シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“勇気信者”と“反勇気信者”というコインの裏表

 
 「要は、勇気が無いんでしょ?」という説教。
 この説教への反発としての「勇気が無いから俺はダメ」という絶望。
 
 もう殆ど確認作業になるんだけど、両者はコインの裏表で、同族嫌悪的な関係にある。
 
 「要は、勇気が無いんでしょ?」と説教たれる人も、説教に反応して「勇気が無いから俺はダメだ」と苛立つ人も、実は“勇気の効能”を魔術的に信じているという点では大差がない。一方は、勇気があればサクセスストーリーが待っていると囁き、もう一方は、勇気が無いから俺にはサクセスストーリーなんて有り得ないと嘆いているが、どちらの側も、“勇気”こそが人生の可否を握るマスターキーであると認識している、という点では価値観を共有した同胞だといえる。
 
 この構図は、ちょっと昔にネットで流行っていた、非モテ云々を巡る議論にそっくりだ。あの頃、“恋愛しなきゃ駄目だよ”と説教する側だけでなく、“恋愛できない我が身の不幸”と嘆く側のほうも、あたかも恋愛が人生の可否を握るマスターキーであるかのように、大げさな口ぶりで恋愛を語っていたと私は記憶している。感情を伴った、強い否定のジェスチャーを通して、彼らは自分自身が最も忠実な“恋愛信者”であることを告白し、恋愛至上的な価値観にいよいよのめり込んでいったわけだ。そしてディスカッションの場では、恋愛を過剰に勧める人間と恋愛を過剰に拒む人間とが、同族嫌悪的に惹かれあってもいたわけだ。*1
 
 

議論に熱中しているうちに「ますます勇気は霊験あらたかになっていく」

 
 こうしたコインの裏表は、ネット上では様々なバリエーションがみられて興味深い。“勇気”“恋愛”“理性”“やる気”“努力”などといった単語を巡って、一見正反対にみえて実はコインの裏表に過ぎないジキルとハイドが、同族嫌悪的な源平合戦に明け暮れる光景は、インターネットの世界では日常的なものだ*2。例えば“勇気”という名の錦の御旗を挟み、説教派と否定派が源平合戦を続ける構図は、しばしば“勇気”の価値をインフレーションさせ、“勇気の神通力”をますます霊験あらたかなものへと錯覚させる。例えば、“勇気があれば極楽だ!”“勇気がなければ地獄だ!”のように。
 
 “勇気”にせよ“努力”にせよ、本来は人間を彩る沢山の属性のひとつに過ぎない。“勇気”も“努力”も、そりゃあ無いよりはあったほうが良いかもしれないが、“知性”“慎重”“情熱”だって捨てたモンじゃないし、それらが“勇気”や“努力”の乏しさを補って余りあるという個人もいる。また逆に、いくら“勇気”や“努力”に恵まれていても、他があまりにも疎かであれば破滅が待っているわけで、“勇気”や“努力”は幸福の十分条件というわけでもない。“恋愛”にしても同様で、人生という名の多面体を形作る重要な一側面だとは思うけれども、絶対的な一側面というわけではないし、“恋愛”とは縁が薄くても豊かな人生というものは、おそらくあるのだろうと思う。
 
 だがややこしいことに、“勇気”“努力”“恋愛”などに言及していると、それが否定的なニュアンスの場合でさえも、相対化がますます困難になって、言及対象を絶対視するビジョンが強化されてしまうような、変な悪循環に陥ってしまう場合があるようにみえる。“勇気”や“努力”に欠けていると自覚する側が、実はそれらを至上命題として内面化している場合は特にそうだ。この悪循環に陥らないようにしたいなら、“勇気”“努力”の可否にばかり過剰に言及するよりも、それらを相対化する視点や、代替可能な諸属性に着眼したほうが、なんとなく有効そうな気がする。
 
 繰り返しになるが、
 “勇気”を過剰に肯定するのも、“勇気”を過剰に否定するのも、勇気を至上命題とする価値観の持ち主である点では同じ穴のムジナであり、紙一重の価値観であり、コインの裏表に過ぎない。本当に“脱-勇気信者”“脱-努力信者”を考えたいという人は、コインの表裏をひっくり返す作業に明け暮れるのではなく、コインの外に飛び出すなり、他の様々なコインと一緒に並べてみるなり、他に優先すべきジェスチャーがあるんじゃないのかな、と思う。
 
  

*1:勿論、幾人かの目鼻のきく人間は、この構図にいち早く気付いており、染み付いて取れないほど内面化された自分自身の恋愛信者的な部分への言及なり対応なりを考えていたことは付け加えておく。

*2:勿論、この件に言及した私自身がこの千日戦争の当事者であることを、私は自覚せずにはいられないが。