シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

俺は、真希波マリの涙目がみたくてしようがないんだ(ネタバレ含む)

 
 
 ※この文章は、ヱヴァ新劇場版ネタバレを含みます。『ヱヴァンゲリオン破』をご覧になっていない人は、読まないほうが良いと思います。
 
 
 
 
 真希波 マリ イラストリアス。
 新劇場版ヱヴァで登場してきた眼鏡娘である。
 
 リメイクされたとはいえ、1990年代のテイストを漂わせた登場人物ばかりのエヴァのなかで、この娘だけは完全に21世紀的な容貌を与えられ、スクリーンのなかで異彩を放っている。
 
 細い眼鏡、丈の短いチェックのスカート。「自分は大人を利用している」と言ってみたり、自分自身のリスクや危険を顧みずに戦闘や状況を楽しんでいるさまは、2000年代のスマートなキャラクター造形としていかにもありそうなものだと思う。もちろん彼女は、“正義”や“平和”に衝き動かされて血をたぎらせるような、“古き良き時代の熱血系”ではない。昭和歌謡を口ずさむ姿も、昭和時代そのもののテイストというよりは、“昭和歌謡を歌う平成っ子”を連想させる。
 
 

俺は、真希波マリの涙目がみたくて仕方ないんだ

 
 本来エヴァンゲリオンという作品は、TV版でも新劇場版でも、“キャラ”消費のための作品である前に、個人と個人が摩擦や葛藤を引き受けながら向き合っていくことを主なテーマとした作品の筈、と私は常々感じてきた。90年代のTV版では、結果として“キャラの独り歩き”を許してしまったけれども、主要な登場人物達の人間模様や人物描写のなかには、“キャラ”という言葉に回収してしまうことを許してくれない剰余が常に含まれていたと思う。特に新劇場版では、人間らしく振る舞うようになったレイ・ヤマアラシのジレンマを抱えながらも溶岩のようなエモーションを眠らせているシンジ・人格が円くなったアスカのように、いずれも、キャラ属性だけでは回収しにくい造りへとシフトした。
 
 にも関わらず、真希波マリだけは“洗練されたキャラらしい姿”をみせている。他の登場人物達の、良く言えば人間的な、悪く言えばキャラの立たきっていない泥臭さとは対照的に、異様なまでにキャラがクッキリと立っている。そして弱みをみせることもなく、喜怒哀楽のうち肯定的で前向きな姿だけを露出していたのである。これは、ヱヴァの人間描写のなかでは不自然な部類に属し、人間離れしている*1。真希波マリは、人の形をしているのに、人間にあって然るべき、葛藤や苛立ちや怖れといった感情が欠落している。少なくとも現時点では。
 
 人間は、キャラさえ立つならネガティブな感情や葛藤から自由でいられるだろうか? まさか!絶対に無理だ。ポジティブで前向きなキャラだけを持って生きていけばメンタルへの負荷をゼロにできるかというと、そうは問屋が卸さない。仮にそんなやつがいたら、それはもう“人の形をした人にあらざるモノ”としか言いようがない。
 
 なので、真希波マリが“人の形をした人にあらざるモノ”ではなく、あくまでヱヴァの登場人物である限りは、以下のどちらかの形をとるだろうと予想せずにはいられない。
 
 
 1.やっぱり真希波マリも人間でした路線
 「今作ではボロや弱みをみせていない真希波マリも、ちゃんと人間でした、執着やら葛藤やらを持っていましたよ」と後になって分かる路線。今後、なんらかの形で弱音を吐いたり誰かに泣きついたりする真希波マリを目撃できるかもしれない。もちろんそんな事をすれば“軽やかな21世紀風キャラ”ではいられなくなるが、まぁ、なにかしら人間くさい登場人物には落ち着くだろう。怒った真希波マリ、泣いた真希波マリはどんな顔をするんだろうか?
 
 しかし、真希波マリが弱音を吐けそうな相手は登場人物のなかに見当たらない。加持リョウジとは、利用しあうようなドライな関係でしかないようにみえる。そもそも、“あらゆる状況を楽しんでいる快活なプレイヤー”という強固なキャラの枠組みを手放したがっていないようにもみえる。また、“当初は涼しい顔しか見せなかったキャラの葛藤後出しジャンケン”は、安っぽい描写に陥りやすい*2ような気がするので、そういう意味でも、後出しで葛藤や人間らしさを見せてくる可能性は低いような気がする。 (※まぁ庵野監督なら、そういう展開でも綺麗にまとちゃうだろうんだろうけれど)
 
 
 2.“キャラ”を貫ききれずに壊れちゃいそう路線
 本命はこちら。真希波マリの処世術と心的適応は、相当に偏っているのではないか。
 
 彼女が生身の人間である限り、葛藤や逡巡もあるだろうし、痛みや怖さに対する不安が絶無というわけにはいかないだろう。しかし、もし彼女が、自分自身の葛藤や逡巡を意識することすら出来ないほど不器用な人間で、その結果として“あらゆる状況を楽しんでいる快活なプレイヤー”というキャラの枠にしがみついているだけだとしたら?“葛藤が無い”のではなく、“葛藤を意識できない・表明できない”ほど面倒なメンタリティの持ち主だとしたら?
  
