シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

過去と若さは金銭で贖えない、という前提を踏まえて

 
404 Blog Not Found:旧世代より新世代の方がいいと思えるただ一つの理由
 
 様々な事物の流動性の拡大、そして金銭にあらゆる事物が兌換可能になったことに伴い、個々人の選択肢は増大の一途を辿っている。dankogaiさんの表現を借りるなら、“選択肢のインフレーション”を引き起こしている。という。なるほど、金銭によって贖うことの出来る選択肢が増大していることは事実に違いない。これから何を選ぶのか・これから何を手に取るのかに関する限りは選択肢は数限りなく増大していて、未来へと広く開かれているかのようだ。
 
 
 しかし、増大している選択肢とは言っても、それはあくまで現在〜未来に関しての話で、現在の要因となっている過去を改変させる力は金銭には無い。過去に由来する幾つかのファクターを金銭でどうにかすることは出来ないし、その過去に由来するファクターによって現在〜未来の選択可能性が左右される限りにおいて----つまり過去の蓄積が現在〜未来の選択肢に影響を及ぼし続ける限りにおいて----幾ら選択肢が増えたところで、その自由度を生かしきれるとは限らない。
 
 
 例えば、認知機能や身体機能などはどうだろう。今日現在の「私自身」や「あなた自身」は、幾ばくかの先天的要因と幾ばくかの後天的環境の微妙な巡り合わせの結果として存立しているわけだが、壮年期〜老年期の人が幾ら金を積もうとも、過去に立ち戻って自分自身の身体的特性や認知機能をモディファイし直すことは出来ない。フィットネスクラブに通うことも“四十の手習い”も可能ではあるけれども、それらを通してでさえ、買える選択肢というものは、若い頃までにつくりあげられてきた認知と身体の路線と、加齢の影響によって常に規定されている。そしてもちろん、若さを買うことはできないし、リセットボタンを押すことも出来ない。
 
 
 同じように、金銭を積んでもどうにもならないものとして「過去の対人関係*1を通して形成された、己自身の心的傾向や処世術」も意識しておきたい。
 
 
 私はどちらかといえば、「案外、金で買える愛情もあるかもしれない」と考えるほうではある。けれども、それは現在〜未来にかけての愛情に限っての話で、「過去に遡って」「己自身の心的傾向や処世術に大きな影響を与えたであろう歳月」の愛情を金銭で贖うのは容易ではないと感じる。金銭を幾ら積もうとも、そうそう手に入るものではない*2。金銭を用いれば、現在〜未来の人間関係に好影響を与えることが出来るけれども、過去に遡って、自分自身のテンプレが創られた時期のソレをどうにかする事は出来ないし、その人格や処世術といったテンプレのある限り、現在〜未来の愛情や人間関係のマネジメントの可能性はさほど増大しないのではないだろうか。「私自身」という枠組みのなかから離れることない範囲内で、私達は交際し、愛情を求め、人恋しさを感じるのではないのだろうか。
 
 
 現在〜未来の可能性を金銭で贖う可能性が増大したというのは確かだが、しかし、その可能性を選択する私自身の認知機能や身体機能、そして心的傾向のテンプレートといったものは、金銭を積んでもあまり自由が利かず、例えば私なども、そういった諸々に縛られながら*3今日という日を生きている。そして、それらに基づいて日々の判断を行っている。財布の中身の使い道が幾ら選択肢として増大しようとも、財布を手にしている私自身が過去〜現在の諸々に規定されている限りにおいては、選択肢も自ずと限られてくる。もしも「時」や「若さ」を金銭で兌換できれば、この限りではないかもしれないが。
 
 

「それで我々が幸せになったか」かどうかはわからない。しかしあなたの幸せがどんな色をしているのであれ、色の種類はますます増えている、ということは指摘しておきたい。

 そんなわけで、色は増えたというけれど、色が増えたのは特定のカラースペクトラムの領域だけなんじゃないか、と私は思ってしまいがちだし、その恩恵を受けられる程度も人によって様々だ、と付け加えておきたい。幸福を規定するカラーは数あれど、増えたのは特定の領域の色ばかりなんじゃないか。黄色〜赤色の領域はちっとも増えてないか、むしろ減ってさえいるんじゃないか。そして、いかにカラーパレットの色彩が豊かになろうとも、過去から引きずっている諸々の故に「三原色しか使えない人」「いつも青色や黒色ばかり塗りたくっている人」というのは沢山いるんじゃないか。たとえ愛情や人間関係さえもが金銭で贖うことが出来るとしても、過去にそういったものを体験したことの少ない人は、上手に買えなかったり、買ったとしても拙い取り扱い方しか出来ずに結局は逃がしてしまったりするんじゃないか。そして、未来に向かって良い体験を蓄積させることにも四苦八苦しやすいんじゃないか。
 
 
 金銭で現在〜未来は購入できても、金銭で過去〜現在を購入することは出来ない。そして財布の紐を握っている私やあなたの手は、過去〜現在によって形作られているのだ。私達は、過去〜現在と現在〜未来がブツ切りになった存在ではなく、連続性・関連性を持った“生”を生きている。否応無く、過去の体験や経験、培ってきたものに規定されている。こうした過去からの呪縛(または恩恵)といったものを視野に入れて“金銭で増大した選択肢とは何ぞや”というテーマを考え直すと、運命の女神へのアプローチは、dankogaiさんの楽観的な見通しを基にしたものとは異なったものでなければならないように感じられるわけだ。
 
 
 自らの可能性の増大について考える際には、金銭で贖えない過去〜現在までの蓄積を意識しながらやっていくのが適当ではないかと思う。無かったことにすることの出来ない過去からの連続性を踏まえつつ、己の選択肢という名のカラーパレットを、少しづつ色彩豊かに出来れば良いですね。
 
 

*1:勿論このなかには、最初にして最大の対人関係とも言うべき、家族との対人関係が第一に含まれて来よう

*2:精神分析はどうか?幾ばくかの影響を精神分析的手法なり精神医学的介入なりを通して蒙る可能性は、全くのゼロではないだろう。しかし精神分析が過去の総てを清算するわけではないだろうし、難しい心的傾向に幾らかの影響を与えることはあっても、過去の記憶や歴史全てを無きものにするわけでもない。また、確実に、望ましい結果をもたらすものとも限らない。また年齢の進んだ人においては、その影響なり路線変更の幅なりは小さくなりやすいことも付記しておく。

*3:縛られながら、というと聞こえがわるいので言い換えるなら、「護られながら」ということも出来る。私は今の自分の自由度以上の自由をどうせ持て余すだろう。この、畜生道の肉体の檻がp_shirokumaにはお似合いというわけである。もしも私が、草薙素子のように自由な存在を選べるとしても、たちまち衰弱してアウトだろうなと思う。