シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

オタクの葛藤をかわいく映す、映し鏡としての『らき☆すた』

 
 

らき☆すた (6) (角川コミックス)

らき☆すた (6) (角川コミックス)

 
 『らき☆すた』の六巻が平積みにされていたので、買ってさっそく読んでみた。相変わらず、「あるあるー」と思うネタ満載で楽しかったわけだが、ちょっと引いた目線で眺めると、ネタのそれぞれが現役女子高生にとっての「あるあるー」ではなく、(僕自身も含めた)オタク男性諸氏にとっての「あるあるー」に照準づけされたものであることに、微かな寒気を感じた。例えばコンプティーク以外に出張して書かれた四コマ----月刊あすか用に書かれた四コマ----などは、明らかに異なる読者層にとっての「あるあるー」を提供できるように調整されていて、そこら辺のあざとさというか抜け目無さが、非常にみえやすい。尤も、「消費者が消費しやすいコンテンツをお届けする」という観点から言って、これは短所ではなく、もちろん長所と言える。
 
 『らき☆すた』は、女子高生のリアルな描写に徹した作品ではなく、あくまでコンプティーク読者のようなオタな読み手が、自分達の願望に合致するような女子高生のイメージを膨らませて消費する(この消費行為を、一般には「萌え」と呼ぶ)ことを照準づけられた作品、だと思う。リアルな女子高生を演じるのではなく、あくまでコンプティーク読者達にとって身近で分かりやすいネタを演じることによって、『らき☆すた』のキャラクター達は、オタクにとって身近で親しみやすい形で読者の前に現れる。そして『らき☆すた』のキャラクター達の振る舞いが身近であるがゆえに、こなたやかがみなどの個々のキャラクターには、自分自身を重ね合わせやすい。おっさんオタのような趣味趣向性を持ったこなた・素直になれないツンデレかがみ・いつもネトゲばかりで未婚の先生、などなど、オタク達が自分自身を仮託しやすいキャラクターが『らき☆すた』にはたくさん登場している。
 
 
 この手の、『らき☆すた』キャラクターを自分自身を仮託させる営為の典型例の一つが、大学進学後にひとりぼっちになった柊かがみの想像力をふんだんに膨らませた、以下のスレッドだ。
 
 http://changi.2ch.net/test/read.cgi/anichara2/1217608078/(←2008/09/15現在現行スレ)
 木冬かがみが大学でぼっちになっているようです@ 大生板 - トップページ
 
 『らき☆すた』本編では高校卒業後のエピソードはほぼ描かれていないので、大学進学後のエピソードを描くかぎりは本編に矛盾することなく、自由自在に想像力を膨らませやすい。上のスレッドでも、「人間関係に苦戦し寂しい思いをしている柊かがみ」「彼氏がいないとボヤく柊かがみ」という二次創作が大いに発展しているわけだが、内容をみる限り、これらの二次創作のなかで描かれる柊かがみの葛藤や苦しみは、「リアルな女子大生の葛藤」というよりは、あくまで二次創作の作り手達の葛藤に合致した、作り手側の内面がにじみ出したもののようにみえる。二次創作者達は、生の女子大生を描きたかったのではなく、柊かがみという、自己投影しやすい映し鏡を通して、自らの葛藤や心情を回収したかったのではないか
 
 しかも、この映し鏡が「柊かがみ」というかわいい素材で出来ている限りは、彼らの葛藤や心情が醜悪な形で回収される心配は無いのだ。柊かがみというキャラクターが“かわいい”映し鏡であるがゆえに、キャラクターに投げ出された自分自身の葛藤は、美化された形で・かわいらしくデコレートされた形で回収される----どんなにみっともない葛藤を露呈しようとも、柊かがみは常に“かわいい”のだから。例えば「素直になれない俺自身」という葛藤は、それそのままでは直視に堪えないかもしれないが、柊かがみという映し鏡を通してかわいらしくデコレートされれば、「ツンデレ」という萌え属性となって・自己陶酔の形式として回収することが可能になる。ありのままの自分自身の葛藤を肯定するのが難しい人の場合でも、かわいらしい萌えキャラクターとしてデコレーションされた状態であれば、自分自身の葛藤を肯定する難度はグッと下がる。『らき☆すた』のキャラクター達が人気を博しているのは、単にかわいらしいという単純な理由だけではなく、このような、“映し鏡としてのキャラクターを通して、自分自身の葛藤をかわいく消費するのに最適だから”という部分があればこそ、ではないだろうか
 
