シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

僕の場合、恩師はいつも過去からやってくる

 
 
 学校教師より塾講師を「良い」と感じやすい理由について - シロクマの屑籠
 
 上の文章に対して、高校生の方*1から質問を頂きました。
 「シロクマさんにとっての恩師って、どんな存在?」と。
 これに答えてみようと思います。
 
 



 
 僕の場合、在学中は先生には全く感謝していなかった代わりに、ろくに期待もしないで過ごしていました。だから、随分と悪さもしたし迷惑も平気でかけていたし、そのせいで随分と怒られました。ただ、ろくに期待してなかったお陰で、“先生の許せない部分や尊敬できない部分に気付いてがっかり”という事もありませんでした。「うるさい先生」「見逃してくれない先生」と思うことはあったけど、先生ってそういうモンだよねと割り切って学生やっていました。
 
 僕が先生達を「恩師」と認識するようになったのは、卒業して何年か経ってからです。「もし、あの時に先生から教わっていなかったら、きっとひどい目に遭ってただろうなぁ」とか、「このやり方って、そういえば先生に教わったんだっけ」とか思い出すようになった頃から、感謝の念を抱くようになりました。在学中のことをあれこれ思い出すと、厨房だった自分が先生に迷惑をかけてきた事や、子どもじみた意地を張っていたこと、それでも見放すことなく(勉強以外のことも含めて)色々教えてくれた事などが記憶に蘇ってきて、ああ、あの頃は気付かなかったけど、知らないうちに先生のお陰で随分助かっていたんだなぁ、と気付く感じです。中学生の時には気づかなくても大学生ぐらいになったら気付く事や、大学生の頃には気づかなくても三十路ぐらいになって気付く“有難み”ってあるんだなと、実感しています。だから僕の場合、恩師はいつも過去からやってきます。もう、教わることが出来なくなってから。
 
 もちろん教師という立場上そうしてるんだ、と考えることだって出来ます。だけど、たまたま縁があって実際に知識や経験を授けてくれたのは、在学中に出会った先生方一人一人ですし、過去の記憶に残っているそれぞれの先生は、どうやったって取替えがききません。そして先生がたから教わった知識や経験は、「今の僕を形作っている一部」として、自分自身に確かに含まれているんです。だから、とりわけ何人かの先生を、僕はかなり強い度合いで「恩師」と感じています。
 
 

追記

 
 この「恩師」的感覚は、学校の先生だけじゃなくて、もう遭えなくなってしまった友人知人にも強く感じることがあります。当時、色々と不満があったり喧嘩した人であっても、楽しい記憶として思い出される人達や、何かを授けてくれた人達のことは、恩義を感じ、自分を形成する1ピースだよなぁとも思います。まぁ、不満や喧嘩しか思い出せない人の場合は、さすがにあまり感じませんが。
 
 あと、現在進行形で関わっている人達に関しても、「この人のお陰で今の自分が助かっている」とか「今、この人と過ごしている時間は将来きっと、大事な記憶になる」と予測される時には、少しづつですが、「きっとこれはありがたいことだ」と思えるようになってきました(不満があれば、やっぱりブーブー言っちゃう程度の感覚ですが)。何年か後のseshiappleさんが、今の私よりもたくさんの「恩師的感覚」や「恩義」に包まれていることを祈念します。
 
 

*1:seshiappleさん