シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

コードギアスのリアリティ----超常の力としてのギアス/超常ではない人間模様としてのギアス

 
 http://d.hatena.ne.jp/north2015/20080526/1211743556
 
 ※この文章は、『コードギアス 反逆のルルーシュR2』のネタバレをもろに含みます。第八話までをご覧になっていない方には、お奨めできません。ご注意ください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「コードギアス反逆のルルーシュR2の第八話が、とんでもない常識逸脱状態になっていてリアリティを手放している」、という話をみかけた。しかし僕などからすれば、“百万人のゼロ”というあの茶番めいた展開のなかにも一定のリアリティは保持されているようにみえた。どうやら、リアリティの感じ所がちょっと違っているらしい。僕の場合、スザクとルルーシュの間柄と因縁、そして卓越したルルーシュの洞察力をもってすれば、あのような“でたらめの実行”を前にしたスザクが身動き出来なくなることはわりと予測可能で、ルルーシュがそこに付け入るというあの展開は納得のいくものじゃないかな、とも思う。
 
 もちろんコードギアスは、荒唐無稽な物語ではある。その荒唐無稽なところにギアスという超常の力が導入されることによって、展開のリアリティが保たれているという見方も、たぶん間違っていないだろう。ただ、それだけでコードギアスのリアルっぽさが成立しているかというと、そうでもないんじゃないか。肝心要の幾つかの部分では、C2から与えられた超常の力だけに限らない、もっと一般的な因縁や執着やメンタリティにキャラクター達は“ギアスされて”振舞っているようにみえるし、だからこそ、ルルーシュやスザクの姿がときに喜劇的だったり悲劇的だったりするのではないか
  
 「今回の解放特区の責任者がスザクであるとルルーシュ側がはっきり知っている限りにおいては」、ルルーシュは超常の力に頼らなくとも*1スザクをハメることは可能だっただろうし、スザクを自縄自縛に陥らせることが可能だった、と僕は思う。なぜならルルーシュは、ユフィの顛末・父親殺しの顛末・スザク自身の真面目で後引き気味な性格 などを手に取るように知っているからだ。であれば、あの瞬間あの場面に遭遇したスザクが国外退去命令を呑まざるを得ない、という自縄自縛の構図がルルーシュには手に取るように予想できたのではないだろうか*2。総責任者がスザクである、ということが把握出来ている限りにおいては、ルルーシュには、この心理戦の賭けに勝つ勝算があったのではないか、と思う。深い因縁と理解を持った間柄であればこそ。
 
 

コードギアスのリアリティと、僕らを自縄自縛するギアス

 
 コードギアスという物語は、確かに超常の力としてのギアスに引っ張られて動いている。けれどもそれ以上に、人間の因果因縁や執着によって発生せずにはいられない、自縄自縛・相互呪縛という意味での“ギアス”によっても物語は動いているし、そこに一定のリアリティが含まれていると僕は思う。超常のギアスに操られなくても、コードギアスの登場キャラクター達はどいつもこいつも因縁と欲望の自縄自縛の“ギアスにがんじがらめな”人間模様を展開しているではないか。ルルーシュやスザクだけではなく、シャーリーも、ヴィレッタも、ロロも、皆、自分自身の因縁や欲望に束縛され、衝き動かされ、そのせいで好機を逸したり背信に走ったりの右往左往を繰り返している*3この、自縄自縛のドロドロした人間模様にこそ僕はリアリティと愛着を感じるわけだ。コードギアスが持っているリアリティとは、超常の力としてのギアスが担保する(物語の)リアリティだけでなく、超常の力以外の、私達にも馴染みの深い自縄自縛としてのギアスが担保する(人間模様の)リアリティもあってこそのものではないかと僕は思うし、今回の第八話も、スザクの自縄自縛ゆえの展開と思えば、さほどリアリティを失っていないように思えるのだ。これまでの“スザクという物語”を読み取る限り、あの展開は、常識からの逸脱というより、予測の範疇なのではないか。
 
 
 リアリティという物語における“納得”や“合点”をどこに視るかによって、鑑賞者は作品のリアリティの可否について云々する。僕の場合は、コードギアスのリアリティを超常の力にではなく、因縁や欲望を巡るキャラクター達の自縄自縛の悲喜劇・そして(必ずしも超常ではない)言葉に宿る“超常ではないギアス”にこそ期待している。超常の力としてのギアスも、そういう意味では、多分にシンボリックなニュアンスの演出として捉えられるかもしれない*4。ギアスってやつは、超常の力に依るまでもなく、常に存在していて僕達を束縛している。コードギアスという物語の内側でも、その外側の僕達の日常でも。
 
 因縁や欲望、言葉の蓄積によって日々自縄自縛に陥りがちな、そんな僕達の似姿としてのルルーシュやスザク、という風に捉える限りにおいては、僕はコードギアスは未だリアリティを喪失していないと思うし、今回の第八話の件も喉の通りが良くなると思う。そして、ルルーシュやスザクという登場人物達の(今回のように時に喜劇的な、時には悲劇的な)物語をいっそう身近なものとして感じ取れると思う。
 
 世の中には、こんな風にコードギアスという物語を楽しんでいる人間もいる、というお話でした。
 

*1:スザクにはルルーシュのギアスはどのみち最早効かない

*2:この推測を補足するかのように、件のシーンの前に、日本人の処刑命令にサイン出来ないスザクに代わってアーニャが死刑執行命令書にサインする描写が挿入されている。また、アーニャはスザクに問いかけるのだ、「マゾ?」と。これらのシーンの挿入によって、スザクが日本人を処断できないという“自縄自縛”の存在が視聴者に明示されている。あのシーンのお陰で、百万人のゼロを前に断固とした措置をとれないスザクのニュアンスが読み取りやすくなるし、だからわざわざあんなシーンが用意されたのだろう。また、最後のシーンでルルーシュが、「スザクを信頼しているからこそ出来た策」うんぬんと呟いているのも、スザクの自縄自縛を狙ったこの心理戦にルルーシュがある程度の確信性を持っていたことを伺わせる。そういう意味では、ルルーシュはスザクを確かに今も信頼している。

*3:または、それを乗り越えて次の境地へと走り続けている

*4:勿論それだけでは、ストーリー立てが成立しないわけで、やっぱり超常の力がリアリティを担保している部分はあるとは想いますが