 劇中の真希波マリも、かなり痛い思いをしたり酷い目に遭ったりしているようにみえるけれども、それらに伴うネガティブな感情はひたすら“楽しさ”にマスクされて表に出てこない。“勇気”でどうにか恐怖と闘っていたシンジの姿とも違うし、自分の望むような戦闘が出来ないと涙ぐむアスカとも違う。あたかも痛みや不安を忘れさせるドラッグでもキメているかのような、その辺りの鈍感さが、人間離れし過ぎている。
 
 果たして、あれは“強さ”だろうか?
 
 

怒りや哀しみの欠落した人間は、本当に強いのか?

 
 真希波マリは、葛藤や悩みに対する防衛が強固すぎるんじゃないか?*3なるほど、あのキャラを最後まで貫徹できる限りは、彼女はとても強いだろう。けれども現実の人間社会をみるに、ポジティブなキャラを貫こうとしてしまうような人は、いったん守勢に回ると非常に脆く、強い不適応を呈するものだ。そしてそうやって溜め込んだ“怒り”“哀しみ”は制御不能なほど膨らみやすく、しばしば爆発することもある。真希波マリが人間である限り、キャラ立ちが完璧であればあるほど、キャラに隠蔽された部分の葛藤や悩みは制御困難になりやすいのではないだろうか。
 
 葛藤や悩みを自分自身の意識から追い出す症候のなかでポピュラーなもののひとつに、解離dissociationという症候がある。二重人格などもこの解離の仲間で、二つの人格*4の移り変わりの前後で記憶の喪失や混乱を呈する。しかし一般的には、こういった解離を呈する人のメンタリティは柔軟性を欠くことが多く、長期に渡って良好な社会適応を維持できる人は少ない。もしも真希波マリがこの解離に合致しているなら、生身の人間がああいうキャラを演じることも理解できなくもない。ただし、解離を起こして記憶の混乱を呈している最中は、獣のように暴走しているかもしれないが…。
 
 真希波マリの、葛藤や逡巡の異様な欠落をみていると、その手の解離を呈する人達をどうしても連想してしまい、私は気になってしようがない。彼女は、本当は銑鉄のように硬く脆いパーソナリティの持ち主なんではないか?統合された人格のなかで葛藤を葛藤するだけの力を欠き、いつか解離めいた制御の悪い状態に陥ってしまうかもしれない。
 
 

泣きなよ、真希波マリ

 
 まぁ、御託はどうあれ、真希波マリがせめて人間らしく涙を目に浮かべる姿のひとつでも拝んでみたいと思いませんか?
 
 彼女が人間として真っ当に幸せになろうとしたら、喜びや楽しみだけのキャラではなく、哀しみや怒りのような感情にもまみえながら、時に笑い、時に怒り、時に涙するようにまとまらなければ無理だろう。葛藤の無いキャラに固執するだけでは、人は絶対に幸せになれないし、統合性のあるメンタルを維持することも出来ない。だから、たぶん彼女は涙を必要としている。痛かったり怖かったりしたら、泣いたっていいはずなんだ。
 
 
 最後に、加持リョウジの台詞を挙げておこう。

「辛いことを知ってる人間のほうがそれだけ人に優しくできる。それは弱さとは違うからな。」

 
 彼女は、辛いことを知っている*5だろうか?
 彼女は、人に優しくできるだろうか?
 
 真希波マリに、幸あれ。
 
 
[関連]ヱヴァンゲリヲン破、ネタバレ3 真希波・マリ・イラストリアスは虚ろなライトヲタ - 旧玖足手帖-日記帳-
 

*1:今回の映画版でこれほどキャラだけが突出して立っているのは、唯一渚カヲルだけである。

*2:ガンダムSEEDのラウ・ル・クルーゼのように

*3:エヴァ風に言うなら、ATフィールドが強すぎる、となるだろうか?

*4:または状態

*5:=意識し体験として記憶している