http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p5.html内の[斉藤環&宇野常寛]対談記事をみていて、色々と考えさせられた。本のなかで斉藤環先生が触れていた「ひきこもり vs 心理主義」という構図は、「男性の過小適応 vs 女性の過剰適応」とも、「ひきこもり vs 摂食障害」とも符合するものだなという印象を新たにした。もちろんこれは、オタク界隈における「男性オタクはオタクであり続ける vs 女性オタクは大学デビューや職場デビューで同人を卒業する」という傾向とも合致する。
それはさておき、斉藤環さんはしばしば「解離の時代」というフレーズを使う。70年代は神経症の時代、80年代は境界例の時代、90年代以降は解離の時代だ、という風に仰っている。これは今回の対談だけではなく、『博士の奇妙な思春期』や『心理学化する社会』でも一貫して言っていたことだと思う。そして、この「解離の時代」という表現のなかには、症候学の用語としての解離*1に合致するというよりは、ペルソナ的で随意的なキャラの使い分け(それも、場面や相手に応じたデジタルな切り替えを含んだ使い分け)を指し示す比喩としてのニュアンスが含まれている。このような比喩は、臨床上はともかく、評論や社会分析上、なるほどと膝を打つものがある。ただし、症候学上の解離との混同を回避するべく、さしあたり本テキストでは、比喩としての解離は全てイタリック書体としておく。
ところで、対談中で宇野さんも言っているが、ここでいう比喩としての解離、つまり“ペルソナ的なキャラの、相手や場面に応じた随意的でデジタルな使い分け”というのは、現代都市空間を生きていくうえでおそらく必要な振る舞いともいえる。大学のキャンパスでは大学のキャンパスに最適化されたキャラを、合コンでは合コンに応じたキャラを、そしてコミックマーケットではコミックマーケットに適したキャラを、といった具合に、場面と相手を見極めて最適のキャラを相手に“差し出す”。これがきちんと制御できているうちは、都市空間での多様なコミュニケーション場面のそれぞれに*2、最適化した振る舞いを提示できるわけで、まともに関係性を樹立させていく橋頭堡としても、一期一会のコミュニケーションに終わらせるにしても、比喩としての解離に相当するような身振りは、都市空間に暮らす人間に多かれ少なかれ求められる身振りだと私は思う。
しかし、これが誰でもいつまでも可能かというと実際にはそうではないし、実存レベルでは非常に心もとなく、ストレスの溜まりやすい営為でもある。この比喩としての解離が上手やれず、キャラを操縦しきれず、遂にメンタルをこじらせてしまった人が娑婆にはごまんと存在している*3。どれほど上手くキャラを差し出せたとしても、無理をしすぎれば過剰適応に至ってしまうし、下手くそにしか出来なければ、今度はコミュニケーションをコミュニケーションとして望んだ方向に持っていけなくなったり、コミュニティからの脱落を余儀なくされる。
この手の破綻や脱落の仕方には様々あるとは思うけれど、そのなかで、比喩としての解離ではなく、ガチな症候学上の解離を来たしてしまう事例というのはどれぐらいあるのか。ちょっと興味が湧いたので、ここ3年ぐらいの実臨床上の初診統計を見返してみたが、少なくとも私は、解離には意外なほど遭遇していなかった。一年間で、せいぜい五例いるかいないかといったところで、しかもその多くが、解離の背景として重大な適応上の問題を含んでいた。ここでいう重大な適応上の問題とは、何らかの規模の認知機能の障害や、境界パーソナリティ障害の診断基準を初診の時点で殆ど全て満たしているような、そういった問題である。社会適応の水準が比較的良好な人において解離エピソードが独立してみられた事例は、せいぜい1〜2割にも満たず、症候学上で解離と分類される症状は、かなり難しい背景を持った事例を中心とした、かなり限られた範囲の出来事、という印象を禁じえない。少なくとも、リストカットやODなどに比べればまだしも珍しく、そして“手強い”印象の事例が多い。
そうは言っても、症候学上の解離じたいも、ある程度までは、新しい時代に即したものと言って差し支え無いのかもしれない。斉藤環先生は、『心理学化する社会』のなかで、メディアの変遷と絡めて、ヒステリーhysteriaの形式的移り変わり(転換conversionから解離dissociationへ)について言及しているが、確かに、転換よりは解離のほうが多くみかけるし、転換よりは解離のほうが「リアリティに富んでいる」という話には説得力があるとも思う。ヒステリーがヒステリーである限り、症候の形式はその場におけるリアリティの文脈によって強い影響を受けずにはいられないというのは頷ける話で、癒しブームやトラウマ語りのはびこる“こころの時代”において、ヒステリーのリアリティの形式が身体的なconversionから、見えない心に関連したdissociationへと移っていくという斉藤環先生の視点には、やはり興味深いものがあるとは思う。
