シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

日頃、インフォームドコンセントについて考えていること

 
 インフォームドコンセントのコスト - NATROMの日記
 
 インフォームドコンセントinformed consent。このインフォームドコンセントの精神が医療法に盛り込まれたのは、1997年のことで、以来、何度もマスメディアに登場し、現在の医療制度のなかでは尊重されて当然とみなされている。これを無視したDr.(医師)主導の医療行為は、たぶん“訴訟に負ける”だろう。
 
 しかし、このインフォームドコンセントの成立/不成立を巡ってのトラブルは絶えないし、選択肢の十分な説明を行っても、主体的決定よりも「先生にお任せします」の一言を選ぶ人はまだまだ多い。そして「先生にお任せします」というスタンスは、詳しさを優先した説明と理解*1や、分かりやすさを優先した説明と理解*2を付け加えても変わることが無い。それなら主体的決定があるまで待ちましょう…と言いたいところだが、人体はナマモノだし、腫瘍細胞は刺身よりも足が速い。病気は待っちゃくれないのだ。
 
 

じゃあ、「インフォームドコンセントが成立している」って何なのよ?

 もちろん、インフォームドコンセントという概念のなかには、「Dr.が提示した全ての選択肢を突っぱねて、医学的には明らかに不利益な選択肢を主体的に選ぶ」という可能性も含まれているし、そのような選択肢は尊重される。“エホバの証人の輸血問題”などが、好例だろう。
 
 「インフォームドコンセントの成立」という意味では、エホバの証人のPt.(患者さん)が“俺は輸血するぐらいなら死を選びます”と主体的にキッチリ決定してくれる場合などは、インフォームドコンセントはむしろ成立しやすい、と言える。医学的見地にたったDr.からの説明をしっかり理解したうえで、それでも自分自身の価値観に則った自己決定を行うという意識を十分に持っているPt.の場合は、インフォームドコンセントがきちんとした形で成立しやすい
 
 インフォームドコンセントは「説明と同意」とか「納得診療」と翻訳されることが多いけれども、個人的には、「医学的説明が理解された後は、Pt.自身の自己決定を最大限尊重する」というコンセンサスがDr.側とPt.側で共有され、尊重されている状況という表現のほうが、インフォームドコンセントの成立状況を想像しやすいと思う。“エホバの証人の輸血拒否”の場合も、Pt.自身が医学的有益性を理解したうえでそれでも輸血しないと自己決定し、なおかつその自己決定をDr.とPt.の双方が尊重するというコンセンサスが成立してはじめて「インフォームドコンセントが成立した!」と言える。
 
 逆に考えるなら、「インフォームドコンセントがちっとも成立しない」状況というのは、
 

  • 1.Dr.からの情報を理解しても、Pt.の側が自己決定を望まない状況
  • 2.Dr.がPt.の自己決定を尊重しないか、無視する状況

 
 の二択ということになるわけだ*3。だから、かつての日本でありがちだった、「1.先生にお任せします」「2.俺は医者だ!俺に任せろ!」という組み合わせは、たとえ双方納得していてもインフォームドコンセントの精神の正反対といえる。
 
 そして1997年の医療法改定以来、2.のような状況は急速になくなってきている*4。そんなことをやっているDr.は、弁護士を幾ら雇っても足りないというのが21世紀の状況だ。
 
 対して、1.はどうか。
 私が見聞きしている限りの印象としては、情報を理解したうえで自己決定を尊重する、というコンセンサスを持ちたがらないか、むしろ忌避するタイプのPt.が、まだまだ沢山、存在しているんじゃないか、という気がする。医療という、命がかかっている場面で、自己決定を尊重したいというPt.や、自己決定が可能なPt.というのは果たして、今の日本にどれぐらい存在しているんだろうか?
 
 

自己決定は本当に祝福されているのか

 
 端から見ている限り、自己決定というのも、それはそれでかなりしんどい。
 
 医療絡みの自己決定の場合、命や健康がかかってくるわけで、「自分の命のハンドルは自分で握る」に近いような緊張を伴い、それなりの主体性が求められる。まして、五年生存率20%だの40%だのという残酷な数字が並んでいるような状況での自己決定というのは、「地雷原突破に臨むような」感覚なのだろう。そう思いながら私はPt.の話を聞いている。
 
 それでも、小さい頃から自己決定を良いこととしている価値観の持ち主であれば、「他人任せなんてもってのほか。」と思うものだろう。個人主義を前提とした社会に育ち、自己決定や自己主張を祝福されながら育ってきた欧米人にとって、自己決定とそれを前提としたインフォームドコンセントはあって当然の、無ければおかしなものかもしれない。
 
 しかし、小さい頃から自己決定を良いこととしている価値観の日本人や、自己決定に慣れている日本人が、どれぐらいいるだろうか?“出る杭は打たれる”と教えられ、協調性を祝福されながら育ってきた日本人にとって、自己決定や、自己決定を前提としたインフォームドコンセントの精神はどの程度「望ましく」「容易な」ものなのだろうか。いついかなる時も自己決定を祝福されながら育った日本人も、若い世代を中心にもちろんいるだろう。しかし、“空気を読んで空気に従う”ことにばかり長けた人達や、偉い人には面従背反しつつも影では愚痴をこぼす人達*5においてはどうか?Dr.に任せっきりよりも自己決定を尊重し、困難な状況下のハンドルを自分で握り、その結果を自分で受け容れるという用意が出来ているのだろうか?
 
