シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

新書でみかけた刺激的なフレーズ

 
 
 昨日、嫁が買ってきた一冊の新書をパラパラと読んでいた時に、刺激的なフレーズが登場したので紹介する。
 
 「努力が報われる健全な社会はどこに消えたのかなと、時々思うことがありますね」
 
 これは凄いフレーズだ。努力が報われる社会、というものが、健全な社会ということになっている。となれば、努力が報われない社会というのは不健全なものということになるだろう。このフレーズの意図するところがどうあれ、素面でこの発言をやってのけるのは容易なことでは無いように思えて興味深かった。
 
 もしも現在の雇用状況を不健全とみて、バブル期頃の雇用状況あたりを健全とみていたり、高度成長期の日本の雇用状況あたりを健全と思っているのだとしたら、それは限定された地域の限定された時期をもって健全と呼び、それ以外の多くの社会を不健全と呼んでいることにあたるわけだ。では、フィリピンやパキスタンはどうなるんだろう?アフリカ諸国が話にならないのは当然としても、全世界のなかで、現代日本の“努力が報われる度”がどの辺りにあるのか、または歴史的経緯のなかでどの辺りの達成なのか、などといった事を度外視しなければ、「努力が報われる健全な社会はどこに消えた」などというフレーズを紡ぐことは出来ないだろう。正味のところ、現在の日本は「世界平均水準からみて、個人の努力が報われる確率がまだ高い社会」のほうだと思う。だが、今の日本の水準をもって不健全というのなら、一体どれぐらいの水準が健全なのか、にわかには見当がつかない。それとも何だろうか、“幸運の女神の気まぐれを一切排した努力評価制度”に近いモノが実現したら、それをもって「健全な社会の完成」ということにでもなるのだろうか。
 
 何にしても、歴史的経緯や世界的状況を見渡せない人か、現実離れした“努力至上主義”の理想論を奉じている人でなければ、「努力が報われる健全な社会はどこに消えたのか」などという言葉を、現代の日本で唱えることは難しかろう、と思われる。相対的にみて、一昔前の日本に比べて今の日本のほうが努力が報われにくい社会になっていることは認めるが、じゃあ今のフィリピンや明治期の日本と比べたらどうなんでしょうね…といったことを視野に入れるなら、もうちょっと違った物言いが出来た筈だ。例えば、
 
 「努力が報われる理想の社会はどこに消えたのかなと、時々思うことがありますね」
 
 これなら私でも、大分納得出来る。ちょっと昔の日本が、今よりは努力が報われやすいとして*1、その理想的状況が失われたことを嘆くにしても、より理想に近い社会を願望するにしても、理想、という語彙であれば確かにその通りだなという気はする。しかし、努力が報われることに対して健全という語彙を用い、今の日本における“努力報われない度”をもって不健全と呼ぶような物言いからは、強烈な「努力報われて当然」という含意が透けて見えるし、歴史的経緯や国際比較といったものを度外視するような、絶対評価的な何かを感じずにはいられない。あるいは神の国でも念頭に置いているのだろうか。いったい、どこまで「努力が確実に報われる度」が高くなったら、彼は“おお、これは健全な社会だな”と満足の頷きをみせてくれるのだろうか。
 
 何にしても、こういうフレーズが読書の最中にいきなり目に飛び込んでくると、私はドキドキしてしまう。「努力が報われる健全な社会」というフレーズには、ある種の甘美な魅力が含まれている。しかし、このようなフレーズが白昼堂々、新書のなかに登場し、おそらくは読者の心を掴む為の修辞として動員されているわけだ。何が健全で何が不健全なのか、少し混乱するような出来事だった。
 

*1:個人的には、本当にそうだったのかな、と大いに疑問を感じてはいるが