とはいえ、実臨床において自分が遭遇している事例を思い返す限り、比喩としての解離が維持しきれずに、そのまま症候学的な解離へとなだれ込んでいく事例はごく限られているようにみえ、比喩としての解離が維持しきれずに不時着する先は、例えば摂食障害であったり、社会的引きこもりのようにみえる。そういう意味では、比喩とはいえ、解離という言葉を社会心理学的考察に、または文芸論的考察に、どの程度フィットさせていけるのか、私個人は少し引っかかるところがある。また、実臨床で遭遇する解離が女性のほうが多いということ・21世紀の日本において“やばいことになっているのが主として男性”であることをみるにつけても、社会病理のパラダイムの中心軸を解離的なナニカと捉えるのが適切なのか、まだ分からない。むしろ、ゼロ年代の後半に入ってもなお、社会病理の中心軸は“引きこもり”的な何かであったり、“ゆっくりしていってね!”を含めた、適応からの退却を自己正当化する言説と、適応からの退却を最適化するツール群なのではないか、と私は感じている。*4果たして、私のこの認識は時代遅れのものなのだろうか。
斉藤環先生も、宇野常寛さんも重々承知しているだろうけど、「ひきこもり vs 心理主義」にしても「過小適応 vs 過剰適応」にしても、「適応からの退却 vs 比喩としての解離」にしても、全く対立するものではなく、コインの裏表のように照応している----ちょうど、国道沿いの二つの文化圏たるオタクとヤンキーが、近親憎悪を抱きあいつつも、非常に近しい消費形態とメンタリティを呈しているのと同じように。だとすれば、心理主義-過剰適応の側と、ひきこもり-過小適応の側との両方を上手く想像させるようなレトリックが欲しいなぁと私などは思ってしまうわけだ。その点、比喩としての解離というレトリックは、心理主義や過剰適応の方向性とはフィットするけれども、引きこもりや過小適応とはフィットし難い。ここはやはり、両者を包括して指し示すようなレトリックを、想像したいところだ*5。コインの表だけを指すでもなく、裏だけを指すでもなく、コイン総体を指し示すような、そういうレトリックを想像したい----そして、両方の処世術を超克するか、補完するような適応技術の見通しが立てられたらいいなとも思う。その暁には、「脱非モテメンタルガイド的な何か」「脱非コミュメンタルガイド的な何か」を、組み立ててみたいなとも思う。
[関連]:http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p5.html
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*1:例えばDSM-IVに登場する解離性障害Dissociative Disordersにおいてみられるような解離
*2:コミュニケーション場面のそれぞれに、というのが曲者であることは言うまでもないし、即時性以外何者も忖度しない反射的キャラ差出しと、短期適応への特化、という点において、比喩の言葉として解離という語彙を持ってくるのは巧いなぁと私などは思う
*3:メンタルをこじらせたから上手くやれなかったのか、上手くやれなかったからメンタルをこじらせたのか?私はどちらかといえば前者を気にするタイプだが、もちろん後者の意味合いも否定するわけではない。
*4:むろん、そのような言説とツール群への耽溺による、短期適応だけを優先させた処世術は、おそらくは後々に取り返しのつかないしっぺ返しをもたらすだろう。誤解を招きたくないので書いておくが、私は、それらの言説やツール群を全否定するつもりはないし、過剰な耽溺を余儀なくされる人には、過剰な耽溺を余儀なくされるなりの、相応の理由や背景があるとも思っている。そういった理由や背景を持った人が、嵐からの避難先として、ニコニコ動画やネトゲやラノベに耽溺することを、否定的に捉えすぎてはいけないと思う。しかし、この避難先にあまりにも長期間依存しすぎること・依存を正当化したまま齢だけを重ねていくことには、警戒しすぎてもしすぎるということは無いとも思っている。
*5:尤も、対談の記事を読む限りでは、斉藤先生も宇野さんも、次の一手を当然のように見越しているようにみえた。私個人としては、斉藤先生の言う“関係主義”という単語から、または宇野さんの言う“母性のディストピア”から、一手先が垣間見えるような気がする。今後の言及が愉しみだ。