 私が実地でみている限りでは、こうした自己決定(とりわけ困難な状況下の自己決定)を率先して受け容れる人というのは、まだまだ少ないようにみえる。まあ、増えてきてはいるだろう。けれども、社会全体に共有された感覚というレベルにはとうてい達していないんじゃないか。厳しい状況に際して自己決定するよりも、「あと1%でも生存率をあげてください」「必ず助かると言ってください」とひたすらすがり続けるか、「先生にお任せします」を通そうしたがる人が多いようにみえる。これは、年配世代に限った話ではない。20代〜30代にも、こうした人はまだまだ後を絶たないようにみえる。
 
 かと言って、今更インフォームドコンセントを怠り、「俺に任せろ」とはいかないのが実際の医療現場だ。たとえPt.や家族が自己決定を回避したがっているのが明らかであっても、「俺に任せろ」がまかり通る時代ではない。自己決定を回避したがっているPt.には気の毒だとは思いつつも、インフォームドコンセントが成立するようにありとあらゆる働きかけをDr.やっていかなければならない。正直、「自己決定してください!」「自己決定はいいものなんですってば!」とDr.が自己決定を押しつけているかのような場面が、医療現場にはあるんじゃないかと勘ぐりたくなることがある*6----例えば、署名書類上は自己決定したかのような体裁をとってはいるけれども、Pt.の心情としては最後まで自己決定を回避したまま、厳しい結果を受け容れる準備も無いままに化学療法や手術に臨んでいる事例のような。それでも形式的には「Dr.はPt.に対してインフォームドコンセントを実施した」という書面が残るだろうし、訴訟対策としては十分だろう。しかし、そういう形式ばかりが先行したインフォームドコンセントというのは、欧米で望ましいものとみなされているインフォームドコンセントの精神に合致しているのだろうか?
 
 

それは本当にインフォームドコンセントなのか?

 
 私が理解する限り、インフォームドコンセントの精神は、本来、自己決定が良いものとして社会全体に共有されている文化圏で生まれ育った精神だ。それを、自己決定を尊ぶ風土がまだ定着していない文化圏に持ち込むということが、一体どういうことなのか、医療者の側も、医療を受ける側も、本当は真面目に考えたほうが良い筈なのだろう。これはインフォームドコンセントだけに限った話ではなく、欧米の文化風土から直輸入された、他の多くの精神・概念にも、当てはまる筈だ。
 
 一応、建前のうえでは既に、自己決定は良いもの「ということになっている」し、今後はもっと定着していく、のだろう。いつかは、Dr.側もPt.側もインフォームドコンセントを違和感なく共有する時代が来るのかもしれない。だとすれば、現状は過渡期の苦しみ、という風に理解すれば良いのかもしれない。
 
 とはいえ、株式会社が「日本風株式会社」になったように、または民主主義が「日本風民主主義」となって定着したように、インフォームドコンセントもまた、日本人固有の精神にフィットするよう変質した形で定着していく、という可能性もなくはない。自己決定を回避し、空気を読み合う社会風土に相応しい形で定着する「日本風インフォームドコンセント」とはどんなものなのか?形式は欧米風でも、内実は日本風の、いかにも日本的なシロモノが定着するのではないだろうか。果たして、欧米人からみても十分にインフォームドコンセントと呼べるような形で定着するのだろうか?
 
 
 今日は、インフォームドコンセントについて日頃考えていることを書き並べてみた。インフォームドコンセントは、もう避けて通れない、Dr.にとって必須の営みなのは理解していても、こういう疑問をときに振り返ってみるのは悪くない、と私個人は思っている。しかし、こんな疑問を抱けるのは、まだしも幸運な部類に入るのだろう。疑問を抱く暇さえ無いほど磨り減っている現場が、あちこちにあるのだから。
 
 

*1:分かりやすさが犠牲になりやすい選択である

*2:詳しさや厳密さが犠牲になりやすい選択である

*3:実際には、Pt.自身が意識不明の重体である場合や、救急医療のように五秒十秒が命取りの場合、Pt.が未成年の場合などは、例外となる。こうした例外状況の是非については、法的には、インフォームドコンセントを巡る訴訟判例を参考にするのが妥当ということになるだろう。また、措置入院などの、精神科に関連した一部の状況も例外となり得る。これらの例外については、紙幅の都合で省略する。

*4:医療訴訟という圧力が、Dr.側の態度改変の素早さに輪をかけているのは言うまでもない

*5:ちなみに、この手の面従背反な愚痴こぼしに耽る人達は、内心では偉い人に絶大な理想を期待してやまない。

*6:インフォームドコンセントに対するインフォームドコンセントっていうのも無いでしょうし。