこからの逸脱や離脱は殆ど認めて貰えなさそうだからだ。たぶん、非常に自由度の乏しい、「母親の自己実現に沿うような子どもとして」振る舞うよう期待されることになる。
 
 もちろん、どこの親でも「子どもには、こうであって欲しい」という願望はあるだろうし、そういう願望によって教育方針も左右されよう。けれども「子どもには、こうあって欲しい」の度合いが高すぎれば高すぎるほど、子どもが被る束縛はタイトなものにならざるを得ない。幼稚園の頃も、小学校に入学しても、思春期を迎えても、[母親が望む通りの子どもとして][母親の自己実現に寄与するような子どもとして]振る舞うよう期待されるのは、正直かなりしんどそうだ。
 
 とはいえスーパーウーマンともなれば、それなりに合理的で将来性の高そうなレールを設計しそうではある。教育、健康、趣味、いずれもバッチリだろう。しかし、母親の敷いたレールにひたすら忠実なだけでは、自分の足で歩く術を身につけられないし、誰かの指示を常に待っているような大人になってしまいかねない。それに、スーパーウーマンとて子どもの未来に必要な全てのエッセンスを知り抜いているわけではない。例えば、子どもにガリ勉させるメリットは理解していても、ガリ勉ばかりしていることのリスクは見落としているかもしれない。人間は、欲目に眼がくらんでいる時ほど、メリットばかりに眼が向いてデメリットやリスクのことは忘れがちなものだ。そういう意味では、「母親自身の自己実現」に眼がくらんでいる度合いが高い母親ほど、この手の“リスク見落とし”に陥る可能性が高い。もし、大きな“リスク見落とし”があるにも関わらず、母親の敷いたレールからの離脱や逸脱を禁じられ続けたら、いつしか子どもは袋小路に追いつめられてしまう。
 
 「そんな親の自己実現に付き合う必要は無い!親のレールからはみ出てしまえ!」と言う人もいるかもしれない。けれども言うほど簡単ではない。幼い頃から「母親の自己実現」に沿った行動をしなければ微笑んで貰えない日々を過ごしていた人は、そう簡単にこの呪縛からは逃れられない。
 
 スーパーウーマンたるもの、もちろん「あなたの好きにして良いのよ」と、言葉では自由を保障するだろうし、子どもが何かするたびに「あなたの選択はいつも完璧ね」と祝福さえ口にするだろう。けれども「母親の自己実現」に寄与しない行動をとったり、「母親にとって満足のいかない子ども」として振舞えば、ママはちゃんと微笑んでくれない!それは子どもにとって死活問題だ----微笑みを返してくれない母親というのは、太陽の失われた空のごとく恐ろしいもので、子どもは母親が再び微笑んでくれるよう最善を尽くさずにはいられない----。いくら言葉で自由を保障してみたところで、それが表情や態度のレベルと食い違っていれば、子どもの精神は透明な檻に幽閉される。あるいはダブルバインドな母親からのメッセージに混乱させられてしまう。度が過ぎれば、それが生涯消えることのない呪縛として子どもの精神に刻み込まれるかもしれない。
 
 養育者に全面的に依存せざるを得ない年頃の子どもにとって、母親は太陽のように大きな存在であり、母親の意志やエゴの影響を受けずに済ませることは不可能に近い。そのような状況下で、「母親の自己実現」に沿うべく期待されまくりながら育てられる子どもが、どういう処世術を身につけることになるのかを想像すると、ちょっと怖い。仕事も、結婚も、家事も、子育てさえも取り込んで自己実現していくグレートなマザーが、子どもだけは自由奔放に育てていくということが、果たしてどれぐらいありえるだろうか?
 
 本来、むしろ子どもの側こそが、自分自身の拠って立つよりどころとしての母親を必要としている筈なのに、「女性の自己実現」の一環として組み込まれた子育ては、むしろ母親の自己実現のために子どもが必要とされるような構図に傾きやすいのではないか。女性の自己実現問題やスーパーウーマンの問題は、単に母親自身にとってだけでなく、その母親によって育てられる子どもにとっても切実な問題のようにみえる。女性がどんどん不幸になるだけでも哀しいことなのに、その女性の子ども達までどんどん不幸になっていくとしたら、あまりにも悲惨すぎる。
 
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