 

かわいいキャラに葛藤を仮託・投影する営為は、今に始まったわけではない

  
 もちろん、“映し鏡としてのキャラクターを通して、自分自身の葛藤をかわいく消費する”という構図は、『らき☆すた』に始まるものではない。例えば1989年の別冊宝島104『おたくの本』のなかで、上野千鶴子さんは早くも以下のように指摘している。
 

 フロイトによると、人間には二種類の欲求があるの。こんなところで、フロイトなんて使いたくないけど(笑)。そのひとつが、対象化欲求。相手を所有したいという欲求なんだけど、でも、こんなに目の大きい女の子が現実にいるはずないじゃない(笑)。もう一つが同一化欲求。その人自身になりたいと思うわけだから、その場合はこのイラストの女の子が、この絵を描いた男の子の自画像ということになるんだけど、それだって不可能だよね。
 
 引用元:別冊宝島104『おたくの本』より

 男性オタク消費者にとっての美少女キャラクターの消費様式のなかには、「客体対象としての女の子を愛でる」というわかりやすい成分だけではなく、「自分自身を美少女に仮託する」という、ちょっとわかりにくい、ちょっと倒錯的な成分が混入している、ということを上野千鶴子さんは20年以上も前に見抜いていたわけだ。
 
 上野千鶴子さんの指摘を証明するかのように、その後の美少女キャラクター界隈では、自分自身の葛藤を投影し、かわいらしい美少女キャラクターとして回収するのに最適なキャラクターが何度も登場し、人気を博してきた。『Air』や『Kanon』に出てくる不器用きわまりない美少女達をはじめ、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイや惣流アスカ、『月姫』の遠野秋葉や『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒのようなツンデレキャラクターに至るまで、じつに多くの美少女キャラクターが“オタク自身の葛藤を投影し、かわいく回収するのに最適なスタイル”を提供してきた。彼女達への「萌え」のなかには、客体としての美少女を愛でるというニュアンスだけではなく、自分自身の葛藤をかわいく回収し・あわよくば自己陶酔するというニュアンスが含まれていたし、多分、今も含まれている。
 
 この、“オタク自身の葛藤の、かわいらしい回収”という観点からみると、『らき☆すた』のキャラクターというのは感心するほどよく出来ていると思う。こなたにせよ、つかさにせよ、かがみにせよ、オタク自身が自分の映し鏡としてキャラクターを消費するには実に好都合なキャラクターが揃っている。そして、どのような葛藤であれ、直視しがたいコンプレックスであれ、美少女キャラクターを通して回収される限りは、嫌悪の属性は“かわいらしさによって浄化された形で”“愛着の属性へと変化した形で”オタク達のもとに現れるのである。
 
 そういう意味では、『らき☆すた』の作者・美水かがみさんは、図らずもその名の通り、素晴らしい映し鏡として機能している、と言える。オタク達自身の内面の葛藤を、かわいらしい萌えキャラクターで洗い清めてオタク達自身にお返しする、浄化の鏡。柊かがみや柊つかさは、さしずめ浄化の鏡に仕える巫女といったところか。『らき☆すた』が人気を博した要因は様々だろうけれども、僕たちオタクの葛藤を鏡映し、なおかつ“かわいらしさによって浄化して”みせてくれるというのも、結構ポイント高いんじゃないかな、と僕は思う。
 
 
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 ※タイトルをちょっとだけ変更しました(PM4:00)